「痛っ!」
 杉田は顔をしかめた。
 「どうしたの?」
 「川本のせいだろう? 川本の」
 「わたしの?」
 杉田は声を落として、川本に囁く。
 「あんなハイヒールなんか履かせるから、昨日奴らを逮捕するとき、左足を挫いてしまったんだ」
 「まあ。明日は昇段試験でしょう? 大丈夫なの?」
 「大丈夫じゃないさ」
 「ごめんなさい。わたしのせいだわ。どうしたら・・・・」
 「もうすんだことだから、そんなに心配するなよ。ちょっと言ってみただけだ。しかし、痛いなあ」
 「佐野さんを呼んでくるわ。テーピングしてもらいましょう」
 「頼む。ところで、川本」
 「何ですか?」
 川本巡査は笑顔で杉田を振り向く。
 「今日の薄紫より、昨日の苺の方がいいな」
 「馬鹿!! もう、知らない!」
 川本は、怒って出ていってしまった。

 しばらくして、佐野が柔剣道場に顔を現した。
 「捻挫したんだって?」
 怒って出て行ってしまったが、川本が佐野に連絡してくれたらしい。
 「ああ、昨日な」
 「昨日は何にも言ってなかったじゃないか」
 「今朝になって痛み始めたんだ」
 「そうか。ちょっと見せろ」
 佐野は畳の上に座り込んで杉田の足首を調べ始めた。
 「あいた!」
 「これじゃあ、昇段試験は無理だな」
 「馬鹿言うなよ。ずっと練習してきたのに・・・・」
 「止めとけ。後に障る」
 「俺の問題だ。とにかくテーピングしてくれ」
 杉田は、一度言い出したら、がんとして言うことを聞かない。佐野は、諦め顔だ。
 「仕方のないやつだなあ。・・・・そう言うのならやってやるが、あまり無理はするなよ。昇段試験は今回だけじゃないんだからな」
 「分かってるさ」
 杉田は剣道3段。4段の昇段試験を受ける予定だった。この捻挫は痛い。しかし、負けず嫌いの杉田は、何としてでも受かりたかった。少々のことでは弱音を吐かない杉田の性格を良く知っている佐野は、丁寧にテーピングしてやった。
 「今日は練習を止めにしてじっとしてろ。明日の朝、出がけのもう一度やってやろう」
 「すまんな」
 「俺とおまえの仲だ」

 杉田と佐野の付き合いは長い。ふたりは同じ埼玉の高校の先輩後輩に当たる。杉田が入学したとき、佐野は3年で、柔道部のキャプテンを務めていた。
 杉田は、未熟児で生まれたせいで体格が小さかった。幼い頃、杉田の祖父は、杉田の体を鍛えるため、柔術を習わせた。それは古式柔術で、空手と柔道を合わせたようなものだった。天賦の才能があったのか、杉田はめきめきと腕前を上げ、中学に入る頃には師範を越えるくらいになっていた。だから、杉田は、高校では剣道部に入った。
 柔道部と剣道部は、同じ柔剣道場内にあって、互いの領域を侵すという理由で練習中にしばしばトラブルを起こしていた。そんなとき、仁王様のような佐野が出てくると、剣道部はすごすごと引き下がらなければならなかった。
 五月の連休が開けたとき、同じ様なトラブルが発生した。柔道部はいつものように佐野を前面に押し出してきた。剣道部は、竹刀を持って対峙し、乱闘騒ぎになりそうな雰囲気だった。
 「道具がないと戦えないのか?」
 そう言われても、剣道部には体格で柔道部に敵うものは誰もいなかった。
 「素手であんたを倒したら、柔道部が譲ってくれるのか?」
 負けん気の強い杉田が、先輩を差し置いて口を出した。
 「やれるものならやって見ろ」
 佐野の後ろにいた男が挑発してきた。
 「杉田! 無理だ。止めろよ」
 「このままにしていたら、練習ができなりますよ。無理かどうかは、やってみないと分からないです。やらせてください」
 「おまえが負けたら、ここが使えなくなるんだぞ」
 「ぼくが責任を取ります」
 身長差20センチ以上。体重は倍近く違う。誰もが佐野の勝利を確信していた。それは佐野自身もそうであった。圧倒的な体格差。関東一円に佐野に素手で敵うものはいなかった。佐野には慢心があった。しかも、杉田の経歴を知らなかった。無鉄砲で馬鹿な男だと思っていた。
 互いに礼をし、試合を始めて数秒後、畳の上に寝転がって天井を見ていたのは佐野の方であった。何が起こったのだろうか? 佐野は、天井を見たまま呆然としていた。

 佐野は自分の慢心を恥じ、剣道部に詫びを入れた。
 「杉田。もう一度勝負してくれ」
 「いやだよ。もう二度と勝てないのは分かっているからな」
 「そう言わないでさあ。頼むよ」
 「佐野を転がした唯一の男って言う名誉に傷が入るから、絶対やだね」
 「頼むよ」
 両手を合わせて杉田に頼み込む佐野の姿は、むしろ滑稽でもあった。しかし、それからというもの、杉田と佐野は親友となった。

 「さあ、これでいいだろう」
 「楽になった。さすがだな」
 「怪我で泣かされたからな」
 佐野はそう言って、ちょっと悲しそうな顔をした。
 高校3年、最後のインターハイ。佐野は、優勝候補の筆頭であった。しかし、準々決勝で勝負には勝ったものの右足首を捻挫。準決勝で涙を飲んだ。
 巨漢のために治癒が遅れ、その後も練習や試合のたびに何度も捻挫した。夢に見ていたオリンピック出場も果たせなかった。
 佐野の捻挫のきっかけを作ったのは、杉田が投げ飛ばしたためではないかと、杉田はいつもすまなく思っていた。