愛していると橋爪に答えた。そう答えたが、ほんとだろうかと雅代は自問自答した。わたしはほんとに橋爪を愛しているのだろうかと・・・・。
 雅代の体は、完全に橋爪によって支配されていた。この広いマンションを与えられ、何を買うにも橋爪から手渡されたカードがある。ベッドに入れば、橋爪は必ず雅代を絶頂へ導いてくれる。生きて行くだけなら、何の苦労もない。しかし・・・・。
 雅代の心は孤独という殻に包まれ凍てついていた。まるで、シベリアの永久凍土にいるように。雅代は、その永久凍土の広野に立っている氷柱の中にいる美しい人形だった。橋爪の愛の言葉も熱いしぶきも、決して雅代の心を溶かすことはない。
 人形。そう。雅代はまさに人形に他ならない。床の間を飾る日本人形? いや、雅代の風貌からすれば、応接間を飾るフランス人形かも知れない。化粧して着飾り、抱かれるだけの人形・・・・。愛していると言われれば、愛しているとオウム返しする機械人形に過ぎなかった。
 そんな雅代になったのは・・・・。

 あの日、関西大震災の日。雅代は、朝早くから目が醒めてしまい、飼っていた三毛猫のミャアと戯れていた。母は台所で朝食の支度、父もすでに起きていて居間で新聞を読んでいた。遅くまで受験勉強していた妹の道代は、まだ布団の中だった。
 ミャアが玄関のドアをがりがりと引っ掻き、外に出してくれとせがむ。雅代は、玄関を開けてやり、一緒に外へ出た。
 「遠くにやるんじゃないわよ」
 「はあい」
 ミャアは部屋の外に出るなり、廊下を走ってマンションを飛び出ていった。慌ててミャアの後を追おうとした瞬間、強烈な揺れが襲ってきた。雅代は悲鳴を上げ、廊下に這い蹲った。コンクリートの廊下が、粘土細工のようにのたうち回り、天井からコンクリートの破片がバラバラと落ちてきた。そのうちのひとつが雅代にあたり、雅代は気を失った。

 どれくらいたっただろうか? 気がつくと、遠くでサイレンの音がしていた。数本の煙が上がっているのが見えた。
 雅代が立っている場所は傾き、天井も至る所で落ちていた。我が家に走って戻った。ドアは瓦礫に阻まれて開いたままだった。
 覗き込んだ部屋の中には、瓦礫で被われて空間がなかった。瓦礫の中から二本の足が覗いていた。母の足だった。
 「お母さん!」
 母の足は既に温もりがなくなっていた。母が生きていないことは疑いがなかった。父のいたあたりも瓦礫に被われて、多量の血が流れ出していた。
 それでも雅代は、瓦礫を取り除こうとした。しかし、あまりに重く、まったく動かすことができなかった。
 「道代! 道代ちゃん!!」
 返事はなかった。あるはずがない。道代のいた部屋が最も潰されていたのだから・・・・。
 「どうして? どうしてよ! 何にも悪いことなんてしてないのに!」
 雅代は天を仰いで叫ぶ。

 雅代の父は、大学時代に交通事故で両親を失い、独りぼっちだった。母も孤児院で育った。そんな二人が出会い、暖かい家庭が築かれていたのに・・・・。雅代は、独りぼっちになってしまった。父と母の運命を背負うように・・・・。
 雅代は泣いた。声を上げて・・・・。誰も雅代に応えてくれない。ほかの部屋の住人もみんな生きてはいないようだった。
 自分も一緒に死にたいと思った。しかし、自らの手では死ねなかった。余震が続く中、天井が落ちてきて、雅代を押し潰してくれないかと願ったが、願いは叶わなかった。雅代は、家族が埋もれた部屋の前に蹲って泣いていた。

 数時間が経過したとき、階段を上がってくる足音がした。足音の主は、黒っぽいシャツに、同じく黒っぽいパンツを穿いた、端正な顔をした、一見女のような人物だった。
 雅代の部屋とは反対側の突き当たりにある部屋をこじ開けて中に入っていった。雅代は、何故かその人物に心惹かれて、その部屋の前まで歩いていった。
 部屋から出てきたその人物は、雅代の姿を見て、びっくりして佇んだ。
 「どうした?」
 声を聞いて、その人物が男だと分かった。
 「おまえの部屋はどこだ?」
 そう聞かれて、雅代は自分の部屋を指さした。
 「おまえの親は、中にいたのか?」
 涙が流れた。両親も妹も死んでしまった。
 「ほかに家族はいないのか?」
 誰もいない。親戚なんて、ひとりも・・。雅代はただ黙って下を向いていた。
 「俺も独りぼっちだ。俺と一緒に来るか?」
 俺も独りぼっちだという言葉に、雅代は共通する悲しみを覚えた。独りぼっち同士。父と母のように、孤独を互いに癒せるかもしれない。そう思って雅代は頷いた。
 そのとき、相手が橋爪でなくても、例えメフィストテレスであっても、雅代はついていっただろう。雅代は孤独に耐えられなかったのだ。

 しかし、孤独は癒されない。橋爪は、決して心を開こうとはしなかった。毎晩のように橋爪に抱かれ、耳元で愛している囁かれる。しかし、その言葉も空しく聞こえた。橋爪の心もまた、深い闇の中にあった。覗き込めば、凍り付いてしまうような深い闇の中に・・・・。それは雅代も同じかもしれない。お互い似たもの同士なのかも・・・・。氷をして、氷を溶かすことはできないのだ。
 橋爪と出会って7年が経過したが、何も変わらない。雅代の孤独感は深まるばかりだった。
 子どもを産めば、少なくとも雅代だけは孤独から逃げ出せる。そう思った。しかし、橋爪には子どもを作る能力がなかった。
 もはや一緒にはいられない。これ以上一緒にいたら、二人とも孤独という地獄の中で死んでしまう。雅代はそう思い始めていた。