橋爪は国道158号線を乗鞍の別荘へ向かって車を走らせていた。車はライトヴァイオレット色のヴィッツ。特にこの車が好きだと言うことではない。ベンツやBMWに乗っていると目立つからだ。服も、黒のシックなワンピースに白いカーディガンを羽織っていたが、派手なものではない。
橋爪は決して目立つようなことはしない。女の中に完全に埋もれ、自分を目立たせないために、橋爪はいつも気を使っていた。だから、車や衣服はごく普通の女と変わりのないものを選んでいた。
外出するときはほとんどいつも女性モードだが、榊との賭けに負けてしまった今となっては、恐らく二度と男性モードに戻ることはないだろうと思っていた。
それも仕方のないことだ。新たなパートナーとして選ぼうとした佐野が死んだと聞かされ、榊を排除しようと思ってもそうできなくなってしまった。陰に隠れている橋爪にとって、表に立って動く人間が必要なのだ。
乗鞍のホテルが見え始めてきた。交差点を右に曲がって上高地乗鞍林道へ入ろうとしたとき、角にあるホテル案内所から出てくる大きな男が目に入った。
泥で汚れたジャンパーに破れたズボン。ぼさぼさの髪。やつれて目がぎらぎらしているが、佐野だ。見間違えるはずがなかった。生きていた! 橋爪は、急ブレーキを踏んでパジェロの前に車を停めた。
「佐野さん!! 生きていたのね」
橋爪は佐野にぶつかるように抱きついた。
「京子。どうしてこんな所にいる?」
「榊に呼ばれたの。こっちにいるからって」
「そうか」
「榊がいる別荘へ案内するわ」
「助かった。どうやって探そうか途方に暮れていたんだ。榊の子分は何人くらいいる?」
「あなたが死んだと思っているから、恐らく5,6人だと思うけど・・・・」
「5,6人か。それなら何とかなるな」
「わたしが先に行って確かめるから、後に付いてきて」
「よし、分かった」
「嬉しいわ。榊から、あなたが死んだって言われてたの。まさか生きていたなんて・・・・」
「撃たれて崖から落ちたのは確かだが、木に引っかかって九死に一生を得たんだ」
佐野は、橋爪に雅代との逃走劇を話した。その話しを聞きながら、橋爪は考えていた。まだ逆転のチャンスがある。榊は佐野が死んだと思っている。油断しているはずだ。佐野を別荘へ案内して、榊をやらせるのだ。
「榊がいる別荘は、ここから車で10分くらいの所にあるわ。近くに空き地があるから、そこまで車で行きましょう」
「よし。行こう」
2台の車は、北上していった。雑木林の中にパジェロを案内し、橋爪は佐野を別荘へと向かわせた。
橋爪は、正門から入り、玄関の前にヴィッツを停めた。裏門を乗り越えてくる佐野の姿が目に入った。別荘のまわりには誰もいない。予想通り、手下の数は少ないようだ。
橋爪は、玄関の呼び鈴を押した。しばらくして、三重野という榊の子分のひとりが顔を出した。
「ああ、京子さん。どうしたんですか?」
「榊に呼ばれたの。中にいるんでしょう?」
「・・・・いますけど・・・・」
「どうしたの? 何か面倒なことでも?」
「あ・・・・、京子さんは、今日はお帰りになった方が・・・・」
様子がおかしい。橋爪は考える。橋爪は榊の情婦だと思われている。呼ばれたと言っている自分を入れない理由は・・・・。
「女がいるのね。わたしという女がいながら・・・・」
その女が誰であるか分かっていた。雅代だ。他にいない。これは嫉妬ではないのだ。自分の女が奪われようとしているのだ。
「だ、だめです」
「うるさいわね。邪魔すると、あとでどうなっても知らないからね」
三重野は狼狽えながら、橋爪の後を追う。橋爪は、階下の広間に三重野しかいないことを確かめた。橋爪は三重野の方に振り向く。
「ついてこないで。ここでじっとしていなさい」
佐野がこっそりと玄関から入ってきた。その気配に三重野が気付いたときには、三重野の首は折られていた。
「奥に部屋があるわ。そこに手下がいるかも」
「確かめてくれるか?」
「いいわ」
いつも手下たちが詰めている部屋は、煙草の煙でもうもうとしていた。
「相変わらずね。こんな部屋にいると、いい思いをする前に肺癌で死んじゃうわよ」
橋爪の声に男たちは振り向く。榊の情婦の京子だと分かって、安心したようだ。
「いい思いしたいけど、女はいねえし、ヤクもやっちゃいけねえって言われてるしですね・・・・」
そう言いながら、ふたりの男たちは、水割りを飲んでいた。
「ふたりだけ?」
「上にもうふたりいますけど・・・・」
「あんた。増田って言ったわね。荷物を降ろしたいの。手伝って貰えるかしら?」
「三重野がいたでしょう?」
「今やってもらってるの。わたし、荷物が多いでしょう? ひとりじゃ大変だろうと思って・・・・」
「分かりました。ふたりとも行かなくていいですか?」
「ひとりで充分よ」
「佐藤。おまえ行け」
「へい」
佐藤という一見増田より年上の男が立ち上がって部屋を出てきた。増田から佐藤の姿が見えなくなった位置で、佐藤は言葉を発することなく床に転がった。
橋爪は、奥の部屋に戻って増田に声をかけた。
「増田さん。やっぱりあなたも、お願い」
「へいへい」
水割りのコップをテーブルの上に置き、煙草の火を消すと増田が出てきた。増田も一瞬にしてあの世へ行った。佐野を敵に回したくないな。橋爪は心の中でそう思った。
「これだけか?」
「上にもうふたりいるって」
「榊を除いてだな」
「そう言ってたわ」
「上がるぞ」
「わたしが先に行くわ。今みたいに、静かに事を進めましょう」
佐野は頷いた。
橋爪は階段を昇っていった。階段を昇りきると、寝室の前の椅子に座っている男たちに声をかけた。
「榊はいるの?」
手前の男が奥にいる男を制し、立ち上がって橋爪に近づいてきた。
「京子さん、榊さんから下で待ってるようにとの伝言です。下でお茶でも飲んでいてください」
「どう言うこと? 何か不都合でもあるの?」
「い、いや。ちょっと込み入った仕事をしているので、待たせてくれと言われてるんです」
そう言われて引き下がるわけには行かない。
「寝室でするような仕事なの?」
「京子さん。お願いですよ。俺が怒られますから」
「わたしが怒られてあげるわ」
橋爪は、寝室へと向かう。
「日比野! あぶない!!」
寝室の前に座っていた男が立ち上がって叫んだ。佐野が日比野に飛び掛かったに違いない。どたんばたんと大きな音がし始めた。見張りの男が銃を抜いて橋爪の横をすり抜けようとした。橋爪は、両手に持っていた細い針金を男の首に廻す。
「ぐえっ!!」
男は目をつり上げて一瞬にして息絶えた。橋爪は、針金を手から離すと、男が持っていた銃を手にして、寝室のドアを開けた。
バン。音がした瞬間、橋爪は体を床に沈めていた。頭の上を弾丸が掠めていった。
「京子。おまえだったのか。随分早かったじゃないか」
全裸の榊が銃を向けていた。ベッドの上には、同じく全裸で横たわる雅代がいた。
「わたしの雅代に手を出すなんて!」
「おまえの雅代? 違うな。俺がその気になれば、こいつはここにこうして生きていなかった。生かすも殺すも俺次第だ。今は俺のものだ」
榊の強い言い方に橋爪は反論できなかった。
「・・・・どうして殺さなかったの?」
「おまえに殺させるつもりだった」
「わたしに?」
「おまえの手で殺させて、諦めさせるつもりだった」
「そんなことはしないわ」
「するさ」
「しない!」
「この女の心が、おまえにないとしてもか?」
「えっ!?」
自分でもそんなに驚くことではないと思っていた。橋爪は雅代を殺そうとした。だから、恨んでいるはずだ。・・・・しかし、後悔していると雅代に謝ることができれば・・・・。
「本人に聞いてみるか? 今なら、薬が効いているから、絶対嘘は言えない。おい、雅代。起きろ! おまえは橋爪を愛しているか?」
雅代がベッドの上に起き上がった。目の焦点が合っていない。榊がスピードを雅代に与えたのに違いなかった。橋爪は、雅代の口からどんな言葉がでてくるのか、不安を抱きながら待った。
「あ・い・して・・いな・い」
「ほら見ろ」
榊は勝ち誇ったように橋爪に言う。
「雅代! あなたを殺そうとしたことは謝るわ。わたしが間違ってた。だから、許して! わたしを愛していると言って!!」
「あな・た・なんか、あい・し・て・いな・・い」
「俺の勘では、こいつは、あの大男に気がある。おまえの大事なあの男にな」
「う、嘘よ! そんな事なんてないわ」
佐野の名前がここで出てくるとは思わなかった。橋爪は動揺する。
「雅代、おまえは誰を愛している? おまえが好きな男は誰だ?」
「さ・の・ゆ・た・か・・・・。あ・い・つ・に・・・だかれ・た・い」
雅代の口から佐野の名前が出てきて、橋爪は放心状態だった。橋爪は手にしていた銃をぽたりと床に落とすと、ベッドの方へフラフラと歩いていった。
「そんな・・・・。何故よ! 雅代! 何故、佐野に抱かれたいのよ!」
「わ・た・し・の・・・あ・い・ぼ・う・だ・か・ら」
「相棒ですって!?」
「京子! この女の言うとおりだ。この女は、あの大男とまるで長年コンビを組んでいるような感じだ。初めは、よく似た替え玉だと思ったくらいだ」
橋爪は雅代の顔を優しく撫でた。7年間ずっと一緒にいた。見間違えるはずはない。よく似た偽物なんかであるわけがなかった。
「・・・・雅代よね。あなたは・・・・」
「確かにその女は雅代だ。額に俺が撃ち抜いた傷もある。しかし、この女は、以前の雅代じゃない。まるで別人だ。俺に頭を撃ち抜かれて、人格が変わってしまったんじゃないのか?」
「人格が変わってしまった?」
「そうだ。そうとしか考えられない。今はこの女は雅代じゃない。別人だ」
橋爪は雅代に向き直る。
「そうなの? あなたは雅代じゃないの?」
「わたしは・・まさよ・・じゃない。・・・・わたしは、・・すぎた・ま・さ・み」
「何だって!?」
橋爪は勿論、榊も予想していなかった答えが雅代の口から飛び出てきた。ふたりはほとんど同時に驚きの声を上げた。
「あなたは、雅代。大石雅代でしょう?」
「ち・が・う。わたし・は・・すぎた・・まさみ・・」
橋爪と榊は顔を見合わせた。
「杉田正美というのは、あなたと一緒に死んだデカの名前よ」
「しんで・は・い・・ない。わたし・は、・・・こうし・て・いきて・・いる」
「どう言うことなの? 説明しなさい」
「わたし・の・・・のう・が、・・まさよの・・から・だに・いしょく・・された。・・・すがた・は・まさよで・も、わたしは・・すぎた・・ま・さみ」
雅代の言葉に、ふたりとも茫然としていた。
「脳移植だなんて、信じられないわ」
「しかし、本人がそう言っている。雅代の頭を撃ち抜いたのは俺だ。あれで生きているはずがないんだ。デカの脳が移植されたというのがほんとなら、すべてが理解できるぞ。佐野とは相棒だったし、あの身のこなし、銃の腕。なるほど、そうだったのか」
脳の移植など、信じられることではなかった。しかし、スピードを投与された状態で、嘘を言えるはずはなかった。目の前にいる雅代の姿をした人物は、雅代ではないのだ。
しかしと橋爪は考える。
相棒の杉田正美の脳が雅代に移植されていると知れば、佐野はどうするだろうか? 上手く口説けば、榊の代わりになってくれるかもしれない。そうすれば、雅代と佐野を手に入れられる。
もし、佐野が橋爪に協力しないと言うのなら、雅代の目の前で佐野を殺してやる。そうすれば、雅代は自分の言いなりになるだろう。
「殺してしまおう」
「いえ、わたしに良い考えがあるわ」
「何だ?」
「佐野が、廊下にいるわ」
「あの男は死んだはずだ」
「生きてたの」
「しぶとい男だ。俺が殺してやる」
「待って。雅代を利用するの。あの男、役に立つわ。雅代を餌に、仲間に引き入れるの。いいアイデアでしょう?」
「うまくいくかな?」
「うまくいくわ」
佐野の返事次第では榊を始末することになるのだが、当然橋爪は黙っていた。