命が危険にさらされているというのに、マサヨは浮き浮きしていた。佐野がそばにいるからだ。杉田正美だったとき、そんなことはなかった。月に二度ほど、夜を共にするときだって、こんな気持ちになったことはない。女になったせいだろうか?
女として、佐野に抱かれることを想像する。どんな感じなんだろうか? そう思いながら、もしそんな場面が訪れたとき、佐野は自分を抱いてくれるだろうかと不安になった。佐野はホモなのだ。かつて女を抱いたことはない。・・・・そう言っていた。その道に引きずり込んだのは、杉田正美自身だ。もし佐野が女をまったく受けつけないのなら・・・・。
そんな考えに辿り着いたとき、浮き浮きした気分が何処かへ飛んでいってしまった。
「どうするの?」
「伊北インターから、高速に入る」
「逃げ道がなくなるんじゃあなかったの?」
「名古屋へ向かう。遠回りするとは思わないだろう」
「あっ、そうね」
そう言いながら、何気なくバックミラーを見た。あの車、パンクさせたマスタングの姿が見えた。
「たいへん。奴らが追いついてきたわ」
「何!?」
「ほら、あのマスタング。パンクさせたやつだわ。バンパーが歪んでるし、乗ってる男に見覚えがあるもの」
「くそ!」
「信号が変わるわ。追いつかれてしまう!!」
「ええいいっ!! どけどけ」
黄色から赤になってしまった交差点を、佐野は、強引に右折した。
「地図を見てくれ! 最短距離を逃げるぞ」
「ずっと道なりに進んで!」
「よし!」
地図を見ながら、マサヨは考える。もう153号へは戻れない。追っ手が一台ならいいが、複数なら、挟み撃ちになる可能性がある。
「361号へ入るしかないわ。ええっとね。次は曲がらずに、真っ直ぐ行って、すぐに左折して」
「狭いぞ」
「こっちの方が近道なの」
「わかった」
左折するとすぐに361号への合流点に着いた。出口の信号が赤だ。狭い道からなので、信号はすぐには変わりそうもない。
「掴まってろ」
佐野は、ガソリンスタンドの敷地内を通って左折すると361号へ出てUターンした。
「乱暴ね。警察に言うわよ」
「土下座して謝ればいいさ」
曲がりくねった361号を猛スピードで進む。ハミ禁など無視して、どんどん追い抜いてゆく。
「事故らないでよね」
「俺の腕を信じな」
確かに佐野の運転はうまい。毎年鈴鹿で練習している賜物だ。
しばらく走ると、道は19号へ突き当たった。
「どっちだ?」
「左」
「了解」
「追いついてくるかしら?」
「奴らも必死だからな。後ろに見えるカーブを曲がってくるのは奴らじゃないのか?」
「ほんとだ。マスタングに、ベンツ、クラウン。少なくとも3台はいるみたい」
「ええいっ!! また信号無視だ!」
佐野は、右車線に出て、前にいた車を追い抜き左折して、普通車とトラックのわずかな隙間に割り込んだ。トラックに激しくクラクションを鳴らされ、パッシングされた。
マサヨはウインドウを下ろして、トラックの運転手に頭を下げた。とたんにクラクションもパッシングも止まった。
「美人は得だね」
「ほんと。こんなに役立つなんて、思っても見なかったわ」
マサヨは佐野にウインクする。
サイドミラーを見ていると、変わった信号から、追っ手の車が曲がってきた。
「もっと飛ばして!」
「込んでるから飛ばせない。追い抜くのにも対向車が多すぎる」
そう言いながら、佐野は対向車の合間を縫って前を行く車を追い抜いていった。
「この先に木曽署があるわ。そこへ逃げ込みましょう」
「だめだ」
「どうしてよ」
「どうしてもだ」
佐野の顔を見た。そうか。佐野は杉田正美の復讐のためにここにいる。警察に保護を求めるわけには行かないのだろう。自分もまた、橋爪恭介を引っぱり出すために、こうして命を危険にさらしているのだ。警察には行けない。マサヨは唇を噛む。
人気の少ないところへ奴らを引っ張っていって、やっつけるしかない。危険だが、初めからそうするつもりだったのだ。
「次の角を曲がって」
「どれだ?」
「薮原って交差点よ」
「あれだな。曲がるぞ」
直進車にパッシングされた。乱暴と言えば乱暴だが、ここでじっと停まっているわけには行かない。
「次の角を左よ」
佐野は、ナビゲーターの言うとおりにハンドルを切る。
「やつらは?」
マサヨは、振り返って後方に目を凝らす。
「見えないわ」
「撒いたかな?」
「油断は禁物よ。19号を下るか、この道へ入るか、ふたつにひとつだから、そのうち追ってくるわ」
「そうだな。二手に分かれてくれるといいが・・・・。この道はどこへ通じている?」 「野麦峠」
「野麦峠? また、センチメンタルな道を選んだな」
「偶然よ。こっちの方が、人気が少ないでしょう?」
佐野がマサヨを不思議そうな顔で見た。警察に保護してもらおうと言ったばかりなのに、人気のない方へ誘導し始めたマサヨの気持ちを理解できないと言う顔だ。
「やっつけるんでしょう? やつらを」
「・・・・そうだ」
「協力するわ」
「命がけだぞ」
「乗りかけた船だわ。それに、奴らをやっつけないと、わたし、ほんとの意味で自由になれないもの」
「そうか。そうだな。じゃあ、ナビを頼むぞ」
「はい」
マサヨは再び浮き浮きし始めた。佐野の態度を見ていると、マサヨに好意以上のものを持っているように思えたのだ。
15分ほど走ったとき、マサヨはマスタングの姿を後方に認めた。
「マスタングが追いついてきたわ」
「馬力にゃ、勝てんな」
「他の車も追いついてくるでしょうね」
「ああ。マスタングだけか?」
「今のところはね」
「今のうちにやっつけよう。スピードを少し落とすぞ。ベレッタには弾はまだ入っているか?」
「まだ大丈夫よ」
「じゃあ、もう一度、腕前拝見と行こう」
「任しといて」
スピードダウンしたパジェロに、マスタングが見る見るうちに追いついてきた。助手席で、携帯電話をかけている男の姿が目に入った。通じないらしく、苛立たしげに携帯をポケットにしまった。それから、運転席の男に何やら喚きながら、銃を取り出すのが見えた。マスタングが迫ってくる。助手席の男がウインドウを降ろして銃を構えた。
「もう少し近寄るのよ。そうそう、もう少し」
マサヨは、ゲームでもするように銃撃のチャンスを窺った。
「スリー、ツー、ワン、ゼロ!!」
マサヨはウインドウから体を乗り出して、ベレッタの引き金を引いた。弾は助手席の男に命中し、男はがくっと体を折って車の中へ消えた。マサヨはさらに運転席に銃を向ける。マスタングはブレーキをかけてスピードを落とした。
「二度と来ないでね」
マサヨは引き金を引いた。マスタングは、蛇行して壁にぶつかりぐるっと一回転して停まり、火を噴いた。
「映画みたい」
「楽しんでるな」
「結構ね」
マサヨは首をかしげて佐野に笑顔を向ける。佐野は、はにかむように笑顔を返すと、視線を前方へ戻した。佐野は女の自分に興味を持っている。マサヨはそう確信した。
「次は左ね」
「ああ、野麦峠と書いている」
佐野は左へハンドルを切った。野麦峠まで、約6キロ。10分もあれば着くだろう。追っ手は、炎上したマスタングですぐには追いついてこない。マサヨは、ちょっと声を落として佐野に言う。
「野麦峠で、ちょっと休憩しない? お腹も空いたし・・・・」
「休憩は、もう少し先の方がいいと思うが」
「お願い。休憩して・・・・」
佐野はマサヨの方をちらりと見た。
「どうかしたのか? 具合でも悪いのか?」
「・・・・我慢してたんだけど、洩れそう・・・・」
佐野ははっと気がついたように、前を向き直した。
「そうか。それなら、ちょっと休憩だ」
マスタングを見つけたあたりから、尿意があった。しかし、追っ手の存在が車を停めるのを躊躇わせた。追っ手がすぐには来ないだろうと思い始めると、尿意が増してきた。男なら、車を停めて藪の中にでもできるだろうが、女はそうも行かない。トイレがどこにもなければ、やらざるを得ないが、佐野の前ではとてもその気にはならなかった。
ウイークデーのせいで人気は少ない。マサヨはトイレを見つけて飛び込んだ。ほっと安堵の溜息が出た。
トイレを出ると、佐野もついでにすませてきたようだ。食堂らしきものもあったが、のんびり食事などしている暇はない。土産物を売っている店で、チーズケーキのような焼き菓子とジュースを買い込んだ。
「食べる?」
「いや、いい」
「そうか。チーズだめだったわね」
そう言ったあとに、マサヨは失敗に気付いた。
「チーズ、食べそうな顔してないものね」
マサヨはそう言い訳をして誤魔化そうとした。しかし、佐野は妙な顔をしている。
パジェロの乗り込んで方向転換しているとき、黒塗りのクラウンが坂からゆっくり姿を見せた。助手席の男がこちらを向いて喚いている。
「いたぞ!」
「やつらよ。もう来るなんて!」
「マスタングの横をすり抜けてきたんだろう。掴まってろ!」
佐野は、パジェロを急発進させ岐阜方向へ左折した。パンパンパンと銃を発射する音が響いた。パジェロは猛スピードで坂を下っていく。
追ってくるのは黒塗りのクラウンだけじゃなかった。デリカのワゴン車、それにベンツだ。ベンツの中に榊がいる。マサヨはそう直感した。
前方にヘアピンカーブが迫っていた。マサヨはウインドウを降ろした。パジェロ、クラウンともカーブでスピードが落ちた。マサヨは狙いを付けて、ベレッタの引き金を引いた。クラウンは左の壁にぶつかり、その勢いで右のガードレールを突き破って道路の外へ飛び出していった。
「痛っ・・・・」
「どうした?」
「大丈夫。かすり傷よ」
右の二の腕の肉を弾が削っていっていた。しかし、傷はそう深くないようだ。ただ、銃を落としてしまった。
「銃、落としちゃった」
「命を落とすよりいい」
佐野は落ち着いた口調でそう言った。
「それもそうね」
「くそ! タイヤをやられた」
ばたばたバタと破れたタイヤの音がし始め、パジェロはコントロ−ルを失いそうになる。佐野はハンドルを必死に操作するがスピードが落ちてきた。
「追いつかれるわ」
「仕方がない。停まるぞ。すぐに外に出るんだ」
「分かった」
パジェロは横向きになって停まった。マサヨは助手席を飛び出して、パジェロの陰に隠れた。佐野も外に飛び出て、デリカに向けて発砲した。
ドンと大砲でも撃つような音がした。デリカのエンジンルームから火が出て、数人の男たちが飛び出してきた。こちらに銃を向けて発砲してくる。
「おい! ここで奴らを食い止めて置くから、陰に隠れて逃げろ」
「あなたを置いていけないわ」
「俺は大丈夫だ。早く行け」
「でも・・・・」
「おまえに死んでもらっては困るんだ。おまえが死んだら、レッドイーグルをやっつけられなくなる。おまえは最後の切り札なんだからな」
佐野を置いていくなんて、マサヨにはできそうもない。しかし、佐野の言うとおりなのだ。
「死んじゃいやよ」
「ぜったい死なないさ」
マサヨは、パジェロの陰に隠れて後ろへ下がり、ガードレ−ルを潜って藪の中へ入っていた。撃ち合いは続いている。音が聞こえている間は、佐野は生きている。そう思いながら、マサヨは後ずさりしていった。
動けなくなったデリカの横をすり抜けて、ベンツが下ってきた。佐野の発射する銃の音が遠くに聞こえる。マサヨを逃がすために、道を下って逃げ始めたようだ。木立の間から、佐野が走っている姿が目に入った。
目の前をベンツが走り抜け、パンパンパンと銃を発射した。佐野がよろめき、ガードレールを越えて、視界から消えた。
絶対死なないといったのに! マサヨは思わず叫んでいた。
「ジャイアン。死んじゃいや!!」