26

 マサヨは、今日も不安な一日を過ごした。病院からこのホテルに移ったときには、まだ作戦は開始されていなかった。小沢から、その日の午後に餌を蒔くから、気を付けるように言われていた。まだ護衛の一人もいないのに、もし襲われたらどうするんだと、不安な気持ちになっていた。
 一昨夜は3時間、昨夜も4時間ほどうとうとしただけだった。現在午前5時半。まだ暗い中で目を覚まし、眠れずにベッドから這い出た。
 寝不足で頭がボーっとする。眠気覚ましに熱いシャワーを浴びた。女の体にはもうなれたはずだが、何とも言えない違和感は残っている。
 歯を磨いて顔を洗い、着替えをした。動きやすいように、上はブラウスにセーター、下はジーンズにした。靴もスニーカーを用意していた。
 作りつけのドレッサーの前に腰を下ろす。退院前に、ぼさぼさに伸びていた髪の毛を、可愛らしいショートカットにセットしてもらっていた。鏡に映ったマサヨの顔はほんとに美しい。それが自分だと言うことを忘れてうっとりしてしまう。
 そうしながら、はっと我に返り、髪の毛をブラッシングして、化粧を始めた。化粧はできる。佐野と夜を過ごすとき、少し化粧していた。佐野はあまり喜ばなかったが、女役の自分としては、少しでも女らしくと思った演出だった。それが役立とうとは思っても見なかった。
 素顔だけでも美しいマサヨの顔は、化粧するごとにますます美しくなっていく。マサヨは、憑かれたように化粧を続けた。
 ルルルーッと電話が鳴った。マサヨはびっくりして、受話器を見つめる。呼び出し音は鳴り続ける。マサヨは、決心して受話器を取った。小沢の声が聞こえてきた。
 「わたしだ。そろそろ迎えのものが着く。佐々、大沢、木崎、三浦の4人だ。気を付けてな」
 「はい」
 佐々? もしかすると、杉田が警察学校を終えて初めて配属されたときに世話になった先輩ではないか? 佐野ほどではないが大柄な不男で、厳しかったが、仕事がすむといつも酒を奢ってくれていた。あの佐々だったら、懐かしいなと思う。
 時計は6時半を少し回ったくらいだ。そろそろ? いつ頃になるだろうか? カーテンの隙間から、外の様子を窺ってみたが、迎えらしい姿は確認できなかった。

 ベッドの上に寝転がって、テレビを付けた。NHKのニュースをやっていた。下諏訪で、5人の殺人事件が起こったことを伝えていた。そのうちの4人は警視庁の警察官らしいと聞いたとき、背筋がぞっとするのを覚えた。4人と言えば、小沢が言っていた監視部隊ではないだろうか? そろそろ着くと言った、護衛の4人は大丈夫なのだろうか? 不安でマサヨは体ががたがたと震えた。
 ちょうどその時、ドアをノックする音がした。マサヨは心臓がひっくり返るくらいビックリしてドアのほうを見つめた。黙っていると、もう一度ノックの音。
 「大石さん。大石雅代さん。警視庁から向かえに来た佐々です。ドアを開けてください」
 覚えのある佐々の声だ。マサヨはほっと安心する。
 「ちょっと待ってください。すぐに出ます」
 マサヨは、コートを羽織り、ショルダーバックを抱えて、ドアのロックとチェーンを外した。ドアの前に、見覚えのある佐々の姿があった。
 「大石雅代さんですね」
 「はい」
 「すぐに出ます。用意はいいですね」
 「おひとりですか?」
 4人来ると言ったのに、廊下には佐々の姿しか見えず、マサヨは急に心配になった。
 「エレベーターを確保しています。ほらあそこにいるでしょう?」
 佐々が指さす方に、精悍な顔をした男が立っていた。こちらに気づくと軽く会釈してきた。マサヨも頭を下げる。
 「さあ、行きましょう」
 佐々の後を急ぎ足でついてゆく。
 「大石さん。こいつは三浦と言います」
 「よろしくお願いします」
 マサヨは笑顔を三浦に向けた。
 「大石さんのような美人を警護できて光栄です」
 頬を染めて、三浦はマサヨに挨拶した。
 「奥に乗ってください」
 促されてマサヨはエレベーターの奥に陣取った。佐々と三浦は、マサヨを守るようにエレベーターのドアに向かって立っている。
 4階でエレベーターが停まった。ドアが開くと浴衣姿の夫婦らしい二人が立っていた。
 「警察のものです。申し訳ありませんが、次のにしてください」
 三浦が警察手帳を示して、二人が乗り込むのを止めた。二人はちょっと不服そうな顔をしたが、乗り込むのを諦めた。
 エレベーターは、停まることなく1階へ着いた。ドアが開くと、やはり警察官らしい男が立っていた。
 「木崎、おかしなものはいないか?」
 「大丈夫です」
 「大石さん、玄関に停まっている車です。さあ、急ぎましょう」
 玄関前に、黒塗りのクラウンらしい車が停まっていた。佐々が先頭に立ち、三浦と木崎がマサヨの両端を固めた。
 ホテルの外は、遅い夜明けがやってきて、明るくなり始めていた。4人は自動ドアを抜けホテルの外へ踏み出した。
 三日ぶりの外気だな。そう思いながら、マサヨは明るくなり始めた空を見上げた。向かいのホテルの屋上にきらりと光るものがあった。マサヨは、反射的に膝の力を抜いてその場に崩れるように倒れた。その刹那、ヒュウと言う音が耳元を掠め、閉まったばかりの自動ドアのガラスが砕け散った。
 その音に驚いて、佐々たちが後ろを振り向く。その佐々の頭部が大きく揺れ、マサヨの目の前に、佐々の血が降ってきた。マサヨはとっさに佐々の大きな体の陰に隠れる。二発、三発と佐々の体を通じて衝撃がマサヨの体に伝わってきた。佐々の体を盾にしている自分を恥じながらも、死にたくないと言う思いが勝った。
 向かいの屋上から狙撃されていることに気づいた三浦と木崎は、直ちに応戦を始めた。
 「三浦! 俺が援護する。早く車に乗れ!」
 「分かった。さあ、早く車に乗るんだ」
 木崎がバンバンバンと銃を撃つ。屋上からの銃撃が、一瞬止んだ。三浦が、車へ走って後部座席のドアを開けた。雅代は隙を見て立ち上がり、車の後部座席へ飛び込んだ。すぐに三浦がマサヨに覆い被さるように乗り込んできた。
 「木崎! 早く乗れ!」
 ガシッ、ガシッと、車の屋根に弾の当たる音がした。
 「くそ! 木崎もやられた。行くぞ」
 車は、タイヤを軋ませながら発進した。

 細い道を車は全速力で走っていく。
 「くそ、くそ、くそ! 冗談じゃないぞ。これは、ほんとに戦争だ」
 大沢は、銃撃などされたことがないのだろう。それもそうだろうと思う。警察官なら誰だって、国家権力の象徴である警察官に向かって発砲してくるものなど、この日本にあるはずがないと思っている。それが現実に起こり、大沢の精神はパニックになっているのだ。
 「三浦! 長野県警に応援を要請してくれ! 三浦! 三浦! 聞こえないのか?」
 マサヨが体を起こすと、三浦の体が前部座席と後部座席の間に滑り落ちた。背中から血が流れ出ていた。車の天井を貫通してきた弾が三浦に当たったのだ。三浦の体がなかったら、マサヨの命はなかったかもしれない。
 「三浦さんは、死んでます」
 マサヨは、大沢に言う。声が震えている。マサヨは自分でもそれに気づく。
 「くそう!!」
 「どうするんですか?」
 「これを使え。これで、長野県警に電話するんだ」
 「長野県警って!?」
 「110を回せ!」
 自分が警察官だったから、110を回すなんて気が付かなかった。雅代は110を廻す。車が国道へ出た。
 「はい。長野県警です」
 「長野県警が出たわ。何と言えば・・・・」
 「俺に貸せ」
 マサヨは携帯電話を大沢に手渡した。
 「ああ、わたしは、警視庁公安の大沢と言います。ある人物を東京まで移送するためこちらに来ています。レッドイーグルの刺客に襲われています。急いで応援をよこしてください。何? もう一度繰り返せ? テープに取ってるだろう!! 上山ホテルで一緒に来た警官が二人やられた。もう一人もこの車の中でホトケになっている。つべこべ言ってないで、早くパトカーを回せ!!」
 「危ない!!」
 マサヨは叫んだ。車の前方に大型トラックが出てきたのだ。大沢は慌ててハンドルを切りブレーキを踏んだが、遅かった。車は横滑りしながら、トラックへすごい衝撃とともにぶつかった。マサヨは、一瞬気を失った。
 気が付くと、車の中はエアバッグの煙で一杯だった。ゴホゴホと咳が出た。大沢は頭から血を流して気を失っていた。いや、死んでいるのかもしれない。ドアが乱暴に開けられる。
 「出てこい!」
 そんなことをするとは思えない普通のサラリーマン風の男が、銃を構えてドアのそばに立っていた。すぐに撃ち殺されるのではと思っていたマサヨは、少しほっとする。
 「早く出てこないか!」
 首を押さえながら、マサヨは車から出た。
 「ヒョウッ! 美人だね」
 そばに立っていたもうひとりの男がそう洩らす。さらにもうひとりの男が携帯で電話をし始めた。
 「はい。女を捕らえました。どうしましょう? ・・・・分かりました。すぐにそちらへ連れていきます」
 携帯を切ると、男はマサヨの腕を握っている男に言った。
 「榊さんが、連れて来いって言ってる。車に乗せろ」
 「おい、お嬢さん。あそこの車へ行くんだ」
 男が顎で示す家の影にセドリックかグロリアのような車が停まっていた。マサヨは男たちに囲まれて、その車に向かって歩き始めた。

 マサヨは歩きながら、間合いを計っていた。通りを横切って歩道へ上がったとき、マサヨは動いた。
 後ろにいた男に振り向きざまに回し蹴りを食わせた。マサヨの踵が男の顎に炸裂し、男は横へ吹っ飛んだ。そのまま前の男の方へ体を向けると、みぞおちに蹴りを入れる。男は、ううと呻いて崩れ落ちた。一番先頭にいた男が振り向いて銃を抜いた。
 「このアマ!!」
 銃を叩き落とそうと、回し蹴りしたが、僅かなところで逃げられた。
 「死体にして運んでやる!」
 殺される! マサヨは覚悟を決めた。その時、大きなクラクションと共に、ゴウッと言う大きな音、そしてキキキーキキッと言うブレーキ音がして、目の前に車が突進してきて、銃を構えた男をはね飛ばした。
 驚くマサヨの前に、ドアを開けて姿を現したのは佐野だった。
 「早く乗れ!」
 佐野が来てくれた! マサヨは飛び上がらんばかりに喜んだ。その首に抱きつこうと思う気持ちを抑えて、急いでパジェロの助手席に飛び乗った。マサヨが乗り込むと、佐野はパジェロを急発進させた。
 マサヨは考える。どうしてここに佐野がいるのか分からないが、ともかくマサヨを助けに来てくれたことは確かだ。小沢に命令されたのかもしれないなと思う。親しく話したいのは山々だが、このマサヨと佐野は面識がない。気持ちを抑えて、マサヨは佐野に対応することにした。
 「助けてくれてありがとうございます」
 「別に、助けたくって助けた訳じゃない。あそこで死なれちゃ困るからだ」
 「えっ!? どう言うことですか?」
 「・・・・説明する義務はない。シートベルトをしろ」
 佐野は仏頂面で前方を見たまま運転を続けた。マサヨはシートベルトをして、黙り込んだ。

 マサヨは車の前方を注視したままじっと考える。佐野はマサヨを助けに来た訳じゃないと言った。あそこで死なれちゃ困る? そうか。佐野は、わたしの、杉田正美の仇討ちに来たのだ。このマサヨは、杉田正美の敵である榊をおびき出す餌なのだ。だから死なれては困るのだ。それ以外に佐野がマサヨを助ける理由がない。
 ここで、わたしは杉田正美だ。杉田正美の脳を移植されたのだと告白すべきだろうか? いや、そんなことをしても佐野は信じないだろう。それに、榊へ対する闘争心が失われてしまうだろう。マサヨは、餌の役割に徹しようと決心した。