18

 昼食がすんで歯を磨いた後、何となく外の景色が見たくなってベッドから抜け出して窓の外を眺めた。
 しばらくして、病室のドアが開いて誰かが入ってきた。顔には見覚えがあるのに、すぐには思い出せなかった。誰だっただろうか? 杉田は、首を傾げた。思い出した。小沢課長だ。
 「小沢課長。来てくれたんですか?」
 長い間会ってないような気がした。久しぶりに父にあった。そんな気分だった。
 「元気そうだな」
 「はい。すっかり。体力は落ちましてけどね」
 「・・・・そうか」
 「どうかしましたか?」
 小沢の様子がおかしいのに気づいて、杉田はそう聞いた。
 「きみは、その・・・・。分かっていないようだね」
 「何がですか?」
 杉田はきょとんとして、小沢を見ていた。小沢は、腕組みをしてしばらく考え込む。そうしてから、意を決したように言った。
 「キミは、鏡を見たことがあるかね?」
 「もちろん見たことがありますよ」
 「昔のことじゃない。ここに入院してからだ」
 「・・・・そう言えば、鏡なんて見たことがないですね。この部屋には鏡がありませんから」
 杉田は部屋の中を見回した。言われてみて、部屋の中に鏡のないことに初めて気がついた。
 「じゃあ、持ってきてもらおう。看護婦さん、看護婦さん!」
 「はい」
 「少し大きめの鏡を持ってきてくれないか?」
 「分かりました」
 いつも看護してくれている看護婦が、廊下をばたばたと走り去っていった。
 鏡を持ってきてどうするんだろう。杉田はそう疑問に思いながら、何ともいえない不安感に襲われていた。
 しばらくして、看護婦が鏡を手に戻ってきた。
 「鏡を見てみなさい」
 そう言って、小沢が鏡を両手で持って杉田の方へ向けた。杉田は鏡を覗き込んだ。

 鏡に映ったのは、凄く綺麗な女だった。あの時、橋爪の女だと名乗った、確か大石雅代という女だ。どうして彼女がこんなところにいるんだろう。彼女は死んでしまったのではなかったか? 杉田はそう思いながら、鏡を見つめた。
 いや、何かがおかしい。杉田は首を傾げる。鏡の中の彼女も首を傾げた。突然頭痛がし始めた。杉田は頭を抱えた。
 「どうした?」
 小沢が鏡をおろして、心配そうに聞く。
 「頭が痛い。割れるように・・・・」
 「先生! 先生、ちょっと来てください」
 井上医師がすぐに部屋の中に入ってきて、脈を取る。杉田は少し安堵する。頭痛も少し治まってきた。
 「・・・・大丈夫です。もう治まりましたから」
 井上医師は、杉田の正面に回って瞳の中をじっと観察した。
 「ほんとに大丈夫だね」
 「はい、大丈夫です」
 「小沢さん、わたしもここにいましょう」
 「ああ、お願いします」
 小沢は、杉田の方を向いて、再び鏡をかざした。
 「さあ、自分の顔をよく見るんだ」
 頭を押さえていた両手を離し、杉田は鏡をもう一度見た。そこには、雅代という女が映っていた。
 鏡に映っているのは、自分の顔のはずだ。何故雅代という女の顔が映るんだ! 杉田は混乱していた。夢を見ているのか? 両手で膝をぎゅっと握りしめる。痛い。これは夢ではない。もう一度鏡を見直した。鏡に映っているのは、あの女。雅代という女だ。
 「どうなってるんです?」
 「それが今の君の顔だよ」
 杉田は下を向いて考え込む。
 「何の冗談ですか? 俺が眠っている間に、女の顔に整形手術でもしたんですか? 俺の女装のことを知って、・・・・嫌がらせですか!」
 「・・・・まだ分からないのかね」
 小沢の言葉を聞くまでもなかったのだ。ホントは薄々気が付いていた。自分の身に何が起こっているかと言うことに。
 杉田は今はっきりとそれを自覚した。

 両手を目の前にかざしてみた。白く細い指。痩せたせいだと思っていた。違う。これは俺の手じゃない。
 それから両手を胸に当ててみた。胸に膨らみがあった。その膨らみが、確かに自分のものであるという信号を頭に伝えてきた。
 足元を見た。ライトブルーのネグリジェからのぞく細い足が見えた。俺の足でもないし、ネグリジェを着ているなんて!!
 鏡をもう一度覗き込む。大きく見開いた女の目が杉田を見ていた。杉田は、小沢と井上医師を交互に見た。
 「俺に何をやったんだ!」
 そう叫んだ後、杉田は、発した声がその言葉に似つかわしくない声だと言うことにやっと気づいた。
 「説明するよ」
 小沢がぽつりぽつりと話し始めた。杉田は、一言も聞き逃すまいと、必死になって聞いた。

 「あの日、君から橋爪の情婦らしい女と一緒にいるという連絡を受けた。橋爪は、君も知っているように、名前だけはレッドイーグルのヘッドとして有名だが、顔を知るものはごく少数だ。女を確保できれば、橋爪を逮捕することができるかもしれない。わたしは、すぐにパトカーで君の住むアパートへ向かった。
 部屋の前まで来ると、ドアが半開きになっていた。おかしいと思って、様子を伺いながら中へ入ってみると、部屋の中は血だらけで、君は玄関のすぐ近くに腹と胸を撃たれて倒れていた。奥には、女が眉間を打ち抜かれて倒れていた。
 わたしは蘇生をやりながら、直ちに救急車を呼んだ。君たちは救急病院に運ばれ集中治療を受けたんだ。
 君は、肺に穴があき、肺動脈という血管が破れて、胸の中は血だらけだった。腹も、腸が割け、腹部大静脈という血管から出血して、ショック状態に陥っていた。君が死ぬのは時間の問題だった。
 女の方は、一発の銃弾のために脳が大きな損傷を受け、いわゆる脳死状態だった。時間がたてば、女もいずれ死ぬ。
 君は体はぼろぼろだったが、脳はまだ死んでなかった。一方女は、脳はダメになっていたが、体はどこも傷ついていなかった。
 そのまま放置すれば、二人とも死んでしまう。わたしは、その時思いついた方法をやってみようと決心した。
 幼なじみが長野にある、ある大学の脳外科に教授をしているんだ。その男に最近会ったとき、猿で脳の移植に成功したという話を聞いた。
 人間ではまだ成功もしていないし、そんなことをやることは倫理に反する。しかし、目の前に、死に瀕した二人がいて、一方は健康な脳を持ち、一方は健康な体を持っている。
 わたしは、その男に電話した。
 初めは渋っていたが、失敗しても文句は言わない。全責任はわたしが取る。データはすべてやる。時期が来るまで公表しない。そう約束した上で実行してくれたのだ。
 きみ、杉田正美の脳は、大石雅代の体に移植され、成功したのだ」

 小沢の話は到底信じられるものではなかった。しかし現実に、鏡に映った杉田の顔は大石雅代の顔であり、体も間違いなく女だった。
 「信じられない。俺は女になってしまったのか?」
 「そう言うことだ」
 「ちょっとトイレに行って来ていいですか?」
 「ああ」
 確かめようと思ったわけではない。ちょうどトイレに行きたくなっただけだ。しかし、ついでに調べてみようと思った。
 小沢がじっと見ているような気がして恥ずかしくなったが、そんなことは顔に出さずにトイレに入ってドアの鍵をおろした。
 小便しながら、座ってしている。そう言えば、ずっと座ってしていたなと思い出した。トイレットペーパーを取り、その部分を拭いた。確かにそこには何もなかった。女のそこがどうなっているか、杉田は知らなかった。いま拭いた襞の奥に、男を受け入れるための器官があるはずだが、それまでを調べようと言う気にはならなかった。ともかく、杉田が女になってしまったのは間違いなかった。
 ・・・・佐野は、女を抱いたことがないはずだ。佐野は、女になってしまった自分を抱いてくれるだろうか? ふいにそんな思いがよぎった。