暗いトンネルを抜けると、そこは一面の花畑だった。
「三途の川は、この花畑の向こうだろうか?」
そう思いながら、杉田は花畑の中を歩いていった。花の名前など知らないが、これはポピーという花だろうかと心の中で思う。
三途の川はなかなか現れない。振り返ってみると、抜けてきたはずのトンネルはなくなって、杉田の周りには花畑だけが広がっていた。
「どうなってるんだ? ここはどこだ!」
答えるものは誰もいない。誰もいない、だだっ広い花畑に、杉田は立っている。杉田はもう一度叫ぶ。
「ここはどこだ!」
広い空間に、杉田ひとりが佇んでいた。ここは地獄だ。ここは、孤独という地獄だ。大声を上げそうになったとき、どこからか声が聞こえてきた。
「正美。正美。早くこっちに来なさい」
聞き覚えのある声だ。声がした方を見た。そこに、祖父が立っていた。古式柔術を教え込んだ杉田の祖父だ。
「爺ちゃん」
そう叫んで近寄ろうとして考えた。祖父は、10年前に死んでいる。と言うことは・・・・。祖父が、自分を迎えに来たのだと理解した。ここは、天国か地獄の分かれ道に違いない。
祖父のそばに、女性が立っていた。綺麗な女性だ。・・・・あの、雅代と名乗った女性だ。眉間を撃ち抜かれ、彼女も死んだのだ。祖父と彼女が一緒なら寂しくない。そう思って歩いていこうとした。
「杉田! 戻るんだ! 戻ってこい!」
後ろから、杉田を引き留める声がした。振り向いたが、誰もいない。空耳かと思い、祖父と雅代という女性の方へ歩こうとすると、また声がした。
「杉田! そっちへ行ったらだめだ」
その声は・・・・、佐野の声だ。佐野が呼んでいる。
「正美。早くこっちへ来なさい」
祖父が呼ぶ。どちらへ行こうか迷う杉田。死んだ人間の所に行けば、自分は死ぬ。生きている佐野の方へ行けば、生き返るかも知れない。そう思った杉田は、佐野の声がする方へ歩き始めた。
「正美! ま・さ・み・・・・」
祖父の声が小さくなり、やがて消えていった。
佐野の声も聞こえなくなった。まったく静まり返ってしまった。ほんとにこちらに歩いてきて良かったのだろうか? そう思い始めた矢先、ピッ、ピッ、ピッと、電子音が聞こえ始めた。何の音だろうか? 杉田は首を傾げた。音は次第に大きくなっていった。
突然花畑が眼前から消え、淡い照明の点いた天井が目に入った。目の前に看護婦らしい女の顔が大写しになった。杉田の目の前に手をかざして、2,3回振ると、何も言わずにいなくなった。
しばらくして、医者らしい男がやってきた。何やら杉田の体を触って検査していた。
「分かるかい?」
「・・・・あ」
声が出なかった。一生懸命声を出そうとするのに、まったく声にならないのだ。
「無理しなくていいよ。時間がたてば、話せるようになる」
声は出ないが生きている。助かったのだ。杉田は喜びに涙を流した。祖父に付いていかずによかった。
意識はオブラートのような膜を貼った感じではっきりしない。しかし、手足は何とか動かせるようだ。ただ、自分の手足ではないような変な感じがする。まだ完全に回復していないせいだ。杉田はそう思った。
胸と腹を撃たれたはずなのに、少しも痛くないがどうしてだろうか? 頭に付けられた無数のコードは何だろうか? いろいろな疑問があるのに、医者がやってくると、そのことを思い出せず、医者がいなくなってから、聞き忘れたことを後悔した。
三度三度の食事が運ばれてくるが、味がまったくしない。砂を噛むようなと言う表現がぴったりだ。食べたくないのに、看護婦が無理矢理口の中に押し込んできた。
体に付けられていたいろいろなチューブやコードが少しずつ外されていった。そして今日ついに、尿道に入れられていたチューブが抜かれた。
「今日から、歩く練習をしましょうね」
そう看護婦に促され、ベッドに座った。すべてのチューブが外されたと言うことは、体が完全に回復したと言うことなのだろうに、頭の方は薄靄が掛かったようにまだぼんやりしたままだ。自分の体が自分のものではないような気がする。
看護婦に支えられ、部屋の中をそれこそカタツムリのようにゆっくり歩いた。ほんの十歩歩いただけで、マラソンをした後のように疲れ切っていた。あんなに鍛えていたのに・・・・。悔し涙を流しながら、もう一度鍛え直せばいいんだと杉田は思い直した。
「1年以上ベッドの中だったんですもの。急には無理よ」
1年以上!? もうそんなにたっているのか。どうりで傷が痛まないはずだ。
佐野は、佐野は元気にしているだろうか? 見舞いにも来てくれないが・・・・。
部屋の中を自由に歩けるようになった。食事も味がし始め、食事時間が待ち遠しくなった。自分はかなり回復した。そう杉田は確信したが、不思議な違和感は去らなかった。
大切な佐野は、やはり見舞いに来てくれない。俺のことを忘れてしまったのだろうか? 涙がこぼれた。最近涙もろくなったようだ。しっかりしなければ。