15

 橋爪は、ベッドの上でしばし微睡んでいた。あの日の榊からの電話を思い出す。
 「雅代さんは、二度と帰るつもりがないと言いました」
 いつものように抑揚のない言葉で言う。
 「ほんとだな」
 「浜田と木村も聞いてます」
 「そうか」
 「苦痛はなかったと思います」
 「そうか。マンションを引き上げて、大阪へ帰るぞ。後始末をして置いてくれ」
 「分かりました」
 雅代はもうこの世にいない。しかし、不思議に涙は出なかった。

 ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッと電子音が鳴った。仕事を開始する時間だ。仕事などやる気分ではなかった。しかし、やらないわけにはいかなかった。
 橋爪はベッドから起き上がり、服を着てパソコンの置かれたデスクに座った。手慣れた手つきで、インターネットに接続する。それから、子育てネットワークのホームページを開く。ありふれたホームページだ。画面を下へスクロールし、何の変哲もないGIFファイルを右クリックすると、デスクトップ上にコピーした。
 インターネットを切断し、プログラムを立ち上げる。GIFファイルを読み込んで、中に隠された暗号を取り出す。それだけでは何が書かれているのか分からない。
 次いで、暗号解読ソフトを立ち上げ、パスワードを入れると、ようやくテキスト文章が現れた。それをプリントアウトする。
 橋爪は、榊に電話した。
 「俺だ。すぐに部屋に来てくれ」
 10分ほどして、榊が橋爪の部屋のドアをノックした。
 「入れ」
 「届きましたか?」
 「ああ、届いた。来週の水曜日午後3時。GPSの位置はここ。周波数はこれだ」
 プリントアウトしたものを榊に手渡す。最近、覚醒剤を密輸するのはかなり難しくなっている。そこで、海上で引き渡しが行われる。船同士だと怪しまれるので、GPSで指定した場所に、浮きを付けて浮かべておいてもらうのだ。その浮きには、半径100メートルほどしか届かない微弱な電波信号を出す装置が付けられている。
 指定された時間に、指定されたGPSの位置に行って、電波を探って見つけるという寸法だ。発信される電波の周波数も毎回変えられていた。今のところ、98パーセントの確率で、回収できている。サツに見つかったわけではない。潮で流されて、見つけられなかったのだ。
 「頼んだぞ」
 「はい」
 「雅代の死体はどうなった?」
 「雅代さんのことは、もう忘れると言ったんじゃなかったですか?」
 にべもなく榊はそう言う。
 「そうだったな」
 雅代のことを忘れるために、雅代と暮らした東京のマンションを引き払ってきた。しかし、今橋爪がいるマンションこそ、雅代を最初に連れてきたマンションであった。
 「あの時、俺は雅代に出会わなかった。そうだ。俺には女はいなかった」
 そう思うことで、橋爪は雅代のことを忘れようとした。しかし、そう思えば思うほど、雅代のことが思い出された。あの眼差し、あの唇。あの体の温もり。
 殺させなければよかった。ぶちのめしてでも連れて帰れと言えばよかった。後悔だけが橋爪の心の中に渦巻いていた。