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 人通りが少なくなって、雅代は不安に刈られた。橋爪の手下らしい男たちが追ってくるのが分かったからだ。もう帰らない。連れ戻されるくらいなら、死んだほうがましだと思っていた。
 前方に剣道具を担いで歩く男の姿が目に入った。雅代は、その男に助けを求めた。
 「助けてください。お願いです」
 振り返った男は、初めは意気消沈したような表情をしていたが、雅代の言葉を聞くと急に表情が引き締まった。端整な顔立ち。一瞬橋爪と似ていると思ったが、違うのは目の輝きだ。何をも恐れぬ、まるでライオンのような輝きがあった。この男なら、自分をきっと助けてくれる。雅代はそう思った。男が警察官だと分かって、雅代はますます安心した。

 男はアパートの階段を上りながら、杉田と名乗った。部屋の中に入ると、すぐにカーテンを閉め、電話をかけ始めた。
 「そうです。ストーカー被害の女性を保護しています。パトカーを一台、こちらにやってくれませんか? 今、出払ってる? できるだけ早めにお願いします。わたしがずっと付いておりますから。よろしく」
 「すみません。ご迷惑をかけて・・・・」
 「いいですよ。これも警察の仕事ですから。パトカーが来るまで、ちょっと待ってください。コーヒーでも飲みますか? インスタントだけど」
 「お願いします」
 インスタントコーヒーなど飲んだことがない。幼い頃は、コーヒーは体に悪いからと飲ませてくれなかった。雅代が初めてコーヒーを飲んだのは、橋爪のマンションに住み始めて一週間目のことだった。いい香りのする飲み物を橋爪が飲んでいた。
 「いい香りね。それ、何?」
 「コーヒーだ。飲んだことないのか?」
 「ないわ」
 橋爪が注いでくれたコーヒーは美味しかったが、香りほどではなかった。コーヒーというものはそう言うものだと言うことをあとで知った。
 雅代は、いつもコーヒー豆をミルで挽いてドリップしていた。インスタントコーヒーはどんな味がするんだろう? 雅代はそう思っていた。

 杉田の部屋は1Kの狭い部屋だ。小さな本棚に、六法全書、民法などの本が見える。部屋の中はきちんと片づいていた。独身らしいのに、几帳面な男のようだと雅代は思う。
 「さあ、できましたよ。砂糖は入れますか?」
 「いえ、ブラックで結構です」
 杉田は、コーヒーカップを手にして、雅代に手渡しながら、畳の上に座った。少し足を引きずっているように見えた。
 「足、どうかされたんですか?」
 「ちょっと捻挫してしまって」
 杉田ははにかむようにそう言った。久しぶりに橋爪以外の男と話しをしたが、男はみんなかわいいなと思う。自分のような美人を前にすると、みんな同じような態度をとる。恥ずかしそうで、それでいてちょっと気取るのだ。
 「そうなんですか」
 「あなたをつけ回している男は、誰なんですか?」
 「あの人の子分だと思います」
 「あの人?」
 「ええ。わたしの世話をしていた人です」
 「あなたの世話をしていた? じゃあ、パトロンか何かですか?」
 雅代は首を傾げて考える。
 「パトロン? ・・・・ちょっと違うような気がしますけど」
 「じゃあ、どう言う関係なんですか?」
 「わたし、関西大震災の日に、両親も妹もなくして、独りぼっちになってしまったんです。その時、あの人が現れて・・・・。わたしの世話をしてくれたんです」
 「関西大震災というと、もう7年になりますね」
 「はい。あの人は、住むところを与えてくれて、服や宝石を、いると言えば何でも買ってくれました・・・・」」
 「じゃあ、恩人って言う訳じゃないですか?」
 「恩人? そんなこと思ったことはありません。あの人は・・・・、あの人は、わたしの中に自分を見ただけなのです」
 今度は杉田が首を傾げる。
 「あの人は、孤独な人なんです。誰も受け入れないんです。独りぼっちになったわたしを見て、わたしの孤独を癒すことで、自分の孤独を癒す振りをしていたんです」
 「分かるような気がしますが・・・・」
 「でも、わたしの孤独は癒せなかった。あの人が心を開くことが、わたしの心を癒すことになることに、あの人は気づかなかったのです」
 「それを彼に直接言ってみたらよかったのに」
 「言っても分かってくれる人じゃないんです」
 その時、こどもの話し声が通りから聞こえてきた。
 「こども・・・・。そうだ、こども作ったらいいんだ。そしたら、あなただけでも孤独でなくなる」
 「それはわたしも考えました。でも、あの人は子供ができない体なんです」
 「そうですか・・・・」
 「で、相手の男の名前は?」
 「橋爪恭介って言います」
 「橋爪恭介? ちょっと待って、橋爪恭介って、まさかレッドイーグルの橋爪恭介じゃないでしょうね」
 杉田の目の色が変わったが、雅代は事も無げに答えた。
 「そうですけど」
 「ぼくは、覚醒剤の元締めの橋爪恭介のことを言ってるんですよ」
 「ええ」
 「君は、橋爪恭介の素顔を知ってるんだね?」
 「もちろんです。一緒に暮らしていたんですから」
 「大変だ」
 杉田は立ち上がり、もう一度電話をし始めた。
 「小沢さんをお願いします。そうだよ。急用だ。忙しい? そんなのどうでもいいよ。早く出てくれって言ってくれ」
 杉田は、せっぱ詰まった様子で受話器にがなりつけている。
 「ああ、課長。杉田です。昇段試験? そんなことはどうでもいいです。実は、橋爪恭介のイロだという女を保護しているんです。そうです。あの橋爪の女です。真偽のほどは分かりませんが、急いで自分のアパートまで迎えをよこしてください。急いでください。表に、やつの子分らしい男の顔を見かけましたから」
 杉田の、『イロ』という表現には嫌な気がした。雅代はコーヒーに口を付けた。杉田の入れてくれたインスタントコーヒーは飲めたものじゃなかった。雅代は一口飲んだだけで、コーヒーカップをテーブルの上に置いた。
 「どうしてまた、橋爪の所を逃げ出したんだ?」
 杉田が雅代のそばに座り直して聞いた。
 「あの人とわたしは一緒に住めない運命なんです。やっとそれに気がついたんです」
 「やつの素顔を知るものは何人もいないと聞いている。逃げ出したりしたら、殺されるかも知れないんだぞ」
 「・・・・そうですね。・・・・でも、それがわたしの運命なら・・・・」
 「運命なんて、糞食らえだ。きみは自分の運命を変えるために橋爪の元を出てきたんだろう? 違うのか?」
 「・・・・そう・・・・かもしれない・・・・」
 「じゃあ、何とか生き延びなくちゃ。ぼくが手伝うよ」
 杉田の真摯な言葉に雅代は少し感動した。輝いている杉田の目。この人とあの時出会っていれば、自分の運命はずっと変わっていたかもしれない。雅代はそう思う。
 「名前を聞いてなかったな。名前は何と言うんだ?」
 「大石雅代です」
 「大石雅代か・・・・」

 その時、玄関のドアを叩く音がした。
 「誰だ!?」
 「宅急便です。受け取りの印鑑をお願いします」
 宅急便? 違う。橋爪の子分がやってきた。自分は殺される。杉田も殺される。雅代はそう直感した。
 「そこに隅に隠れてろ」
 本棚の横に立てかけてあった竹刀を手にすると、杉田は玄関へ向かった。
 「杉田さん。生ものですから、急いでください」
 「すぐ行く。ちょっと待ってくれ」
 杉田は、竹刀を背中に隠して、ドアの鍵を外した。ドアが開かれた瞬間、鈍い音がして、杉田の体が、部屋の中に倒れ込んできた。胸と腹から真っ赤な血が流れ出ていた。
 すぐに男が入ってきた。男は、橋爪の右腕の榊だった。
 「雅代さん。血迷ったのか?」
 何も答えずに、雅代はじっと榊を見つめた。
 「橋爪さんは、あんたが戻ってくるのを願ってる。どうする?」
 「もう二度とあの人の元には戻らない」
 雅代はきっぱりとそう答えた。
 「もう一度聞く。橋爪さんの元へ戻るつもりはないんだな」
 「同じことを言わせないで」
 「そうか。じゃあ、やむをえんな」
 榊がサイレンサー付きの銃を雅代に向けた。
 「安心しろ。苦痛がないようにしてやる」
 銃が発射された。雅代は眉間に熱い痛みを一瞬感じた。
 「これで、やっと元の俺たちに戻れる」
 榊のその言葉の意味を理解したときには、雅代の意識は消えていた。