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 椅子に座ってじっと天井を見つめていた。どう考えても雅代が勝手に出て行った理由が分からなかった。
 「何故だ!」
 誰もいない部屋の中に、橋爪の声だけが響いた。

 電話が鳴った。榊からだ。橋爪は、急いで受話器を取った。
 「俺だ」
 「ちょっと、困ったことに・・・・」
 「なんだ?」
 「雅代さんは、三鷹で電車を降りたんですが・・・・」
 「それで?」
 「人通りがなくなって連れて帰ろうとしたとき、ちょうど男が通りかかってですね」
 「結論を早く言え!」
 いらいらしている橋爪に、榊はいつものように話し続ける。
 「その男に助けを求めましてね。今、その男のアパートの中です」
 男に助けを求めたと聞いて、橋爪の心の中にむらむらと嫉妬の炎が燃え上がるのを覚えた。
 「その男、雅代の知り合いか?」
 「雅代さんに知り合いはいないでしょう。それはあなたも分かっているはずです」
 榊は冷たくそう言い放つ。
 「そうだな・・・・」
 「浜田が言うには、男は覚醒剤取り締まり特別班の杉田というデカらしいのです」
 「何!? デカだと?」
 「わたしも今し方着いたばかりですが、表札は、間違いなく杉田になっています」
 目の前が暗くなった。よりによってデカに助けを求めるなんて。それも、覚醒剤取り締まり特別班のデカだとは・・・・。
 「雅代は、助けを求めた男がデカだと知っていたんだろうか?」
 「イヤ、違うと思います。ただの偶然でしょう。しかし、おそらく今頃は杉田の方が雅代さんに警察官だと名乗っていると思います」
 「雅代は、俺のことを話すだろうか?」
 「分かりませんね。ちょっと待ってください。様子を見に行った浜田が戻ってきましたから・・・・。なに? そうか。分かった。ボス! 雅代さんが杉田に、自分は橋爪恭介の女だと名乗ったそうです。杉田が電話して応援を呼んでいます」
 「くそ!! 何とか雅代を連れ戻せないか?」
 「相手はまだ一人ですから、無理矢理にと言うなら連れ戻せますが・・・・」
 「頼む。連れ戻してくれ」
 「雅代さんがどうしても帰りたくないと言ったら、どうします?」
 橋爪は考える。橋爪の正体を知るものはごく少数だ。そのすべてが橋爪の元にいる。橋爪を離れては生きることを許されないのだ。雅代は帰らないと言うだろうか? そう答えれば、命がないことは分かっているはずだ。
 「必ず確認してくれ。俺の元に戻ってくるつもりがあるかどうかを。その上で、戻ってこないと言ったら、そのときは・・・・」
 「そのときは?」
 橋爪は意を決して答える。
 「・・・・そのときは始末しろ」
 「いいんですか?」
 「やむを得ない。俺の自分勝手のために、組織を危険に陥れるわけにはいかない」
 あの時、7年前、橋爪は、組織を潰す危険を冒しても雅代と暮らすと言った。だが、今はあの時と状況が違う。今や、レッドイーグルは、関西を支配し、関東の支配も目前にある。いくら愛しているからと言って、組織を危険にさらすことは、もう二度とできない。
 「杉田というデカはどうします?」
 「俺に女がいることを知られてしまったのは仕方がない。しかし、その杉田というデカ以外に雅代の顔を見たものはいない。雅代の顔を見られた以上、雅代の答えの如何によらず消せ」
 「分かりました」

 電話が切れた。雅代はきっと帰ってこない。雅代は覚悟の上で出ていったはずだ。榊は、確実に雅代をこの世から抹殺する。男であろうと女であろうと容赦しないやつだ。
 雅代にもう二度と会うことはないと思うと、涙が流れた。涙を流すなんて、何年ぶりのことだろうか?

 幼い頃、橋爪は毎日飢えていた。結婚して1年もしないうちに離婚した母は、男友達の元へ行ってほとんど橋爪のいるところには帰ってこず、まともに食べられたのは学校の給食だけだった。同級生にもらった給食のパンを持って帰り、夕食として食べようとしたとき、乞食みたいな真似をするんじゃないよと言われて、母にそのパンを取り上げられ足で踏みつけられた。そのとき流したのが最後の涙だった。
 その時橋爪は母を殺した。母を殺したあと、床に踏みつけられたパンをむさぼり食った。橋爪がまだ12の時だった。
 それ以来、橋爪の心は病んでいる。誰も信用せず、貧乏人とさげすまれた社会への増悪だけで生きてきた。生きるためにはおよそ犯罪と名の付くものは何でもした。覚醒剤を売りさばいているのも、社会への復讐のひとつなのだ。

 そんな橋爪が人間らしくなれるのは、雅代の前だけだと思っていた。
 「お願いだ、雅代。俺の元に戻ると言ってくれ」
 一縷の望みを託して、橋爪は心の中でそう叫んだ。