第5章 橋本愛美

 目覚ましがじりじりとなっている。うるさいなと思いながら、時計を見た。針は、6時40分を刺している。もう起きる時間だ。このキティーちゃんの時計も、もう見飽きてしまった。
 いい加減にしないと怒るよ。そうは言っても、今日一日は、どうしようもない。このまま、何事もなく一日が過ぎるのを待つしかない。
 やっぱり今日も汗まみれ。髪の毛もパジャマもべったりと体に張り付いている。気持ち悪いと言ったらありゃしない。
 それに、生理中ときた。生理で血が出ようとどうしようと、シャワーを浴びないとどうしようもない。
 ベッドから立ち上がったが、痛い。一昨日よりは軽くなっているけど、やっぱり痛い。ただ血が出るだけで、こんなに痛まないでもいいのではないかと思う。
 薬、薬はどこだ。確かドレッサーの引き出しに入っていたはずだけど・・・・。いつもの所に置いていない。どこだ!! ごそごそと痛み止めを探して廻る。
 ふと見ると、本箱の上に救急箱が置いてあった。ふたを開けてみると鎮痛剤があった。急いで、一錠を水で飲み込んだ。しばらくして、痛みが治まってきた。治まったと言っても、また痛くなるのだが・・・・。

 シャワーを浴びようと立ち上がるとき、テーブルの上にメモがあるのに気付いた。
 「大売り出しの最終日だ。今日も頑張ろう! 生理痛なんて吹っ飛ばせ!! 卸屋さんが来るから、今日は早めに店へ行かなくちゃ」
 何が、生理痛なんて吹っ飛ばせだよ。吹っ飛ばせないから、逃げ出しているくせに。
 くそ! くそ! くそ!

 シャワーはやっぱり気持ちがいい。バスタオルで体を拭いていると、下腹部が痛み始めた。慌てて、ナプキンをあてて、下着を身につけた。
 時計は、7時15分を刺していた。急いで出掛ける準備をしなければ・・・・。卸屋が来るって書いてあった。

 隠していたコンタクトを取り出して、装着した。うん、よく見える。それから、ドレッサーに向かって髪を乾かす。今日は、いつもと違うヘヤスタイルにしてやろう。
 いつもは後ろで束ねてリボンで結ぶだけだけど、今日は、頭の真ん中で綺麗に分けて、耳の横に小さな三つ編みを作った。結構可愛くできたぞ。
 タンスの中から、一番女の子らしいブラウスを取り出して着て、この部屋の中にある唯一のスカートである、ジャンパースカートを着た。
 ドレッサーの鏡に自分の姿を映してみた。昨日までの橋本愛美とは別人のようだ。いいぞ、いいぞ。

 冷蔵庫から牛乳を取り出して、一杯、ぎゅっと飲んだ。それにカロリーメイトを二本。三本食べると、カロリーオーバーになるから、蓋をして元の位置に戻して置いた。

 立ったままリップクリームを付けようとしたけど、気が変わった。ストゥールに座り直して、化粧し始めた。この格好だもの、リップだけじゃ、かえっておかしい。そう思ったからだ。
 久しぶりにする化粧だったけど、結構上手く仕上がった。鏡の中のぼくは、橋本愛美じゃないみたい。

 ぼくは、満足して、バッグを持って部屋の外へ出た。
 今朝も、木村さんと出会った。
 「おはようございます」
 「あ、ああ。おはよう・・・・ございます」
 木村さんは、ぼくをビックリしたような顔で見ていた。階段を降りるとき、振り返ってみると、木村さんは、さっきの場所で、ポカンと口を開けて立っていた。
 ムーブに乗って駐車場を出るとき、木村さんは、まだ信じられないと言うような顔で、ぼくの車をじっと眺めていた。

 今日は日曜日。郊外に向かう車も、市内に向かう車もそう多くない。今日は、10分で南部ショッピングセンターの駐車場へ着いた。
 ガードマンの篠田は、今朝も早くから働いている。
 「おはようございます」
 ぼくは、篠田に声を掛けた。
 「おはようございます」
 儀礼的な挨拶を返した後、篠田は目を丸くした。
 「は、橋本さんですか?」
 「そうよ」
 ぼくは、すましてそう答えた。
 「いやあ、見違えちゃったですよ」
 「見違えたって、どんな風に?」
 「橋本さんって、そんな風にすると、結構美人なんですね」
 「わたしは、こんな風にしなくても美人なのよ」
 「あ、いや、そうですね。へええ、そうなんだ」
 ぼくが、車を裏の駐車場へ進める間中、篠田はぼくの方を見ていた。女としては、見つめられるってことは、気持ちのいいもんだ。

 「おっ、愛美ちゃん。今日はいかしてるじゃないか」
 カメラ屋さんの伊藤さんは、普段からぼくが美人だと見抜いているからか、いつもと違う格好にもまったくビックリした様子がない。
 「ちょっと、気分転換です」
 「毎日その格好にしたらいいよ。男のお客が増えると思うよ」
 「そうですかあ」
 花なんてものは、そうそう男が買いに来るものじゃない。店に来る男は、大抵女の買い物に付き合わされて、しぶしぶと言う顔をしている。
 「この花、可愛いわね」
 「そうだな」
 「こっちもいいわね」
 「ああ」
 「あら! これなんて最高じゃないの」
 「うん」
 まあ、こんな調子だ。

 今日は日曜日で、売り出しの最終日とあって、お客が多い。そんな買い物ついでのお客さんたちが、ぼくの店に立ち寄ってくれる。夫婦や恋人同士らしいカップルもかなり顔を見せた。
 いつもは、ぼくの店にカップルがやってきても、男たちは店の前でぶらぶらしていることが多いのに、今日は、ぼくに声をかけてくる男が多い。
 「あのう、この花はなんて名前ですか?」
 「ああ、そのお花ですね。フリージアって、言うんですよ」
 「これ、いくらですか?」
 「2500円です」
 「この店、一人でやってんですか?」
 「はい。わたし、ひとりよ」
 そんな時、連れの女たちは、あからさまに不機嫌になる。ぼくは、それが面白くて、わざとそんな男たちに媚びを売るような真似をした。
 男たちは、歓喜し、女たちは、嫉妬する。店を出た後、彼らはどうなるのだろうか? ぼくの姿が見えなくなったら、たちまちのうちに元に鞘に収まるのだろうか? それとも喧嘩別れ? 想像するだけで、面白い。ぼくは、なんて悪い女だ。

 そんな悪い女の楽しみを、あっという間に奪っていくものがいた。痛たたたた。忌々しい生理痛め!! ぼくは、バッグの中から鎮痛剤を取り出すと、一服飲み込んだ。
 痛くてたまらないけど、そんなことはまったく表情には出さず、お客さんの相手をした。
 朝、テーブルの上にあったメモを思い出す。
 「大売り出しの最終日だ。今日も頑張ろう! 生理痛なんて吹っ飛ばせ!!」
 馬鹿言うなよ。今日は、最悪だ。店を閉めりゃよかったよ。しかし、店を閉めたのが分かると怒るからなあ。仕方がない。ぼくはあいつには敵わないから。
 携帯がなっている。番号を見ると、あいつからだった。今出たら、喧嘩になりそうだ。聞こえない振りをして、放っておいた。

 食欲全くなし。昼食は取らなかった。薬を飲むついでに牛乳を一本飲んだ。ただそれだけ。売り上げが少なかったら、このつらさも倍増するところだ。

 午後もお客さんがたくさんやってきて、鎮痛剤を飲む暇もないくらいだった。店を閉める頃には、へとへとになっていた。
 「愛美ちゃん、辛そうだね。この薬飲むといいよ」
 伊藤さんが、錠剤と水の入ったコップを持ってやって来た。伊藤さんの観察眼は鋭い。ぼくが生理痛で苦しんでいるのを知っているようだ。
 「すみません。もうそろそろ治まるんですけど・・・・」
 「娘に聞いたら、この薬がいいって言ってたもんだから、買ってきておいたんだよ。さあ、飲んだ、飲んだ」
 「ありがとうございます」
 伊藤さんが、こうしてぼくに薬を持って来る意味は分かっている。上手く取り入って、ぼくをものにしようと思っているのだ。しかし、いくら頑張っても、伊藤さんを相手にする事などはないだろう。
 ぼくとしては、お隣さん、それ以上の付き合いをするつもりはない。それでも、伊藤さんは、何かあるたびにぼくの世話を焼きたがる。伊藤さんにとっては、それだけでも嬉しいようだから、ぼくは喜んでそれを受け入れている。

 ようやく今日一日の仕事が終わった。ぼくは、伊藤さんに手伝ってもらって店のシャッターを下ろすと、駐車場へ向かって歩いていった。

 「橋本さん、橋本さん」
 そんな声に振り返ると、ガードマンの篠田が息を切らして駆け寄ってきた。
 「あら? 今日は、もうあがりなんですか?」
 「ちょっと急用ができたって言って、早めに切り上げたんだ」
 篠田は、アルマーニのスーツに着替えていた。ガードマンの制服を着ていても、かっこいい男なのに、こうしてきちっとした服を着ると、たいていの男は篠田には敵わないだろうなと思う。こんな篠田に誘われたら、断る女の子はいないだろうなとも思う。
 「急用って何ですか?」
 「急用ってわけじゃないんだけど・・・・」
 篠田は、ぼくと列んで歩きながら、ハンカチで汗を拭いた。
 「じゃあ、どうして?」
 「橋本さん、もう帰るんだろう?」
 「ええ」
 「食事は?」
 「帰って作るわ」
 「よかったら、ぼくと一緒に食事をしてくれないかなあ」
 「ええっ!? わたしと?」
 篠田が、ぼくを誘うなんて、思ってもみなかった。いつもほとんどぼくには関心を示していなかったからだ。そうか、今日は、普段と違って、スカートは穿いてるし、化粧はしている、ヘヤスタイルも違うのだ。篠田は、ぼくが美人だということに、気づいたというわけだ。
 「一人で食事をするなんて、侘びしいだろう? お互いに」
 「まあ、それはそうだけど」
 「ふたりでお喋りをしながら、食事したほうが、同じ物を食べたとしても、格段に美味しいと思うんだ」
 「それもそうね」
 「ディナーが美味しいレストランがあるんだ。そこでいいかな? ここから車で15分くらいだよ」
 「高いんじゃないの?」
 「そんなに高くないんだよ。それに、今日はぼくの傲りでどうだい?」
 「いいの?」
 「橋本さんと、食事ができるんだったら、安いもんだよ」
 ぼくとしては、断る一手なのだが、篠田からの誘いを断ったりしたら、後で怒られるだろう。それに、これから帰って食事の心配をするのが面倒だから、誘いに乗ることにした。
 「じゃあ、遠慮しないでお受けするわ」
 「よかった。ぼくの車でいこう」

 ぼくは、篠田について行った。篠田は、ぼくよりかなり早く来るから、従業員用駐車場の出口に近いところに車を停めていた。車は、新型のセドリックだった。ぼくの乗っているおんぼろセリカと違って、乗り心地最高。高級車はやっぱり違うな。
 「いい車に乗ってるのね」
 「親父のなんだ。車庫に置いたままで、もったいないから、ぼくが借りてるんだ」
 「新車を買って、乗らないの?」
 「事務所まで、歩いて5分だもんね」
 「お父さん、何の仕事されてるんですか?」
 「親父? 親父は不動産業をやってるよ」
 「不動産業ですか。篠田さんは、跡を継がないの?」
 「そのうちイヤでも継がなきゃいけなくなるだろうけど、今はまだ、親父の世話にはなりたくないんだ」
 「ふうん」
 銀行関係に就職したいといっていたのは、多少不動産業と関係あるのかもしれない。銀行とコネがあれば、将来役に立つだろうことは、ぼくにもよく分かる。

 車は、国道を離れ住宅街へと入っていく。レストランなんて、辺りにありそうもない。ぼくは、車の中から、外の景色をキョロキョロと眺めた。
 「こんな所にレストランがあるんですか?」
 「知る人ぞ、知るのレストランでね。儲けるためじゃなくて、ご主人が趣味でやってるような店なんだ」
 「へええ」
 「あそこだよ」
 篠田が指さす方に、山小屋風の建物が見えてきた。一階が駐車場になっていて、パジェロとマークUが停まっていた。

 篠田の後について木の階段をとんとんとあがった。ガラガラと言うカウベルが鳴るのを予想していたのに、ドアを開けると、ちりんちりんと鈴がなった。ドアを見上げると、真鍮製の細い金具の先に可愛らしい鈴が下がっていた。
 「こんばんわ。また、来たよ」
 「いらっしゃい。そこのテーブルへどうぞ」
 店の中には、テーブルが4つあって、奥のテーブルでは、40代くらいの夫婦がナイフとフォークを使っていた。左手のテーブルには、恋人同士らしいふたり。もう食事が済んだらしく、コーヒーを飲みながら、お喋りに夢中になっていた。ぼくたちは、指定された右奥のテーブルへ腰をおろした。
 「家庭的な雰囲気ね」
 「御指摘道理だよ。ここのご主人は、お店に来る人たちは、みんな家族と思っているって、いつも言ってるからね」
 「はい、その通りだよ。はい、前菜ね」
 テーブルの上に、2つの皿が置かれた。皿の上には、中華風の海鮮サラダが乗せられている。
 「あら、注文しておいたの?」
 「違うよ」
 「えっ!? どう言うこと?」
 「普通のレストランに行くと、今日のお料理っていうのがあるだろう?」
 「ええ」
 「この店には、それしかないんだ」
 「・・・・つまり、注文しなくても、今日の料理が出てくるってことね」
 「そう。ご主人にお任せってことだよ」
 「何が出てくるか、お楽しみって所ね」
 「そう言うことだよ」
 ワカメなどの海草に、レタスに大根、にんじんの千切りが混じっていて、その中に鯛、マグロ、海老などが顔を覗かせていた。中華風のドレッシングがとても美味しい。
 「うん、美味しいわ」
 「いつもと一寸味つけが違うみたいだよ」
 「いつもって、ここにはよく来るの?」
 「週に一度はね」
 「一人でってことは、ないわね」
 篠田は、肩をすくめた。
 「妹と一緒に来るんだよ」
 「わたしも妹のひとりでしょう?」
 「嘘じゃないよ。ほんとだよ。ほんとの妹と来るんだ」
 篠田ほどの男が、妹と食事をする!? とても信じられない。信じられないが、ここは、信じたことにしておいた方が良さそうだ。
 「信じて上げるわ」
 「ほんとに、妹とだってば」
 ぼくは、笑顔を返した。

 スープ、肉料理、魚料理が次々と運ばれてきた。どれも、他の店では味わえない独特の工夫がなされていた。
 ブルーベリーのソースがかけられたヨーグルトのデザートがすむと、コーヒーが運ばれてきた。
 「とっても美味しかったわ」
 「そう言っていただけるのが、一番嬉しいですよ」
 店の主人は、にこにこ顔で、コーヒーをカップに注ぐと、厨房へと戻っていった。

 支払いは、篠田がやってくれた。こう言うところは女は楽だなと思う。ご馳走様の一言ですむ。もちろん、後のことを考えて、割り勘を申し込んだのだが、ぼくが誘ったんだからとの篠田の言葉にぼくはお礼の言葉を述べて、篠田が支払いをするのをじっと見ていた。
 ふたり合わせて、1万と2千円を払っていた。あの料理で、ひとり6千円とは安い! そうは思ったものの、自分の財布を使うなら、6千円はちょっと贅沢だなと思う。せいぜい月に一度くらいかな。
 「送っていくよ」
 「ありがとう」
 篠田は、ぼくを南部ショッピングセンターの駐車場まで送り届けると、ぼくの車が駐車場を出て、見えなくなるまで手を振っていた。
 篠田は、食事以上のことを誘ってこなかった。あんまり面白くない女だと見られたのか? それとも今日の所はこれくらいにしておいて、気を持たせるつもりか? ぼくには、後者のように思える。まあ、後は愛美に任せておけばいいだろう。

 ぼくは、直接マンションへは帰らず、今着ているジャンパースカートを買った洋品店へ向かった。スカートがこれ一着じゃあ、どうしようもないと思ったからだ。
 カードを使って、ノースリーブの小さな花柄のワンピースを仕入れた。ぼくの目から見れば、このワンピースは、愛美によく似合っていると思う。

 マンションに帰って、シャワーを浴びて、メモを書いておいた。今日も一日疲れた。慣れない生活は、ほんと疲れる。そう言えば、生理痛は夕方から嘘のように消えてしまっている。伊藤さんがくれた鎮痛剤のおかげだろうか? それともピークを過ぎたのだろうか? ともかく一番辛い時期をぼくに押しつけて、困ったもんだ。しかし、美味しいものを食べられたから、良しとしよう。
 クーラーつけたまま寝ると、どやされるだろうから、スイッチを切った。さあ、明日の朝はどうだろうか? 汗まみれで起きることになるのだろうか?