第4章 桜木雅也

 暑い! 堪らなく暑い! 部屋の中は地獄のような暑さだった。クーラーを入れ忘れている。参った。汗まみれだよ。
 起きあがってみると、ぼくは裸でベッドの中で寝ていた。裸で、この暑さか。朝から、この暑さじゃ、今日はものすごく暑そうだ。会社の中はクーラーが利いているからいいけどな。

 顔の汗を拭った。うん? 顔に何か付いている。この臭い、精液の臭いだ。よく見ると、胸、下腹部にも精液が飛び散って付いている。マスかいたまま寝たせいだ。まったく、もう! やるなとは言わないけど、ちゃんと後片づけしてくれよな。
 これは絶対シャワーを浴びなきゃならない。まあ、汗だけでも、シャワーをする必要がある。

 シャワーを浴びた後、コーヒーを一杯飲んでから、出勤準備にかかった。髭を剃って、ヘヤムースで髪を整える。今日もばっちりきまった。
 Yシャツは、もう一日着られそうだ。ズボンとネクタイは代えないと、マンションに帰っていないと疑われるから、取り代えた。

 ジャケット片手に部屋を出ると、大杉良子も部屋から出てきたところだった。
 「おはよう。今日も、ばっちりきまってるね」
 大杉良子は、ミニ丈のワンピース姿。スタイル抜群だから、よく似合っている。ぼくが機嫌よく声をかけたのに、彼女はぶすっとして返事もしてくれない。彼女はご機嫌斜めのようだ。ぷいと横を向いたまま、ぼくのそばを通り過ぎていった。
 彼女の後を追ってエレベーターにいくと、ぼくの目の前でエレベーターのドアが閉まった。彼女は、ぼくがエレベーターに乗り込もうとしているのを見ていたはずなのに、いったい何の恨みがあるんだよ。
 エレベーターが再びやってきて、ぼくは下へと降りていった。マンションの玄関から、バス通りへ向かって歩いて行く彼女の後ろ姿が目に入った。何だよ。せっかく車に乗せてやろうと思ったのに。

 駐車場へ行くと、ぼくの愛車がない! どこへ消えたんだ?
 ・・・・もしかして、会社に置いてきたのか? 困った。とにかく、会社へ行かなくちゃ。会社になければ、盗難届を出すしかない。あんなぼろ車、盗むやつなんていないとは思うけど・・・・。

 ぼくは、バス通りへ向かって走った。記憶によれば、あと2,3分で、バスが来るはずだ。
 バス停にたどり着くと、大杉良子がまだバス停にいた。ぼくの顔を見ると、やはりそっぽを向いてしまった。これは、何かやったな! しょうがないやつだ。
 大杉良子は、バスに乗っている間も、降りるときも、一度もぼくに振り返らなかった。これは、かなり機嫌を損ねているようだ。これを修復するのには、時間がかかりそうだ。参った。

 会社の近くのバス停まで、所要時間は40分。車で来るのとまったく変わらない。違うのは、バスの時間に拘束されるだけことだ。それが嫌だから、ぼくは、渋滞の中を車で会社まで来る。
 会社の駐車場を覗いてみると、ぼくのセリカが置いてあった。ほっとした。こんなぼろ車でも、なくなったら困る。新たに買おうにも軍資金がないからだ。動かなくなるまで、これに乗るつもりだ。

 更衣室へ行くと、本木が着替えをしていた。
 「桜木、昨日の割り勘の分、三千円だったな」
 「あ、ああ」
 本木がぼくに千円札を三枚手渡してきた。割り勘ねえ。昨日は一緒に飲みに行ったて訳だ。どおりで、喉が渇くし、頭が痛いと思っていた。
 「どこで、覚えたんだ?」
 「えっ!?」
 「グローブとかELTの曲のことだよ」
 「グローブとかELTの曲?」
 何のことだか、さっぱり分からない。ぼくは、ポカンとしていた。
 「昨日、カラオケで歌ってたじゃないか」
 カラオケで、グローブとかELTの曲を歌ったのか。・・・・困ったぞ。
 「あ、ああ。車ん中で。片道40分だからな」
 「なあるほど。しかし、桜木があんな曲を歌うとは思わなかったなあ。いつも、サザンばっかりだからなあ」
 「たまには他の曲も歌わないとなあ」
 「そうだな」
 今日は、誤魔化せたけど、次に飲みに行ったときに、歌えと言われたら困るなあ。少し覚えて置かないといけない。困ったことをしてくれたものだ。ぼくが、カラオケではサザンしか歌わないのは知ってるくせに。

 午前9時、いつものように朝礼が始まった。フロア長は、今日は、いつもより早めに挨拶を切り上げた。毎日これでなくちゃあ。
 デモ機のスイッチを入れて廻る。さて、本日の運勢は?
 NECのデスクトップが一台立ち上がっていたなかった。今日の運勢は、バツ! リセットしてみる。じっと画面を見ていたが、画面は真っ暗のままだ。あいた、重傷のようだ。
 「池田さん、こいつの緊急起動ディスクは、どこでしたかねえ」
 「デスクの右の引き出しの2番目にあると思うが」
 「ああ、ありました」
 緊急起動ディスクを取り出して、再起動してみた。ハードが死んでいるようだ。誰が何をやったんだろうか? フォーマットして生き返ればいいが・・・・。
 フォーマットによって、ハードは生き返った。CDで、丸ごとソフトを入れて終わり。デモ画面が表示され始めた。運勢は、そう悪くないと、自分に言い聞かせた。それでも、1時間の無駄をしてしまった。

 お客は、ぱらぱらと入っているだけ。南部ショッピングセンターの大売り出しは明日まで。今日の売り上げも、そう期待できないだろう。

 「桜木君、電話だ」
 池田さんが、受話器をぼくに差し出した。
 「ぼくにですか?」
 「そうだ。ご指名だよ。若い女のようだ」
 「若い女? 誰だろう?」
 あいつだろうか? 昨日の仕打ちを謝ってきたという訳かな?
 「もしもし、お電話代わりました。桜木です」
 「桜木さん、わたし、水田です」
 「水田さん?」
 「あら、昨日も行ったのに、もう忘れたんですか?」
 「ああ、あの水田さん。すみません、ど忘れしちゃって。で、どんな用事ですか?」
 水田というのは、うちの店によく買い物に来るお客さんだ。年は、27,8。仕事は何しているのか知らない。昨日も来た? 何しに来たんだろうか?
 「昨日買ったハードディスクの件何だけど・・・・」
 「昨日お買いあげのハードディスクですね」
 「そう。継ごうと思ったら、フラットケーブルが入ってないのよ」
 「最近は別売りが多いですから」
 「それならそれと、言ってくれないと・・・・」
 「すみません」
 一昔ならともかく、今はケーブルの類はみんな別売りなんだけど、お客さんのご機嫌を損ねてはいけないので、謝っておくしかないのだ。
 「また、そこに行かなきゃいけないわ」
 「あのう、水田さん」
 「はい」
 「CDは、ATAPIじゃなかったですかねえ」
 「そうですけど」
 「それに接続したらいいですよ。CD以外には何もつながっていないでしょう?」
 「あ、ああ、そうか」
 「マザーから遠い方にハードを継いでみてください。それでよろしいですか?」
 「分かったわ。すぐにやってみる。だめなら、また電話します」
 「よろしく」
 この水田さんというお客さん、女だてらに自作コンピューターを使っている。ただ、理解してやってるわけじゃないから、トラブルがあると、すぐに電話してくるのだ。以前は本木が相手をしていたのだが、あんまり素っ気なくするものだから、ぼくに廻ってきたというわけだ。

 彼氏らしい男に連れられた若い女が、彼氏の言いなりにNECのノートを一台買っていった。話しを聞いていると、ふたりで、チャットするためらしい。ただの電話の方が、余程コミュニケーションが取れるのにと思うが、余計なことは言わずに、カードの支払い伝票を切った。まあ、彼女の方も、インターネットでいろいろやってみたいと言ってたから、問題はないだろう。

 「桜木君、電話。また、例の彼女」
 うまくいかなかったようだ。しかたがない。
 「はい、桜木です」
 「ぜんぜん、立ち上がらないのよ」
 「ぜんぜんですか?」
 「そうなの・・・・。だからね、CDとハードを入れ替えてみたの」
 「だめだったでしょう」
 「いえ、立ち上がったの。立ち上がったんだけど、390メガしか認識してくれないの」
 「へえ、おかしいなあ」
 「どうしたらいいんですか?」
 彼女は、意気消沈、涙ボロボロ状態のようだ。
 「元々付いてるハードディスクは、たしかSCSI接続でしたよね」
 「そうです」
 「モデムと相性がよくないって、言ってませんでした?」
 「はい。モデムを継ぐと、調子がよくないんです」
 「SCSIには、他のものはつながってませんか?」
 「ハードだけよ」
 「そのハード、1ギガでしたね」
 「はい」
 「これからも使いますか?」
 「データ用に置いておこうかと思って・・・・」
 「今度買ったハードは、6.4ギガでしょう?」
 「ええ」
 「SCSIを外したらよくなるかも知れないなあ。外してやってみてくれませんか? 勿論、ハードがマスターで、CDがスリーブですよ」
 「SCSIを外してみるのね」
 「そうです」
 「分かったわ。後で、また電話しますから」
 「成功することを祈ってますよ」
 うまくいかなかったら、店までマシンを持ってきて貰おう。電話じゃ、細かいところまで説明できない。

 一時間後、電話が掛かってきた。
 「どうでした?」
 「うまくいったわ。ちゃんと6.4ギガ、認識してくれた」
 「よかったですね」
 「それはいいけど、このSCSIとハードはどうするの? どうしたら、使えるようになるの?」
 「もうそれは諦めた方がいいですね。・・・・そうですね。ぼくが、適価で引き取りましょう」
 「いいんですか?」
 「大事なお客様ですからね」
 「わあ、ありがとう。だから、桜木さん、好きなんだ」
 「SCSIが必要なときは、ぼくに言ってください。相性のいいやつを見つけて上げますから」
 「ありがとう。じゃあ、これからウィンドウズをインストールするから。困ったときは、またお願いね」
 「はい、ぼくにお任せください。失礼します」
 よかった。これで、しばらく彼女からは電話は入ってこないだろう。

 南部ショッピングセンターの売り出しのせいで、売り上げは普段の半分だ。まあ、これは仕方のないことだが・・・・。

 昼食は、近くの喫茶店で摂った。いつものウエイトレス、いつもの味。自分でもよく飽きないなと思う。
 昼休み時間ぎりぎりまで粘って、店に帰るやいなや、留守番の本木に呼ばれた。
 「桜木、電話。またまた例の彼女」
 今度は何だ? やっぱり、店に持ってきて貰えばよかったなあ。
 「桜木です。今度はどうしました?」
 「インターネットがフリーズしてしまうの。何とかして」
 「何とかしてって言われてもですねえ。・・・・インターネットしていると、フリーズするんですね」
 「そう、そうなんです」
 「何か、常駐ソフトは入ってませんか?」
 「いくつか入れてあったので、全部外してみたんですけど、だめなんです」
 「そうですか。それは困ったなあ」
 これは、店に持ってきて貰うしかなさそうだが・・・・。
 「・・・・そうだ。水田さん、調子が悪くなったのは、もしかして、モデムを継いでからじゃないですか?」
 「そう言えば・・・・、そうかも・・・・」
 「どこのモデムですか?」
 「包みを捨てちゃったから、分からないわ。それにバルク品なの」
 「もしかして、カード式のやつかな?」
 「そうです。外付けだと、場所をとるから。それに、電源がなかったから」
 「カード式は、相性の悪いやつがありますからねえ」
 「外付けにしたら、よくなりますか?」
 「保証はできませんけど・・・・」
 「何かいい手はないの?」
 「・・・・ニッパッパでよかったら、ぼくの手元に外付けがありますから、そのカードを外して、継いでみましょう。それでよくなるようだったら、外付けをお買いあげいただくと言うことで如何でしょうか?」
 「分かった。そうするわ。だけど、あなたのモデム、取りにいけないわよ」
 「店がすんでからでよかったら、届けに伺いましょう。それで、いいでしょうか?」
 「何時頃になるかしら?」
 「えっとですねえ、上野マンションでしたね」
 「ええ」
 「7時頃には伺えると思いますけど、よろしいですか?」
 「7時ね。待ってるわ」
 「じゃあ、7時に伺います」
 いろいろ触らないで、新しいコンピューターを買ってくれればいいのになと思うが、そうも言えないところが、お客様相手の難しいところだ。

 閉店前から、ロッカーの奥にしまって置いたモデムを紙袋に詰めて、閉店したらすぐに店を出た。フロア長には、お客様のメインテナンスと断って置いたから大丈夫だ。これは事実だから。
 上野マンションは、ぼくのマンションに帰るには、少し遠回りにはなるが、反対方向というわけじゃない。
 水田さんの部屋には、以前17インチのモニターを届けに行ったことがある。2DKだが、女らしく整理整頓の行き届いた部屋だ。愛美の部屋とは、大違いだ。
 近くの空き地に車を停めて、水田さんの部屋のチャイムを鳴らした。
 「はあい。どなた?」
 「桜木です。モデムを届けに来ました」
 「わざわざすみません。どうぞ、お上がりになって」
 「失礼します」
 玄関からダイニングキッチンを抜けると、6畳の部屋の真ん中に、カバーの外されたタワー式のコンピューターとモニターがデンと置かれていた。
 「カードモデムは取り外してあるわ」
 「一応、全部チェックしてみましょう」
 ぼくは、マザーボ−ド、カード類、ハードディスク、ケーブル類をチェックした。
 「問題ないですね。じゃあ、モデムを取り付けてみましょう」
 「お願いします」
 すべてを接続して、コンピュータのスイッチを入れた。ウィンドウズの初期画面は問題なく現れた。モデムも、ウィザードが立ち上がって、認識してくれたようだ。
 「ここまでは、うまくいくのよね」
 「カードモデムが原因なら、これからが問題ですね」
 「そう、そう」
 「ダイアルアップの設定は大丈夫ですね」
 「大丈夫と思いますけど」
 「念のため、ここも見ておきましょう」
 すべて問題なし。TCP/IPの設定も大丈夫、ダブりもない。インターネットエクスプローラーを立ち上がると、スムーズに立ち上がった。
 「これでいいでしょう。しばらく使ってみて、支障がなければ、いいと思います」
 「ありがとう。助かったわ」
 「56Kを買うときには、ぼくの店でお願いしますよ」
 「もちろんよ。ところで、桜木さん、夕食まだでしょう?」
 「はい。これから、帰りに何処かで食べようと思ってます」
 「お礼と言ってはなんだけど、ここで食べていかない?」
 「えっ!? いいんですか?」
 「無理言ってるから、お食事くらいと思って作っておいたの。是非食べていってください」
 「分かりました。ご馳走になります」

 芋の煮っ転がし、ほうれん草のお浸し、刺身の盛り合わせ、豆腐のみそ汁。久しぶりにおふくろの料理を食べたような気がした。
 「料理、上手なんですね」
 「そうですかあ」
 水田さんは、汚れ物を洗いながら、嬉しそうな返事を戻してきた。水田さんは、もの凄く細い。足などは、あれで、よく立っていられるなと思うほど細い。細いけど、出るべき所は出ている。さっき、コンピューターのカバーを付けながら、横にいた水田さんをちらりと見ると、結構大きな谷間が覗いていた。
 そんな水田さんの後ろ姿を見ていると、むらむらしてきた。後ろから抱きしめたりしたら、どんな反応を見せるだろうかななんて思っていた。
 「桜木さん、おいくつ?」
 「おいくつって、年のことですか?」
 「そうよ」
 「25ですけど」
 「じゃあ、年下なんだ」
 「あれ!? そうなんですか? でも、そんなに変わらないでしょう?」
 水田さんは、ぼくよりふたつ三つ年上だと想像している。しかし、ちょっとしたお世辞のつもりでそう応えたのだ。
 「お世辞が上手いのね。ご馳走して上げたお礼かしらね」
 「そんなことはないですよ」
 「いくらなんでも、25には見えないでしょう。30過ぎた女を捕まえて」
 「えっ!? 水田さん、30越えてんですか?」
 「あら、しまった。言っちゃった。桜木さん、みんなには黙っててよ」
 水田さんは、エプロンで手を拭きながら、恥ずかしそうな顔をして、ぼくのそばへ戻ってきた。
 「言いませんよ。言う必要がないですから」
 「わたしのこと、いくつだと思っていたの? さっきの驚きようだと、若く見られていたみたいだけど」
 「27,8だと・・・・」
 「ありがと。そう言うことにして置いて」
 「分かりました」
 水田さんは、エプロンを外すと、ぼくのそばに座って、食後のコーヒーを一口含んだ。その口元を見ていたぼくは、水田さんの唇を奪いたい衝動に駆られた。しかし、そこはじっと堪えた。
 「桜木さん、わたしって、魅力のない女かしら?」
 「そ、そんなことはないですよ」
 ぼくの心を見透かされたようで、どきりとした。
 「女のわたしから、誘っちゃいけないかしら?」
 思ってもみなかった。彼女の方から、誘ってくれるなんて。
 「い、いいんですか?」
 「桜木さんが、いやでなかったら」

 そう言うわけで、ぼくは水田さんと寝てしまった。細い体に似つかわしくない大きな胸には驚かされてしまったけど、女としての機能も最高だった。ぼくも数多くの女と寝てきたけれど、水田さんほどの女はいないと思った。
 もう一度、いや、何度でも水田さんとやってみたいと思ったのだけど、水田さんは、ひとりの男に縛られるのがイヤなのだそうだ。だから、30過ぎても独身を通していると言った。
 「一度寝たら、自分のものだと思う男が多いから困るのよね」
 以前別れた男の話をしながら、ぼくにそう言った。だからぼくは、いつまた会えるかという話しはしないで、ご馳走様とお休みだけを言って、水田さんのマンションを出た。

 マンションに帰り着いたのは、午後11時。シャワーを浴びて、ベッドに入った。
 明日は、・・・・明日は、おそらくまた、汗まみれで起きることになるんだろうなと思いながら、眠りについた。