第3章 橋本愛美

 くしゃん。くしゃみが出た。寒い。わたしは、パジャマだけで眠っていた。ぶるぶると寒気がする。
 起き上がってみると、クーラーが付けっぱなしだった。
 「どうして寝る前に消さないのよ! せめて、タイマー入れてよね」
 クーラーのスイッチを消す。しばらく、丸くなってタオルケットに包まっていたけど、寒さはなかなか治まらない。
 腰が重い。生理のせいだ。嫌だ。嫌だ。生理なんて嫌だ。女なんだから仕方ないけど、生理だけは逃げ出したい。でも、考えてみれば、一日逃げ出せたんだから、よしとするか。

 それにしても寒い。わたしは、ベッドから抜けだしてバスルームへ向かった。生理は始まっているけど、体を温めなければ、風邪を引きそうだ。
 裸になって、熱いお湯を頭から浴びる。お湯を浴びているというのに、体は芯から冷えているようで、震えはなかなか治まらない。腹が立つなあ。
 どれくらいそうしていただろうか? ようやく震えが止まり、体が温まってきた。どうやら、風邪は引かないですみそうだ。

 体を拭いて、ナプキンをあて、髪の毛をタオルで包むと、すぐに服を着込む。少し厚手のTシャツにジーンズを穿いた。やっと人心地が付いた。
 冷蔵庫から牛乳を取り出して、カップに注ぎレンジでチンする。牛乳が温まるまでの間に買い置きしていたグレープフルーツを取り出す。ラップをしていない。これ、高かったのに、台無しじゃない!
 そんなことを心の中で思いながら、牛乳の入ったカップとグレープフルーツをテーブルの上に置く。熱い牛乳をグッと飲むと、体の芯から温まって来た。
 うん、このグレープフルーツは美味しい。やっぱり高かったことはある。切り口がこんなに乾燥していなかったら、もっと美味しかったろうに、ちゃんとラップをかけていればねえ・・・・。

 ドライヤーで髪を乾かす。めんどくさいなあ。切ってしまおうかなあ。いつもそう思うのに、決断できない。わたしが髪を切ったら、男か女か分からなくなってしまいそう。まあ、出るところは出てるし、くびれるところはくびれているんだけど・・・・。

 牛乳の残りでセデスを一服飲んだ後、コップとお皿を洗って、歯磨きをした。さあ、今日も頑張らなくちゃ。
 リップクリームを塗って、バッグを探す。どこだ? どこに置いてある? わたしはいつもはドレッサーの前に置いておくのだけど、見あたらない。ドレッサーの上に置いてあった眼鏡を掛けて部屋の中を探す。
 あった。玄関の靴箱の上だ。こんな所の放り出して!
 バッグの中を点検する。財布に免許証。システム手帳。ハンカチ、ティッシュ。ナプキン一個。ナプキンを2個補充した。これでいい。

 部屋を出ると、隣の木村さんのご主人が通りかかった。この人、パンチパーマをしたごつい人で、見かけはまるでやくざみたいで、嫌いだ。まあ、やくざみたいじゃなければ、刑事はやってられないだろうなと思う。
 「お早う」
 えっ!? 珍しく、挨拶してきた。いつも、黙って通り過ぎるのに・・・・。
 「お早うございます」
 返事しなくちゃいけないと思って、わたしは挨拶を返した。木村さんは、はにかむようにわたしの顔を見ると、そのまま階段を駆け降りていった。どういう風の吹き回しだろうか? あいつのせいだろうか? 木村さんの気を引くような真似はしてないだろうな!?
 木村さんは、表通りへ向かって歩いていく。刑事と言ったら、機動力が必要だろうに、木村さんは何故かバス通勤している。分からない人だ。

 今日も道は混んでいない。車はスムーズに流れているけど、軽は馬力がないからイヤだ。それに、このムーブって車、雅也がしきりに薦めるから買ったけど、スタイルがわたしの好みじゃない。でも、税金が安いし、買い換えるお金がもったいないから、我慢して乗っている。

 南部ショッピングセンターが見えてきた。駐車場の入り口で、ガードマンが誘導している。やったあ、篠田君が居た。篠田君て可愛いんだ。雅也は、ホストクラブのホストみたいなヤツのどこがいいんだと言うけど、わたしの好みのタイプだ。一度デートしてみたいな。でも、なかなかそれが言いだせない。
 篠田君にデートの誘われたら? もちろん一も二もなく付いていくよ。
 「お早う、篠田君」
 「お早うございます」
 「今日も頑張ってね」
 「ありがとうございます」
 今日も篠田君と話しができた。今日一日がうまくいきそうな気がする。浮き浮きしている自分が分かる。生理痛も吹っ飛んじゃいそう。

 今日は、わたしが一番乗りだ。まだ、どのテナントも準備を始めていない。シャッターが重い。店を準備する中で、これが一番辛い。電動だったらいいなといつも思う。
 「お早う、愛美ちゃん。手伝ってあげるよ」
 「あ、お早うございます。すみません、いつも手伝って貰って」
 「いやいや、これくらい、お安いご用だ」
 写真屋さんの伊藤さんが、シャッターを上げるのを手伝ってくれた。伊藤さんは、ほとんど毎日こうして手伝ってくれる。どうも、わたしが店を開ける時間を見計らって、待っているようだ。中年男性は、若い女が好きだ。隙あらばと思っているのだろう。とは言っても、伊藤さんは、わたしの体を触ったりは、決してしないから、その点は安心している。目つきがいやらしくなかったら、もっと付き合いやすいのになと思う。

 昨日の売り上げは、予想以上に多かった。ショッピングセンターの大売り出しの効果は絶大だ。今日も頑張らなくちゃ。
 午前中に胡蝶蘭の鉢植えが三つも売れた。白が2つに、薄紫が1つ。お見舞用に病院へ持っていくらしい。わたしのお店は、わたしひとりでやっているから、配達は夕方になりますと言うと、お客さんたちは、大きな鉢植えをかかえて持って帰った。これだけでも、もう店を閉めてもいいくらいだ。でも、借金がまだ残っているから、まだまだがんばらなくっちゃ。

 今日も普段の倍以上の売れ行きだ。大売り出し様々だ。午前中だけで、昨日の売り上げを突破した。
 お客さんがひっきりなしにやってきて、昼食を摂る暇もなく、一息ついたときには、午後4時を回っていた。
 「伊藤さん、ちょっと、お店、お願いします」
 「ああ、いいよ。トイレを長く我慢すると、膀胱炎になってしまうよ」
 伊藤さんって、見かけによらずいい人なんだけど、ほんと、一言多いんだから・・・・。
 「5分で戻りますから」
 トイレも我慢していたけど、ナプキンも代えなくちゃいけない。こんなこともあろうかと、多い日用をしてきたから、何とか間に合ったみたいだ。
 今日3回目のセデスを飲む。何とか我慢できるけど、胃が悪くなりそう。ああ、やだ、やだ。男に生まれれば良かったよ。そしたら、こんな煩わしいことしなくていいのに・・・・。

 すっきりして、店に帰ると、お客がまた来ていた。今日はもう勘弁してよ。こんなこというのは、贅沢というものだろうけど、そう言いたくもなる。
 「この鉢植えください」
 「はい、1280円です」
 袋詰めにしていると、スーツを着た中年の男性が恥ずかしそうな顔をして店に入ってきた。しばらくうろうろして、わたしに注文した。
 「すみません。このバラ、全部いただけますか?」
 「全部ですか!?」
 「予算に収まればなんだけど・・・・」
 「おいくらですか? ご予算は?」
 「1万円なんだけど」
 1万円!! まっ赤なバラを誰にあげるのかな? 奥さま? それとも彼女かな?
 「ちょうどそれくらいと思いますけど・・・・」
 「じゃあ、全部」
 「バラだけでよろしいんですか?」
 「ああ、バラだけでいいよ」
 「メッセージ、よろしかったら、そのテーブルにあるカードに書いてくださいね」
 その男性は、テーブルの上に置かれたメッセージカードを手に取って眺めている。カードは、誕生日用と、お見舞い用、それに、何にでも使える万能のカードがある。彼はどのカードを使うだろうか? わたしは、バラの花をラッピングしながら、興味津々で眺めていた。
 しばらく躊躇っていた彼は、カードを書き始めた。カードを書き終わると、裏にして書いた内容が見えないように隠している。どうせ分かるのに、可愛い人だなと思った。
 「9975円です。ちょうど1万円に収まりましたね」
 「少しくらいなら、オーバーしてもよかったんだけどね」
 メッセージカードには、『今日までありがとう。明日からもよろしく』と書かれてあった。
 「奥さまにですか?」
 「結婚20周年なんだ」
 はにかみながら、彼はそう答えた。
 「喜ばれますよ」
 「そうかな? 無駄遣いしてって、怒られそうな気がするよ」
 「そんなことないですよ。こんな素敵な花束を貰って、喜ばない女の人はいないですよ」
 「そうかな? ほんとに喜んでもらえるかな?」
 花束を受け取った奥さまが喜んでいる場面を想像しているのか、彼は嬉しそうな笑顔を浮かべた。
 「じゃあ、ありがとう」
 「ありがとうございました」
 花束を渡すとき、微かに消毒薬の臭いがした。近くにある病院の先生だろうなと思った。そうでなかったら、いくら結婚20周年でも、花束に1万円も使いやしないだろう。
 そんなことを思いながら、まっ赤なバラの大きな花束を抱えて、ちょっと恥ずかしそうに歩いていく後ろ姿を見ていた。
 いつの日か、あんなバラの花束を、わたしに送ってくれる人が現れるんだろうか? 雅也? あいつはそんなことしないだろうからねえ。

 午後6時の閉店までに、売り上げは普段の3倍になった。毎日こんな具合だったら、借金もなくなるし、すごく貯金が出来るのになあと思う。
 卸屋さんに電話した。明日は、大売り出しの最終日だから、まだまだ売れるだろう。いつもより少し多めに注文して置いた。明日は、卸屋さんが花を届けてくれるから少し早く来なければいけない。

 店のシャッターを閉め、駐車場でムーブに乗り込む。車の中は蒸し風呂になっていた。窓を全開にして車を走らせ始めた。
 駐車場の出口で、きょろきょろ探してみたけれど、篠田君は、もう上がっているのか、見渡すあたりにはいなかった。ちょっとがっかり。明日は会えないだろうから、残念だなあ。

 コンタクトにしたら、わたしも結構いいって、あの男、本木が言ってたなあ。どうしよう。帰り道、田中眼科と言う看板が見えたけど、決心がつかずに通り過ぎた。またにしよう、またに。

 たまには外食したいけど、今晩の夕食は、チャーハンにすることにした。
 冷蔵庫から、冷凍して置いためしの固まりとチャーハン用のミックス野菜を取り出す。めしをレンジに放り込んで解凍のスイッチを入れ、フライパンに油を敷いて暖める。まずミックス野菜。袋を破ってフライパンで炒め、塩こしょうして味付けをする。解凍されためしを加え、よくかき混ぜてできあがり。
 インスタントの卵スープを作って、夕食の出来上がりだ。
 ちょっと味が甘かったかな? チャーハンにお醤油をかけて、食す。まずまず。
 あああ、誰か、フランス料理にでも誘ってくれないかなあ。篠田君だったら、最高なんだけどなあ。

 食器を洗ったあと、簡単にシャワーを浴びて汗を流した。生理中でも、シャワーは絶対浴びる。汗まみれのままでベッドに入りたくないもの。
 夜用のナプキンをあてて、パジャマを着て、ラジオのスイッチを入れた。このDJ、朝も昼も出ていたけど、いつ休むんだろうなと思う。
 本棚から、赤川次郎の三姉妹探偵団3を取り出して、しおりの入ったところから読み始めた。赤川次郎は読みやすいから大好きだ。
 タンスに凭れて本を読んでいると、ふとビデオデッキの上にあるテープが目に入った。手に取ってみると、『追跡者』と書かれていた。こんなもの、面白いのかしら? 返却期限は、来週だから、暇があったら見てみよう。

 午後11時半。眠くなったので、本の間にしおりを挟んで本棚へ戻した。いくら面白くても、眠くなったら寝る。それがわたしのポリシーだ。
 お腹を冷やさないようにタオルケットをかけて、目をつぶってから、思い出した。書き置き、書き置き。起き上がって、テーブルの上にメモを置いた。コレで大丈夫。