愛美からの電話が切れてしばらく経った頃、ドアがノックされた。愛美が電話で言っていた、隣の大杉良子が食事を作りに来てくれたのに違いない。
「はあい、ちょっと待ってください」
ぼくは、大急ぎで普段着を着ると、ドアを開けた。
「朝早くから申し訳ありません。新聞代の集金に上がりました」
「あ、ああ。新聞代ね」
ぼくは、ちょっとがっかりした。
「昨日も、一昨日も夕方伺ったんですけど、不在でしたもので、朝早くから悪いと思ったんですけど・・・・」
「あ、いや。いいですよ。いくらですか?」
新聞代を支払いながら、隣を覗いてみたけれど、大杉良子が出てくる様子はない。朝飯から作りに来ないよな。普通は夕飯だよな。そう思いながら、ドアを閉めた。
今日は仕事はオフ。普段着を脱いで、パジャマに着替えるともう一度ベッドに戻った。午前10時頃までベッドの中でうじうじしていた。
腹が減って、やむなく起き出し、近くのファミレスまで出掛けていって、昼間からステーキランチを食った。ここのステーキはまずまず。
マンションへの帰り道、大杉良子を見かけた。めかし込んで、人待ち顔で道路に立っている。声を掛けようとして、待てよと思い、隠れて見張っていた。
5分ほどして、大杉良子は、濃紺のセドリックの中へと消えていった。食事を作りに行ってやると言ったらしいのに、あれは口から出任せだったのだろうか? オンボロセリカより、セドリックの方がいいってことだろうか。どうも美人の女は信用できない。
走り去っていくセドリックを見ながら、おやっと思った。あのセドリック、見覚えがある。番号を確かめる。1110。確か、あいつのセドリックだったような気がするが・・・・。
大杉良子は、やっぱりやってこなかった。二度と車には乗せてやらないぞ。そう決心するが、あんまり大人げないなと思った。
午後11時頃、車の停まる音がした。窓からこっそり覗いてみると、あのセドリックに送られて、大杉良子が帰ってきた。彼女は相手の男とキスしていた。男の顔は、・・・・見えない。あいつだと思うのだけど・・・・。
濃紺のセドリックの持ち主を確認しようと思ってはいるのだけど、仕事が忙しくなって、その暇がなかった。
あれから、水田裕美ともう一度寝た。しかし、もう会ってくれそうもない。3回で、ぼくは飽きられてしまったようだ。
愛美から、時々電話があるが、篠田のことは話題にならない。愛美は隠し事が下手だから、篠田と付き合っていれば、ぼくにはすぐに分かるのだけど、そうではないようだ。ぼくは、ちょっと安心している。
そうこうしているうちに10日が過ぎた。
ぼくは普段は午後11時半頃にベッドに入る。しかし、この日はちょっと立ち寄った本屋さんで、ミステリー小説を仕入れてきて、夕食がすんだ後に読み出したのがキリが付かずに、午前0時を廻っていた。枕に凭れ、本を片手にコーヒーを飲んでいた。
その時、突然視野が変わって、目の前に篠田の顔が現れた。何だこりゃ。そう思うまもなく、股間に痛みを感じた。篠田が、ぼくの上で腰を動かし始めた。篠田は裸で、ぼくには胸がある。ぼくは愛美になっていた。
愛美が、篠田とのセックスの真っ最中に、逃げ出したらしい。どうしてだよ!!!
「痛い。痛いわよ」
「すぐに気持ちよくなるって」
篠田のアルコール臭い口臭がした。ぼくは、時々愛美になってセックスしているから分かるけど、いつもはこんなに痛くない。恐らく、篠田は前戯もほとんどしないままにつっこんきたのに違いない。
気持ちよくなるどころか、何分もしないうちに篠田は、いってしまった。しかも、すぐにぼくの横でグウグウ鼾をかいて眠ってしまった。
ぼくは、シャワーを浴びて服を着ると、ホテルを抜け出した。顔を見られないように、通りを歩き、表通りでタクシーを拾って愛美のマンションへ戻った。
部屋へ入ると、すぐにぼくのマンションへ電話した。
「何だよ! 愛美!!! どういうつもりだよ」
「ごめん。ごめんなさい」
「いったい、どうなってんだよ」
「話すわ」
「ことによっては、許さないからな」
「分かってるわ。今日、篠田君に夕食に誘われたのよ」
「ほう、それで?」
「東陽ホテルでフランス料理をご馳走になって、ラウンジでカクテルを飲んだの」
「はい、はい、それで」
「わたし、かなり酔ってしまって」
「それは分かるよ。まだかなり酔ってるからな」
今、ぼくは愛美だ。この調子だと、かなりもかなり飲んでいることが分かる。
「篠田君に誘われるままに、ホテルの部屋について行って・・・・」
「抱かれたって訳だな。そのまま抱かれれば良かったのに、どうして逃げ出して、ぼくに押しつけたんだよ!」
「雅也に押しつけるつもりはなかったの。だけど、結果的にはそうなっちゃって」
「逃げ出したのは何故なんだよ」
「あんなに優しかったのに、部屋に入ると豹変したのよ。篠田君が」
「そうだろうな」
「分かってたの?」
「そんな感じだと思ってたよ。それで?」
「ぼくとやりたいんだろう、早く脱げって・・・・」
「篠田とやりたかったんじゃなかったのか?」
「それはそうだけど、そんなこと面と向かって言わなくたって・・・・」
愛美は涙声になっている。
「そりゃ、そうだな」
「それに・・・・、シャワーも浴びないで、汚いんだもの」
「それは納得」
「帰るって、言ったら、無理矢理脱がされちゃって、・・・・イヤだって、叫んだら、入れ替わっちゃったのよ」
「愛美も、男を見る目を付けなきゃだめだな」
「人には言えないでしょう?」
「そんなこと、今言える立場かよ」
「ご、ごめん」
「まあ、いいや。済んだことだ。水に流してやるよ」
「穴埋めはするから」
「ほんとだな」
「・・・・ほんとに」
「よし分かった。楽しみにしてるよ」
「何させるつもりなの?」
「内緒、内緒。その時になったら、分かるさ」
「意地悪」
「疲れたから、寝るよ。また、明日電話する。いいな」
「ええ、じゃあ」
愛美に何をさせようかな? ぼくは浮き浮きしていた。それにしても篠田って男、一度ぎゃふんと言わせてやらないといかんな。そう思いながら、ベッドの中で眠りについた。
目が醒めて、まだ愛美のままだったから、ビックリした。元に戻っていない!! しかし、冷静になって考えてみると、入れ替わってから、まだ6時間しか経っていない。元に戻るのは、今日一日が過ぎてからだ。
電話が鳴った。出てみると、篠田だった。
「ごめん、愛美。昨日は、ちょっと酔い過ぎちゃって、君に変なことしなかった?」
愛美!? 呼び捨てにするような仲じゃないだろうに!
「変なことは、しなかったわよ。前戯もなしで、ひとりで行って、勝手に寝ちゃっただけよ」
「わ、わ、わ、わ。ご、ごめん。あんなに酔ってなかったら・・・・」
「酔ってるから、本性が出たのよ。もう電話しないで! いいわね」
「お願いだよ。許してくれよ」
「あなたには、大杉良子って、マネキン人形がいるでしょう? いろいろ手を出すのはやめにしたら?」
「ど、どうしてそれを・・・・」
「わたしだって、馬鹿じゃないのよ。じゃあね」
電話を切ってしまってから、もっと虐めてやれば良かったのにと後悔した。
今日一日、愛美として暮らさなければならない。ぼくは、シャワーを浴びて、コーヒーを飲むと、出掛ける準備をした。
愛美は、スカートを数着仕入れていた。篠田に気に入られるために買い込んだようだ。篠田がいいやつだったら、愛美はどうするつもりだったのだろうか? ぼくと別れるわけにはいかないのに。
今日も篠田は、駐車場の整理をやっているだろう。ぼくは、一番派手な服を選んで、化粧も入念にやった。
出掛けようとしていると、電話が鳴った。愛美からだった。
「どうして元に戻らないの?」
「まだ24時間経ってないよ」
「あっ、そうか」
「愛美! ぼくとして、仕事に頑張ってくれよ。こっちの方は上手くやっておくから」
「分かった。お願いね」
「じゃあな」
駐車場には、篠田がいて、許しを請うような目で見ていたが、ぼくはしらん振りをして、店の中へ入っていった。
昼休み、篠田が、店にやってきたが、口をきいてやらなかった。篠田の意気消沈した顔を見て、少し気分が晴れた。
それにしても篠田のやつ。大杉良子って子がいながら、年上の愛美にご執心なんて。変わったやつだよ。
夕方店を閉めていると、またもや篠田がやってきた。
「橋本さん、この通りだ。許してください」
篠田は、ぼくの前に土下座して謝るのだ。
「橋本さん、正直に言うけど、ぼくはかなりの女を泣かせてきた。だけど、今度は違うんだ。ぼくは、本気で橋本さんに惚れたんだ。お願いだよ。許すって言ってよ」
へえ、篠田は本気らしい。しかし、それなら、あんなことしなければいいのに。馬鹿な男だ。
「許すも許さないもないのよ、篠田君。謝るのはわたしの方なの。黙ってたけど、わたしには、婚約者がいるの。あなたとは火遊び。ごめんなさい」
「婚約者!? そんなのとは別れてくれ! お願いだよ。ぼくと結婚してくれ」
「結婚! だめなの。わたしとその人は、一生別れられないの。これは、運命なの」
ボロボロ涙を流す篠田を置いて、ぼくは店を離れた。
料理は、ある程度できる。時々愛美になるからじゃない。元来ぼくは、料理がすきなのだ。ただ、ぼくは男子厨房に入らずの主義だから、進んで料理することはない。だけど、今日は自分で料理を作ってみたくなった。
スーパーに寄って、きゅうり、レタス、トマトなどの野菜とともに、鶏肉と豆腐、あぶらげを買った。何を作るって? 野菜は勿論サラダ。鶏肉は、トリ天にするつもり。それに、豆腐とあぶらげの味噌汁だ。サラダのドレッシングは、冷蔵庫にあると思うし、こねぎもあるだろう。
鼻歌を歌いながら、料理を作った。すごく上手くできた。ふと、愛美を呼ぶ気になった。今、午後7時前。まだ、店か? それとも、車の中か?
「もしもし、わたし、橋本と言いますけど、桜木さんは、まだおられますか?」
「少々お待ちください」
お待ちくださいってことは、まだ店にいるってことだ。ぼくは、電話を抱えてしばらく待った。
「モシモシ、桜木です」
「わたし、愛美」
「ああ、愛美。どうした?」
ぼくが愛美と名乗っても、愛美は戸惑うことはない。
「夕食うちに来ない? 上手にできたから、食べさせてあげるから」
「へええ、作れるの?」
「うまいもんよ」
「行きたいけど、本木ともう飲む約束したんだ。また今度、ご馳走になるよ」
「そう。飲み過ぎないでね。二日酔いで泣くのは、わたしなんだから」
「分かってるよ。じゃあ」
「じゃあね」
愛美に断られて、ぼくは仕方なく一人で食事した。ひとりで取る食事は味気ない。そろそろ・・・・。
愛美はクーラーが嫌いだ。クーラーをかけっぱなしにして寝ると、すぐに風邪を引いてしまうからだ。ぼくは、愛美が朝起きたときのために、クーラーは1時間で切れるようにセットして、ベッドの中へ入った。明日の朝には元に戻れる。
目覚まし時計のやかましい音で目が覚めた。目を開けないまま目覚し時計を止めてから気がついた。この目覚まし時計の音は、ぼくの部屋のものじゃない! 愛美の部屋のものだ。キティーちゃんの目覚ましの音だ。
目を開けて見回すと、ぼくはやっぱり愛美の部屋にいた。慌てて体を調べてみた。ぼくは、愛美のままだ。今朝は、ぼくに戻っているはずなのに・・・・。
愛美に電話しようとしたら、玄関でドアがどんどんと叩かれた。
「愛美! 愛美! 開けてくれ」
ぼくの声だ。ぼくになった愛美がやってきたのだ。ぼくは、急いでドアを開けた。
「どうしたんだろう? 元に戻らないよ」
「中に入って、ここじゃ、外に聞こえるわ」
「う、うん」
愛美は、青ざめている。ぼくだって。
「こんなことはなかったよね」
「一度もなかったわ。24時間たったら、自然に元に戻っていたのに・・・・」
愛美はぼくになっているけれど、ぼくとふたりだけのときは、女言葉を使う。ぼくも、そうだ。愛美の姿で、男言葉を使うのだ。
「おかしいなあ」
「どうしてかしら?」
篠田と寝たのが原因だろうか? ぼく以外の男と寝ると元に戻らなくなるのかも・・・・。
「愛美、おまえ、ぼく以外の男と寝たのは初めてじゃないよな」
「・・・・違うわ」
初めてだと答えてくれると思っていたのに、違うと言われて、ちょっとショックだった。だけど、ぼく自身、他の女と寝ているんだから、文句も言えない。ただ、そうすると、篠田と寝たのが原因と考えたのは、間違いのようだ。
「じゃあ、篠田としたのが原因じゃないな」
「そう思うわ」
「それじゃあ、原因は何だよ?」
「わたしに分かる筈がないじゃないのよ」
「それも、そっかあ」
二人して、床に座って考え込む。考えたって、分かる筈がなかった。
「元に戻るだろうか?」
「戻らないかもしれないわね」
「愛美、恐ろしいことを、簡単に言うなよ」
「でも、その可能性が高いんじゃないの?」
「どうしてだよ」
「あの薬よ。永遠に別れないで一緒にいるためには、入れ替わったままのほうが、いいわけでしょう?」
「その事は以前話したよね」
「うん。わたしたちが、別々に好き勝手やってるから、それじゃあいけないと言うわけで、元に戻らなくなったんじゃないかしら」
「て、ことは・・・・」
「もう元に戻らないってことよ」
「そんなあ・・・・」
「そろそろ、潮時ってことかしら?」
「潮時って?」
「一緒に暮らせって」
「結婚しろってこと?」
「そう」
「そうか・・・・」
愛美と結婚することは別に嫌なわけではない。初めて会ったときから、ずっと好きなんだから。
「結婚したら、元に戻るかな?」
「うーん。それは有り得るわね」
「じゃあ、話しは決まった。結婚しよう」
「雅也、一応、親の承諾を得なくちゃ」
「そんなのいるの?」
「やっぱ、ちゃんと手順を踏んだ方がいいと思うのよね」
「それも、そうか」
「雅也は、今度の水曜日、休みでしょう?」
「ああ」
「火曜日に店を閉めるとき、水曜日は臨時休業って貼り紙を出して休んで、家に行きましょう」
「分かった。そうするよ」
ぼくは毎日、愛美として花屋勤め。朝目覚めると、元に戻っていないかと一番に確かめるのだけれど、まったく元に戻る様子はなかった。愛美として生きることには、異存はない。ただ、生理がねえ。子供を産んだら、生理痛はなくなるって聞いたけど・・・・。
水曜日になった。ぼくたちは、別々に実家へ戻った。ぼくたちの実家は、今いるところから、国道を車で40分ほど北上した隣の市にある。
「ただ今」
「あら、愛美。帰るのは、来週じゃなかったの?」
「ちょっと用事があって。お父さん、いつ帰る?」
「お父さんなら、うちに居るわよ」
「えっ!? 今日は休みなの?」
「先週の日曜日、展示会だったのよ。だから、今日は代休」
「そうなの」
愛美の父親は、某自動車会社の営業部長をしている。いつもは週休二日だけど、展示会があると、日曜出勤になって、その代休を取るのだ。
「お父さんに用事なの?」
「うん。後でね」
「何なの?」
「内緒、内緒」
愛美の母親は、訝しげな顔をしている。隣の雅也が、求婚しに来ると知ったら、どんな顔をするだろうか?
今頃、ぼくになった愛美が、ぼくの両親に愛美と結婚したいとうち明けている頃だ。反対はしないと思うけど、心配になる。
二階の部屋で、今か今かと待っていると、1時間ほどして玄関のチャイムがなった。
「桜木です。お邪魔します」
ぼくの父の声だ。どうやらふたりでやって来たようだ。父は、ぼくたちの住んでいる街の大きなデパートに勤めている。今日は定休日で、家に居ることは分かっていた。
愛美の両親が、応接間でふたりの話しを聞いているようだ。しばらくして、ぼくに声がかかった。
「愛美! ちょっと、下に降りてきなさい」
ぼくは、とんとんと階段を降りて、応接間へ顔を出した。
「愛美、雅也君がおまえを貰いに来たんだが・・・・」
愛美の父親が、神妙な顔をしてそう言った。
「許してくれるんでしょう?」
「おまえがそのつもりなら、お父さんとしては、異存はないが・・・・」
「じゃあ、決まりね。雅也、許してくれるって」
「ありがとうございます、お父さん。愛美ちゃんを必ず幸せにしますから」
上手いもんだね、愛美は。ぼくは心の奥で、ほくそ笑んでいた。
「それでは、仲人を決めまして、改めてお願いに参りますので」
「分かりました。お願いいたします」
それで、帰るのかと思ったら、父親同士がふたりで酒を飲み始めた。愛美もそれ加わっている。ぼくは、台所で、愛美に母と一緒に、酒のつまみを作ったり、運んだりした。
「お母さん、安心したわ」
「そう?」
「なかなか結婚するって言わないから」
「時期が来たら、結婚するつもりだったからね」
「雅也君がほかの女と結婚するなんて言ったら、家に火をつけてやることろだったわ」
「ええっ!?」
「あなたたち、高校時代から、関係があったでしょう?」
「あら? 知ってたの?」
ぼくは、とぼけてそう答えた。
「知ってたわよ。母親なんですからね。それくらい分かります」
愛美の母親が、ぼくたちが関係を持っていたのを知っていたなんて思ってもみなかった。だけど、中学生のときからなんて、今更言えなかった。
「もう心配かけないわ」
「早くいい子供を産むのよ」
「はい」
「愛美、あんた、今日はやけに素直ね」
「そうかしら」
「なんか変よ」
「ふふふ」
互いの両親が相談して、秋に結婚式を挙げることになった。ぼくとしては、もっと早くしたかったのだけど、親戚のつごうもあるからと言われれば、反論できない。
ぼくが早く結婚したい理由、それは早く子供を産みたいからだ。子供がほしいってこともあるけど、子供を産んだら、生理痛がなくなるって聞いているからだ。妊娠するまで、あと二,三回はあのつらい生理痛を経験しなければならないかと思うと、気が重かった。