第1章 橋本愛美

 なんて暑いんだ。寝苦しくて、目が覚めた。汗で、髪の毛が額にべったりとくっつき、パジャマもぐっしょり濡れていた。
 枕のそばに置かれたキティーちゃんの目覚まし時計は、6時15分を刺している。起き出すには少し早いけど、シャワーを浴びなきゃ、こんな汗まみれじゃ仕事に行けやしない。
 窓際に置かれたベッドから起き上がって、クーラーのスイッチを入れた。クーラーを入れて寝ればいいのかも知れないけれど、そんなことをすると、たちまち体調が悪くなってしまうから、いつも汗にまみれて寝ている。早く秋にならないかなあ。

 部屋を横切ってバスルームへ向かい、スイッチを入れる。このバスルームは全自動だから、シャワーの栓を廻すと、設定された温度のお湯が出てくる。
 汗で濡れたパジャマとショーツを脱いで、洗濯機に放り込み、ヘヤバンドを外して、バスルームの中に入った。
 シャワーの栓を廻し、頭からお湯を浴びる。ちょっと温めのお湯が、体を流れ落ちていく。気持ちいい!! 髪の毛の汗をシャンプーで流し、ボディーシャンプーで簡単に体を洗って、バスルームを出た。さっぱりした。これで、今日も気持ちよく仕事ができる。

 体を拭いて、髪の毛をバスタオルで包んで、ベッドの枕元にあるドレッサーの前に座った。このドレッサーも、そろそろ買い換え時期だ。
 化粧してないけど、鏡に映った顔は、結構美人だなと思う。ドライヤーで髪の毛を乾かしていると、キティちゃんの目覚ましが鳴った。6時40分、いつもの起きる時間だ。
 長く伸ばした髪の毛は、なかなか乾かない。ようやく乾かして、ブラッシングしてヘヤバンドで髪の毛を束ねたときには7時を回っていた。

 栄養クリームで顔をマッサージしたあと、ストゥールから立ち上がって、鏡を見た。裸のままで、横を向いたり、後ろを向いたりして、自分のヌードを眺めてみる。まあまあのスタイルかな? 胸は自慢するほど大きくないけど、乳首は小さくてピンク色で、つんと上を向いている。ウエストは締まっていて、お尻の格好もいい。
 雅也以外の男が、この愛美に声を掛けないのは、いつもダサイ格好をしているせいだろうか? イヤ、男の見る目がないのだ。

 冷蔵庫を開けて、牛乳をコップに注ぎ、フルーツは何にしようかと、冷蔵庫の中を物色する。グレープフルーツがあった。半分に切って皿に載せ、テーブルに付いた。木でできた椅子の冷たさが、裸のお尻に伝わってくる。
 今日の朝食は、これだけ。このグレープフルーツ、酸っぱいと思っていたのに、思ったより甘い。
 裸のままでいたから、体が少し冷えてきた。クーラーのスイッチを切って、仕事に着ていく服を探す。何着ようかなんて、考える必要はない。女のくせに、そんなにたくさん服を持っていないからだ。

 それにしても、ちょっと腰が重い。それに気分も悪い。壁に掛けてあるカレンダーを調べてみた。先月は22日から。今日は、18日だから、そろそろ生理が始まる頃だ。
 まただよ。参ったな。いつも、いつも、生理の時に・・・・。文句言っても始まらない。準備しておかなければ・・・・。
 女には、どうしてこんな煩わしいものがあるのだろうか? それも一週間近くも。煩わしいだけじゃなく、気分も滅入ってしまう。
 夕方まではそう多くないだろうから、軽い日用でいいだろう。タンスの奥から生理用ナプキンを取り出して、ショーツに貼り付けた。

 ブラはどれも同じベージュ色の同じデザインで、サイズはB70。並べた順番に手前から使う。洗濯したブラは、奥に置くようにしているから、同じものばかり着ることはない。これはショーツについても同じだ。トップバストは、最近計っていないけど、82から変わっていないと思う。
 タンスを探って、淡いベージュ色のパンツを取り出して穿き、上にはゆったりしたTシャツを着た。タンスの中には、これと同じ様なものしかない。愛美は、スカートは嫌いだから一着もない。高校を卒業してから、一度も着たことがない。女の子としては、おかしいのかもしれない。いや、絶対おかしい。

 バッグに、生理用ナプキンの包みをふたつ入れて、部屋を出ていこうとして、ドレッサーの前に戻った。いつもノーメーク。だけど、リップクリームだけは付けて置かなくちゃ。それに、眼鏡。これがないと、裸眼視力0.1だから、運転できない。
 男にもてないのは、着ている服がダサイせいもあるけど、この眼鏡がいけないな。牛乳瓶の底のような眼鏡が。鏡に映った顔を見ながら、そう思う。コンタクトにすれば、かなり違うのかもしれない。しかし、黙ってコンタクトに変えるわけには行かない。

 部屋の鍵を締めていると、隣の木村さんのご主人も出てきた。
 「お早うございます」
 「ああ、お早う」
 木村さんのご主人は、ぶっきらぼうに、そう返事した。もう少し愛想良くしたらいいのになと思う。若い女の子と話すのが嫌いなのだろうか?
 木村さんの後を追うように、階段を降りていった。木村さんは、バス通勤だ。そのまま、表通りへと向かって歩いていく。
 8時に家を出て会社に間に合うのかなと、いつも思っていたが、木村さんの会社は、9時半出勤なのだそうだ。渋滞する時間を避けているらしい。木村さんは、車じゃないから、渋滞はそんなに関係ないらしいけど、朝、ゆっくり寝ていられるから、いいわと木村さんの奥さんが言っていた。奥さんにしてみれば、ご主人の出掛ける時間に合わせて、朝早く起きて、朝食の準備をする必要がないから、確かにそうなのかも知れない。

 ぼくは、裏の駐車場へと向かった。車は、銀メタのムーブ。ぼくは、このムーブが結構気に入っている。何が気に入っているかと言えば、勿論スタイルだ。よく似た車はあるけれど、ムーブが一番だと思う。

 市内向けの車は混んでいるけど、ぼくは反対方向に走っているから、渋滞することもない。
 マンションを出て、15分。ぼく、橋本愛美の働く職場が見えてきた。
 「お早うございます」
 ショッピングセンターの駐車場の入り口に立っているガードマンが挨拶してきた。彼は、篠田という、今年大学を出たばかりの若い男だ。銀行員になりたかったらしいが、就職口がなくて、今はガードマンをしていると言っていた。今のような不況では、仕事があるだけでも御の字だとも言っていた。
 「ああ、お早うございます。今日もいい天気ですね」
 「そうですね。暑くなりそうで、外は大変ですよ」
 「外には冷房がないですからね。頑張ってね」
 篠田は、笑顔を返してきた。この男、ハンサムには違いないが、何処か馴染めないところがある。デートに誘われても断る一手だ。

 ぼくは、裏の従業員用の駐車場へと車を進めていく。左手にある建物は、DIYの店。ここに行くと、大抵のものが揃う。
 ぼくの職場は、右手の建物の中にある。車を駐車場へ停め、店の中に入った。DIYの店に近い方に、全国チェーンの家電店がある。その反対側に、これまた全国チェーンのスーパーがある。
 ぼくが向かっているのは、北の端にずらりと並んだ、テナントのひとつ、『可愛い花屋さん』と言う名前の、文字通り可愛い花屋だ。右隣に、弁当屋さん、左隣にカメラ屋さん。その隣に洗濯屋さん。お茶屋さんと続く。

 弁当屋さんは、午前10時開店だから、シャッターはまだ締まっているが、中ではすでに弁当作りが始まっている。
 カメラ屋の伊藤さんは、ぼくよりちょっと早く来たみたいで、看板を店の前に出していた。
 「お早うございます」
 「お早う。早いね」
 「早く目が覚めちゃったものですから」
 「ぼくもなんだよ。家にいても仕方がないから、出てきてしまったよ」
 「まあ、そうなんですか。早起きは三文の得だって言いますけど、何かいいことありました?」
 「愛美ちゃんの可愛い顔を見られたよ」
 「あら、ありがとうございます。そんなこと言ってくれるのは、伊藤さんだけだわ」
 「そうかい? 愛美ちゃんは、美人だと思うけどな」
 「何かお礼をしなくちゃ」
 ぼくは笑顔で答えた。
 「お礼なんていらないよ。暇なとき、店に顔を出してくれればいいよ」
 「お安いご用です」
 シャッターの鍵を取り出して開け、シャッターを押し上げた。伊藤さんが、ニコニコしながら、手伝ってくれた。
 伊藤さんは、50過ぎの禿げた小父さんだ。ちょっと目つきがいやらしいけど、お隣同士だから、あんまり邪険にもできない。

 店の奥に架けて置いたエプロンをして、店の準備を始めた。契約で、シャッターのあるところから、50センチまでは、鉢などを出してもいいことになっている。毎日、開店前に、店の奥に締まって置いた鉢を出して並べ、閉店間際に、奥にしまい込むと言った寸法だ。
 開店準備をしていると、大型スーパーの方で、従業員の朝礼が始まった。店長が、今日も頑張ろうとかけ声を掛けている。
 『可愛い花屋さん』の開店準備が整った頃、大型スーパーの玄関が開いた。今日は、大売り出しの初日。お客さんが、目玉商品めがけて、玄関から殺到してきた。このうち何人くらいが、この花屋にやってくるだろうか? 大売り出しの日は、確かに売り上げが多いから、いつもよりは、お客が来るはずだ。

 午前10時頃になって、目的の買い物を終えたお客さんたちが、ぶらぶらとお店にやってくるようになった。
 「いらっしゃいませ。何にいたしましょう?」
 「この鉢植え、いただける?」
 「かしこまりました。消費税を入れて、1575円です」
 小さな鉢植えを、袋に入れて、手渡す。
 「ありがとうございました。また、お願いいたします」
 「すみません。これください」
 別のお客が来た。もうふたりほど、花を見ているお客がいる。忙しくなりそうだ。
 「あのう、お見舞い用の花が欲しいんですけど・・・・」
 「ご予算は、いかほどでしょうか?」
 このショッピングセンターのすぐ近くに、大きな病院がある。病院の中にも、花屋があるにはあるのだけど、品数が少なく、しかも高いから、この店で買っていく人が多い。どちらかというと、そんなお客さんで、この店は保っていると言っても過言ではない。
 お客さんの予算に合わせて花を選び、花の色が映えるようにいろんな色の包装を施し、リボンをする。安い予算で、いかに豪華に見せるかが、腕の見せ所だ。『可愛い花屋さん』は、それが上手いと言うことで評判になっている。つまり、愛美の腕がいいってことだな。

 スーパーの大売り出しの効果は絶大で、今日は忙しい。お客さんがひっきりなしにやってきた。午後1時を少し回った頃、ようやくお客の足が途切れた。ぼくは、隣の弁当屋さんから弁当を取り寄せて、店の奥にある衝立の影で頬張った。
 「伊藤さん、ちょっとおトイレに行ってきますから、お店、お願いします」
 「ああ、いいよ」
 ぼくは、トイレに行って、生理用ナプキンを換えた。ピンク色のシミができている。始まったようだ。だんだんひどくなってくるこの腰の痛さは、立ち仕事のせいではなく、生理のためだ。夕方店を閉めるまで、耐えられるだろうか? 大売り出しは、明後日までだ。稼ぎ時だけど、生理痛があんまりひどければ、お店を休んだ方がいいかもしれないなと思いながら、セデスを一服飲んだ。

 店に戻ると、お客が数人、花を物色していた。
 「いらっしゃいませ。何にいたしましょう?」
 「この鉢植えは、おいくらですか?」
 「えっと、それは、1280円です」
 「まあ、安いのね。頂くわ」
 「ありがとうございます」
 夕方まで、ひっきりなしにお客がやって来て、午後のお茶をする暇もなかった。生理痛もひどくなる一方だけど、次から次へとやってくるお客の相手をしていたら、少し紛れてしまっていた。

 午後5時になろうとしているが、客足は遠退きそうもない。しかし、ぼくは店終いの準備を始めた。
 「あれ? 愛美ちゃん、もう閉めるの?」
 店の前をぶらぶらしていた伊藤さんが、店を覗いた。
 「ええ、ちょっと用事があるものですから」
 「まだお客が来そうなのに、勿体ないね」
 「明日もありますから・・・・」
 「何の用事?」
 関係ないのに、伊藤さんは色々と詮索したがる。ぼくは、嫌な顔を見せないように答える。
 「たまには服でも買おうと思って」
 「ほう。デートかい?」
 「そんなんじゃないです。ただのお洒落です」
 「そうだな。愛美ちゃんは、少しお洒落したほうがいいな。それに少し化粧をすると、うんと綺麗になると思うよ」
 「ホントですか?」
 「うん、うん」
 ぼく自身もそう思うのだが、愛美は化粧したがらないから仕方がないのだ。
 「あら、伊藤さん。お客さんですよ」
 「ありゃ、ほんとだ。じゃあね、愛美ちゃん」
 「また、明日、よろしくお願いします」

 伊藤さんは、店に戻っていった。ぼくは、店の奥で電話をした。相手は、店からマンションへ帰る途中にある眼科だ。二度目のコールで、受付らしい女性の声が返ってきた。
 「はい、田中眼科です」
 「あのう。診察は何時まででしょうか?」
 「午後6時までですよ」
 「今から車でうかがいますけど、5時半頃になりそうですけど、いいでしょうか?」
 「結構ですよ。お名前はなんとおっしゃいますか?」
 「さ、橋本です。橋本愛美です」
 「橋本さんですね。分かりました。お待ちしております」
 「じゃあ、お願いいたします」

 店のシャッターを閉めていると、中年の女性が走り寄ってきた。
 「すみません、もう閉めるんですか?」
 「はい、ちょっと急用で・・・・」
 「お見舞の花束を作って頂けないかしら? 病院の中の花屋さんが閉まっていたものですから」
 腕時計を見た。午後5時5分。簡単な花束なら、まだ間に合う。
 「出来合いのものでよかったら、構いませんけど」
 「そのバスケットでいいわ」
 ぼくは、2500円のフラワーバスケットをその中年の女性に手渡して料金をもらうと、急いでシャッターを閉めた。お客がまた店の中を覗いていたからだ。そのお客は、買う気はなかったようだ。ぶらぶらと電機屋の方へ歩いて行った。

 ぼくは、駐車場へと向かった。車のドアを開けると、熱気が溢れ出てきた。これだから、夏は嫌いだ。窓を全開にして、クーラーのスイッチを入れ、車を発進させた。
 駐車場の出口で、篠田が、汗を拭きながら車の誘導をしていた。
 「お先に失礼します」
 「ああ、お疲れさん」
 篠田は、ぼくの方を振り返らずにそう答えた。

 バックミラーの中の篠田の姿が、ドンドン小さくなっていった。二つ目の信号を左に曲がって、500メーターほど行くと、目的の田中眼科が見えてきた。
 車を駐車場へ停め、受付へ飛び込んだ。
 「遅くなりました。先程お電話した橋本です」
 ぼくは、バッグの中から、保険証を取り出して受付に差しだした。
 「まだ大丈夫ですよ。この問診票に記入してください」
 「はい」
 ぼくは、長椅子に座って、問診票の質問に答えを埋めて行った。
 「橋本さん。中へどうぞ」
 中へ入ると、背の高い女性が、ぼくの渡した問診票を見ていた。ショートカットの、結構美人だ。外の女性とは違う白衣を着ているところを見ると、女医さんのようだ。
 「コンタクトにされたいんですね」
 「はい」
 「じゃあ、そこの椅子に座ってください」
 視力検査だけかと思ったら、眼球の形から、網膜の状態まで検査された。メガネだったら、眼鏡屋で視力検査だけでもいいけど、コンタクトレンズとなると、やっぱり眼科で充分検査しないといけないだろうなと思う。
 「初めての時は、目にごみが入ったような感じを受けますけど、しばらくすると慣れますから」
 そんなことは、言われなくても分かっている。しかし、ぼくは笑顔で答えた。
 「分かりました」

 コンタクトレンズの処方せんを持って、眼科の隣にある、アイ・コンタクトと言う店へ出向いた。
 「すみません、コンタクトお願いします」
 「処方箋をどうぞ」
 「これです」
 特別注文じゃなかったから、在庫があった。コンタクトレンズを受け取り、さっそく付けてみた。よく見える。店の中にある鏡を覗いてみた。うん、この方がグッと美人だ。ぼくは満足した。
 眼鏡はバッグの中にしまい込んで、コンタクトで運転した。この方が格段に運転しやすい。度の強い眼鏡は、視野が極端に狭い。コンタクトにすると、視野が広がって、すごく見やすくなるのだ。

 しばらく走って、とある洋品店の前で車を停めた。この店は古くからある洋品店だが、結構若向きのいい服も置いてある。
 店の中をぶらぶらと見て回った。店の奥で、女主人が、お客らしい女性と話しをしていた。
 「すみません。これ、試着してもいいですか?」
 「いいですよ」
 ぼくは、黒のジャンパースカートを持って、試着室へ入った。パンツを脱いで、ジャンパースカートを着てみた。サイズはいいようだ。試着室を出て、鏡に映してみる。
 「お似合いですよ」
 女主人が近寄ってきて、そう声を掛けた。自分でもそう思う。値札を見た。4800円也だ。手頃な値段だと思う。
 「カード使えるかしら?」
 「勿論使えますよ」
 「じゃあ、頂くわ」
 「ありがとうございます」
 ぼくは、カードで支払いを済ませ、袋に入れて貰ったジャンパースカートを持って店を出た。新しい服を買うと浮き浮きする。

 生理中は、夕食を何にしようかと考えるのが嫌だ。近くのファミリーレストランで、チーズハンバーグを食べた。安い割に、結構美味しかった。

 マンションに帰り着いたのは、午後7時半だった。コンタクトを外して、シャワーを浴びた。湯船に入っても大丈夫だけど、シャワーですませた。髪の毛は、朝洗ったから、洗わない。
 バスルームを出て、夜用のナプキンをあてたサニタリーショーツを穿いて、パジャマを着た。これで大丈夫。文句は言われないだろう。

 コンタクトをケースに入れ、ぼくは部屋の中をうろうろする。どこに隠そうか? いろいろ迷ったあげく、ぼくは、コンタクトの入ったケースを、買ってきたジャンパースカートと一緒に、冬物の服の入ったケースの奥深くに隠した。
 見つからないだろうか? ここなら、大丈夫だろう。

 ファミリーレストランからの帰り、ビデオショップで借りてきた『追跡者』を見た。面白かった。

 午後11時、やり残したことはないか確かめた後、眠りについた。