第5章 次の思いつき

 いつものように午前6時半に目覚めた久美は、慌ててベッドから飛び起きた。
 「北村さんがやってくる」
 コンドームを始末し、ディルドーを隠した。それから汚れたシーツを丸めて洗濯機に押し込んでスイッチを入れた。
 「あとはぼくの体を洗うだけだな」
 もう一度部屋の中を見回して、久美はよしと呟き、浴室へ入った。少し熱めのシャワーを浴びながら、ふと気づく。
 「人工乳房を付けたままシャワーを浴びて良かったのか?」
 すでに手遅れだ。久美はそのまま体を洗った。体を左右に動かすと、大きな乳房がぷるぷると震えた。そんなとき、胸が引っ張られる感触がして、まるで生まれたときからある乳房のように思えた。
 浴室を出て体を拭きながら鏡を見た。
 「ホントに、ぼく自身の乳房みたいだ」
 バスタオルで乳房を拭きながら、おやっと思った。人工乳房の境界が判然としないのだ。人工乳房は、久美の肌よりもやや白目の肌色をしている。ストラップ部分も同じようにやや白めだ。ちょうど、ビキニの水着を着て日に焼いたような形になっているだった。そのあたりに段差があるはずなのだが、回りとほとんど差がないのだ。
 「あれえ・・・・」
 境界部分を探そうとしたが、指にかからなかった。
 「そんな馬鹿な」
 人工乳房を引っ張れば、胸から浮いてくると考えて、人工乳房を掴んで引っ張ってみた。ところが、胸から浮いては来ず、久美の胸が人工乳房に引っ張られる痛みを覚えた。
 「・・・・取れない・・・・」
 久美はパニックになった。
 「嘘だろう・・・・」
 どんなに引っ張っても人工乳房は久美の胸に張り付いたまま離れようとはしなかった。何とかしようと四苦八苦していると、玄関のチャイムが鳴った。時計は午前7時半を少し回ったばかりだった。
 北村が来るには少し早すぎると思ったけれど、他に誰が尋ねて来るというのだろう? こんなに早い時間に宅急便は来るはずがない。
 久美は、バスタオルを胸に巻いて、玄関に行った。
 「ヒサヨシ! まだ寝てるのか?」
 北村の声にホッとして、鍵を開けた。鍵を開けたが、ノブを握って北村が入ってくるのを押しとどめた。
 「何だよ。入れてくれないのか?」
 「他には誰もいない?」
 「あったりまえだろう? 誰を連れてくるって言うんだよ」
 久美は安心してドアを開き、北村が部屋の中に入るとすぐに鍵を閉めた。
 「どうかしたのか?」
 「取れないんだよ」
 「何が?」
 「この人工乳房だよ」
 久美はバスタオルを腰まで下げる。
 「あれ? 寝る前に外したんじゃなかったのか?」
 「・・・・付けたまま寝た」
 マスターベーションして、そのまま眠ったなんて言えなかった。
 「おまえ、馬鹿だなあ」
 「馬鹿はないでしょう? 馬鹿は」
 「馬鹿だよ。付けたままにしていたら、外れなくなるって言っただろう?」
 「そんなこと聞いてないですよ」
 「言ったぞ」
 「聞いてないです!!」
 「言った、言わないって言い争っても水掛け論だ。ともかく一晩付けたままにしてたんだな」
 「うん」
 「困ったぞ」
 北村は腕組みをして悩んだ表情を浮かべた。
 「ホントに取れないの?」
 「ああ。アロンアルファの100倍くらいの力でくっついてるんだ。一晩たってしまったから、無理に剥がそうとすると皮膚が一緒に剥げてしまう」
 「そんなあ・・・・」
 「人工乳房の方を切り取ればいいけど、完全には切り取れないだろうから、二度と裸にはなれないぞ」
 「北村さん、何とかしてくださいよ」
 久美は膝を突いてメソメソと泣き始めた。
 「何ともならんよ。いっそそのまま人工乳房をくっつけて暮らしたらどうだ?」
 「こんな大きな乳房を付けたまま会社には行けませんよ」
 「そうか?」
 「当たり前でしょう?」
 久美は大粒の涙を流して泣き始めた。北村は、そんな久美にカメラを向けてシャッターを押した。
 「北村さん、こんな時によくもそんなことが・・・・」
 「おまえの泣き顔もいい」
 ニヤニヤと笑う北村に、久美の堪忍袋の緒が切れた。回りにあったものを手当たり次第北村に投げつける。北村はそれを避けながらシャッターを押した。
 「馬鹿! 鹿馬! 馬鹿!!」
 「近所に聞こえるぞ」
 「・・・・もう。写真なんか撮ってないで、これを外す方法を考えてくださいよ。北村さんが作ったんでしょう?」
 「わかった、わかった。外す方法を教えてやる」
 「外す方法があるんですか?」
 「ああ」
 「それがわかっていて、ぼくをおちょくったんですか?」
 「すまん。許せ。おまえの泣き顔をカメラに収めたかったんだ」
 「ひどい・・・・」
 「まあ、そう言うなよ。この通り」
 北村は土下座する。腹が立ったけれど、外せると知って久美は安堵した。
 「どうすれば?」
 「これを4、5滴たらした風呂に入れば取れる」
 「そんなに簡単なんですか?」
 「簡単だが、これがないとホントに永久にその乳房を付けたまま暮らさんといかんぞ」
 「ぼくにください」
 「ああ、やるよ」
 北村は薬の入った瓶をポンと投げてよこした。久美は瓶の蓋を開けてみた。フワッといい香りがした。
 「いい匂いがするんですね」
 「接着剤の効果を消す薬だということを隠すカモフラージュさ。普通の人間は、それを手にしても香水だと思うだろう」
 「なるほど」
 「腹減ったな。朝飯食わせてくれよ」
 「ぼくを虐めておいて、飯食わせろですか?」
 「いいじゃないか。その人工乳房を提供してやったんだ。材料費だって馬鹿にならないんだぞ。技術料を入れたら、朝飯じゃあ、安いもんだ」
 「わかりましたよ。トーストに紅茶しかありませんよ」
 「結構毛だらけ、猫灰だらけ。ネズミの・・・・」
 「その先は聞きたくありません」
 「へえい」
 そんな話をしながらも、北村はシャッターを押し続けていた。

 朝食を済ませると、北村は鞄の中から小さな布きれを取りだした。
 「ほれ。着てみろ」
 ビキニの水着だった。久美は、黒の縁取りの付いた黄色のビキニの水着を着た。
 「似合うぞ」
 褒めながら北村はシャッターを押した。
 「外で写真を撮れるといいんだが」
 「スカートならともかく、こんな水着じゃ無理です」
 「そうだな。・・・・スカートなら、外で撮らせてくれるか?」
 「あ、いえ。やっぱりだめです。ばれたら、困りますから」
 「・・・・そうか」
 そう言いながら、北村は久美の股間を見つめた。

 ビキニの次はオレンジ色のワンピース型の水着で写真を撮り、午後はテニスルックで写真を撮った。そして、その日の最後は、バニーガールの衣装だった。
 「いったいどこからこんな衣装を・・・・」
 「衣装部からに決まってるだろう?」
 「衣装部ったって、どんな理由を付けて借りてくるんですか?」
 「彼女に着せて写真を撮るって言ったら、別に何も言わずに貸してくれたよ」
 「こんなバニーガールの衣装を着る彼女なんているんですかねえ」
 「目の前にいるじゃないか」
 久美は溜息をついた。ちょっと違うんじゃないかと。

 バニーガールの格好で写真を撮り始めてしばらくしてから、北村がシャッターを押さずにじっと久美を見つめ始めた。
 「どうしたんですか?」
 「その衣装だと、ペニスがあるようには見えんな」
 そう言われて久美は股間を見た。北村が言うように、バニーガールの衣装は、股間がつるっとした感じで膨らみなどないように見えた。
 「そうですね」
 北村は腕組みをしてじっと考える。
 「ヒサヨシ。足をちょっと広げた格好で、真正面を向け」
 「こうですか?」
 「そうだ。いいぞ。じっとしてろよ」
 北村はシャッターを押した。
 「横を向いて」
 「はい」
 北村の様子を見ながら久美は悟った。人工乳房と同じように、ペニスと睾丸を隠すものを作ろうとしているんだろうと。
 「よし、これでいい。来週また来る」
 「できるんですか?」
 北村がやろうとしていることを久美が理解したことを悟って笑顔になる。
 「できるさ。期待して待ってろ」
 北村は、飛び出すように久美の部屋を出ていった。

 次の土曜日、北村が鞄を抱えてやってきた。
 「もうできたんですか?」
 「まだだ」
 「じゃあ、今日は?」
 「型を取りに来た」
 「型をですか?」
 「そうだ。ペニスと睾丸を隠すポケットをきっちり作るためだ」
 「裸になるんでしょうか?」
 「恥ずかしいだろうから、まずこれを穿いてくれ」
 北村は、白いパンツのようなものを久美に差し出す。久美は、北村に背を向けてそのパンツのようなものを穿いた。
 「これでいいですか?」
 「ペニスを後側に折り曲げてくれないか?」
 「どうして?」
 「訳はあとで話す」
 仕方がないので、久美はペニスを後ろに回してパンツをあげた。
 「それでいい。じゃあ、次はこれだ。これを穿いてくれ」
 北村が取り出したのは、一部が乳房と同じ材質でできたパンツだった。久美はそれを穿いた。ギュウニュッとした柔らかい軟体動物のような感触がした
 「しばらく足を少し開いて、じっと立っててくれ」
 言われたとおりにしていると、生暖かくなって、パンツが締まってくるような感触を覚えた。
 「かなり締まってきますね」
 「できるだけ自然な形にするためだ。ちょっと我慢してくれ」
 そう言うと、北村は目を閉じてじっと下を向いた。久美も黙って時計を眺めていた。

 10分ほどして北村が立ち上がった。
 「もういいかな?」
 腰のあたりに手を回して何度か押している。
 「うーん。もう少し待つか」
 腕組みをして、北村は久美の穿いたパンツのようなものを眺めていた。
 「もういいだろう」
 そう言いだしたのは、さらに5分後だった。
 「身体に密着しているみたいですけど、どうやって脱いだら?」
 「横をハサミで切る」
 「あ、なるほど」
 北村は、右に真横にハサミを入れて切り始めた。ハサミに冷たい感触に鳥肌が立った。それがすむと今度は左側に回ってハサミを入れる。
 「前後に開いて外すからじっとしていろよ」
 ベッタリと密着していたものが剥がされていった。久美は股間の方を見下げてその様子をじっと見つめていた。
 「あっ!」
 久美は慌てて股間に両手をやった。最初に穿いていた白いパンツも一緒に剥ぎ取られて、久美の陰部がもろ見えになっていたのだ。
 「結構大きいんだな」
 北村がにやりと笑って言う。
 「一緒に剥げるって言ってくれればいいのに」
 「わかってると思ってた」
 久美は口を尖らせる。
 「そんな顔も可愛い」
 「・・・・もう」
 剥ぎ終わった型をバッグに詰めている間に久美はショーツを穿いた。スカートを穿いていると、北村が玄関に向かっている。
 「北村さん、今日は撮影しないの?」
 「それより、こっちを作る方が先決だ」
 そう言い残すと久美の部屋を出ていった。久美は肩をすくめる。このところ、久美は女装して撮影されるのが喜びになっていた。女として見られる喜びだ。いや女としてと言うより、北村というひとりの男にでも注目されていると言うことが嬉しかったのだ。人間には、注目されたり、賞賛されたりすることが必要だ。

 北村がいなくなって、久美は普段着からちょっとよそ行きのワンピースに着替えた。久美は真っ昼間に外出するつもりでいた。男だと見破られない自信があった。それは人工乳房の存在が大きい。化粧は学生風の薄化粧にした。その方がむしろいいと思った。
 それでも、アパートから出るときだけは気を遣う。奥のOLは、久美は前嶋ヒサヨシの恋人くらいに思っているだろうけれど、他の住人には姿を見られていない。できれば、久美の住むアパートから出ていくところを見られたくなかったのだ。
 アパートの住人のおよその動きはわかっている。午前9時半。久美は、ドアを開いて部屋を出た。一階の住人が部屋から出てきた気配がした。しかし、久美はそちらを振り向いたりせずに表通りに向かった。
 バス停で数人の女性たちとバスを待つ。久美のことを誰も気にしていないようだから、ばれていないなとほくそ笑む。
 バス停の前に信号停車した車の中から、若い男が久美に向かっていやらしい視線を送ってきた。
 「ちょっと短すぎたかな?」
 ワンピースのスカートは太股の半ばほどしかない。初めて外出するにしてはちょっと大胆すぎたかなと反省する。しかし、引き返す時間が勿体ないからそのまま行くことにした。
 バスの席は空いていた。久美はスカートの後ろに手をやって、スカートにしわが入らないようにして座った。こんな女性の仕草は、普段男の格好で外にいるときよく女性を観察して覚えていた。膝の上に、最近通販で手に入れた小さなバッグを置くことも忘れない。可愛くて綺麗な服を着るのは好きだけど、女の子って大変ねと心の中で思っていた。

 電車に乗り換え新宿へと向かった。空いた席がなかったので、ドアのそばに立っていた。痴漢らしい男にお尻を触られたけれど、睨み付けてやると早々に逃げていった。
 ウインドーショッピングをしながら、声が出せないから買い物できないなと考えて気がついた。喉仏を見られたら大変だと。久美はちょっと下向き加減になって帰路に就いた。
 新宿駅までの途中で、二回ほど声を掛けられた。首を横に振って断る。声を掛けられたのは嬉しかったけれど、喉仏を見られてばれるのが怖くて、急ぎ足で改札を抜けた。
 アパートに帰ってきてホッとする。
 「喉仏を何とかしないと・・・・。それに声も」