第17章 決心

 「ただいま」
 久美の姉・照美の夫・修一が帰ってきた。
 「お帰りなさい、あなた」
 靴を脱ぎながら、修一は玄関に出てきた女性を見てギョッとした。形のいい乳房が透けて見えるうす紫色のネグリジェを着ている。そのネグリジェは照美の方から誘うときに身に着けるものだ。
 「どうしたの? あなた?」
 小首をかしげる女性を修一は不思議そうな顔をして見つめる。
 「どうしたのよ?」
 「えっ? えっ? 照美か?」
 「どうしたの? 自分の奥さんの顔を忘れたの?」
 そう言われても、修一は納得できないような顔をした。
 「て、照美じゃないよ。君は誰だ?」
 「どうして、わたしじゃないの?」
 「どうしてって、妻を間違えるはずがない。いったい君は誰だ?」
 奥の部屋から笑い声が響いた。
 「やっぱりだめだったか。さすが修ちゃん。見事に見破ったわね」
 照美が面白そうな顔をして出てきた。修一は、照美と照美によく似た女性を交互に見た。
 「誰なんだ? この人は?」
 「話すわ。その前に着替えてきて」
 「あ、ああ」
 修一は何度か振り返りながら寝室へと姿を消した。

 「騙せないって言ったでしょう?」
 久美が椅子に腰掛けながら照美に言った。
 「うまくいくと思ったけどなあ」
 照美は悔しそうに指を鳴らす。
 「でも、さすが姉さんの旦那様だね」
 「そりゃそうでしょうね。わたしを愛してくれてるんですから」
 「ごちそうさま」

 夕食の準備が整ったあと、照美が悪戯をしようと言い出した。女になった久美は照美によく似ていた。髪型を似せて、化粧をし直せば、間違えるんじゃないかというのだ。
 「イヤよ。そんなこと」
 久美は断ったのだけれど、照美はいつもの強引さで久美を説得した。
 「あなたを育ててやったのは誰だと思っているの?」
 そう言われれば、反論も何もない。
 「これ着るの?」
 差し出されたネグリジェをかざして久美がぼやく。
 「顔より身体に目を向けさせるの。そうすれば、絶対騙せるわ」
 「姉さんのお腹、出てるよ。騙されないんじゃないの?」
 「このう。あんたは黙ってわたしの言うとおりにいていればいいの!」
 久美は照美にどつかれる。
 「わかったわよ。じゃあ、着るわよ」
 「ブラ、とりなさい」
 「ええっ! ノーブラなの?」
 「そうよ。わたしが修ちゃんに迫るときの定番よ」
 「姉さんって、結構大胆なんだね」
 「今、わかった?」
 「ええ、知らなかったわ」
 「修ちゃんを手に入れるためよ。女は時として大胆にならないとね」
 久美は肩をすくめた。そうしながら、久美は鏡に向こうの照美を見る。よく似ているけど、肌の張りが違うよ。騙すのは無理だろうなと思っていた。

 スーツをスウェットに着替えて修一がリビングに戻ってきた。そうして、久美と照美を見比べる。
 「よく似てるけど、いったい誰なんだ?」
 「わからない?」
 「照美には、女の姉妹はいなかったよな」
 「ええ」
 「わからないよ。こんなによく似た女性なんて一度も会ったことないよ」
 「それが会ったことがあるのよ」
 「嘘だろう? こんなに似てたら、覚えているはずだよ」
 「顔だけをよく見て。髪は短髪。それでもわからない?」
 修一は久美の顔をしげしげと見る。そうしてから頭を振った。
 「・・・・わからんなあ」
 「先入観があるとわからないものね」
 「先入観? なんだ? それは?」
 フフと照美は笑ってから答えた。
 「クミちゃんよ」
 「クミちゃん? クミちゃんって、・・・・ヒサヨシ君のことか?」
 「そうよ」
 アッケラカンとして照美が答えた。修一は驚きを隠せず久美を見つめる。久美の顔をじっと見つめ、そしてネグリジェから透けて見える乳房に目を落とす。それからさらに目を下に向けてちょっと茂みが透けて見えるショーツを確かめる。
 「嘘もいい加減にしろよ。そりゃ、顔はヒサヨシ君でも通るけど、乳房があるんだぜ。それに、第一さあ、あれがないじゃないか」
 「だから、先入観を捨てなさいって言ったでしょう?」
 「・・・・しかし」
 「クミちゃんね、性転換したの」
 これまたアッケラカンと照美が言った。
 「せ、性転換!」
 修一は目を丸くする。
 「そうよ」
 「じょ、冗談だろう?」
 「ホントよ。ねえ、クミちゃん?」
 「お義兄さん。ホントなの。わたし、ヒサヨシなの」
 修一は狐につままれたような顔をした。
 「ま、まさか!」
 そう言いながら、修一はもう一度久美の顔をまじまじと見つめた。
 「・・・・ホントなのか?」
 「ホントにホントなの。そうでなかったら、姉さんとこんなに似ている人間なんていないでしょう?」
 「あ、まあ、それはそうかもしれないけど・・・・。え? ああ? そうか。ま、確かにそう言えばそうだが・・・・。ホントに、ヒサヨシ君なのか?」
 修一は久美の顔よりも大きな乳房を何度も見た。
 「ええ」
 「信じられないなあ。どうしてまた、性転換なんてやったの? 女になりたかったなんて一度も聞いたことがなかったけど」
 久美は照美を見た。照美は頷く。久美は意を決して話し始めた。
 「実は・・・・」

 久美の長い長い話が終わった。修一は腕組みをしながらそれを聞いていた。そうしてからおもむろに言った。
 「で、どうするんだ?」
 「どうするって?」
 久美に代わって照美が聞き返す。
 「女になってしまったのはヒサヨシ君のせいじゃないことはわかった。ぼくはヒサヨシ君の言うことを信じてあげるよ。しかし、世間はそう認めてくれないだろう」
 久美は黙って修一の意見を聞いていた。
 「世間の人は、ヒサヨシ君は女になりたかった男で、さっきの話は作り話だというに決まっている。性転換について、最近は多少は理解が進んでいるとは言っても、村八分以上の辛い目を見ることになるだろうね。それは間違いない。そうなると、性転換したことは黙っているしかない。黙っているとしたらどうなるか? 戸籍は男のままだからいろいろと不便が出るだろう。まず、まともな職業には就けない。水商売か風俗産業と言うことになるな。水商売とか風俗とか言ったところで働くのなら、かえって性転換したと言った方がいいかもしれないけどね」
 「そんな仕事はしたくないです」
 蚊の泣くような声で久美が答える。
 「そうだろう?」
 「パスポートの女の戸籍が使えるかも」
 照美が割って入る。
 「そんなのは宛にしない方がいいだろうな。もし使えるとして、女として働くことになったとするだろう? こんな美人を男が放っておかないだろう。その男を騙して結婚するのか?」
 「元は男だって打ち明ければ・・・・」
 「そんなこと言ったら、たいていの男は逃げ出すだろうな」
 「結婚なんてしなければいいわ」
 「ま、その戸籍が使える場合のことだ」
 ふたりは黙り込む。
 「しばらくの間なら、ぼくたちが面倒みてやってもいいけど、一生というわけにもいかないだろう?」
 「はい」
 久美は小さな声で頷く。
 「いえ、わたしが面倒みるわ。だって、可愛そうじゃないの。クミちゃんのせいでこうなったんじゃないのに」
 「照美がどうしてもそうしたいって言うのなら、そうしてあげてもいいけど・・・・」
 「いえ、いいです。わたしがなんとかします」
 「クミゃん、なんとかするって、どうするのよ?」
 久美はじっと考え、そうしてから意を決したように言った。
 「葛城の元に行きます」
 「ええっ! 葛城って、あなたを無理矢理女にした男でしょう? どうして?」
 「それもいいかもしれないな」
 修一が頷きながら言った。
 「修ちゃん、あなた、なに言ってるのよ! ふたりとも、おかしいんじゃないの?」
 「確かに、葛城はわたしを罠に掛けて拉致したあげく、男だとわかって、無理矢理わたしを女にしたわ。でも・・・・」
 「でも?」
 「あの人は、わたしの初めての人なの。いえ、女として抱かれたのはあの人だけなの」
 照美は、驚きと納得が混じったような表情をした。
 「あの人がわたしを愛しているかどうか、わたしの方だってあの人を愛しているかどうかよくわからない。だけど、わたしをホントの女として扱ってくれるのはあの人だけなの」
 「なるほどよくわかったわ。でも、彼、うまく逃げ出せたかしら?」
 「わからないわ。でも、行ってみる。赤坂プリンスで待っていてくれって言われてるから」
 「・・・・そうね。それがいいのかもね。・・・・クミちゃん、あなた、ホントに女の子になったのね」
 久美は小さく頷いた。
 「葛城が来なかったら、ここに戻ってくるのよ。いいわね」
 久美はもう一度頷いた。

 翌日、久美は早速赤坂プリンスへと向かった。電車を降りて長い坂道を上っていく。
 「無事に逃げ出しているかしら? 逃げ出せたとしても、ホントにここへ来てくれるだろうか?」
 不安が一杯だった。

 葛城はまだ来ていなかったから久美は相沢千鶴の名前で部屋を取り、葛城からの連絡をじっと待った。
 待てど暮らせど葛城からの連絡はなかった。不安が募るばかりだった。
 《クミちゃん、葛城から連絡は?》
 心配した照美から何度も電話が入った。
 「まだないわ」
 《もう来ないんじゃないの?》
 「来るわ。きっと来る」
 《・・・・そう。じゃあ、もうしばらく頑張りなさい》
 電話でのそんな会話が続いた。

 赤坂プリンスに部屋を取ってから一週間が過ぎた。久美は諦めつつあった。ロビーの喫茶室でぼんやりと紅茶を飲んでいた。
 「相沢様? 相沢千鶴様? おられませんか?」
 ボーイの声がロビーに響いた。
 「あ、わたしです」
 久美は手を挙げて立ち上がった。
 「ご主人様からお電話です」
 「主人から? ありがとう。どちら?」
 「こちらでございます」
 ボーイに案内されて、受話器を取った。
 「・・・・もしもし」
 《久美か?》
 間違いなく葛城の声だった。
 「パパ・・・・」
 《連絡が遅くなってすまん。ちょっと遠回りしていたものだからな》
 「いま、どこに?」
 《電話では言えない。すぐにチェックアウトしなさい》
 「それから?」
 《玄関でタクシーを拾って浅草へ向かいなさい》
 「玄関でタクシーを拾って浅草に行くのね。それから?」
 《あとで指示を出す》
 「浅草のどこで待てばいいの?」
 《わたしの方から声を掛ける。いいね》
 「はい」
 《じゃあ、すぐにチェックアウトだ》
 受話器を置くと、久美はすぐに部屋に戻り衣服を鞄に詰めるとチェックアウトした。玄関前でタクシーを拾う。
 「浅草まで」
 タクシーは赤坂プリンスを滑り出ていった。

 しばらく走っていると、久美は行く先が違うことに気がついた。
 「ちょっと運転手さん? 道が違うんじゃあ?」
 「これでいいんだよ」
 その声に久美はハッとする。
 「パパ。パパなのね」
 バックミラーの向こうから葛城が笑顔を向けてきた。
 「どうして?」
 「念には念を入れてね。追っ手もないようだから、もう安心だ」
 「どこへ行くの?」
 「新天地さ」
 「新天地?」
 「そう。自由の国・アメリカへ行く」
 「アメリカへ」
 「そうだ。いやか?」
 「いいえ。パパと一緒ならどこでも行くわ」
 「そうか。無理矢理女にしたのにわたしを恨んでいないのか?」
 「恨んでたら、赤坂プリンスには行かないわ」
 「そうか。・・・・久美?」
 「なに?」
 「わたしと結婚してくれるか?」
 「ええっ! 結婚?」
 「ああ、そうだ。わたしはもはや葛城としては生きてはいけない。妻とはとうの昔に他人同然だ。勿論今回の事件で、妻の方から恐らく離婚届を出しているだろう。アメリカに渡ってもわたしはひとりだ。だから、一緒に行ってくれるのなら、結婚して欲しいのだ」
 「わたしでいいの? わたしで・・・・」
 「おまえでなくてはならないんだ。おまえを女にした以上、責任をとらねばならない」
 葛城の口からそんな言葉が飛び出てくるとは思わなかった。
 「責任だなんて」
 「いやか?」
 「とんでもない。嬉しいわ」
 「じゃあ、まずグアムへ寄って結婚式を挙げよう。それからアメリカだ」
 タクシーはそのまま成田空港へとひた走った。

 それから3年の月日がたった。久美の姉・照美の元に一通の手紙が届いた。
 『照美姉さん、お元気ですか? 修一お義兄さんと仲良くしていますか?
 わたしは元気です。毎日、主婦として、母として忙しい日々を送っています。
 わたしがあの人と結婚したのはもう連絡しましたよね。毎日可愛がって貰っています。女の喜びを満喫しています。女になってホントによかったと思っています。
 「母として」と言うところに驚いたかもしれません。実は養女を貰いました。あの人が、見つけてきたんです。ふたりだけじゃ寂しいだろうからって言って。わたしに似た可愛らしい子です。
 あの人の仕事が落ち着いたら、一度日本へ里帰りしたいと思っています。その時は歓迎してくれますか? あの人も、一度お姉さんに会って謝りたいと言っていますから、是非会ってくださいね。
 また連絡します。
 久美』