第16章 再会

 ノースリーブのワンピースを着た久美には、初秋の日本の気候は肌寒かった。タラップを降りながら、吹き上がってきた風の冷たさに久美は思わず右手で左の肩を抱いた。長い髪が風に揺れる。
 「荷物はそれだけですか?」
 バッグひとつを申告した久美に向かって、税関の係員が呆れ顔で言った。
 「ちょっと帰省しただけですから」
 「タイにお住まいなのですか?」
 「ええ。父の仕事の関係で」
 「そうですか。どうぞ」
 日本の税関のチェックはかなり厳しいと聞いていたけれど、久美の所持したパスポートはまったく違われることがなかった。
 (それにしても・・・・)
 久美はパスポートを開いて、性別の欄のFの文字を見ながらちょっとどきどきする。
 (ボクは女として税関を通過したんだ)
 不思議な気がした。

 空港内を移動するとき、モノレールに乗ったとき、そして山手線のドアのそばにもたれているとき、男たちの粘り着くような視線を感じた。女にとって男の視線に晒されると言うことは嬉しいものだ。
 (ボクって結構美人で、スタイルもいいからねえ)
 顔には出さずに内心ではほくそ笑んでいたのだけれど、しばらくしてそれだけではないことに久美は気づいた。
 (日本の女たちはほとんどみんな茶髪なんだ)
 髪の毛が黒いのは、中学生以下の少女たちだけだった。久美と同年代の女性たちはもちろん、成人女性の誰もが髪を染めていた。長く黒い髪をなびかせた久美は周りから浮いた存在だったのだ。

 電車を降りると、久美はまっしぐらに北村と暮らしたマンションへと向かった。
 (まだいるよね)
 マンションの郵便受けをのぞき込む。北村のネームがあった。胸を高鳴らせながら、久美はエレベーターを上っていった。
 北村の部屋の前に立ち電力メーターを見上げてみると勢いよく回っていた。
 (いるいる。わたしの顔を見たら、どんな顔をするかしら?)
 そっと指を伸ばしベルを押した。すぐにとんとんと足音が近づいてきた。久美は笑顔を作る。
 「どなた?」
 中から聞こえてきたのは女の声だった。驚きの表情を浮かべたまま、久美は後ずさり部屋の番号を確かめる。
 (ここに間違いないけど・・・・)
 「どなた?」
 ドアが開いて、可愛らしい女性が姿を現した。
 「あ、あのう。ここは、斉藤さんのお部屋では?」
 久美はとっさに違う部屋の名前を口にした。
 「うちは、北村です。斉藤さんって、たしか、もう一階上の方じゃないですか?」
 「あら、いやだ。一階間違えちゃったみたい。ごめんなさい」
 「いいですよ」
 ドアを閉めようとする女性に向かって久美は尋ねた。エプロンをしたその可愛い女性の下腹部がふんわりと膨らんでいたからだ。
 「あのう、失礼ですけど、いつお生まれになるんですか?」
 「あ、もうすぐ。さ来月の終わりです」
 「そうですか。いい子供さんが生まれるといいですね」
 「ありがとうございます」
 「じゃあ。失礼します」
 (女は北村と名乗った。北村が結婚している。しかも、もうすぐ子供が生まれる)
 ショックだった。幻暈がした。しかし、それを悟られないようにして頭を下げて久美はエレベーターへと向かった。
 膝ががくがくと震え、足の力が抜けて立っていられなくなりそうだった。久美は片手を壁についてようやく立っていた。
 エレベーターが登ってきた。予感がした。ここに立っていてはだめだという予感が・・・・。久美は、エレベーターの横にある階段を数段上って身を潜めた。
 エレベーターの扉が開く。男が降りてきた。予感が当たった。北村だった。飛び出して、問い質したかった。あの女は誰なのかと。しかし、久美の足は久美の意志に反して動かなかった。言葉すらも出てこなかった。あの幸せそうな女の笑顔が久美を押しとどめていた。久美が出て行けば、ふたりの幸せが壊れる。久美には、あの幸せを壊す権利などないことがわかっていたのだ。
 「ただいま」
 「お帰りなさい、あなた」
 そんなふたりの言葉を、まるでテレビドラマの会話を聞いているかのように、遠い世界のことのように思いながら、久美は再び開いたエレベーターにふらふらと乗り込んだ。

 いつの間にか降り出した雨の中を久美はとぼとぼと歩いていった。雨に濡れた久美を振り返ってみるものはいても、傘を差し掛けてくれるものはいない。
 どこをどう歩いたのか覚えていない。ふと気がつくと、そこは姉のマンションの前だった。
 (ここに来てはいけない)
 振り返って歩こうとすると、目の前に傘を差した女性が立っていた。その女性は久美の姉、照美だった。久美は慌てて顔を背けて下を向き、横をすり抜けようとした。
 「待って! あなた。ヒサヨシ、ヒサヨシなのね」
 「ち、違います」
 照美に背を向けて逃げ出そうとする久美の手が引き留められた。
 「違わないわ。ちょっと一緒に来なさい」
 「離して!」
 「いいから、部屋に上がりましょう。人が見ているわ」
 照美は久美の手を離さない。人が見ていると言われて、仕方なく久美は照美に従って階段を上っていった。

 見慣れた部屋のドアを照美が開いた。
 「入って!」
 押し込まれるように久美は部屋の中に入った。ハイヒールを脱ぎながら、久美はいつもと違った部屋の匂いに気づいた。
 (なんの匂いだろう?)
 キョロキョロしていると、照美が久美の手を引いてバスルームへと誘った。
 「冷たくなって。風邪を引くわ。早く暖まってきなさい」
 有無を言わせぬ照美の態度に気押されて、久美はバスルームへ入った。
 「濡れた服は洗濯機に入れておいてね。着替えを持ってきてあげるから」
 「あ、はい」
 ドアの向こうに照美が立っていて久美がバスに入るのを待っているようだ。だから、隙を見て逃げ出すこともできなかった。
 濡れたワンピースを脱ぎ、ブラ、パンスト、ショーツを脱いで浴室の中に入り、洗顔フォームで化粧を落とした。
 頭から熱いシャワーを浴び、ボディーシャンプーで体を洗う。
 (姉さんはぼくが女装しているだけだと思っているだろうから、この体を見たら驚くだろうな)
 シャンプーの泡が隆起した乳房の表面を流れ落ちていくのを見ながら久美は呟いた。
 「着替え、ここにおいておくわよ」
 「ありがとう」
 照美は着替えを置くと奥の部屋に行ったようだ。バスタオルで体を拭きながら籠の中の着替えを見てみると、それは以前久美が照美のマンションに泊まりに来ていたときに着ていたものだった。
 (これ、穿くの?)
 久美はトランクスを取り上げて苦笑いする。しかし、それしか用意されていないので穿くしかない。
 今の久美には不似合いなトランクスを穿き、Tシャツを頭からかぶってグレーのジャージの上下を着た。
 (ぜんぜん似合わないな)
 鏡を見ながら久美は髪をドライヤーで乾かした。

 バスルームを出ると、久美が奥の部屋から出てきた。その腕には可愛らしい子供が抱かれていた。
 (ああ。この子の匂いだったのか)
 久美の姿を見ながら、照美がプッと吹き出した。憮然とする久美に向かって照美が言った。
 「あなた。男の格好がまったく似合わなくなったわね」
 まだ久美だと認めた訳じゃあないのにと思いながら口を尖らせる。
 「翔太、ヒサヨシお兄ちゃんよ」
 照美はそう言いながら、翔太というその子供を久美に手渡した。久美はおっかなびっくりその子を抱いた。翔太は、不思議そうな顔をして久美の顔を見て、それから振り向いて照美の顔を見た。もう一度久美の顔を見る。そしてから、照美の方に向かって両手をあげた。
 「ママの方がいいみたいね」
 久美は翔太を照美に返した。
 「人見知りをする時期はもう過ぎたんだけど、久美は初めてだからね」
 「可愛いね」
 「そりゃそうだよ。わたしと修ちゃんの子だもの」
 久美はくすりと笑う。
 「相変わらずだね。姉さんは」
 「認めたわね」
 「あっ! ・・・・」
 久美は項垂れる。
 「北村君から、タイで逮捕されてそれ以来行方不明だって聞いてたけど、どこで、どうしてたの?」
 話そうか話すまいかと迷っていたけれど、いずれは話さなければならなくなると思い、久美は逮捕されてからのことを照美に話した。

 「ええっ! 気絶している間にその葛城とか言う男に性転換されてしまったの?」
 久美は頷く。
 「そんなの無茶苦茶だわ。訴えてやるわ! 大事な弟をひどい目に遭わせて」
 「だめだよ。訴えたって、元に戻る訳じゃないし」
 「元に戻れないのはわかるわよ。でも、あんまりじゃないのよ。絶対に訴えるべきよ」
 「・・・・でも、きっと無駄だよ」
 「どうしてよ?」
 「無理矢理性転換したんじゃなくて、自分から望んで性転換したんだって言われるに決まってるよ」
 照美はああと納得した顔をした。
 「そうか。あなた。女装してタイに行ったんだったよね」
 「うん」
 「そっかあ・・・・。だけど、性転換まではするつもりはなかったって言えば何とかなるんじゃないの?」
 「恐らくだめだよ」
 「どうして?」
 「・・・・性転換されたあと」
 久美は言い淀む。
 「性転換されたあと?」
 「葛城の、・・・・葛城の愛人として暮らしていたんだ」
 「ええっ! 無理矢理性転換された相手の愛人になっていたの?」
 「・・・・うん」
 「あなたが進んでそうしたの?」
 「初めは違うよ。でも・・・・」
 「でも?」
 「パスポートもお金もなくて、葛城の屋敷から逃げ出せなかったから、愛人として暮らさざるを得なかったんだ」
 「なるほどねえ・・・・。で? どうして日本へ帰ってこられたの?」
 「よくわからないんだ。でも、何か事件が起こったみたいで、葛城がタイを逃げ出さなければならなくなったようなんだ。だから、ぼくも解放されたんだ」
 「ふうん。お金とかも用意してくれたのね」
 「うん」
 「パスポートは? わたしのパスポートは確か向こうで逮捕されたときに没収されたでしょう?」
 「パスポートも用意してくれていたんだ」
 「そんな事態になることを予想していたみたいね」
 「そうだね」
 「そのパスポート、見せてくれる?」
 「あ、いいよ」
 久美はバッグの中からパスポートを取りだして照美に手渡した。照美はパスポートを開いてまじまじと見つめる。
 「相沢千鶴。いい名前ね。偽造なの? これは?」
 「偽造だけど、本物として通用するみたいだよ。何しろ発行元が作ったんだからね」
 「この相沢千鶴って娘、実在するのかしら?」
 「さあ?」
 「戸籍が実在して、本人がいなければ、あなた、女として暮らせるわね」
 そんなこと、まったく気づかなかった。
 「そんなの恐らく無理だよ」
 「調べてみれば?」
 「そんな犯罪、犯したくないよ。他人の戸籍を使うなんて」
 「自分の意志で性転換したんじゃないから、それくらいはいいんじゃないの?」
 「でも・・・・」
 「前嶋久美の戸籍を使って生きるのは、今の日本では苦しいわよ」
 「・・・・そうだね」
 「ともかく調べるだけ調べてみなさいよ」
 「うん。・・・・もし、このパスポートの女性の戸籍が使えたら、北村さんと結婚したかった」
 「北村君か・・・・。あなた、彼が結婚したのを知ってるのね?」
 「・・・・うん」
 「北村君、ずっとあなたを助けるために手を打っていたんだけど、太田照美の入国自体がなかったことになっていて、どうしようもなくなったの。北村君はあなたのことを忘れた訳じゃなかったんだけど、一緒にあなたを捜す手伝いをしていた今の奥さんと親密になってしまってね」
 照美は北村に代わって言い訳をして久美を慰めているようだった。
 「仕方ないよ。ぼく、ホントの女じゃないんだから」
 照美は、久美を抱いて慰めた。
 「ところで、やっぱりその格好、おかしいわね。わたしのお古を出してあげるわ」
 久美は下を向いて自分の格好を見た。別におかしくはないと思ったけれど、下着がどうも気になっていた。
 しばらくごそごそしていた照美が、何やら抱えて戻ってきた。
 「はい」
 白いコットンのショーツがキャミソールらしいブルーの布きれの上に載っていた。そのブルーの布切れの下にあるものを見て久美は唖然とした。
 「姉さん。これ、ネグリジェだろう? こんなすけすけのもの着られないよ」
 「あら? もうすぐ夕食よ。夕食がすんだら、寝るだけだし、それでいいでしょう? それともどこか他に泊まるところでもあるの?」
 「泊まるところはないけど、これはあんまりだよ。それに義兄さんだって帰ってくるんだろう?」
 「このネグリジェ、修ちゃんのお好みだったから喜ぶと思うのね」
 「姉さん、勘弁してよ」
 「ふふ。そうね。じゃあ、これを着なさい」
 そう言いながら、照美は後ろ手に隠してあったグリーン系のパジャマを久美に手渡した。
 「相変わらず人が悪いや」
 「あんたを苛めるのは面白いわ」
 照美はフフと笑顔を見せた。
 「いけず!」
 「早く着替えなさい」
 「向こうへ行ってってくれよ」
 「あら? 姉妹でしょう? いいじゃないの」
 「いやだよ」
 「わかった。わかった。向こうへ行ってる」
 隣の部屋からちらちらと照美が覗いているものだから、久美は照美に背を向けて着替えをした。
 「いいよ」
 「やっぱ、そっちの方が似合うわね」
 「あ、そうだね」
 「あなた、スタイルいいのね」
 「それほどでもないよ」
 「昔はあなたくらいスタイルがよかったのに」
 「贅沢言うんじゃないよ。あんないい子を産んだんだから」
 「ま、そうね。あら? もうこんな時間。夕食の準備をしなくちゃ」
 「手伝うよ」
 「料理なんてできるの?」
 「少しはね」
 キッチンに行きながら、照美が久美の方を振り返って言う。
 「久美、あなた、いつもそんな男言葉を使ってるの?」
 「いや、違うよ。姉さんの前だから」
 「じゃあ、女言葉にしなさい。その姿で男言葉はおかしいわ」
 「わかったわ」
 「それでいいわ」
 それからふたりは、仲のよい姉妹のようにキッチンで並んで料理をした。