久美のいる屋敷の庭には色とりどりの花が咲き乱れている。その花の蜜に誘われてか、椋鳥ほどの鳥が何羽か鳴き声をあげながら移動していた。鳥は蜜に誘われるのかなと久美は思い直す。
その鳥たちも日が傾いてくると、巣に戻るのか一斉に飛び立っていった。オレンジ色に染まった空に鳥たちが飛び去っていくのを見ながら、久美は『七つの子』を口ずさむ。
あの鳥たちは、帰る巣があるけれど、わたしには帰るところがない。いえ、帰るところはあるけど帰れない。北村をそして姉を思って久美は涙する。
「奥様。入浴の準備が整いました」
「ありがとう」
メードの涙を見せないように、久美は人差し指の先でそっと涙をぬぐった。
その夜は、葛城が訪れる日。久美は入念に体を洗う。バスルームから出て、鏡に全身を写してみた。背中まで伸びた髪の毛が揺れる。葛城が長い髪の毛の女を望んでいたし、久美も長い髪が好きだ。長い髪の毛は女のひとつの証だと思っているからだ。
久美は胸からウエスト、ヒップに両手を這わせ、鏡に向かってうっとりした表情を浮かべる。完璧に女性化した久美の体。どんな装いもできるわと久美の心は喜びに溢れていた。
「奥様、髪を乾かして差し上げます」
久美はストールに座ってドライヤーをかけてもらう。こうして、裸のままメードに世話させるようになったのは、ここ数ヶ月のことだ。それは女性としての体型に自信がついたからだ。
髪が乾くとメードが髪を結い始める。ヘアスタイルで女のしての表情が変わるのも久美は好きだ。メードが結ってくれた髪の毛に合わせて久美は化粧を施していった。今夜は、清楚なお嬢様と言った感じだ。
ライトブルーのTバックのショーツを身に着け、そのままドレスを着る。その日のドレスは、肩が露わになった真っ白なロングドレスだった。
葛城から買い与えられたイヤリング、ネックレス、リングを付けた頃、表玄関に車の停まる音がした。
久美は、ドレスの裾を両手で持ち上げ、階段を駆け下って葛城を迎えに出た。
「お帰りなさい」
「ただいま」
いつも互いにそう挨拶する。
「綺麗だ」
久美は微笑む。そう言ってもらえるのがホントに嬉しい。
「今日は、いつもより早いんですね」
「ああ、特別な日だからな」
「特別な日?」
「そう」
「何の日かしら?」
「忘れたのか?」
「思い出せないわ」
「今日は、おまえと褥を共にしてから丁度1年目の記念すべき日だ。女のおまえが忘れてどうする?」
そうだった。丁度1年前、性転換されて初めて葛城を受け入れたのだった。
「もう、1年もたつのね」
「ああ。1年だ。1年で、おまえは変わった」
「変わった? どう?」
「美しくなった」
フフと久美は笑みを浮かべた。
「さあ、腹ごしらえをしてから一勝負といこうか?」
「パパ、もう少しムードのある言い方ってないの?」
「どんな言い方をしたって、やることは同じだろう?」
「もう・・・・。女の気持ちなんて、ひとつもわかってないんだから」
久美は拗ねて膨れてみせる。
「そんなところはホントに可愛い。さあ、まずは食事を済まそう」
葛城に肩を抱かれて、久美は食堂へと向かった。
食事が終わってコーヒーが運ばれてきた。メードが去っていくと、葛城は上着のポケットに手を入れて何やらごそごそやっている。
「どうしたの?」
「あ、うん。ちょっと待て」
そう言いながら葛城は小さな包みを取りだした。
「一周年記念のプレゼントだ」
手渡された包みを開いてみると、羅紗で包まれた小箱が出てきた。中身がわかって、久美は口元をほころばせる。小箱を開いてみると、予想通りダイヤの指輪が出てきた。久美は、右のくすり指に指輪を通した。
「ぴったり」
「気に入ってくれたか?」
「もちろん。ありがとう、パパ」
久美は立ち上がり、葛城の手を引いた。
「まだ、コーヒーが残っている」
「焦らせないでよ。パパだって、早くしたいくせに」
「わかった。わかった」
久美の着た薄いドレスから透けて見える乳首が立っているのを久美は自覚した。
その夜、久美はありたけのテクニックを使って葛城を喜ばした。
「久美、愛しているぞ」
そんな葛城の言葉に、心の隅では本気なのかなと久美は思う。しかし、愛しているぞという響きに久美は酔っていた。どんなに嫌いな相手でも、百万回愛していると言われれば、その気になってしまう。罠にかけられ、無理矢理性転換させられて葛城の愛人となったのに、いつしか久美も葛城を愛しているのではないかと思い始めていた。
思い出せないけれど、何かいい夢を見ていた。その夢が中断されたのは、枕元の電話が鳴り響いたからだった。
「はい。います。ちょっとお待ちになって」
久美が取った受話器から流れてきたのは、少し慌てたような男の声だった。その声には聞き覚えがある。葛城の下で働いている30くらいの男の声だ。現地人だが、日本語はかなりうまい。
「あなたによ」
「誰からだ?」
「サム」
「サムから?」
不審そうな表情を見せながら、葛城は受話器を受け取る。受話器を葛城に渡しながら、久美は時計を見た。午前5時過ぎだった。
「なに!? くそ! すぐに行く」
「どうしたの?」
「おまえには関係ない。すぐに出るぞ」
何やら重大なことが起こったらしい。葛城は脱ぎ捨ててあった服をあたふたと着込むと、久美の方を振り返ることなく寝室を出て行ってしまった。
タイヤを軋ませながら屋敷から走り去っていく車を、久美は寝室の窓から寂しそうに見送っていた。
葛城から何の連絡もないまま午後になった。
「奥様、奥様」
久美の世話係のメードが白い封筒を持ってやってきた。
「なに? どうしたの? あの人から何か連絡でもあったの?」
「ええ。旦那様の使いの者がやって参りまして、この封筒を奥様に渡すようにと」
久美は封筒を受け取ると早速中身を取りだした。一葉の便せんとドル紙幣が100ドルほど、それに一本のキーが入っていた。久美は便せんに目を落とす。
『できるだけ急いで屋敷を出ろ。屋敷を出たら、直ちに○○銀行本店へ行け。太田久美という名義で貸金庫を借りてある。それを開いて、中にある指示に従え』
訳がわからなかった。しかし、指示に従うしかないと判断した。
「出かけます。車を用意して」
「かしこまりました」
髪をすき化粧を点検すると、久美はバッグを手に玄関へ降り立った。すぐに車が玄関前に横付けされた。運転手は、いつも久美が買い物に出かけるときに車を動かす男だ。
「どちらへ?」
「○○銀行本店まで」
返事をせずに運転手は車を動かす。屋敷を出て次の角を曲がるとき、屋敷へ数台の車が入っていくのが見えた。しばらくして、銃声が聞こえてきた。振り返ってみると屋敷に火の手が上がっていた。
「何が起こったの?」
運転手は何も答えない。ただ、アクセルを踏み込んでスピードを上げた。
○○銀行本店にはほど遠い場所で久美は車を降ろされた。
「どうしてこんな場所で?」
「ここまで運んでやったんだ。文句を言うな」
そう言い残して、車は猛スピードで走り去っていった。運転手も自分に危害が及ぶのを恐れて逃げ出したようだ。
丁度通りかかったタクシーを止めて、久美は○○銀行本店へと向かった。
○○銀行本店前は何の異常もないようだ。それでも久美は、周りに注意しながら銀行の中へと入っていった。
太田久美の名前を告げて貸金庫へと案内してもらう。封筒の中にあった鍵で貸金庫を開くと、封筒が入っていた。封筒を取り上げるとその下に現金が置かれている。
封筒を開く。
『久美へ
おまえがこの手紙を読んでいるということは、わたしの身に危険が迫っているということだ。どんな危険かはおまえに説明するつもりはない。ただ、わたしもおまえももはやこの国におられなくなることは確かだ。わたしは何とかしてこの国を抜け出す。おまえも早々にこの国から逃げ出すんだ』
久美は、貸金庫の中の現金を見つめる。現金だけでは抜け出せないと思いながら、さらに読み進んだ。
『その貸金庫の中に、現金で2万ドルが入っている。それを使うといい。この国を出るためには、パスポートがいるだろう。一番下に入っているからそれを使いなさい』
(パスポート!)
久美は、現金の下を探る。あった。パスポートだ。久美はそれを開いてみた。微笑む久美の写真が貼られていた。
(相沢千鶴? ・・・・F。はあ? 女? 偽造パスポートだ)
こんなパスポートでばれないのだろうかと思いながら、久美は手紙に目を戻した。
『そのパスポートは偽造だが、パスポートそのものは本物だ。おまえ自身が申告しない限り、それは本物として通用する』
久美は、葛城が大使館勤務だったことを改めて思い出す。それなら、本物を作ることが可能だ。
『それでは東京で会おう。待ち会わせ場所は赤坂プリンスホテルだ。
この手紙は読み終わったら、直ちに処分すること。破り捨てるだけではダメだ。必ず焼き捨てること。
以上だ
葛城
追伸 わたしはおまえを愛している。必ず来てくれ。わたしも必ずこの国を脱出しておまえの元に行く』
久美は文面を見つめながらじっと考える。
(愛している? ホントなのだろうか? 嘘だとすれば、こんなパスポートなど置いておく必要はない。自分だけさっさと逃げ出せばすむことだ。葛城は、元は男性のぼくをホントに愛してくれているのだろうか?)
葛城の方はともかく、久美自身はどうだろうか? あの屋敷から逃げ出せないと覚悟していたから、葛城のことを愛していると言った。しかし、それは嘘だ。偽りだ。
本物として通用するパスポートが手に入り、自由の身となった久美は、もはや葛城のことは頭の中になかった。
(北村に会いたい)
ただそれだけだった。ともかく早く日本に帰ろうと久美は決めて、葛城からの手紙と札束をバッグの中に入れた。
銀行の前からタクシーを拾い、空港へ直行した。小さなバッグだけを持った久美に係員はちょっと不審気な目を向けた。
「荷物は別便で送ってもらったのよ」
そう久美が言うと、何とか納得したようだ。パスポートを提出するときには、心臓が爆発しそうになった。しかし、まったく疑いもせずに戻してくれて、久美はホッと胸を撫で下ろした。
税関を抜けようとしたとき、1年前久美の鞄の中から阿片を見つけだした係員がジッと久美を見ているのに気がついた。背中にジッと汗が湧いた。
ずいぶん長い時間が経過したように思えたけれど、その時間はほんの何分の1秒だった。係員の目は久美から逸れて、次の女性に注がれた。どうやら、女性ばかりを見ているようだった。
(1年以上も前だし、髪も伸びて、化粧方法もかなり変わったから気がつかなかったみたい)
フウと安堵の溜息が漏れた。
それでも、飛行機に乗り込み車輪が離れるまで、久美は本当の意味では安心していなかった。飛行機が雲の上に出て、ベルト着用のサインが消えてから、久美は力を抜いて座席にへたり込んだ。
(帰れる。これで、監獄から抜け出せた)