パタパタパタと靴音が遠ざかっていくのをドアに耳を当てて確かめる。足音が変わった。階段にかかったのだ。
(もう大丈夫だわ。戻ってくることはないわね)
久美は、にっこりと笑って今届いたばかりの宅急便の包みをまるで赤ん坊を抱く母親のように抱えて部屋に戻った。包みは、茶色の分厚い包装紙にくるまれた30センチほどの正方形のもので、高さは15センチばかりだろうか? 表に配送用のシールが貼られている。
発送人は『株式会社セシール』。男性ものも扱っているが、ほとんどが女性ものの通販会社だ。包みの宛先には『前島久美』と書かれている。配達人は、玄関に出た久美に向かって「『まえじまくみ』さんのお宅ですか?」と尋ねた。久美が「そうです」と答えるとそれ以上詮索されることはなかった。
包みを開けようとして、カツカツカツと言うハイヒールらしい靴音に気づいて久美は立ち上がった。ドアの外の物音に聞き耳を立てていると、靴音は奥の部屋の方へと遠ざかっていった。一番奥の部屋に住む年増のOLのようだ。部屋の外に誰もいないことがわかっていたけれど、音がしないようにそっとドアの鍵を掛けた。
(ふうう。危ない、危ない。鍵をかけ忘れていたわ)
冷や汗も出ていないのに、汗を拭う格好をしながら部屋に戻ると、今度は窓際に近寄ってカーテンに隙間がないかどうか確かめる。隙間があったとしても、窓の外は隣のアパ−トの壁で、他人から久美の部屋の中を覗かれる心配はないのだが、気になって確かめたのだ。
窓にも鍵を掛け、カーテンをもう一度きちんと引くと、久美はもう一度ふうと溜息をついてから包みのそばに腰を下ろした。
(さて、カタログ通りのものが入っているかな?)
久美はどきどきしながら包みを開いていった。茶色の包装を取り除くと同じく茶色の箱が出てきた。テープを剥いで箱を開くと、中にもうひとつの箱が入っていた。その下にはビニール袋が入っている。久美はまず箱の中身を出した。中から出てきた茶色の固まりを目の前にかざしてみた。
(安い割には結構いいじゃないの)
浮き浮きしながら、今度はビニール袋の中身を取り出した。
(思った通りの色合いだわ。これなら満足できそうだね)
久美は、早速準備に取りかかった。まず洗面所に行くと、小さなケースの蓋を開けた。中にはコンタクトレンズが入っている。久美は、度のきつい眼鏡を外すと鏡に向かってコンタクトレンズを装着した。眼鏡を外しただけで、ずいぶん印象が変わるものだと久美は自分ながら感心する。
それから、着ていたTシャツを脱いで洗濯機に放り込んだ。右手を挙げて腋の下を点検する。前日の夜、風呂場で剃った腋はツルツルだ。
「ランランラン」
久美は、ステップを踏みながら洗面所から部屋に戻った。そうしてから、クローゼットを開いて足元に置かれた衣装ケースを開けた。
「今日はどれにしようかな?」
ピンク系、イエロー系、ブルー系のパステルカラーのブラジャーを手にとって楽しそうに選ぶ。
「これにしよう」
久美は淡いピンク色のものを手にして衣装ケースの蓋を閉じた。クローゼットを閉じると、久美は手慣れた手つきでブラジャーを身につけ始めた。
少し前屈みになってストラップを通し、背中に手を回してホックを留め、ストラップの位置を調整した。
(もう少し大きくなるといいのにな)
久美はオイルのパッドによってBサイズに押し上げられたAAAサイズのブラカップを両手で包み込みながら呟く。
呟きながら、穿いていたソフトジーンズのベルトを緩める。ジーンズを下ろしていくと、真っ白な総レースのショーツが姿を現した。久美のお気に入りのものだ。
ジーンズをさらに下ろすと、細く長い足が露わになる。『綺麗なお姉さんは好きですか?』のコピーで有名なナショナルのソイエを使って処理した久美の足にはむだ毛は一本もなく、その足を見ただけで、男がみんな欲情するほど綺麗な足だ。もちろんVラインも綺麗に処理されている。
ブラジャーと一緒に取り出して置いたパンストに足を通すと、久美はビニール袋から中身を取り出して目の前にかざした。
(きっと似合うわ)
背中部分のファスナーを下げてから、頭からかぶり身体をちょっと揺すってからファスナーをあげた。
「ピッタリ」
久美は、胸から腰に両手をはわせて満足そうに呟いた。
「さあ、この服には今の髪型は合わないわ」
髪の毛をブラシで梳いてからネットをかぶり、茶色の固まりを広げた。それは、カールのかかったセミロングのウイッグだ。位置を見ながらそれをかぶり、ブラシで調整すると、鏡に可愛い女の子が映っていた。
「素顔でも可愛いんだよね。わたし」
弱酸性の洗顔剤と乳液で整えられた素肌はピチピチだ。ニッコリ微笑みながら、それでも化粧を始めた。
両手に化粧水を取って叩くようにして肌に広げていく。それからリキッドファンデーションを薄く塗り広げた。ハサミで切りそろえられた眉に一本一本植え付けるようにラインを引く。アイラインとアイシャドウを入れてから、マスカラで睫をくるりとカールさせる。チークさらにルージュを施す。ルージュはピンク系にした。
「うん、いい仕上がり」
顔を左右に振ってみて、久美は満足げに微笑んだ。
「こんなに可愛い子を放っておくなんて、世の中の男は見る目がないわ」
デートする相手がいないことを言い訳する。
「ケーキでも食べよう」
アップルティーを入れると、いい香りが部屋中に広がった。シュガー抜きのアップルティーを飲みながら、久美は冷蔵庫から出してきたモンブランを口に運んだ。
「うん、美味しい」
食べ終わると、ティーカップと皿を流しできれいに洗って食器棚に戻し、テレビのスイッチを入れた。
「1万円以内で泊まれる隠れ宿かあ。彼氏と行ってみたいな」
そう呟きながら、久美はぼんやりと画面を眺めていた。
午後5時半近くまでその旅番組を見ていた。
(夕食、作らなきゃ)
久美はキッチンに向かって夕食の準備を始めた。エプロンを掛けて包丁を動かしていると電話が鳴った。
「もしもし、前嶋です」
「ああ、久美か? 明日は、いるか?」
「いるけど・・・・」
大学時代の先輩の北村良介からの電話だった。久美の方はただの先輩としてつき合っているのだが、北村は久美のことがお気に入りらしく、時々遊びに来ていた。
「じゃあ、9時頃行くから」
「9時? ちょっと早いよ」
「じゃあ、9時半」
「・・・・わかった」
たまの休みだからゆっくり寝ていようと思ったのになと久美はちょっと口を尖らせた。
「ま、いいか。北村さんの話も結構おもしろいから」
久美はできあがった料理と茶碗に注いだ飯をテーブルに持っていくと、両手を合わせていただきますと小声で言ってから箸を動かした。
夕食の片づけを終えると、久美は再びテレビの画面に目を向けた。睾丸の癌で睾丸を取ったとか言うちびの丸顔を男と、痩せた口の悪い男のコンビがやっている番組だった。
「このふたり。最近売れてるみたいね」
久美は、肩の凝らないバラエティーが好きだ。チャンネルを回して午後9時までそんな番組ばかりを見ていた。
9時前のニュースが始まると、久美はテレビを消して部屋の明かりも落とした。それから、部屋の隅に置いてあるベッドに腰掛けて妄想を始めた。
(今日は慎吾ちゃんにしようかな)
久美はSMAPの香取慎吾を思い浮かべる。背の高いかっこいい香取慎吾を思い浮かべようとするのに、どうしても慎吾ママしか浮かんでこない。
(もう・・・・。どうしてよ!)
もう一度香取慎吾を思い浮かべる。男の姿が思い浮かんだけれど、顔は北村だった。
(お呼びじゃないわ!!)
久美は、顔は無視して、ともかく背の高い男を思い浮かべ、ワンピースの上から両手で乳房を揉み始めた。
「あ、いい・・・・」
ひとしきり乳房を弄んだあと、久美はスカートをまくり上げて股間に手を伸ばした。パンストの上から、股間を優しくなぞっていく。
「はあ・・・・」
パンストの下に、そしてショーツの下に手を伸ばして堅くなったものを指の腹で弄ぶ。しばらくして久美は、指の先にベタリとした粘液を感じた。中指をさらに後ろへ回し、ヒクヒクと痙攀しているホールの中へと進めていった。
中指を出し入れしながら、親指は堅さを増した隆起を刺激し続ける。
「ああ、慎吾ちゃん。もうだめ。行っちゃう・・・・」
ガツンとショックを感じ、久美は絶頂を迎えた。中指が不規則に締め付けられるのを感じながら、久美は眠りに落ちていった。
目を覚ますと、部屋の中はすでに明るくなっていた。時計は午前8時を回っていた。
「そうだった。北村さんが来るんだった!」
久美はベッドから慌てて起きあがった。久美が排出した粘液でショーツが濡れていて冷たかった。その粘液をティッシュで拭き取ると、スカートがショーツに触れないように左手で裾を持ち上げてトイレへ入り、ティッシュを流した。それから、ワンピースを脱いで汚れていないか点検する。
「大丈夫」
手を洗ってから、ワンピースを畳み、ウイッグ、ブラジャーとともにクローゼットの中の衣装ケースの中に納めた。
それから、バスルームへ飛び込んで、シャワーを浴びながらショーツを脱ぎ、そのまま洗った。
「どこに隠そう・・・・」
干してあるショーツなんて見られたくなかった。久美は、洗濯機の中の一番底にショーツを押し込んで隠した。
「こんなところを覗かないよね」
一安心して、久美はボディーシャンプーで身体の汗を洗い流した。化粧も完全に洗い流した。
体を拭くと、久美は髪の毛を櫛で73に分ける。それから、クローゼットの中にあるもうひとつの衣装ケースの中からトランクスとTシャツを取り出して身につけ、ベッドの足元付近に放り出していたソフトジーンズを穿いた。
「さてと・・・・」
久美は部屋の中を見回す。セシールの小包は処分してあった。
「他には・・・・」
ベッドの上を見る。問題ないようだ。安心したちょうどその時、チャイムが鳴った。時計は、まだ9時過ぎを指しているところだが、北村に違いない。こんな時間に他の人間は久美の部屋にやってこないし、北村はいつも約束に時間より早くやってくるからだ。
「前島! まだ、寝てるのか?」
間違いない。北村の声だ。久美は、急いで玄関に行き、鍵を開いた。
「あ、いらっしゃい」
髭面の、髪の毛がボサボサの、お世辞にもいい男とは言えない男、北村が小さなケーキの箱を抱えて立っていた。
「おまえの好きな、アップルパイを買ってきてやったぞ」
「またですか?」
「またはないだろう? おまえが好きだって言うから買ってきてやったのに」
「・・・・ありがとうございます」
先月だったか、久美がアップルパイが好きだという話しをしたら、北村は久美の部屋に来るたびにアップルパイを持ってくるようになっていたのだ。それも、いっぺんに10個も箱の中に入っていた。
「誰かいるのか?」
「あ、いえ、誰も」
久美が部屋の中を振り返るものだから、北村は中を見回しながら行った。実際のところ、久美は何か見落としがあるのではないかと心配で振り返ったのだ。
北村は、ズカズカと部屋の中に入ると、テーブルの上にアップルパイの入った箱を置いてどっかと腰を下ろした。
「この前のアップルティーだったか、あれがうまかったな。入れてくれ」
久美は何も言わずに、アップルティーの準備を始めた。北村の方も結構な甘党で、久美が準備をしている間にアップルパイを一切れ手にとって噛っていた。
「どうぞ」
カップに入れたアップルティーを差し出すと、北村はフウフウと口で吹きながらカップに口を付けた。
「このアップルティーはホントうまいな」
「そう?」
「ところで、女ができたのか?」
突然の北村の言葉に、久美はアップルティーを吹き出した。
「な、なにを言い出すんですか?」
北村は、クンクンと鼻を動かす。
「化粧の匂いがする。先月くらいから、どうも匂うなと思ってたんだが、今日はかなり匂う」
自分が化粧していたなんて言えないから、久美は下を向いて言い訳を考える。
「洋子って言ったかな? 前の彼女。彼女に振られて半年だからなあ。そろそろ彼女ができてもおかしくはないんだが」
「ま、まあね」
そう答えるしか答えが見つからない。
「紹介しろよ」
「まだ、そんな仲じゃないから」
お茶を濁すが・・・・。
「ベッドの中に残り香を残す仲でか?」
「そこに座ったからだよ」
「ほう・・・・。で、こんなところに口紅が付くわけだ」
北村はベッドの上の掛け布団をめくって見せた。そこには、ピンク色のルージュが付いていた。
言い訳を考えていると、北村がさらに追い打ちを掛けた。
「ザーメンの臭いもするな」
「わかりましたよ。彼女ができました。昨日、寝ました。これでいいですか?」
久美は、自分の秘密を隠し通すにはそう答えるしかないと思った。
「照れやがって。で、美人か?」
北村が久美の顔を覗き込む。
「あ、ええ。まあまあですね」
「まあまあ? 面食いのおまえがまあまあか?」
「・・・・ま、人並み以上だとは思いますが」
久美は、化粧をした自分の顔を思い浮かべながら答える。実際に、化粧した顔はかなりのものだとは久美は思っていた。
「一度会わせろよ」
「あ、まあ。そのうちにですね」
「水くさいなあ。俺とおまえの仲だろう? 隠すことはないだろう?」
「北村さんがちょっかい出すといけないから」
「俺がそんなことをしたことがあるか?」
久美は北村の顔を見る。それもちょっと睨み付けるように。北村は、目を逸らしてアップルティーを口に含みながら言い訳がましく言った。
「あれは俺の方が誘ったんじゃなくってさあ・・・・」
洋子の前に付き合っていた彼女、純子と別れる羽目になったのは、北村が純子に手を出したことに他ならないのだが、久美はそのことをハッキリとは言えなかった。久美は気が弱い。ただそのためだ。純子の前につき合っていた洋子との仲が破綻したのも、どうも北村のせいではないかと思っている。
気まずい時間が流れた。つと北村が立ち上がった。
「また来る」
何か用事だったのではと尋ね掛けて、久美は言葉を飲み込んだ。どうせ大した用事もなくて来る人だからだし、こんな雰囲気では、話も弾まないからだ。久美はホッと胸を撫で下ろした。
北村が部屋を出ていったあと、久美はベッドの布団の中を臭ってみた。ザーメンはおろか、何の臭いもしなかった。
「北村さん、ぼくに鎌を掛けたんだな」
久美は苦笑いをする。
「だけど、女装してマスを掻いたってことを知られるよりましだよな」
心配なのは、これから先、北村から毎日のように居もしない彼女に会わせろと言われることだ。
「困ったなあ・・・・」
誰か彼女の振りをしてくれる女はいないか考える。しかし、どう考えてもそんな女性は思い当たらなかった。
「急いで彼女を作る・・・・」
そんな気にならなかった。久美は、女装して化粧した自分の姿を思い浮かべた。若い頃の母に生き写しの自分。大好きな母に似た自分。これ以上の女性は見つかりそうもないと思った。久美は自分自身に惚れていたのだ。ただ、そのことに久美自身は気づいてはいない。
そんな思いにふけっているとき、突然の電話に心臓が口から飛び出しそうになった。
「もしもし、前嶋です」
《クミちゃん、元気?》
「クミちゃんなんて呼ぶなって言ってるだろう! いったい何の用だよ」
相手は、久美の姉だった。久美の姉、輝美は久美より三つ年上で、半年ほど前結婚したばかりだ。10年前、母が胃癌でなくなってから、母親代わりを務めてきた。だから、こうして時々電話を掛けてくるのだ。
《あら? 今日はご機嫌斜めなのね》
「だから! クミちゃんなんて呼ぶなって言ってるの!!」
《わかった、わかった。ヒサヨシ、最近遊びに来ないけど、体の具合でも悪いの?》
「仕事が忙しいんだよ」
《仕事? 仕事が忙しくたって、ちょっとくらい寄れるでしょう?》
「新婚さんの家に、そうそう行けるかよ。イチャイチャするのを見せつけられるだけじゃないか」
《あら? そんなにイチャイチャなんてしてないわよ》
「してるさ」
《そうかなあ?》
「修ちゃん、おいしい? とか、修ちゃん、まだたくさんあるわよ、とか、聞いてられないよ」
《普通だと思うけど》
「普通じゃないよ」
《ま、いいわ。で、どうする? 今晩あたり夕食でも食べに来ない?》
「忙しい」
久美はにべもなく答える。
《たまにはおいでよ。修ちゃんも一緒に飲む相手を欲しがっているから》
「姉貴が一緒に飲めばいいじゃないかよ」
《そう言わないでさあ》
「今日は日曜日だよ。ゆっくり飲めないだろう?」
《そっかあ。じゃあ、来週の土曜日。土曜日だったらいいだろう?》
久美はちょっと考える。土曜日の夜は、お楽しみの日なんだけどと。しかし、姉の誘いをむげに断るわけにもいかなかった。
「今度の土曜日だね」
《必ず来るのよ。ごちそうを用意して待ってるから》
「わかったよ」
《じゃあね》
電話が切れたあと、苦労しているのに姉は明るいなと久美は思った。母が死んだとき、姉は推薦で大学に合格していた。だけど、進学を諦めて小さな食品会社に就職して家計を支えた。父も肝臓が悪くて、入退院を繰り返していたから仕方がなかったのだ。その父も4年前に死んだ。輝美は、義兄となった太田秀一に結婚を申し込まれたとき、久美をひとりにできないと言っって、久美が大学を卒業するまで結婚しなかったのだった。
(いい姉なんだけどなあ・・・・)
そうは思うが、輝美が久美のことを『クミちゃん』と呼ぶのにいつも頭に来ていた。親しみを込めてそう呼ぶことはわかっていたのだが、やっぱり頭に来る。
久美の名前は、『ヒサヨシ』と読むのだが、そのまま漢字で書くといつも女と間違われる。初めからこんな紛らわしい名前を考えていたわけではなく、父が戸籍を届るときに、『義』と書くところを『美』書き間違ったせいらしい。だから、久美は、普段は自分の名前を『久義』と書いている。『久美』と書いて『ヒサヨシ』と読むのを知っているのは、ごく身近な人間だけだ。
(女装用のアイテムを注文するときには便利だけどなあ・・・・)
それ以外に、メリットはひとつもなかった。女装していること以上に知られたくない秘密だった。