第3章 心機一転のために

 2週間たったけれど、新しいバイトは見つからない。もう一度親父の知り合いの警備会社に頼んでみてあげるとお袋が言ったけれど、あそこはどうも乗り気がしない。どうしようもない息子を雇ってやってるんだと言う雰囲気が見え見えで、恩着せがましくされるのが随所に見えてどうも気に入らないのだ。
 (恵子に会いに行こう)
 恵子のところにいると、何もかも忘れられるからだ。あの最中だけ、ほんの少しの時間だけど。

 『この電話は現在使われておりません』
 そんなアナウンスに、俺は電話番号を間違えたと思った。しかし、番号を一つ一つ確かめながらもう一度電話した結果も同じだった。
 (どうしたって言うんだ?)
 俺は恵子の住むアパートへバイクを飛ばした。

 表通りに出て100メートルも行かないうちに、ストップと書かれた大きな旗が俺の行く手を遮った。
 (しまった。ねずみ取りだ)
 いつもこのあたりでやっていることがわかっていたのに、恵子に連絡が付かないことで焦っていてすっかり忘れていた。
 制服の警察官がにやりと笑って、俺を脇の広場に入れと命じた。
 「免許証を」
 係りの警官が、表情も変えずに手を出した。俺もブスッとして免許証を差し出した。
 「急ぎの用事でもあったのかい?」
 「あ、まあ」
 「23キロオーバーだよ」
 (一発免停ぎりぎりだ)
 そう思ったけれど、すぐにそれが誤りだと気づいた。あと2点しか残っていないのだ。
 (あああ、これで免停だよ)
 「そこに住所と名前を書いて」
 促されるまま、書類に書き込んだ。
 「急がば回れ。安全運転でね」
 「・・・・はい」
 (ねずみ取りみたいな卑怯なことをするな!)
 と喚いてやりたかったけど、喧嘩したってしょうがない。俺は、ぺこりと頭を下げて、取り調べ用の車を降りた。
 通りに出て走り出してから無性に腹が立った。もちろん自分にではなく、ねずみ取りをしている警察に対してだ。
 (こんな広い道路が何で40キロなんだよ!!)

 焦る気持ちを抑えて、50キロ走行で恵子のアパートまで走った。
 「恵子! 恵子!!」
 ドアを叩いてみたけれど、恵子は姿を現さない。思いついて電力計を見上げてみた。
 (全然回っていない・・・・)
 外出しているときでも、冷蔵庫などは電気を食うから少しは回っているはずだ。それがまったく回っていないと言うことは・・・・。
 「杉下さんは、引っ越されましたよ」
 俺があんまり騒がしくするもんだから、隣の部屋に住むおばさんが顔を覗かせてそう言った。
 「い、いつのことですか?」
 「えっとねえ。確か、先週の金曜日だったかねえ」
 「先週の金曜日・・・・」
 6日前だった。信じられなかった。引っ越すなら引っ越すで、連絡くらい入れてくれてもいいはずなのに、恵子が俺に内緒で引っ越してしまうなんて。ずっと連絡しなかったのが悪かったのか?
 「なんでも、結婚するらしいわよ」
 そんな言葉を俺の悲嘆に追い打ちをかけた。
 「結婚!! ほんとですか?」
 「ええ。背の高い、いい男の人が手伝いに来ていたわ」
 (いったい誰だ?)
 「すんません」
 俺は、ぺこりと頭を下げると恵子が住んでいたアパートを後にした。

 (どこ行ったんだろうか?)
 そのあたりにいるはずがないのに、俺はバイクを走らせながら、キョロキョロと見回した。
 (携帯、取り上げられたからな)
 働かないで、家でゴロゴロしているばかりだから、つい三日前、お袋に携帯を取り上げられてしまっていた。
 俺は、公衆電話を見つけるとバイクを停めて、恵子の実家のダイヤルを回した。
 「あ、すみません。純一君いますか? 三原です」
 《三原君・・・・》
 電話口に出た純一の母親の声は、おかしな反応だった。ま、おかしいのは当たり前かも。俺が、恵子とつきあっているのに薄々感ずいているはずだから。
 《和己か? 俺だけど》
 しばらくして出てきた純一の声はぶっきらぼうだった。
 「ああ、純一。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
 《聞きたいことって、姉貴のことか?》
 俺が電話した理由を察しているようだ。
 「ああ、そうなんだ。どっか、引っ越したのか?」
 《隠してもそのうちわかるだろうから言うけど、中央町のマンションに引っ越した》
 「中央町のマンション? 何って言うんだ? そのマンション」
 《聞いてどうするんだよ》
 いつもの純一とはまったく違った口調だった。
 「会って話をしたいんだ」
 《姉貴とはもう会わないでくれないか?》
 「どうしてだよ」
 《聞いてないのか?》
 恵子の住んでいたアパートの隣のおばさんが言っていた言葉がよみがえってきた。
 『なんでも、結婚するらしいわよ』『なんでも、結婚するらしいわよ』『なんでも、結婚するらしいわよ』
 《姉貴。今度、結婚するんだ》
 「嘘だろう?」
 《嘘じゃない。ほんとだ》
 他人じゃなくて、身内である弟の口から聞いて俺は愕然となった。
 《姉貴につきまとわないでくれないか?》
 「つきまとうなんて・・・・」
 《おまえと姉貴がどこまでのつきあいかはわかってるつもりだ。だけど、こうなったからには、おまえには手を引いてもらうしかないんだ。なあ、わかってくれよ》
 (何をわかってくれと言うのだろうか? 俺は恵子を愛していたし、恵子も俺を愛していると言ったのに・・・・)
 「誰だ? 相手はどんなやつなんだ?」
 《姉貴の2級先輩だ。来年の春、医学部を卒業して医者になる》
 「医者・・・・」
 《おまえの太刀打ちできる相手じゃない。わかったろう?》
 (医者とプー太郎。天秤にかければ、どちらを取るか一目瞭然だ。恵子は、愛よりも経済力と地位を選んだと言うことか?)
 純一の口振りが、そのことを肯定していた。
 「恵子と、おまえの姉さんと話がしたい」
 《話してどうなるって言うんだよ。もう一緒に暮らし始めているんだぞ》
 純一の有無を言わせぬ言葉が俺の胸に刺さった。
 「・・・・わかったよ」
 俺は力無く受話器をおろした。
 「ひどいじゃないか! 俺を愛しているっていったのに!!」
 俺は、電話ボックスの中で喚き散らして泣いた。俺が泣いたのは、覚えている限りでは幼稚園の時以来だっただろう。

 恵子の住んでいるマンションに押し掛けて、『あんたの相手は、こんなにふしだらな女だ』と、相手の男に言ってやりたかった。だけど、それでどうなるというのだろうか? そんなことをしたら、俺を裏切ったと思って後ろめたく思っている恵子から、完全に愛想を尽かされるだろう。
 (恵子よりもっといい女を見つけて見返してやろう。そうだ。それがいい)
 俺は結構立ち直りが早い。

 それでも、俺はイライラしていた。何キロも離れていない場所で、恵子が幸せそうに俺以外の男に抱かれていると思うと、どうしようもなく苛つくのだ。
 「お袋。俺、東京へ行きたいんだけど」
 一ヶ月ほどたったある日の夕方、食事をしながら、俺はお袋に頼んだ。
 「東京? 東京へ行ってどうするのよ」
 「こっちじゃいい仕事もないし、心機一転やり直すためだよ」
 「心機一転って、あんた、やれるの?」
 「息子を信じられないのか?」
 「信じられるようなことをしてないでしょう?」
 そんなことを言われれば、返す言葉もない。
 「・・・・こっちにいても、このままだろうから」
 お袋は箸を置いて、じっと俺の顔を見ていた。
 「・・・・そうね。ひとりになれば、かえってやれるかもね」
 「俺もそう思うんだ」
 「決心は固いの?」
 「ああ」
 「ほんとに一人でやれる?」
 不安そうな顔を俺に向けた。
 「やってみせるよ」
 こうなれば意地を張るしかない。
 「わかったわ。お父さんに相談してみるから。返事は明日まで待ちなさい」
 「わかった」
 親父はなんと言うだろうか? 『すぐにしっぽを巻いて帰ってくるから、勝手にさせろ』とでも言うだろうか?
 俺が風呂に入っている間に、お袋は親父に電話をしていた。親父は今は大阪にいるはずだ。税務署に勤めていて、ずっと転勤族だ。小さい頃、何度転校したか知れない。俺が中学にあがったときからは、俺の教育のためにと単身赴任していた。

 翌日、朝起きるとお袋が飯の入った茶碗を俺に差し出しながら言った。
 「お父さん、可愛い子には旅をさせろですって」
 「それって、いいってことだね」
 俺は思わず笑みを浮かべた。
 「そうよ」
 「やったあ」
 「それでね。まず住むところから確保しなければならないでしょう」
 「ああ」
 「上野さんって、覚えてる?」
 俺は記憶を辿る。
 「上野さんって、あの禿のくせにやけに髭が濃いおっさんのこと?」
 「そう。あの上野さんは東京なの」
 「へえ。そうだったの」
 東京なんて似合わないと俺は思った。
 「高田馬場に何件かアパートを持ってるのよ」
 「わ、すっげえ」
 「昨日お父さんが電話をしてみたら、1Kだけどいい部屋があるから貸してやるって」
 「高いんだろうね」
 「お父さんの頼みだから、敷金も何もなしで、月一万円でいいって」
 「一万円!? ほんとに?」
 「嘘言っても仕方ないでしょう?」
 「そりゃそうか。親父と上野さんって、どう言う知り合いなの?」
 「よく知らないけど、大学時代からの知り合いらしいわね」
 「へえ、そう」
 (家賃は親に出してもらおうと思っていたけれど、月一万円なら俺が払えそうだ。頭を下げる手間が省けた。)
 俺は捕らぬ狸の皮算用をやっていた。

 その日の午後、上野さんからファックスで道順を書いた地図が送られてきた。
 (こりゃ、都心に近いや)
 俺は地図を眺めながら一人悦に入っていた。
 「和己! 持っていくものくらい自分で用意しなさいよ」
 「何をどうやって持って行けって言うんだよ」
 俺は雑然とした自分の部屋を思い浮かべながら、一人暮らしの部屋に必要なものを思い浮かべた。
 「あら? 着替えだけでいいわよ。言ってなかったかしら」
 「着替えだけ? どうして着替えだけなんだよ。テレビとかタンスとかはどうするんだよ」
 「備え付けがあるらしいのよ」
 「備え付け!?」
 「そうよ。テレビから冷蔵庫、家具に至るまで一切合切あるって」
 「へえ。それで一万円なの?」
 「放っておくより使ってもらった方がいいんだって」
 「そんなもんなの?」
 (なんだか、ものすごく得した感じ)
 俺はさっそくバッグの中にお気に入りの服を詰め込んでいった。
 「冬物は後で送ってくれるよね」
 「冬まで頑張れたらね」
 俺は肩をすくめた。
 (東京行って、一旗揚げて故郷に錦を飾るぞ。・・・・なんて古い言い方だろうか? ともかく、恵子を見返してやらなきゃ)
 俺はいつになく固く決心していた。

 その日の夜、親父から電話が入った。
 《お母さんは、はっきり言っておまえの一人暮らしには反対している。おまえにできるはずはないと言ってるんだ》
 (そんなことはない!)
 口に出して言えずに、俺は心の中で叫んでいた。
 《しかし、わたしはおまえを信じている。おまえは甘えているだけだ。一人になったら、必ずやり遂げられると思う》
 そんな言葉にちょっと意外な気がした。親父はいつも俺のことを根性なしだと言っていたからだ。
 《お父さんの期待を裏切るなよ》
 「うん」
 《上野さんに言えば少しは助けてくれるだろうが、できるだけ一人でやれよ。いいな》
 「はい」
 《軍資金として、5万だけやる。あとはおまえ一人でがんばるんだぞ》
 「たった、5万なの?」
 《それでも多いと思ってるんだ。贅沢言うんじゃない》
 「・・・・わかったよ」
 《お母さんに代わってくれ》
 親父は、お袋に何か話していた。お袋は、『5万円ね』『わかったわ』『そうする』とか受話器に向かって言っていたから、親父の指示を受けているようだ。
 「はい。これ5万円ね」
 お袋が俺に封筒を手渡してくれた。
 「それから、これはわたしからの餞別」
 もうひとつの封筒には、1万円が入っていた。
 「もう少しあげたいけど、それが精一杯だから」
 「いいよ。ありがとう」
 「ところで、何で行くの?」
 「何で行くのって、東京だから飛行機が一番速いだろう?」
 「飛行機乗ってたら、お金がなくなるでしょう?」
 「あ、えっ? 交通費は出してくれないの?」
 「交通費も込みで5万円だって。お父さんが」
 「ひどいなあ」
 「ひとりで生きていくのは楽じゃないってことを教えたいんでしょう?」
 それはお袋の意見でもあるようだ。
 「しかたないな。じゃあ、バイクで行くよ。バイクがあったら、向こうでも機動力を発揮できるから」
 「バイクねえ。危なくない?」
 「大丈夫だろう?」
 「そう・・・・。気を付けるのよ」
 「うん・・・・。あ、忘れてた」
 俺は重大なことを思い出した。
 「どうしたの?」
 「昨日、ねずみ取りに捕まったんだ」
 「ねずみ取りに?」
 「すぐに免停がくるなあ」
 「じゃあ、バイクはダメね」
 「仕方ない。・・・・どうしよう」
 バイクがだめだとなると、飛行機かJRしかないのだが・・・・。
 「飛行機で行くには、空港バス代も考えて、三万三千円くらいかかるわね」
 「手持ちの半分以上だよ。とんでもないよ」
 「じゃあ、JRね」
 「うん」
 「鈍行で行けば、たしか一万四千円ちょっとだけど、時間がねえ」
 母はメモを取り出して俺に見せた。いつの間にか東京に行く料金をいろいろな経路で調べていた。
 「乗ってるだけで疲れちゃうよ」
 「新幹線使う?」
 「いくらかかるの?」
 「ひかりなら、二万二千円くらいかな?」
 俺は腕を組んで考える。
 「寝台は?」
 「二万七千円くらいよ」
 「寝てる間にいけると思ったのに、ひかりより高いんだね」
 「そうね」
 「あ、そうだ。飛行機はスカイメイトが使えるんじゃあないの?」
 「そうね。その手があったわね」
 お袋が空港に電話をかけ始めた。話が終わるとニッコリしてVサインを出した。
 「今の時期は暇だから、たいてい乗れるって。料金も二万円もかからないわ」
 「じゃあ、飛行機にしよう」
 翌日、朝早くから空港まで行って、空きの飛行機を待つことにした。

 バス代節約のために、お袋が空港まで送ってくれると言うので、俺はバッグを抱えてライフの助手席に乗り込んだ。
 駅までの道すがら、ぼんやり外を眺めていると、市内で一番大きなホテルの前の信号で止まったとき、結婚式の表示が目に入った。『日下家・杉下家結婚式場』と書かれていた。
 (恵子の結婚式は今日だったのか。今日は6月最後の土曜日で大安。ジューンブライドって訳だ。くそ! ほんとだったら、俺が新郎だったのに・・・・)
 「和己、どうかしたの?」
 「いや、なんでもない」
 俺は悔し涙をお袋の目から隠して外の景色を眺め続けた。