第16章 日下の元へ

 横溝医院での看護婦見習いとしての生活も3ヶ月を迎えた。外来診察の介助、採血、静脈注射など、俺はベテランの看護婦と同じレベルに達していた。俺がこれだけ熱心に3ヶ月も同じ仕事をやれるなんて信じられないことだけど、これも日下と真那との生活を夢見て一生懸命努力している結果だ。人間、目標があれば、どんな努力だってできる。あのころの俺には何の目的意識もなかった。それがすべての原因だ。
 「これくらいやれたら、特殊な開業医でなかったら、看護婦としてやっていけるな」
 「ありがとうございます。みんな、先生のおかげです」
 俺は、深々と頭を下げた。
 「傷の状態も完全だから、もう彼氏とセックスしてもいいぞ」
 俺はポッと顔を赤くした。
 「それで、先生にお願いがあるんですけど」
 「なんだ? できることなら、何でもやってあげるよ」
 「大分に、看護婦としての就職口を斡旋していただけないかと思って」
 「大分に? 看護婦として?」
 「はい」
 「大分には彼氏がいるんだな」
 「・・・・はい」
 「結婚するのなら、何も働く必要はないだろうに」
 「ちょっと事情が・・・・」
 「そうか。まあ、それは聞くまい。うん、確か、大分には、俺の後輩が開業している。ありふれたただの内科だから、君なら十分やっていけるだろう。今から電話をして、推薦状を書いてあげるよ」
 「無理を言って申し訳ありません」
 「いいさ。わたしが手術した患者が幸せになるためだ」
 横溝は、俺に笑顔を向けた。

 横溝医師が紹介してくれた病院は、50床の内科病院で看護婦寮もあった。院長との約束の日、俺は例のトキ色のアンサンブルを着て面接に赴いた。
 「横溝さんから推薦された人だね」
 「はい」
 院長は、俺が書いた履歴書をさっと見てから、俺の顔をじっと見た。
 「どうして大分などに?」
 戸籍上の俺の出身地は、青森になっていた。だから、訝るのも無理はない。
 「東京は、人が多くていやなんです。青森は寒いし、暖かいところに行きたいって横溝先生に言ったら、大分に知り合いの先生があるって言われて、紹介していただいたんです」
 「なるほど。・・・・すぐに結婚して辞められそうだな」
 「えっ? どうしてですか?」
 「君ほどの美人は、この大分にはそんなにいない。男が放っておかないだろう」
 「いつも彼氏がいると思われていましたから、ぜんぜん相手にしてもらえなくて」
 相手がいると言えば、腰掛けはだめだと断られそうな気がした。
 「ほう、そうか。そんなものなのか。・・・・ま、いいだろう。少しの間でも、君のような美人がそばにいてくれるだけで嬉しいよ」
 「じゃあ、採用ですか?」
 「ああ。他ならぬ、横溝さんからの推薦でもあるしな」
 「ありがとうございます。・・・・あのう」
 「なんだね?」
 「看護婦寮の方は、空きがありますか?」
 「あ、どうだったかな? 婦長に聞けばわかるが。ちょっとここで待っていてくれたまえ。すぐにここへ来てもらうから」
 院長が出てゆき、しばらくして若い背の高い看護婦が入ってきた。
 「本田さんね。婦長の水島です」
 (へえ、こんな若い人が婦長なんだ)
 俺はちょっと感心してその若い婦長に向かって頭を下げた。
 「あ、よろしくお願いいたします」
 「看護婦寮に入りたいのね」
 「はい。こちらに来たばかりで、まだ住むところを決めていないんです。できれば、寮には入れれば嬉しいんですけど」
 「空きがあるから大丈夫よ。今から案内するわ」
 「お手数掛けます」

 婦長についていった。看護婦寮は、病院の裏手に立っていた。二階建ての割に綺麗な建物だ。
 「10室あって、わたしがこの病院に就職した頃は入り手が多くて抽選だったけど、最近は別のアパートを借りている娘が多くてね」
 「アパート借りても同じじゃないんですか?」
 「このごろの娘は、すぐに彼氏ができるでしょう? ここじゃあ、プライバシーが筒抜けになるから嫌がってね」
 「あ、なるほど」
 「あなたもすぐに外のアパートに出ていきそうね」
 院長と同じことを言った。
 「さあ、先になってみないとわかりません」
 「そう? この部屋を使って。両隣が空いてるから、少しはプライバシーが保たれるでしょう」
 俺が案内されたのは、203号室。201と205に入居している看護婦がいるようだ。
 「ありがとうございました」
 「ところで、仕事の経験は、横溝医院だけね」
 「はい。横溝先生の病院で1年半働かせていただきました」
 卒業してすぐに横溝医院に就職して働いていたという履歴書を提出していた。そうするようにと言う、横溝医師の提案だった。
 「入院患者を診たことは?」
 「いえ。外来だけしか経験がありません」
 「そう。じゃあ、とりあえず、外来勤務と言うことにして、慣れたら、入院に回って貰いましょう」
 「はい」
 「明日は、午前8時に外来へ来てね。他のスタッフに紹介するから。朝食は、病院の厨房横に職員用の食堂があるから、そこですませて。いいわね」
 「はい」
 「今日の夕食も準備させておくから。看護服はMでいいかしら?」
 「はい。いいと思います」
 「すぐに届けさせるわ。じゃあ、明日の8時に」
 俺は、頭を深々と下げて階段を下りていく婦長を見送った。
 (院長先生も婦長もいい人みたいだ)
 俺はホッと胸をなで下ろした。

 ドアを開けて中に入った。ちょっとカビくさい臭いが鼻を突いた。右手に小さなキッチンがあり、左手には狭いけれどバスルームとトイレがあった。共同かも知れないと思っていたのでちょっと安心した。部屋の広さは6畳程度のフローリング。窓際に病院用を流用したと思われるベッドが置かれていた。振り返ってみると、ロッカーがあった。ドアを開いてみると、備え付けの小さな整理ダンスがあった。
 (エアコンも付いてるし、こんないい寮はないな)
 万が一日下と結婚できなくても、このままここで看護婦をやれそうだなと思っていた。
 「本田さんはここですか?」
 ドアがどんどんと叩かれて、少し年の女性の声がした。
 「はい。そうです」
 ドアを開けると、空色の制服にエプロン姿の太った女性が布団を抱えて立っていた。
 「お布団を持ってくるように言われて」
 「すみません」
 布団を受け取ろうとすると、その女性はそのまま俺を押しのけて部屋の中に入った。
 「持っていってあげるわ。奥ね」
 「わたしがやります」
 「いいから。あんたみたいな華奢な人にこんなことをさせられないわよ」
 ベッドのそばに布団をどんと置いて、ベッドの上に敷き布団を広げ始めたので、俺も手伝った。
 「シーツと枕カバーは、毎週水曜日に下のランドリーに朝のうちに出してね。夕方、部屋に戻るときに、新しいシーツと枕カバーをもって上がって換えればいいから」
 「わかりました」
 「あんた。誰かに似てるわね」
 「え? 誰にですか?」
 「えっと、ほら、テレビに出てくる、何とか言う女優さん。・・・・なんて言ったかな、えっと・・・・」
 「仲間・・・・由紀恵・・・・ですか?」
 「・・・・そんな名前だったかしら? とにかく髪が長くて美人の」
 「嬉しいです。女優さんに似てるって言われて」
 「あなた。看護婦なんてやってないで、女優になったらいいのに」
 「まさかあ。わたしなんてだめですよ。才能ないから」
 「才能なんてなくったって、美人だったらすぐに女優にでも何にでもなれるのに」
 「わたしには看護婦がお似合いです」
 「そう? じゃあ、頑張って。あら? 看護服も届るように言われたのに忘れちゃったわ。すぐに持ってくるわね」
 「はい。ありがとうございました」
 (大分の人って、みんな優しいなあ。やっぱ、かえってきて正解だわ)

 翌日、少し早めに起きて化粧してナース服を着た。髪を纏めて頭の後ろにピンで留めてナースキャップをかぶる。こんな作業ももう手慣れたものだ。
 朝食に行くと、看護婦寮にいるらしい看護婦が数人にて、おしゃべりしながら食べていた。
 「おはようございます。今日から働かせていただく本田和美です。よろしくお願いいたします」
 笑顔を返してくれるのもの、ちょっと意地悪そうな表情を見せるもの、いろいろだ。俺は、笑顔を絶やさないようにして朝食の入ったトレーを受け取って椅子に座った。
 「前はどこに勤めていたの?」
 看護婦のひとりが話しかけてきた。
 「東京にある横溝医院って小さな診療所よ」
 「東京から? へえ、こっちに知り合いでも?」
 「ううん」
 俺は首を振った。
 「北国育ちだから、暖かいところがいいと思って。横溝先生が、院長先生と知り合いだったから紹介して貰ったの」
 「そうなの。だから、色が白いのね。あら、そろそろ行かなきゃ。じゃあ、頑張りましょう」
 田代とネームをつけた看護婦は、俺に笑顔を残して食堂を出ていった。ほかの看護婦たちも立ち上がり始めたので、俺も早々に切り上げて、トレーを返却窓口に戻して、病院の裏口へと向かった。

 「今日から働いてい貰うことになった本田和美さんです。みなさん、よろしくね」
 婦長が俺を紹介したが、ここでも笑顔、フンという顔、半々だったろうか? 男同士の場合は、少しくらいいい男が職場にやってきてもこんなことはない。女はこう言ったところがちょっと違う。
 「本田君をボクにつけてくれないか」
 院長のその言葉に、俺はかなりの反感を買ったようだ。しかし、院長のご指名となれば、従わざるを得ない。俺は、院長付きの看護婦をやることになった。
 問題はさらに起こった。

 働き始めて3日目の土曜日、院長は土曜日は休診で、大学から応援の医師がやってくる。土曜日は、その応援の医師の係を仰せつかった。
 「先生、木曜日からうちで働いている本田和美です。これからずっと先生の担当をさせますので、よろしくお願いしますわ」
 「本田です。よろしくお願いいたします」
 頭を下げ、振り向いた医者の顔を見て驚いた。日下だった。日下には、大分に来るとは連絡していたけれど、まさかこんな形で会おうとは思っても見なかった。日下もかなり驚いた様子で俺を見た。
 「あら? 先生? あんまり美人だから、ビックリでしょう?」
 「あ、ああ。ま、よろしく」
 「はい、よろしくお願いいたします」
 二人の関係を悟られてはいけないと思って、俺たちはまったくの他人を装って仕事をこなした。

 その夜、日下から電話が入った。
 《ビックリしたよ。君がそこにいるなんて》
 「わたしも。まさかあなたに会うなんて思ってもみなかったから」
 《明日、会えないか?》
 「だめよ。どこで誰が見ているかわからないんだから」
 《だけど、会いたいんだ》
 「少し我慢してよ。わたしたちが顔見知りだってことを知られたくないから」
 《いつまで我慢すればいい?》
 「何かきっかけを作りましょうよ。わたしたちがつき合う」
 《そうだな。来週行ったときに、君をデートに誘う。一目惚れしたからって》
 「奥さんが亡くなってまだ半年なのよ。ちょっと不謹慎でしょう?」
 《・・・・そうか。じゃあ、どうすれば?》
 「少し様子を見ましょう。そのうち何とかなるでしょう」
 《何とかならなかったら?》
 「何とかするわ」
 《何とかなることを待ってるよ》
 不満そうな声で電話が切れた。俺だって、すぐにでも日下の元に行って抱かれたい。しかし、事をうまく運ぶには、慎重にやらなければ。

 きっかけは見つからず、年末を迎えた。その土曜日は、病院の忘年会が行われる日だった。忘年会には、病院の正式職員は勿論のこと、日下のようなアルバイト医師、製薬会社のプロパーなども参加する。
 診療を終えると、看護婦たちはおめかしに出かけた。髪をセットし、一張羅を着込んで忘年会に出かけるのだ。
 (彼女たちは、何を期待してるのだろう? 独身の医者やプロパーたちがいるから、引っかけて貰おうというのだろうか? そうだ。日下に引っかけて貰ったことにするかな? だけど、ほかの看護婦も日下を狙っているから、そう簡単にはいかないだろうな)
 そんなことを考えながら、髪を梳き、化粧を入念に施して、あのお気に入りのトキ色のアンサンブルを着て寮を出た。
 病院の玄関で、仲良くなった藤本美津子という看護婦が待っていた。
 「加世子のやつ、遅いわね」
 「着ていく服が決まらないんじゃないの?」
 「何着たって同じなのにね」
 「ホント」
 顔を見合わせふたりで笑った。タクシーがやってきた。
 「ちょっと待ってください。もう一人来ますから」
 「お待たあ」
 丸顔の木下加世子が走ってきた。
 「早く乗って。遅刻するわ」
 三人を乗せると、タクシーは都町に向かって走り始めた。
 「日下先生、来るかなあ」
 木下がにこにこしながら言った。日下は、看護婦たちのあこがれの的だから、みんなが期待していた。
 「来るわよ。本田さんがいるから」
 俺はギョッとして藤本を見た。
 「日下先生、本田さんのことが好きなのよ」
 「冗談でしょう?」
 俺は、口を尖らせて藤本を見た。
 「絶対間違いないと思うわ」
 「どうしてよ」
 「こんな美人を放っておくはずがないでしょう?」
 「そんなの何の根拠にもなっていないわ」
 「根拠があるのよ」
 藤本の言葉にちょっとどきどきしながら耳を傾けた。俺たちの行動にどこかおかしなところがあったのだろうか?
 「日下先生ね。いつも冗談ばっかり言うでしょう?」
 「うん、うん」
 木下が頷いた。
 「土曜日の診察日は、冗談のひと言もないのよ。本田さんがいるからよ。好きな人の前では、冗談は言えないって感じ」
 「そ、そうなの?」
 「あなたも感じてたんでしょう? 水曜日の診察日には、隣の診察室が笑い声で溢れているのに、土曜日はどうしてって」
 「あ、まあ・・・・」
 そう言えば、そうなのだ。日下は隠そうとするあまり、いつもと違った行動をしていたのだ。
 「本田さんが来てから、宴会なんて初めてでしょう? 日下先生がどんな反応をするか楽しみだわ」
 (看護婦連中が、日下が俺に気があると思っているのなら、これは幸いだ。チャンスを見つけて日下とつき合うきっかけを作ろう)
 俺は心の中で算段していた。

 「日下先生、まだみたいね」
 宴会場に着くなり、中を見回して藤本が呟いた。
 「さ、くじを引いて、席に座って」
 幹事に言われるままにくじを引いて座席に座った。予定の時刻が5分を過ぎようとして、幹事が宴会の開会を宣言しようとしたとき、日下が姿を見せた。
 「すみません。遅くなっちゃって」
 「おう、日下先生、こっちだ。ここに座ってくれ」
 院長が自分の隣の席指さした。俺とはまったく反対の席だ。
 (酒を注ぎに行くなりしよう)
 そう考えていたとき、日下の後ろに小さな影を見つけた。
 (あれは・・・・)
 その小さな影は、真那だった。日下が真那を連れてきたのだ。俺は思わずほほえんで真那を見つめた。
 「お袋が、腰を痛めて子守ができなくて連れてきたんですけど、よかったですか?」
 日下は院長に向かって言い訳している。
 「かまわんよ」
 「可愛いわね」
 あちこちから、声が挙がった。真那は、宴会場の中を指をくわえて見回していた。
 「ママ!」
 その声に、宴会場の中にいた全員が真那を見た。そして、真那が両手をあげて向かう相手を。真那は、俺に向かって両手をさしのべて走ってきた。
 そうして、そのまま俺の首に両手でしがみついて、膝の上に乗ってしまった。
 「ママじゃないだろう? こっちに来なさい」
 日下が俺に近寄ってきて、真那の手を引いた。
 「ママだもん。ママだもん」
 真那は俺のそばから離れようとしない。
 「困ったな。本田さん。真那を頼んでもいいかな?」
 「ええ、一向に構いませんわ」
 不思議そうな視線を感じながら、俺は真那を抱いていた。

 宴会の途中で眠ってしまった真那を抱いて、日下は一次会が終わると引き上げていった。
 「本田さんが、日下先生のお嬢さんのホントのお母さんってことはないでしょう?」
 藤本が二次会場で俺に尋ねた。
 「まさか。そんなことあるわけがないでしょう? 本ちゃんは、2ヶ月前、大分に来たばかりなのよ」
 「日下先生は、亡くなった奥さんとできちゃった婚だって聞いたことがあるわよ」
 「そうなの? じゃあ、どうして、本田さんのことをママって呼んだのかしら? しかも、ずっと本田さんの膝に抱かれていたでしょう?」
 「さあ? わたしって、日下先生の亡くなった奥様に似てるの?」
 俺はとぼけてそんな質問をした。
 「似てない、似てない。美人だったけど、本ちゃんとは種類が違うわ」
 「なぜかしら?」
 みんな考え込んでいた。俺が父親だからだなんてことは言えないし、言ったって誰も信じないだろう。
 「本ちゃん。将を射ようとすれば、まず馬からって言うでしょう。お嬢さんに気に入られたってことは、うまくいけば、日下先生と」
 「そうよ。日下先生もまんざらじゃないようだし」
 「子持ちだからいやだなんて言わないでしょうね?」
 「あ、いえ・・・・」
 「アタックしなさいよ。応援するから」
 やっかみ半分だった看護婦たちも、もはや競争に負けたことがわかったらしく、仕方ないなと言うような表情を見せた。
 (もしかすると、日下は俺とつき合うきっかけ作りに真那を連れてきたんじゃないかな?)
 そんな気がした。

 俺と日下の結婚話はトントン拍子で進んでいった。
 「いやあ、恵子には悪いけど、初めて会った時から一目惚れでさあ。それに真那も気に入ってくれたから」
 そう言って、親族を説得したらしい。大方はそれで納得したのだけれど、葬式での俺を覚えていた数人からクレームが入った。
 「あの時の人でしょう? どういうこと?」
 「え、そんな人がいたの?」
 と誤魔化してみたけれど、仲間由紀恵に似た美人で、真那がママと呼んで泣きやんだという目撃証言を何人からか突きつけられて日下は狼狽え、白状してしまった。ただし、少し脚色して。
 「ちょうど一年ほど前、東京に出張した時に知り合って、深い関係になったんだ。でもただの火遊びのつもりだった。恵子が死ななければ、そんなに長くつき合うつもりなんてなかった。だけど、恵子の葬式にやってきたとき、あれだけ泣いていた真那が和美のことをママと呼んで嬉しそうな顔をして抱かれているのを見て、和美と再婚しようと思ったんだ。俺自身のためじゃなく、真那のために」
 真那は、俺と会うとママ、ママと呼んで腕に抱かれた。そんな様子を見た親族は、俺と日下の結婚を承諾せざるを得なかった。
 ただ、問題があった。俺が戸籍を使っている本田和美は孤児だったのだ。俺一人が生きていくときには、関わってくる人間が少ないのでよかったのだが、いざ結婚となると、日下の方は、招待する人間が無数にいるのに対して、俺の方はせいぜい病院の関係者だけ。親族が0なのだ。
 「気にしなくていいさ」
 日下はそう言うけれど、両親代わりの人間もいないのかとまたまたクレームが付いた。
 「君の病院の院長が親代わりをしてあげようかと言ってるけど、そうして貰うか?」
 「そうして貰うしかないわね」
 そう言う話がまとまりつつあった。

 《久しぶりだな。どうしてる?》
 聞き覚えのある声の電話が入ったのは、院長に親代わりを頼みに行く日の数日前だった。
 「元気にしています」
 《そうか。元気で何よりだな。ところで、彼氏とは結婚したのか?》
 「いえ、まだです」
 《元気がないな。何か問題でも?》
 「・・・・上野さんが手に入れてくれた本田和美は、孤児でしょう?」
 《ああ。いけなかったか?》
 「いえ、いけなくはないんですけど」
 《いろいろとしがらみがないほうがいいだろうと思ってわざわざ孤児を捜したんだが、何か問題があるんだな》
 「ええ。親代わりになってくれる人がいなくって」
 《親代わり? 親代わりがいなくても、結婚くらいできるだろう? 届けさえ出せばいいんだから》
 「そうも行かないんです。相手の親族の対面があって」
 《ほう。結構な身分の男を捕まえたんだな》
 「・・・・まあ」
 《実はな、今日、君に電話したのは、そんなこともあろうかと思って、身元引受人を捜しておいたんだ》
 「えっ? わたしの?」
 《そう。子供の頃に子供を亡くした夫婦がいてね。君の写真を見せたら、是非養女にして、結婚するときには、送り出してやりたいって言うんだよ。どうだ?》
 「願ってもないですけど。養女になっても、すぐにその方の家を出てしまうんですよ」
 《それはかまわないって言ってるんだ。家から嫁を送り出す。それだけで満足だってね。勿論、時々は遊びに行ってやらないといかんがね》
 「どんな方ですか?」
 《会ってみればわかるよ。ファックスはあるか?》
 「病院にあります」
 《じゃあ、すぐに住所と名前、電話番号を書いて送るからな。一度会って話をしてみなさい》
 「何から何まで、申し訳ないです」
 《たんまり儲けさせて貰ったからな。じゃあ》
 寮を飛び出て、病院のファックスの前で待った。
 (俺の携帯は上野が買ったものだから番号がわかるとして、この病院の電話番号は知らないんだった。すぐに教えなきゃ)
 携帯を取りだして上野にコールバックしようとしたとき、ファックスが作動し始めた。俺は、出てくる原稿を見ていた。
 (上野からだ。上野は、俺がここで働いていることを知っているのか? 横溝医師に聞いていたのだろうか?)
 訝りながらファックス用紙を取り出して、その名前と住所を見て俺は手が震えた。
 (どうして? どうして、ここにこんな名前が書かれているんだ?)
 俺は、すぐさま上野に電話した。
 「上野さん。これはいったいどういうことです?」
 《本人に会って聞きたまえ》
 それだけ言うと電話が切れた。俺はファックス用紙を握りしめた。