第三章 美由紀 その二


 十月十九日午前十時、ジャッキーにお別れを言うと、わたしはジャッキーの買ってくれた服とイヤリングを身につけて、セントラル・パーク・メディカル・センターをあとにした。ドクター・ルーカスにもお別れをしたかったが、出張していて挨拶できなかった。来月にはまた会える。
 メディカル・センターの前にある銀行で、カードを使って五十ドル引き出し、近くのデパートに入って、少々(?)買い物をした。服に合わせたショルダーバッグとそれに入る化粧品のセットを、普段着に着るTシャツ、ブラウス、ジャンパースカート、ジーンズを、それにパジャマ、ブラジャーとパンティーなどなど。
 女性ものはカラフルで、買い物が楽しい。男の格好で母といっしょに買い物したときは、「任せる」といって売り場の外でじっと待っていた。女装して姉と買い物に出掛けたときは、一緒になって「かわいい!」とか「きれい!」とか言いながら買い物をしたものだ。買い物するなら女が一番だ。
 カードで会計を済ませて、買ったものをボストンバッグに詰め込み出口に向かおうとしたとき、アクセサリーに目がいき、ゴールドの細いネックレスと小さな花柄のイヤリングを買ってしまった。
 時計を見るともう正午を回っている。二時間も時間を無駄にしてしまった。

 デパートを出て、タクシーを拾ってロサンゼルス駅へと向かった。若い運転手がバックミラーでわたしをちらちら見ながら、「どこから来たの?」 「どこへ行くの?」 「年はいくつ?」 と駅に着くまで質問攻めにあった。わたしは適当に答えておいた。駅に着くと彼は運転席から降りてきて、ボストンバッグを抱えて付いてきて、わたしが切符を買うまで待っていてくれたあげく、改札口まで送ってくれた。手を振る彼に投げキッスをして、改札を抜けた。わたしが男だったらこうはいかないだろう。女になってちょっとは良いこともあるものだ。
 コンパートメントにはすでに三人の女性が座っていた。白人の親子連れ。母親は三十くらいか? 女の子は七,八歳というところだろう。熊のぬいぐるみを抱えて、無邪気そうに熊に話し掛けている。もう一人は、つんとすました教師風のやはり白人で、片手に持った小説をじっと読んでいた。わたしは、挨拶して座ると、デパートで買ったファッション雑誌を開いた。
 「お姉ちゃん、どこいくの?」
 列車が走り始めて10分ほどしたとき、女の子が可愛らしい声で尋ねてきた。
 「あら、わたし? サンディエゴまでよ。うちに帰るの。可愛いわね、その熊さん。名前は何ていうの?」
 わたしはファッション雑誌を伏せて女の子に笑顔を向けた。
 「これは、スージーよ。ケイトの大のお友達なの」
 「あなたの名前は、ケイトって言うのね。わたしは、ミユキよ。よろしくね」
 「スージー、ミユキお姉さんにご挨拶しなさい」
 女の子は、熊のぬいぐるみに頭を下げさせた。わたしは熊に向かって頭を下げた。
 「今日は、スージー。ミユキです」
 「ごめんなさいね、ミユキさん。ケイトが本を読む邪魔をして」
 母親が横からすまさそうに言った。
 「いえ、とんでもないです。かわいいお子さんですね。おいくつですか?」
 「もうすぐ、八歳になりますのよ。一人っ子で甘やかしているものだから、世話が大変ですわ」
 綺麗な英語だった。育ちがいいみたいだ。
 「どちらまで、いらっしゃるの?」
 「わたしたちもサンディエゴですの。主人が向こうで待ってますのよ。仕事で昨日から向こうに行っているんですけど、今日の午後はオフで、この子を動物園へ連れて行くっていうもんですから」
 「動物園ですか。わたし、ずいぶん行ってないわ」
 三人での会話はとても楽しかった。以前列車に乗ったときのような下卑た男は乗ってこず、気持ちの良い旅だった。ほんとにあの男はいやなやつだったわ。


 駅からタクシーに乗って、メモにあった住所を告げると、「タカハシさんの家なら良く知ってるよ。十五分くらいだな」と運転手は親しそうな口調で言った。
 タカハシ家の前につくと、今度も運転手がドアの前まで、ボストンバッグを運んでくれた。チップをあげるとにこにこしながら、帽子を脱いで最敬礼して去っていった。
 呼び鈴を押すと、色白で丸顔の眼鏡をかけた女性が出てきた。わたしは日本語で話し掛けた。
 「こんにちは。美由紀です。ここは高橋憲治さんのお宅ですね?」
 「あら、待ってたのよ。今日あなたが着くと午前中に連絡があったから首を長くして待ってたのよ。遅いから心配したわ。早く入って」
 満面の笑顔で日本語が返ってきた。久しぶりに聞く日本語だ。ようやく気持ちが安らいだ。
 「ごめんなさい。ちょっと買い物していたから」
 「買い物はこちらに着いてからでも良かったのに。アン、噂の娘が着いたわ」
 養母となる高橋優子は、奥に向かって、大きな声で叫んだ。
 「早く連れてきて、ユウコ! ミユキちゃんの顔が見たいわ」
 奥からハスキーな声がした。リビングに案内されると、ソファーに養母よりふたまわりも体格の良い、ひとの良さそうなおばさんが座っていた。
 「アン、ミユキよ」
 養母が紹介すると、アンというその女性はやはり笑顔を見せながら立ち上がってわたしの手を握った。
 「はじめまして、ミユキ。噂は聞いていたわ。可愛らしいお嬢さんね」
 「ミユキ、こちらはお隣のアン・スチュワートよ。わたしの大の仲良しなの」
 「はじめまして、スチュワートさん」
 わたしもアンの手を握り返した。
 「ユウコ! あなたとちっとも似てないわね。こんなに可愛い娘だなんて想像もしてなかったわ」
 言い方と表情からすれば、ジョークだ。養母は応酬する。
 「まあ、失礼ね。わたしそんなに不細工? アン!」
 「少なくともあなたは美人ではないわね、ユウコ」
 「ミユキは、主人の従兄弟の子供だもの。わたしとは血の繋がりがないから、似てなくて当然だけど」
 「お父さんとお母さん、気の毒に交通事故だったそうね、ミユキ」
 「エッ、ええ」
 そう言うことになっていたなと思い出して慌てて答えた。
 「ミユキが学校へ行っている間に、事故でなくなったの。わたしたち以外に身寄りがないものだから、養女として引き取ったのよ」
 「その話は何度も聞いたわ。あらあら、もうこんな時間だわ。ミユキの顔も見たし、そろそろ帰って夕飯の支度をしなくては。ミユキ、またお会いしましょうね。さよなら」
 アン・スチュワートは、大きな胸とお尻を揺らしながら、養母に見送られて出ていった。わたしも仲良くなれそうだ。養母もいい人みたいだし。
 「美由紀! あなたの部屋を二階に用意してあるの。バッグを持って付いて来て」
 「はい」
 養母について二階の階段を上った。養母は右側並ぶ一番手前のドアを開いた。
 「ここよ。向かいはパパとママの寝室、一番奥はパパの書斎よ。さあ、入って! 新しいベッドとドレッサーを用意しておいたわ。奥がバスルームになっているわ。いつでもお湯が出るからね。着替えてシャワーを浴びるといいわ。今日は、あなたはお客さんよ。夕食の用意はわたしがするから、ゆっくりしててね。夕食ができたら、呼ぶわ。そうそう、パパはいつも午後7時くらいに帰ってくるの。あなたが来るのを楽しみにしていたから、きっと喜ぶわ。それじゃあ、あとでね」
 「ママと呼んでいいんですか?」
 「当たり前じゃないの。あなたは今日からわたしたちの娘なのよ。心配しないで、それから、そんな他人行儀な話し方はやめて、もっと気安くしなさい」
 「ありがとう」
 わたしは、ママ、そう新しいママに抱きつくと声を上げて泣いた。日本には家族は居るけれども、もう会うことは絶対出来ない。わたしは一人ぼっちだった。それが、こんなに優しい人に巡り合えたのだ。嬉しくて、嬉しくてあとからあとから涙が出た。
 「寂しかったのね。もう判ったわ。さあ、シャワーを浴びて。着替えて」
 「はい」
 わたしは、シャワーを浴びて髪を乾かすと、デパートで買ってきたTシャツとジャンパースカートを着て、養母が用意してくれていた可愛い室内履きを履いてリビングに降りた。養母はキッチンでボールの中身をかき回していた。
 「あら、もう降りてきたの。もっとゆっくりしてて良かったのに」
 「何かお手伝いしようと思って」
 「それじゃあ、食器棚の上から二番目にある大きなお皿を出して!」
 「これかしら?」
 「それよ。こっちのテーブルに持って来て」
 わたしは棚から皿を下ろしてテーブルの上に置いた。
 「ほかにお手伝いすることは?」
 「そのお皿にサラダを盛り付けたら終わりよ。あとはパパの帰りを待つだけよ」
 「待たなくていいよ。もう帰っているから。おまえが美由紀かい。よく来たね。待っていたよ」
 振り返ると、頭の禿げ上がった割腹のいい、三つ揃えのスーツを着た養父、高橋憲治がダイニングの入り口に立っていた。
 「あら、もうお帰りになったの?」
 養母は養父のそばに行って頬にキスした。
 「今日、美由紀が来るというから、仕事を早めに切り上げて帰ってきたんだ。美由紀、今日からわたしがおまえのパパだ」
 「はじめまして、美由紀です。今日からよろしくお願いします」
 養父はわたしを抱いてやはり頬にキスした。
 「こんな可愛い娘が出来てうれしいよ。神様に感謝しなくては」
 三人での夕食は楽しいものになった。午後九時、少し早いとは思ったが、養父母におやすみを言って、部屋に戻った。パジャマに着替えると、疲れとここ数ヶ月感じることのなかった安堵感で、あっという間に眠りに就いた。


 翌日、七時に起き出して着替えてリビングに降りると、養母はもう起きて朝食の用意をしていた。
 「あら、美由紀。もっとゆっくり寝てて良かったのよ」
 「夢も見ないで、ぐっすり眠ったから、大丈夫。お手伝いするわ」
 「もう出来てるわ。パパを起こしてきて、七時半には会社に出掛けなきゃいけないのにまだ寝てるのよ」
 「判ったわ」
 わたしは、二階に上がると寝室のドアを叩いた。何度叩いても返事がない。わたしはドアを開いて養父のベッドのそばまで行き、耳元で叫んだ。
 「パパ、もう起きる時間よ。ママがかんかんよ」
 「わっ。もう七時過ぎか。美由紀、ああ、そうか。今日からおまえがいたんだ。早く起きておまえの顔をじっくり見ようと思ったのに今日も寝坊をしてしまった。美由紀、すぐ着替えて降りるから、ポストから新聞を取ってきてくれ」
 「はい。下で待ってます」
 ポストに新聞を取りに出ると、ポストの傍にトレーニングウエアを着た背の高い青年が立っていた。金髪で目はグリーンの、すごくハンサムな青年だ。自分が男だったことを忘れて、思わずうっとりしてしまう。
 「おはよう、ミユキさんだね」
 「おはよう、どなたかしら?」
 「隣のロバート・スチュワートだ。昨日、うちのママに君の話を聞かされたんだ。タカハシ家の養女はすごい美人だってね。それで朝早く起きて確かめに来たんだ」
 笑顔がとてもすてきな人だ。クラクラしてしまう。
 「それで、確かめた結果はいかが?」
 わたしは小首を傾げにっこり微笑んでみせた。
 「ママの言う通りだったよ。君と近づきになれて嬉しいよ」
 「あなたもとてもハンサムだわ。ミユキよ、よろしくね。パパが新聞を待っているから、家に入るわ。よかったら、遊びに来て。パパとママが許してくれたらだけど」
 「大丈夫さ。君のパパとママとは家族も同然さ。ランニングが済んだら、寄らしてもらうよ。それじゃあ」
 走り出したロバートの後ろ姿を見ながら、日本に居る真二を思い出した。ぜんぜん違うタイプなのにどこか似た所がある。真二はどうしているだろう。相変わらず圭子姉さんに付きまとっているのだろうか?
 「遅かったな。どうしたんだ」
 着替えた養父がコーヒーを飲みながらわたしから新聞を受け取った。
 「隣の息子さんのロバートに声を掛けられてちょっとおしゃべりをしてたの」
 「まあ、ロバートったら耳が早いのね」
 「アンおばさんから聞いたって言ってたみたい」
 わたしは椅子に座って養母から野菜ジュースを受け取った。
 「ロバートはいい子よ。サンディエゴ州立大学の法科に通ってて、スポーツ万能なの。ここらの若い娘の憧れの的なのよ。それでどんな話しをしたの?」
 「わたしと近づきになれて嬉しいって言ってた」
 「あなたが気に入ったのよ。アンと親戚になれるなんて嬉しいわ」
 「おいおい、飛躍のし過ぎだよ。まだ付き合ってもないのに」
 「絶対うまく行くに決まってるわ。ねえ、美由紀?」
 「二,三分話しただけだから、判んないわ」
 「わたしがアンに話して、付き合わせるわ。いいでしょう、美由紀」
 「まあ待てよ。そんなに焦るなよ。お隣同士だ。うまく行くもんなら自然とうまく行くさ。おう、こんな時間だ。もう出なきゃ。今日は新聞を読む暇もなかった。行ってくる」
 「あなた、気をつけてね」
 「パパ、気をつけてね。ごめんね、新聞読む邪魔をして」
 「気にするな。じゃあ」
 スーツとアタッシュケースを手にして高橋は玄関へ向かった。
 「新聞なんていつも読んだことなんかないのよ、美由紀。毎日こんな調子なんだから。気にしないでいいわ」
 「おはよう、ケンジおじさん。お邪魔するよ」
 高橋が玄関を開くと、タオルで汗を拭きながらロバートが入ってきた。
 「おお、ロバート。ミユキはもう紹介しなくていいな。中に入って野菜ジュースでも飲んでいけ。わたしは行ってくる」
 「行ってくる、行ってくるっていつまで言ってるの。早く行きなさい!」
 追い立てられるようにして養父は車庫の方へと走り去っていった。ロバートはテーブルのそばにやってきた。
 「ロバート、何か飲む?」
 「ミネラルウォーターでいいよ、ユウコおばさん。ミユキ、再度おはよう」
 ロバートは挨拶がすむとわたしの向かいの椅子に腰掛けた。
 「おはよう、ロバート。ずいぶん早かったけど、どこまでランニングしてきたの?」
 「この家の周りを三周も回った」
 「そんなのでトレーニングになるの?」
 「今日は、トレーニングなんて止めだ。君と早く話す方が大事だ」
 「冗談ばっかり。まだ出会って、何分も経っていないのよ」
 「恋に落ちるのに時間は要らないさ、ミユキ。ぼくは君の虜だ」
 さすがに白人男性は積極的だ。
 「誰にでもそんな台詞を言ってるんでしょ? ロバート」
 「信じてくれよ、ミユキ。ユウコおばさん、ぼくがそんな軽薄な男じゃないことを証明してよ」
 「ううーん、証明してあげたいけど、太鼓判は押せないわね」
 「おばさんまで、そんなことを。ところでミユキは日本ではどこに住んでたんだ?」
 「・・・・ナゴヤ・・・・」
 「ナゴヤ? 知らないなあ。トウキョウから遠いのかい?」
 わたしは、答えられなかった。名古屋の両親と圭子姉さんを思い出し、下を向いて涙を流していたのだ。
 「ロバート、その質問はなしよ。ミユキが亡くなった両親を思い出して泣いているじゃないの」
 「ごめん、ミユキ。ぼくの分別が足りなかった。これからは気をつけるよ」
 「いいの、わたしが涙もろいだけだから」
 それからロバートは一時間ばかり居て、たわいもない話しをすると、トレーニングの続きをすると言って帰っていった。
 「美由紀、ロバートはいい子でしょう? わたしはお付き合いするのに大賛成よ」
 「考えてみるわ」
 ロバートはハンサムで、学歴もあって、スポーツマンで申し分ない。だが、わたしは、戸籍はともかく、性転換者なのだ。だれもそのことを知らない。そうでなかったら、わたしが本当の女だったら、一も二もなく交際を承諾しただろう。ちょっと話しただけなのに、彼には何だか魅力がある。これを一目惚れというのだろうか? ロバートを好きになりそうだ。困った。


 養父は、毎日、毎日、花束やアクセサリーを持って帰り、わたしにプレゼントしてくれた。
 「まるで恋人みたいね、あなた。わたしと結婚する前、こんなにしてくれたことあって!」
 「妬くなよ。美由紀が来てくれて、仕事にも精が出るし、若返った感じだ。ほんのお礼だよ」
 「どうせわたしは、おばあさんですよ」
 「パパ、ママ、けんかしないで。パパ、もうプレゼントはいいわ。部屋がいっぱいになっちゃいそう」
 「明日の日曜日は、町へ行ってドレスを買ってやろう。うんといいやつを」
 「あなた! いいかげんにして!」
 養父はわたしを養女と言うよりも、まるで初めて恋をした女性であるかのように接した。養母が怒るのも無理はないが、養母は懐の広い人だ。わきまえた上で怒っているようだ。

 ロバートはその後も週に一、二度、時間が取れたからといってプレゼントを持って訪ねてきた。その度ごとにデートに誘われたが、理由をつけて断ってきた。しかし、ついにわたしは今度の日曜日にデートの相手をすることを約束させられた。
 「デート? 何を着ていこう。まだ、体型が整っていないから、あまりウエストの細い服は着られない。やっと六十四センチになったばかりだ。急いで、ダイエットしなきゃ」そんなことを考えながら、「本当にわたしは変わった。もともと涙もろかったけど、最近は何かと言うと涙が出る。百年前から女だったようだ。これもホルモン剤の影響かな?」と首をかしげた。
 ダイエットは、ロバートとのデートに間に合わなかった。結局、おとなしいデザインのブラウスにジーンズ、上に麻のざっくりとしたジャケットを着て出掛けた。
 ぴかぴかに磨き上げられたポルシェで迎えに来たロバートは、わたしの格好を見て、ちょっとがっかりした様子だった。やっぱり少し可愛らしいドレスにすれば良かったかなと後悔した。
 高校を卒業したら、運転免許を取って車を買ってもらおうと、トヨタ、日産、ホンダ、三菱などのありとあらゆる車のカタログを集めていたわたしは、総皮張りで手入れの行き届いたポルシェに憧れの眼差しを向けた。助手席でもこんな車に乗れるとは思ってもみなかった。
 「この車、あなたのなの?」
 「うん。だけど中古だよ。二十歳の誕生日に買ってもらったんだ」
 「すごいわ。あなたのおうちはお金持ちなのね」
 「タカハシ家だって、ミユキがその甘い声でおねだりすれば、新車のポルシェを二台や三台、簡単に買ってくれるさ」
 その返事にわたしは驚きを隠せなかった。
 「ええ? うちはそんなにお金持ちなの?」
 「知らなかったのかい。知ってて養女に来たのかと思ったよ」
 「失礼ね。遠い親戚だし、ほかに身寄りがなかったから来たのよ。ほんとは日本を離れたくなかったんだけど」
 「君への誤解がひとつ解けたら、ますます好きになったよ」
 「うまいことを言って。いつもこの車で女の子を引っかけて回ってるんでしょう」
 「ぼくへの誤解は解けそうもないね」
 「ママがあなたはとてももてると言ってたし、ハンサムだから」
 「騒ぐ女の子はたくさんいるけど、ぼくから好きになったのは君だけだ、ミユキ」
 「ほんと! 信じていいの?」
 「神に誓ってもいい。ぼくは嘘は言わない」
 ロバートは話題が豊富で飽きさせない。一緒にいるととても楽しい。ポルシェは、バルボア公園の美術館へと向かった。

 ロバートは展示された美術品のひとつひとつをわたしに解説してくれた。半分も見ないうちに時計は正午を回っていた。
 「ロバート、あなた美術品にも詳しいのね。びっくりしたわ」
 「あれ? 知らなかったの。うちのパパは美術商なんだよ。だから、日本のことわざで言う、門前の小僧なんとやらだよ」
 「そうなの。それにしては詳しいのね。将来は弁護士になるんじゃないの?」
 「法科に行ったのはサンフランシスコで弁護士をやっている伯父が薦めたからさ。ぼくはどちらかというと美術関係の仕事の方が好きさ。その方が性に合ってると思っているんだ。がっかりした?」
 「そんなことないわ。どちらでも、あなたはあなたでしょう?」
 「そう、ぼくはぼくさ。ぼくそのものを好きになって欲しいな。ところでお腹空いただろう。美味しいパスタを食わせる店があるんだ。どう?」
 「いいわね。だけど、まだ全部見てないわ」
 「それは次のデートの口実に残しとく」
 「まあ、ロバートったら」
 「さあ、行こう」

 郊外の小さなレストランのパスタはとても美味しかった。食後のコーヒーも香りが良かった。
 「次ぎはサンディエゴ動物園に行こうか?」
 「動物園?」
 「いやかい。子供のころ行ったきりで、もう一度行きたいと思ってたんだけど、大学生にもなって一人じゃねえ。いいだろう?」
 「あなたと一緒ならどこでもいいわ」
 わたしも動物園なんて小学校以来だった。サンディエゴに来る時、列車の中で出会った少女もここに来たのだろうか? トラにライオン、象、キリン、様々な鳥類、童心に返って園中を見て周った。
 動物園を出ると、ロバートは「夕日を見に行こう」といって車を海へと走らせた。オーシャンビーチに座って夕日が沈んでいくのをふたりで眺めた。夕日が海に沈むのを見たのは初めてだった。日本では、夕日はいつも山に沈んでいたから。
 ロバートがわたしの肩を抱いてキスしてきた。実は、美術館でも動物園でも、何度かロバートがキスしようとしてきたのだが、わたしはその気配を感じると何とかはぐらかしてきたのだ。もう、拒むわけにはいかなかった。男だったとき女性とキスしたことなどなかった。ロバートとのキスは、とても複雑な気分がした。

 「それじゃあ、ぼくのお姫様。これからディナーにご招待しましょう」
 「わたしの王子様、どこに連れてってくださるの? こんな服だもの。高級なところはだめよ」
 「付いてくれば判かるよ」
 ロバートはわたしの手を引いて立ち上がらせると、ポルシェの助手席までエスコートした。走り出してしばらくすると、ロバートの右手が遠慮がちにわたしの太股に延びてきた。わたしが拒まないとだんだん大胆になってきた。
 「ロバート、デートの時はいつもこうなの?」
 「あ、いや。右手が勝手に動くんだ」
 ロバートは慌てて手を引っ込めた。
 「お医者様に行った方がいいんじゃないの」
 「行ったけど、治らないんだ。一向に」
 「やぶ医者ね。別のお医者様にしたら? あら、どこ行くの? うちの近くなの?」
 「実はね。パパがミユキに会わせろと言って聞かないんだ。何も今日でなくてもいいのに」
 「お宅に行くのね」
 「うん。ママが手料理を作って待ってる。ママの料理は最高だよ」
 「嬉しいわ。でもこんな格好でいいかしら」
 「いいに決まってるさ。ミユキは着飾らなくても奇麗だから」
 「まあ、うまいんだから」
 うちに帰って着替えてこようかとも思ったが、めんどくさくなってそのまま行くことにした。ロバートはポルシェを庭に停めると、わたしの手を引いて、家のドアを開けた。
 「パパ、ママ。ミユキを連れて来たよ」
 「まあ、ミユキ、いらっしゃい! あなた、お待ちかねのミユキが来たわよ」
 「おうおう、ロバート、待ちくたびれたぞ。早くリビングに連れておいで」
 声の主は、アン・スチュワートよりも大きな男だった。
 「パパ、ミユキだよ」
 「はじめまして、ミユキです」
 「ダン・スチュワートだ。君のことは、アンとロバートから毎日聞かされている。うーん、ロバートが夢中になるのも無理はないな。もっと早く会いたかったんだが、取引でヨーロッパに行っててな。明日からまた香港に行かねばならんので、ロバートに頼んでうちに来てもらったんだ。デートの邪魔をしてすまんな」
 優しい目がわたしを見た。ロバートの目に似ているなと思った。
 「邪魔だなんて、気になさらないでください。お会いできて嬉しいですわ、スチュワートさん」
 「ダンでいいよ。さあ、もっと近くに座って! 顔をよく見せてくれ」
 「さあさあ、お食事の準備ができましたわ。ダイニングに入って」
 「ロバート、お前にはもったいない美人だ。わしがもう少し若ければすぐプロポーズするところだ」
 「若くて禿げてなければだろう」
 「お前も年を取れば禿げる。プロポーズするなら今のうちだぞ」
 「親子喧嘩は止めて! ミユキ、さあどうぞ遠慮せずにたくさん食べてね。たくさん作ったから」

 ディナーはとても美味しかった。ダンもいい人で、楽しいひとときを過ごせた。午後九時になり、ダンとアンにお礼をいうと、ロバートにうちまで送ってもらった。ドアの前でロバートに抱きしめられてキスされた。
 「おやすみ、ロバート。今日は楽しかったわ」
 「今度は両親抜きで、もっと楽しもう。次のデートまでに右手の治療をしておくよ」
 「ふふふ。無理して治さなくてもいいんじゃないの?」
 「何するか判らないよ」
 「わたしの言うことを聞くように調教しようかな?」
 「調教されてみたいな」
 「今度ね。それじゃあ、ほんとにおやすみ、ロバート」
 「おやすみ、ミユキ」
 わたしは何を期待しているのだろうか? 自分はその気がないのに、ロバートを挑発するようなことを言って。自分で自分が判らなくなる。


 ロバートは週に一度は、うちを訪ねてきてくれるけれど、美術館の残りの見学はまだ実現されていない。最終学年で、なかなか時間が取れないとこぼしていた。わたしはといえば、ときどき養母と一緒に買い物に出掛ける以外は、養母に教えてもらって、セーターを編んでいる。もちろんロバートにプレゼントするためだ。男だった時は、編み物なんてしたことがなかったけれど、編み物をするのは楽しい。クリスマスにはなんとか間に合うだろう。
 家に篭ってばかりだといけないと思い、運動は好きなほうじゃないけど、ダイエットも兼ねてフィットネスクラブに通い始めた。ワインレッドのレオタードと真っ白のスイムウエアを買った。どちらもちょっと派手だったかなと思ったが、フィットネスクラブに通う女性たちはみんな同じような格好をしているから、安心して着ていられる。
 それでも、筋力トレーニングしている時やプールサイドを歩いている時、あの列車の中で出会った男と似た舐めるような男たちの視線を感じる。わたしが男たちの方を見ると、男たちは今にも増して一生懸命トレーニングに励んでいる格好をする。そう言えば、わたしも小さい頃、運動音痴の癖に好きな女の子の前では力いっぱい走った覚えがある。
 わたしを見て欲情している男たちを観察するのは楽しい。トレーニング中にわざと大股を広げてみせると、彼らの股間のものが牛乳ビンのようになるのだ。わたしが男だった時、ちびで痩せっぽっちだったわたしに注意を払う女の子はいなかった。わたしは自分が男であることに劣等感を持っていた。だから、女になった今、自分が見つめられていることに一層快感を覚える。男たちの卑猥な視線をわたしはむしろ楽しんでいるのだ。女になって良かったと感じる瞬間だ。
 フィットネスクラブに通う男たちに、デートを誘われることがよくある。だが、自分から挑発しておきながら、いざとなったら、しり込みして断ってしまう。自分にはロバートがいるからと心の中で言い訳しながら。ほんとは自分が男だったことがばれるのが恐いのだ。


 朝七時に家を出て、ロサンゼルスに向かった。ドクター・ルーカスの定期診察を受けるためだ。パパとママには、ロスで買い物したいからと嘘をついた。退院してからもう一ヶ月経つのが嘘のようだ。ドクター・ルーカスと懐かしいジャッキーが診察室で待っていた。ひと通りの診察が済むとジャッキーがお茶を入れてくれて、しばらく話しをした。
 「ミユキ、経過は良好だよ。腟拡張は一日四回やっているのかい」
 「欠かさずやってます。先月のデートの時は朝晩の二回だけでしたけど」
 「ほう、ボーイフレンドができたのかい、おめでとう。それで、セックスはしたのかい?」
 「いえ、まだです。その気にならなくて。それでお聞きしたいんですけど、いいですか?」
 「何だい? わたしに答えられることなら何でも答えてあげるよ」
 「退院した当時は、可愛い女の子を見掛けるとまだどきどきしたんですけど、最近はぜんぜんそんな気にならなくて。かといって、男のひとの裸を見ても興奮すると言うこともないし、ロバート、いま付き合ってるボーイフレンドなんですけど。とてもいい人で好きなんですけど、男と女のという感情じゃなくて、仲の良い同性同士と言う感じなんです。日本にいた時、真二という親友がいたんですけど、彼といる時のような感じ。キスされても、異性にキスされたと言う感じがしないんです」
 「ふーん。今は過渡期じゃないかな。男としての欲求がだんだんなくなって、女としての欲求が出てくるまでのね。もう少し経てば、きみは女として感じることができるようになると思うよ」
 「そうなんですか。それなら安心ですけど、女として感じられるようになるのはいつからでしょうか? 感じた振りするのはロバートに悪いもの。早くする方法はないですか」
 「それはわたしも神様も知らない。待つしかないだろう」
 「そうですか。待つしかないですか。それじゃあ仕方ないですね。待ちます。早く感じられるように祈ります。ところで、今度はいつここに来たらいいですか?」
 「経過がいいから、ひと月飛ばして、ええーっと、次ぎは一月十三日だな。今度来るまでにきみがどれくらい変わっているか楽しみだよ。この一ヶ月で外見も随分女らしくなったからね」
 「ありがとう、ドクター。随分努力しているんです。ダイエットして体重が二キロとウエストが三センチ減ったんですよ」
 「スタイルが良くなったら、鬼に金棒だな」
 「ウエストは六十が目標。バストがもうちょっと大きいといいのにって思います」
 「ホルモンで少し大きくなると言われなかったかい。あと三ヶ月くらいしたら、効果が出るよ」
 「ロバートの前で自信を持って裸になれる日が楽しみだわ」
 「ロバートに異性を感じないと言ったのは嘘かい?」
 「嘘じゃないわ。ロバートのために感じるようになりたいの」
 「好きな男性のために何かをしたいと思うのは、もう女の考え方だよ。女として感じるようになる日も近いよ」
 「今度来た時、そう報告できるといいですね」
 「期待してるよ」
 一ヶ月前退院したとき買い物をしたデパートに寄って、薄いオレンジ色の、小さい花柄の入ったワンピースと、お土産にチョコレートの包み、ロバートにシルクのネクタイを大急ぎで買って、帰りの列車に乗った。


 ロバートからクリスマスイヴのダンスパーティーに誘われた。
 「来週、大学のクラブでダンスパーティーがあるんだ。ぼくのパートナーとして一緒に行ってくれないか? ミユキ」
 「ダンスパーティーだなんて、わたし、踊れないわ。こちらと違って、日本ではダンスの習慣がないから、踊ったこともないし、だいいちダンスを習ってないのよ」
 「ぼくがリードするからいいよ。きみは黙ってぼくにくっついていてくれたらいいんだ。お願いだよ、ダーリン。君しかいないんだ。二十四日午後五時に迎えに来るから」
 養父母は大喜びで、次の日の日曜日、わたしを連れてドレスを買いに町に出た。ドレスはごくうすいピンク色で、乳房が半分露出するくらい襟ぐりが刳れていて、背中は腰まで開いているかなり大胆なデザインで、丈は太股までしかないが、レースをたくさん重ねたタイプなので、パンティーを覗かれる心配はない。その上に着る毛皮のコートと真っ白なハイヒールも買ってくれた。イヴが来るのを指折り数えて待った。
 二十四日午後五時きっかりにドアのチャイムが鳴った。蝶ネクタイに黒のスーツを着たロバートがドアの前に立っていた。
 「ミユキ、迎えに来たよ。おじさん、おばさん、ミユキを借りるよ」
 「ミユキ、ロバートが迎えに来たわよ。早く降りてきなさい」
 「ちょっと待って、イヤリングを付けているから」
 わたしがドレスを着て玄関に出ると、ロバートはうっとりとわたしを見つめていた。養父が見送りに出てきてロバートの肩に手を置いて言った。
 「ミユキ、楽しんでおいで。今晩は遅くなってもいいよ」
 「行ってきます。パパ、うんと遅くなっても心配しない?」
 「ロバートが一緒だからね」
 「おじさん、ミユキのことは任せて。あんまり遅くならないように帰ります」
 ロバートにエスコートされて、ポルシェに乗り込んでパーティー会場へと向かった。パーティー会場には、すでに大勢の男女が集まっていた。わたしとロバートが会場に入っていくと、男たちの好意のこもった熱い視線と、女たちの嫉妬に満ちた刺すような視線を同時に感じた。
 「ロバート、この可愛いひとをぼくに紹介してくれ」
 「ジム、こちらはミユキだ。ぼくの大事なひとだ」
 「ハイ! ミユキ。ジムだ。ロバートの親友だ。お見知りおきを。結婚式には必ず呼んでくれ」
 「はじめまして、ミユキです。結婚式だなんて。ロバートとはただのお友達です」
 ロバートが口を尖らせた。
 「ただのお友達はないだろう、ミユキ」
 「それじゃあ、俺にもチャンスがあるのかな」
 「ロバートの次で良かったら、わたしのリストに載せてあげるわ」
 「ロバートの次はちと厳しいなあ」
 「ジム、絶対駄目だってことさ」
 「そうだろうなあ、やっぱり」
 ダンスが始まった。ロバートにリードされて何曲か踊った。ロバートはダンスがすごく上手だった。わたしは彼にリードされて幸せな気持ちになっていた。午後九時を回ったころ、赤いドレスを着た痩せぎすでそばかすの女性が近づいてきた。
 「ロバート、踊ってくださる?」
 「今日は、ミユキと来ている。またにしてくれないか」
 「いいから、踊って!」
 彼女は、わたしからロバートを奪い取ると抱きついて踊り始めた。わたしはどうしたらいいのか判らず、その場所にぽつんと立っていた。すぐにジムが近づいてきて手を取ってくれた。
 「ミユキ、ぼくと踊ってくれるかい?」
 「ええ、いいわ」
 「ライバルがいないうちに、口説いとこうかな?」
 ジムもロバートに劣らず、背が高く、結構いい男だ。ついさっきまで、ワインレッドのドレスを着た奇麗な女性と踊っていた。
 「今まで、踊っていた女の人は放っておいていいの? あなたの彼女でしょう?」
 「あれは従妹だよ。独りじゃ来られないし、連れてくるひとが居なかったから、頼み込んで一緒に来てもらったんだ」
 「彼女、いないの?」
 「つい先週振られてしまったんだ」
 「こんないい男を振るなんて、見る目がないのね」
 「ありがとう、ミユキ。どうだい、ロバートは止めにして、ぼくと付き合わないかい?」
 「だめ! 変更不可能よ。ところで、ロバートを連れて行った彼女、誰?」
 「うーん、言ってもいいかな。ロバートが以前付き合ってた女だよ。ジェニファーって言うんだ」
 「今は付き合ってないの?」
 「八月の初めごろ別れたって聞いたけどね。それに今はロバートはきみに夢中だからね。クラブでもきみの話しかしないから。ほんと、うんざりするくらいだよ」
 向こうで言い争う声がした。ロバートとジェニファーだ。
 「きみとはもう終わったんだ。二度と近寄らないでくれ!」
 「なによ、イエローモンキーにのぼせ上がって!」
 「ミユキを侮辱すると許さないぞ」
 ジェニファーは、夜叉のように怒り狂った顔をしてわたしの方に走り寄ってくると、わたしの左の頬を思い切りぶった。
 「何よ、泥棒猫! どうやってロバートを誘惑したの? 可愛い顔して裸にでもなったんでしょう!」
 「ジェニファー止めろ!」
 ジムがジェニファーを抱えて外に連れ出した。わたしは驚きと屈辱で涙を流して、立ちすくんでいた。ロバートが困惑した表情でわたしに近寄ってきて、優しく肩を抱いた。
 「何でもないんだ、ミユキ。泣かないでくれ」
 ロバートは、なおも泣きつづけるわたしを連れて外に出た。
 「もう帰ろう。帰ってうちでダンスの続きをやろう」
 わたしは何も言わずに、ポルシェの助手席に座ると、泣き続けた。ロバートはうちの前にポルシェを止めるとわたしに向かって話し始めた。
 「ジェニファーは君に出会う二ヶ月前まで、ジムたちと一緒にグループ交際していた女性のひとりなんだ。ぼくに熱を上げて恋人気取りで、いつもぼくを困らせていたんだ」
 「ジムはあなたとジェニファーが付き合っていたと言ってたわ」
 「誤解だよ。傍から見ればそう見えただけだよ」
 「ほんとに何でもなかったの?」
 「ほんとさ、信じてくれ。ぼくには君しかいないんだ。それが今日判った」
 そういうとロバートはわたしを抱きしめてキスをした。
 「来年、卒業したら、結婚してくれ。君を必ず幸せにするから」
 「ほんとに信じていいのね」
 ロバートはわたしの質問に答えず、さらに激しいキスをした。その時わたしの体に衝撃が走り、気が遠くなりそうになった。
 「愛しているわ、ロバート。結婚して」
 そう答えた自分が信じられなかった。


 十二月三十一日の町はお祭り気分に満ち溢れていた。いつもなら消される外灯が煌煌と照り、あちらこちらから賑やかな音楽が流れていた。西暦二千年の新年を迎えるイベントが各地で行われていたのだ。
 我が家でも越年パーティーが開かれ、親戚や養父の会社のひとびと、友人や知人が大勢集まっていた。もちろん、ロバートたち一家も一緒だ。ロバートはクリスマスプレゼントにあげた、あまり出来の良くないセーターを着てくれていた。リビングの家具は片づけられ、テーブルの上には、養母が三日前から準備をして作った手料理が食べきれないほど並べられた。シャンパンが開けられ、部屋の中央に作られたスペースでは、ダンスが踊られていた。わたしもロバートとおしゃべりしたり、ダンスをしたりして新年を待った。やがて、部屋の隅に追いやられたテレビが、新年を迎えた各地の表情を東海岸の方から伝え始めた。
 わたしは、ロバートに「ちょっと待ってて」というと二階の自分の部屋に戻って、着替えを始めた。養父がわたしのために京都から桜の模様が入った豪華な振り袖を取り寄せていてくれたのだ。養母に手伝ってもらって着替え、三ヶ月間延ばした髪をアップにして髪飾りをして階段を降りていくと、集まった皆が驚嘆の声を上げた。
 「ブラボー、ミユキ」
 「ミユキ、すばらしい。日本人形みたいだ」
 ロバートがわたしの傍に飛んできた。
 「パパのプレゼントよ。どう、わたし奇麗?」
 「ミユキ、奇麗だよ! 惚れ直したよ」
 いよいよ新年へのカウントダウンが始まった。テレビに映し出された時計の秒針がカチカチと時を刻んで行く。みんなで声を合わせ、合唱した。
 「五,四,三,二,一」
 「新年おめでとう」
 「西暦二千年、おめでとう」
 「ミユキ、おめでとう。今年が素晴らしい年になりますように」
 「きっといい年になるわ。あなたと二人なら、ロバート」
 新しいシャンペンが開けられ、クラッカーが鳴り響き、万歳の声が上がった。遠くから花火の上がる音、爆竹の鳴る音が響いてきた。養父が部屋の真ん中に立って、大声で怒鳴った。
 「みなさん、静粛に! 聞いてくれ! 西暦二千年を迎えた記念すべき本日、重大な発表がある。それではダン、君から発表してくれ」
 「判った、ケンジ。それでは発表させてもらうよ。みなさん、静粛に! おほん」
 「気取ってないで、早く発表しろよ、ダン」
 「それでは、みなさん。西暦二千年一月一日の本日を持って、我が家の長男ロバート・スチュワートとタカハシ家の養女ミユキが婚約した。謹んでここに発表する。反対のものは居るか? 居たら、わしがひねりつぶしてやる」
 わたしはロバートを見つめ、ふたりはキスをした。集まった人々から拍手とお祝いの言葉がわたしたちふたりに浴びせられた。
 「ロバート、おめでとう」
 「やったな、ロバート」
 「ミユキ、よかったね。いいカップルが出来たわ」
 「結婚式はいつ? 必ず呼んでね」
 「二人に、祝福を! 神の御加護のあらんことを」
 ふたたびシャンペンが開けられ、新年パーティーは婚約パーティーへと換わった。わたしは幸せに酔いしれた。
 「ロバート、いつまでも一緒よ」
 「命ある限り、君と一緒だ」


 一月十三日、わたしはドクター・ルーカスの診察を受けた後、ロバートとの婚約を報告した。
 「おめでとう、ミユキ。君ならきっと大丈夫だと思った」
 「ドクター、ほんとにいいんでしょうか? 結婚しても。わたし、不安で」
 「少なくとも法律的には君は女だから、問題はない」
 「でも、子宮がないから赤ちゃんを産んであげられないわ」
 「赤ん坊のいないカップルはたくさんいるじゃないか。今は、敢えて赤ん坊を作らないカップルだっているんだ。心配しないでいいよ」
 「でも・・・・」
 「それとも、まだ女としてセックスできそうもないのかね?」
 「いえ、それは大丈夫と思います。彼にプロポーズされた時、キスされて体中に快感が走ったんです。そして、濡れたんです。パンティーにしみが出来るくらいに」
 恥ずかしい告白をして顔が赤くなった。
 「それなら、何を心配するのかい。診察の結果も問題はないんだ。自信を持ちなさい」
 「ほんとに大丈夫ですね」
 「前にも言わなかったかな? わたしがもうすこし若かったら、君としたいって」
 「まあ、ドクター。ご冗談を」
 「ほんとだよ。いまや君はわたしの手がけた患者のナンバーワンなんだよ。君はいまや女以外の何者でもない」
 「ほんとに自信を持っていいんですね」
 「いいとも」
 「先生それで、ご相談があるんです」
 「何だい、言ってごらん」
 「以前、もし完璧を期すなら、女性としての外観を整える手術をした方がいいとおっしゃっていましたよね」
 「陰唇形成術のことだね」
 「そうです。もし、許されるなら、早く受けたいんです。今日にでも」
 「うーん、ちょっと早いが、今の君ならやることは可能だ。しかし、何故そう急ぐんだ」
 「来月十四日は、バレンタインデーでしょう。日本では、ふつう女性から男性に愛を告白しないんです。でも、この日だけは女性からの告白が許される日なんです。この日にロバートにあげたいんです。わたしのバージンを。二月十四日は、わたしの本当の誕生日でもあるし、記念の日にしたいんです」
 「よく判った。それなら、理解できる。そうだ、今日の午後のオペがキャンセルになったんだ。ちょっと待ってくれ」
 ドクター・ルーカスはナースコールでジャッキーを呼んだ。
 「ジャッキー、手術室がまだ使えるかどうか聞いてみてくれ」
 「ちょっと待って、ドクター。電話してみるから」
 「ミユキ、時間はあるのかね」
 「時間によりますけど。それと終わったら帰れます?」
 「ドクター、十三時から空いてるそうです」
 「判った。手術そのものは一時間くらいだ。準備と術後の安静を入れても三時間はかかる。帰るのはかまわない。術後の傷の処置は以前と同じだ。自分で出来るね」
 「はい、できます。今日やっていただけますか?」
 「よし、やろう。ジャッキー、すぐ準備をしよう。剃毛と浣腸だ。それに昼食は抜きだ。ちょっと痛いが、局所麻酔でしよう。その方が回復は早い。我慢できるかね、ミユキ」
 「我慢します。無理をお願いしているんですから」

 一月二十日、ドクター・ルーカスに抜糸してもらった。傷の治りはよく、仕上がりもいいそうだ。毛が生えそろったら誰にも見分けられないだろうといわれた。来月十四日が待ち遠しい。

10

 ロバートが死んだ。わたしは喪服を着て彼の棺の傍に放心状態で立っていた。神父の言葉も耳に入らなかった。わたしの心は、あの日腹部を打たれて意識を失った時よりも深い絶望の底にあった。もう、涙も涸れて出てこなかった。

 あの日、二月十四日の午後、わたしは、アイスホッケーの試合に出掛けたロバートの帰りをひたすら待っていた。鏡の中に映ったわたしの顔は幸せに満ちていた。ロバートに会う時のドレスが決まらず、何着も着たり脱いだりしていた。
 午後四時過ぎ、養母が青い顔をして、部屋にやって来た。
 「美由紀、すぐ出掛ける用意をしなさい」
 「どこに行くの? もうすぐロバートがやってくるわ」
 「いいから、早く着替えて!」
 養母のただならぬ様子に、わたしは急いで着替えると、養母に連れられてタクシーに乗った。着いたところは、サンディエゴ市立病院だった。わたしは急に不安に駆られた。
 「何か悪いことが起こっている。神様、わたしの不安があたりませんように!」
 病室にはダンとアンがいた。アンが涙をいっぱい浮かべてわたしの手を取るとベッドの傍へ導いた。心電計は、あの日わたしが目覚めた時のようなリズミカルな音ではなく、不規則な音をやっと出していた。恐れていたことが目の前にあった。ベッドの上にロバートが横たわっていた。顔色は青白く、生気がなかった
 「アイスホッケーの試合が終わって、あなたに会うため帰ってくる途中で、中央線を越えてきたトレーラーに衝突されたの」
 わたしはロバートの手を握って叫んだ。
 「ロバート! どうしたの、ロバート! 目を開けて!」
 ロバートは、薄く目を開けて応えた。だが、その声は今にも消え入りそうだった。
 「ミユキ・・・・、君を愛している」
 「ロバート、わたしも愛しているわ」
 「ミユキ、ぼくは君を愛している。だが、ぼくの命はもうそう長くない。ぼくにはそれがよく判る。」
 「ロバート、そんなこと言わないで! きっと元気になるわ」
 「いや、もうだめだ。ミユキ、愛している。だからぼくの言うことをよく聞いてくれ」
 「元気を出して、ロバート」
 「ミユキ! ぼくを愛してくれるのなら、ぼくのことは忘れてくれ。忘れてほかの人を愛してくれ」
 「いやよ。わたしが愛しているのはあなただけよ」
 「愛している、ミユキ。だから、君の幸せのためにぼくを忘れてくれ。愛しているからこそ君に幸せになって欲しいんだ」
 「だめよ、だめ。ロバート! 死なないで」
 「ミユキ、幸せになって・・・・」
 ロバートの手から力が抜けた。心電計の音が単調なピーっという音色に変わり、警報が鳴り始めた。
 「ロバート、ロバート!」
 「ドクターを! ドクターを早く呼ぶんだ!」
 ダンが叫んだ。ロバートの肩を抱いて揺すったが、ロバートはもう二度と目を開けてくれなかった。心電計にはただ一本の緑色の線が横に流れているだけだった。ドクターとナースが駆けつけてきて心臓マッサージを始めた。わたしは部屋の隅に押しやられ、呆然としてその光景を見ていた。まるでテレビのドラマを見ているように、臨場感がまったくなかった。やがてドクターは首を横に振って、心臓マッサージを止めた。
 「お気の毒です」
 「ドクター、止めないで! ロバートはまだ死んでいないわ。お願い!」
 わたしの願いも空しく、ドクターは軽く頭を下げ、心電計のスイッチを切ると部屋から出ていった。
 「ミユキ。ロバートは天国に召されたの。これは運命なの」
 「これは嘘よ、悪い夢を見ているんだわ。もうすぐ、ロバートは目を覚ますわ」
 「ミユキ、事実を受け入れるんだ。ロバートは死んだんだよ」
 「嘘よ、嘘」
 わたしは、ベッドに駆け寄ると物言わぬロバートの唇に何度もキスをした。ロバートは応えてくれなかった。わたしの目から体中の水分が涙となって流れ落ちた。わたしはロバートの胸にすがりついて泣き続けた。
 「わたしはあなたを愛し続けるわ。あなたのことは一生忘れない。もう誰も愛さない。二度と恋などしないわ・・・・」

 「ミユキ、お葬式はもう終わったわ。うちに帰りましょう」
気がつくと、養母がわたしの肩を抱いて車の方へ連れて行こうとしていた。わたしはいやいやをしてロバートの墓石の前に座り込んだ。
 「ロバートの傍に居たいでしょうけど、寒くなってきたわ。体に悪いからもう帰りましょう」
 わたしはロバートの真新しい墓石にキスをすると、墓石の方を何度も振り返りながら、車に乗せられ家へと戻った。

11

 ロバートの葬式から帰った夜、わたしは、睡眠薬を飲んで自殺を図った。しかし、わたしのことを心配していた養母に発見され、すぐに病院に運ばれ、一命を取りとめた。
 「どうして死なせてくれなかったの。ロバートの傍に行きたかったのに」
 「ミユキ、あなたが死んだら、ママとパパはどうすればいいの。ママもパパもあなたを愛しているのよ。ロバートは死んだの。あの時のロバートの言葉を思い出して。あれはロバートの遺言なのよ。辛いでしょうけど、ロバートのことは忘れて。ほかの誰かをロバートのように愛してあげて。そしてママとパパのためにも生きて!」
 養母はぽろぽろと涙を流して、わたしの肩を抱いた。わたしはあの時のロバートが残した最後の言葉を思い出していた。
 「判ったわ、ママ。二度と馬鹿な真似はしないわ。ごめんなさい。生きて幸せになるわ。それが、ロバートの望みですもの。でも、もう他の誰も愛さないわ。わたしが愛しているのはロバートだけですもの」
 病院から帰宅してしばらくは、養父も養母もわたしがまた自殺を図るのではないかと心配していた。養父は自分の会社に秘書としてわたしを連れて行こうとした。自分の監視下に置いておきたかったらしい。
 「家にママと居た方が安心なんじゃないの。パパの方がママより忙しいから。それにわたしはもう大丈夫よ。二度と馬鹿な真似はしないと言ったでしょ」
 「そうよ、あなた。わたしがミユキの傍にずっと居るから大丈夫よ」
 養母とショッピングに行ったり、編み物をしたりする日常が戻ってきた。フィットネスクラブに通う時もママが付いてきた。それも少しの間で、しばらくしてわたしの精神状態が落ち着いたあとは自由にさせてくれるようなった。

12

 三月一日、1ヶ月半ぶりにドクター・ルーカスの診察を受けた。
 「外陰部の状態は完璧だ。だが、腟が少し狭く、浅くなっている。きちんと拡張をやっているのかい」
 「二月十四日、あの日、フィアンセのロバートが死んだんです。ショックとお葬式なんかでずっとやってなくて。何のためにやるのかと言う目標もなくなったから」
 わたしは、ロバートの死と自分の自殺未遂などを詳しく話した。
 「ロバートのことは気の毒に思う。しかし、それとこれとは話しが別だよ。ロバートだって、他のひとを愛せといったんだろう? もし、将来君にまた愛する人が出来た時、それを受け入れられなかったらどうするんだ。今よりつらい思いをするだけだろう?」
 「でも、もう他のひとは愛さないと決めたんです」
 「君は最初の手術の後、セックスなんかしないから、腟拡張はしないと言ったね」
 「はい。言いました」
 「しかし、君は結局腟拡張をやって、ロバートに巡り合いセックスが出来る状態にあったんだ。この先もどうなるか判らないよ。準備しておくことは君にとって決して無駄ではないよ」
 「そうかもしれませんね・・・・」
 ドクター・ルーカスの診察から帰って、迷いに迷った挙げ句、ふたたび腟拡張を始めた。それがわたしの日常なのだから。


第三章終了