わたしが初めて薫、西条薫に出会ったのは小学校四年の新学期だった。名張から転校してきた薫はちびで、色白の、女の子のようなやつだった。キャッチボールもまともに出来ないような運動音痴のくせに、学校の成績は良くて、すぐに先生に気に入られ、そのせいでいじめの恰好の対象となった。
当時薫はわたしと同じ公団に住んでいたので、通学する時に時々一緒になることがあった。しかし、薫のような泣き虫で女々しい男は大嫌いで、わたしは薫を避けていた。
ところがある日、下校途中に薫が苛められているところにたまたま遭遇し、止む無く助けてやったことがあった。その日から薫は登校する時も下校する時もわたしを待っていて、一緒に登下校するようになった。わたしはほかの誰よりも体が大きく、少々乱暴者だったせいで、みんなに一目置かれており、わたしと一緒だと薫は苛められることはなかった。本当は一緒にいたくはなかったのだけれど、わたしは勉強があんまり好きでなく、薫がわたしの宿題の手伝いなどをしてくれるから、やむなく付き合っていた。クラスが離れても、遠足や社会見学などのときにも、薫はわたしの傍から離れようとはせず、いつもわたしの傍で写真に収まった。
中学一年のバレンタインデーの日、ひとつのチョコレートももらえず、ふてくされて下校している時、薫から誕生パーティーに誘われた。彼がバレンタインデー生まれなのを知ったのはこの時だった。
この日初めて、薫の姉の圭子に出会った。わたしは圭子に一目惚れして、この日以来、毎日薫の家を訪れるようになった。圭子はわたしより二学年上の中学三年だったが、三月生まれであったから実質的には一歳だけ年上であった。薫はわたしとの仲がより深まったとせいだと喜んでいたようだが、実の所、わたしは圭子に会うのが目的だった。
薫一家は中学三年の時、郊外にある団地の一戸建ての家に引っ越したが、受験前だったので転校はしなかった。わたしは自転車で毎日のように三キロの道のりを薫の家まで出掛けて行った。
薫はわたしが誘ってもほとんどスポーツらしいスポーツはせず勉強の虫で、市内の有名進学校に進んだ。わたしも薫のお蔭で工業高校に合格することができた。違う高校に通うようになってからも、わたしはせっせと薫の家を訪れた。圭子はますます美しくなり、まるで妖精のようだった。わたしの心の中は圭子への思いで一杯だった。
高校一年の夏休みのある日、薫の家を訪れると圭子も薫も出掛けていて不在だった。仕方なくひとりで街まで出掛けた。街をぶらぶらしていると、圭子らしい女性が見知らぬ中年の男性と歩いているのを見つけた。ビックリしたわたしは、気づかれぬようにふたりの後を尾けて行った。ふたりはやがてかなり高級なマンションの中へと消えて行った。
わたしのこの時のショックは計り知れないものだった。しばらく頭の中が真っ白になって、ふらふらと街の中を歩き続けた。ふと気がついて、薫の家に電話を入れてみたら、薫はまだ帰っていなかったが、電話に出たのは他ならぬ圭子だった。わたしはほっと胸を撫で下ろした。それにしても圭子に良く似た女性が居るものだと思った。
一週間後の同じ木曜日、薫に電話をしてみると、圭子が電話に出て、薫は朝から出掛けていると告げられた。薫がいなければ圭子に会いに行く口実がないので、またあの女性に会えるかもしれないと思い、ふたりを見掛けた場所へ出掛けて行った。ちょうど一週間前と同じ時刻に、またふたりを見つけることができた。一週間前もそうだったが、その日の彼女が着ていたワンピースも圭子が着ていたものと良く似ていた。化粧がちょっと濃いが本当に圭子そっくりだった。ふたりは近くの宝石店に入ると、男が彼女に指輪を買ってやっているようだった。ふたりは少なくとも親子ではないようで、いわゆる援助交際のように見えた。それからふたりは例のマンションへと入っていった。そのマンションは鍵がなければ、玄関すら通れないので、男の名前を確かめることもできなかった。
ふたりが玄関の中に消えた後、わたしは近くの喫茶店に入り、コーヒーをちびりちびりすすりながら、ふたりが出てくるのを待った。二杯目のコーヒーを飲み終わり、そろそろ店を出なければいけないなと考えていたところ、彼女がひとりで玄関から出てきた。時計を見るとふたりが玄関に消えてから一時間半が経過しようとしていた。わたしは喫茶店を出て彼女の後を追った。
電車の窓から外を眺めている彼女の横顔は本当に圭子そっくりだった。しかしよく見ると、圭子と違って一重瞼だった。いつもわたしが降りる駅のふたつ前の駅で彼女が電車を降りたので、ずいぶん近くに住んでいるんだなと思いながら、さらに後を尾けて行った。彼女はコインロッカーからスポーツバッグを取り出すと、駅の近くのカラオケボックスに入っていった。近くの公衆電話から薫に電話をしてみたが、まだ帰っていなかった。圭子は家にいた。やはり別人だと安心した。十五分ほどしてカラオケボックスから出てきた人物を見てわたしは、自分の目を疑った。それはあの女性が抱えていたものと同じスポーツバッグをぶら下げた薫だった。
さらに一週間後の木曜日、わたしは朝早くから薫の家の前で、薫が出掛けるのを見張っていた。午前十時過ぎ、薫と圭子が家から出てきた。声を掛けようと思ったが、薫がぶら下げているスポーツバッグを見て、声を掛けるのを思い止まり、ふたりの後を尾けて行くことにした。
ふたりは例のカラオケボックスに入っていった。二十分後、圭子と圭子そっくりに女装した薫が出てきた。ふたりはまるで仲の良い姉妹のようにおしゃべりをしながら、駅へと消えていった。わたしは呆然とその場に立ち尽くした。わたしは薫の性癖を責めるつもりはなかった。ただ、それを認める圭子の気持ちが判らなかった。
薫はもともと華奢で女みたいだったが、髭も脛毛ほとんど生えず、高校三年になる頃には肌が透き通るように白くなり、少し胸が大きくなっているようだった。普段は声のトーンを落としてしゃべっているようだったが、わたしといるときは圭子と間違うくらい高い声になっていた。わたしは心配になったが、説教する勇気はなかった。
高校三年の夏休みになってすぐ、薫がアメリカへ短期留学すると圭子から聞かされたが、まさか性転換手術を受けに行くためだったとは、後に薫の手記を見るまでは夢にも思ってもみなかった。
成田空港に見送りに行ったとき、薫から「圭子姉さんを頼む」と言われたが、そうそう会いに行くわけにもいかずに悶々としていた。四週間経って帰国予定を過ぎても薫は帰ってこなかった。薫の両親は心配していろいろ問い合わせをしてみたが、まったく埒が開かなかった。そうこうしているうちに薫が事故で死んだと連絡が入り、圭子はショックでそのまま寝込んでしまった。わたしは毎日圭子の見舞いに西条家を訪れた。
薫の葬式が済んだ翌日、それまでわたしを頑なに拒み続けていた圭子の方から誘われてベッドを共にした。その時わたしは、圭子がついにわたしに心を開いてくれたと思っていたが、事実はそうではなかったようだ。
十二月になり、圭子の妊娠を知らされ、両親からこっぴどく叱られたが、圭子はどうしても産むと言ってきかなかった。呆れた親たちは、仕方がないのでわたしたちが卒業してから結婚させることで妥協した。
四月十八日前置胎盤であったため、圭子は帝王切開で、子供を産んだ。その時、子宮からの出血が止まらずに子宮を摘出せざるを得なくなり、圭子は二度と子供を産めない体になってしまった。その事実を知った圭子は、少しおかしくなってしまった。しかも血液型問題で、わたしの親戚から子供はわたしの子供ではないと責め立てられ、ますますおかしくなっていった。
その年の八月八日、突然圭子が家出して行方が判らなくなった。圭子の使っていたドレッサーの引き出しの中から、死んだはずの薫をロサンゼルスで見掛けたと言う手紙が発見された。差出人の名前はミユキ・タカハシという聞いたこともない女性からだった。ロサンゼルスのセントラル・シティー・ホテルで待ち合わせをしていることが判った。わたしは、問題は解決したから戻ってくるように伝言をフロントに託した。あとで思えば、この時わたしもロサンゼルスに行くべきだった。
八月十三日、圭子が帰ってきた。圭子は家出する前とはまるで別人のようであった。家出前は、出産後おかしくなっていたこともあって、新婚だというのにまるで離婚寸前の夫婦のような有り様だった。そんなわたしに対する態度も一変していた。ロサンゼルスで何があったのか想像も出来なかった。夜になって迫ろうとしたらさすがに拒否されてしまった。
翌朝、圭子が朝食を作るために下へ降りてしばらくして起きたわたしは、ボストンバッグのサイドポケットに入っていた大学ノートを偶然見つけた。それは、薫の日記だった。その日記は、形を変えて手記という形で圭子が死ぬ前に書き直している。
その内容を読んでわたしは驚愕した。薫はわたしを愛しており、わたしとの愛を成就するために性転換手術を受けにアメリカへ行ったというのだ。三人の人間を殺してしまったことも事細かく書かれてあった。三人のうちのひとりは、高校一年の時薫と一緒に居た中年の男らしかった。
何より驚いたのは、日記の最後に書かれていた、圭子を殺して、入れ替わるという部分であった。高校の時でも女装した薫は、圭子そっくりだった。整形手術を受けて圭子とうりふたつになったと書いてあったことと、圭子の帰国してからの態度を考えると本当に入れ替わっていたとしてもおかしくはなかった。
義母に圭子の監視を頼んでいたが、義母にははっきりしたことが言えないので、義母の報告は要領を得なかったが、いつもの圭子と少し違うと感じていたようだった。子宮を摘出されているのだから、生理はないはずで、それを口実にセックスを拒否された時は、これは薫なのかと疑わざるを得なかった。
しかし帰国後初めて、圭子とセックスをした夜、どちらであるかがはっきり判った。薫の日記によれば、弾丸の摘出術を受けたと言う話は作り話だから、薫の下腹部に傷がある筈はない。圭子の下腹部には見覚えのある帝王切開の傷痕がはっきりとあった。決定的なのは圭子の長い髪の毛に隠れたうなじのほくろだ。おそらく圭子自身もその存在に気づいていなかった筈だ。もちろん薫にはそのようなほくろはなかった。戻ってきたのは薫ではなく圭子に間違いはなかった。だが、圭子が圭子ではないのだ。圭子が性転換した薫に成りきっていてしかも圭子の振りをしているようなのだ。何故そのようなことをしなければならないのか初めはさっぱり判らなかった。
薫の日記の中に、圭子と薫は実の姉弟ではないという記載があった。しかし、どう調べてみても、ふたりは実の姉弟だった。A型とA型の親の間にO型の子供が産まれるように、二重まぶたの両親に一重まぶたの子供が産まれることもあるのは遺伝の常識なのだ。
圭子は薫に、ふたりは実の姉弟ではないと思い込ませようとしていたのだ。その理由は明らかだ。圭子は薫をひとりの男として愛していたのだ。圭子がいなくなった間に盗み見た圭子の日記の中に薫に対する思いが切々と書かれていた。だから薫が子供を残すために圭子と関係を持ったというのは事実ではあろうが、それはむしろ圭子の方が望んだものでもあったのだろう。
圭子はロサンゼルスで薫を見掛けたという手紙を見て、薫に会いたい一身で出掛けていった。ところが、性転換して整形手術を受けて自分そっくりになった薫に殺されそうになったのだ。産後おかしくなっていた圭子は、実の弟に殺されそうになったショックが加わって、ベランダから落ちたのが自分なのか薫なのか判らなくなり、残された大学ノートに書かれた日記を読むうちに自分は薫だと思い込んだのであろう。圭子は、実の弟の子供を産んで、そのために子宮を失ってしまった圭子という忌まわしい人格を抹殺してしまうために、薫となって圭子を演じたのに違いない。
圭子は、薫として圭子を演ずることにより精神のバランスを保っていた。わたしはそんな圭子でも良かった。圭子を心から愛していたから。
圭子が薫ではなく、本当は圭子なのだとは口が裂けても言えなかった。そうすれば、圭子の精神は再びおかしくなってしまうだろうことは想像に難くなかったからだ。
二十年近く経って、わたしが胃潰瘍で入院した時、かまを掛けてみたところ、圭子は自分は性転換した薫だと告白した。わたしはそれを否定せず、むしろその告白を補強し、正当化させてやった。圭子は安心したようだった。ところが困ったことに、圭子は今度はわたしを殺してしまった。
ちょうどわたしの兄の真一が末期の胃癌でわたしと同じ病院に入院しており、亡くなる二日前に見舞いに行かせたのが間違いだった。圭子の心の中でわたしは死に、兄の真一が生きていることとなった。
圭子は、わたしを殺すことによって、圭子は薫を愛し、薫はわたしを愛し、わたしは圭子を愛していたという奇妙な三角関係を完全に消滅させ、真一という新たな人物との恋愛関係を作り上げることで精神のより完璧な安定を得たようだった。
薫と圭子の子の薫は、三歳の時風邪をこじらせて死んでしまった。圭子は薫が死んだことを信じようとせず、わたしが薫をどこかへ隠したと思いこんでわたしを困らせた。わたしは方々探し回って同い年の薫によく似た子供を養子に迎えた。ただその子は女の子だった。圭子は養子の薫を死んだ薫が戻ってきたと思いこんでいたため、高校二年生まで男の格好をさせていた。三人でアメリカディズニーランドに遊びに行った後、圭子は薫に女の格好をさせ始めた。わたしはその時はその理由が分からなかったが、圭子の手記を見て理解できた。圭子の中では、薫は男であった。しかしどんどん女らしくなっていく薫を見て、薫は真性半陰陽で手術して女になったんだと自分に思いこませて納得したようだ。
ドクター・ルーカスとの一夜も彼女の創作だ。彼はその時既に他界していたのだ。あの日、圭子は外からホテルに電話を掛けてきた。指定された場所に行ってみるとそこはモーテルだった。圭子は、「わたしは完全な女かしら」と何度も尋ねた。わたしは、「君は完璧な女だ」と答えておいた。圭子は喜んで、わたしに抱きついてきた。その日の圭子は激しかった。そして、わたしがうたた寝をしている間に圭子は一人でホテルに帰ってしまった。置き去りにされて、わたしはどうしたのだろうと思っていた。その時のことが、歪められて書かれていたようだ。
わたしはといえば、圭子に真一として接せられるのには多少の戸惑いを感じたものの、圭子と本当に愛し合えることができることに喜びを感じていた。そんな状態の圭子を名古屋においておくわけにもいかず、福岡へと転居した。
圭子は再婚したつもりだったから、結婚式を挙げたがってわたしを困らせた。わたしたちは結婚時のごたごたで、もともと式を挙げていなかったので、親戚を呼んで内輪だけの披露宴を開いた。圭子はそれは言葉に表わせないような喜び方であった。ウエディングドレスを着た圭子はとても美しく、年齢を感じさせなかった。
今、圭子は虚構の中で人生を終えた。最後まで自分を薫だと信じきって、圭子を演じ続けた。わたしが書き加えたこの手記以外の部分は、薫の日記に書かれていたことを参考にして、圭子が帰国してからの出来事を加えて創作したものだ。恐らく薫の殺人などの所業を覆い隠すために書いたものだと想像する。
あの世に行ったら、真っ先に圭子に伝えなければならない。お前は薫ではなく、圭子だ。誰も殺していないと。そして、尋ねておかねばならないことがある。正気だったら、圭子は、わたし、真二を愛してくれたのだろうかと。
圭子が死んだことを薫に報告しておかねばならない。薫は圭子の唯一の肉親だからだ。そう、薫は死んではいないのだ。
わたしは、帰ってきたのが圭子だと確信した後、ミユキ・タカハシとして葬られた筈の薫の遺骨を少しでも手に入れようと、圭子や義父母には内緒で、旅行会社に勤めていた叔父に頼んでいろいろと調べて貰ったのだ。ところが、ミユキ・タカハシの死亡記事は何処にもないのだ。新聞に載らないような身元不明の死人も調べて貰ったが、薫に該当する人物はいなかった。ベランダから落ちた筈の薫はどこかへ消えてしまったのだ。
数年経って、薫が生きていることが判った。圭子のドレッサーに残された手紙に記されていたミユキ・タカハシの住所に舞い戻っていた薫を叔父が見つけたのだ。
薫が圭子をベランダから突き落とそうとしたのは事実だ。薫自身がそう語っていた。しかし、誤って薫の方がベランダから落ちてしまったのだ。ただ、幸運なことに薫は下の階のベランダに落ちて助かった。薫は、この時初めて自分の犯した罪の大きさに気づいた。そして、助かったのは神がその罪を償わせるためだと考え、ミユキ・タカハシとして社会奉仕などをして暮らしていたというのだった。
薫は日本へ帰りたがったが、わたしが止めた。日本に帰ってくれば、わたしに会いに来るに決まっている。そうなれば、圭子がどうなってしまうか判らなかったからだ。
その後わたしは、時々薫とは連絡を取り合っていたが、実際に薫に会ったのは、圭子と娘の薫の三人でディズニーランドに行ったときだ。日本を出る前に、薫に三人揃って撮った写真を送って、会う約束をしていた。圭子にその事を言えば、おかしくなると思い、内緒にしていた。
モーテルに置き去りにされたわたしは、良いチャンスとばかりに薫に連絡した。わたしの前に現れた薫は、送った写真に合わせてヘヤスタイルや化粧法を変えており、圭子が着替えて戻ってきたと思ったくらい圭子にそっくりだった。薫は服を脱いで全裸になり、一度でいいから抱いてと涙を流しながらわたしに乞い願った。
薫の姿はもはや完全な女だった。圭子とまったく変わるところがなかった。鏡に映したようにと言う表現がこれほど相応しいと思ったことはなかった。
だが、わたしは抱けなかった。薫は、あの時うまく入れ替われていたらと、わたしの胸にすがって泣いた。そして、いつまでも愛してると言い残して、わたしの元を去った。
帰国してすぐに、以前から交際していた男性と結婚したと薫から連絡が入った。わたしはおめでとうとお祝いを言って電話を切ったが、複雑な思いだった。
三年前、その夫に死なれ、薫は今は名古屋にある老人ホームに入って余生を送っている。足腰が少し弱っているが、まだ、ぼけもなく元気だそうだ。圭子が死んだと言ったらどんな反応をするだろうか?
わたしに残された時間はそう多くない。昨年の冬からわたしの体は肺癌に蝕まれている。今日まで生きてこられたのは、圭子より先に死ねないという執念からだ。圭子が黄泉の世界へと旅立った今、わたしはもうこれ以上生にすがるつもりはない。ただ、薫がもし望むのならば、残された時間を薫と一緒に過ごしてやるつもりだ。それが、自分の体を傷つけてまでわたしを愛そうとした薫に対するわたしの最後の思いやりだ。
薫に電話をした。受話器から、薫の涙声が聞こえてきた。
「真二さん、あなたを待っていました。ずっと。一日でも、いえ、一時間でも、たとえ一分でもいいから、あなたと一緒にいたい」
わたしは、手にしたパスポートを握り締めた。
「薫。わたしはお前を愛している。圭子と同じくらいに。すぐに迎えに行くよ」