第一章 薫 その一


 ビルの谷間に銃声がこだまのように鳴り響いた。その銃声に驚いた数羽の鳩がバタバタと飛び立っていく。あの鳩のようにぼくも空を飛べたらと思った瞬間、下腹部に焼けるような激痛が走った。押さえたぼくの指の間から真っ赤な血が流れ落ちて、冷たいコンクリートの上に赤い斑点ができる。
 (もう駄目だ。ぼくはここで死ぬんだ。お母さん・・・・)
 膝の力が抜ける。ぼくは立っていられなくなって背にした壁にもたれかかってへたり込んだ。視界がぼやける。
 ぼくの額に銃口が押し付けられた。
 「カオル、おまえは運が悪かったんだよ。地獄でまた会おう」
 ぼくの意識は銃が発射される前に闇の中へと落ちて行った。


 「なにを馬鹿なことを言ってんのよ、あなたは! 来年は受験なのよ! いいかげんにしなさい! そんな役に立つかどうか判らない留学なんて、お母さんはぜったい反対よ!」
 いつもは温厚であまり怒ると言うことを知らない母が、ぼくの話を聞いたとたん、血相を変えて怒り出し今にも卒倒しそうだ。ぼくは口を尖らせて反撃を試みた。
 「N大の英文学部の推薦がほぼ決まったんだよ。最終決定は十月だけど、ぼくは英検の一級を持っているし、留学経験があったら、百パーセント大丈夫らしいからと担任の大川先生が今回の短期留学を薦めてくれたんだ」
 「だめと言ったらだめよ!」
 まったく取り付く島もない。母は鍋の蓋を開けて味付けを確かめている。
 「お・ね・が・い・だ・よ、お母さん」
 母に近寄って猫なで声にそう言ってみたけれど、母はもはやぼくを相手にはしてくれそうもない。どうして許してくれないんだと、ぼくは母の背中に向かって心の中で悪態を付いた。
 推薦入学が決まりそうだという話は本当だ。理数系は駄目だけど、ぼくは英語にだけは絶対的な自信がある。ぼくを取らなかったら、大学の損失だとさえ思っている。
 けれど、短期留学の話ははっきり言って嘘だ。県下で有数の進学校に通っていたぼくは、高校に入ってから毎日毎日受験受験と追い回されていた。そんな受験勉強に飽き飽きしていたし、推薦入学が決まろうかというのに、夏休みにそれこそ役に立つかどうか判らない補習に毎日出るなんて馬鹿らしかった。補習をさぼるにはそれなりの理由が必要だった。
 それに大学に入ったら、短期といえども留学したことがあるという経験があれば少しは役に立つかもしれないなんて甘い考えから、ぼくが勝手に見つけてきた話だ。
 推薦入学がほぼ決まった今、担任はもうぼくにはあまり関心がない。他の生徒をいい大学に進学させることに頭が行ってしまっている。だから、母の方が留学を提案したと偽ってもまったく疑うことはないだろう。
 そんなふうに胸算用していたのに、当てが外れてしまった。ぼくの目はリビングでビールを片手にテレビを見ている父に向けられた。母がだめなら父だ。ぼくは父の向かい側に座ってこれ以上ないという笑顔を父に向けた。
 「ねえ、お父さん。いいだろう?」
 「お父さんに言っても、だめなものはだめよ」
 ボクの意図を察した母がキッチンからリビングへと戻ってきた。
 「いくらかかるんだ?」
 父はテレビから目を離してぼくの方に目を向けてきた。ぼくは脈有りと判断して半分でっち上げの説明することにした。
 「あなた、お金の問題じゃないわよ。圭子にだってそんな贅沢させてないのに」
 母が邪魔をするのを押しのけて、ぼくは身を乗り出して父に話を始めた。
 「斡旋業者の説明によるとね、渡航費用だけでいいらしいんだ。二十万もかからないよ」
 「渡航費用はいいとして、向こうでの生活費はどうするんだ?」
 「生活費は、向こうでアルバイトすることになっているんだ。アルバイトもいい経験になるんだ」
 「二十万なんてお金がどこにあるのよ。やっぱりだめよ」
 母は徹底阻止の構えだ。こういう時の言い訳はちゃんと考えてある。
 「大学に入ってからはもちろんだけど、卒業してからも役に立つんだし、先行投資だと思ってよ」
 「先行投資ねえ。投資するからは利益がないとな、薫」
 父が考えそうなことだ。これについてもちゃんと説得する用意をしていた。
 「大学を卒業したら分割で返すから。プラス利子付けてさあ。お願いだよ、ねえ、お父さん」
 ぼくは父の隣に座り直して、父の腕にすがりついた。
 「分割で云々はこれまでも何回か聞いたが、ぜんぜん実行されてないなあ」
 痛い所を突いてきた。この反撃が一番困るのだ。正直言って、この種の約束を守ったことがない。だけど、父は説得できそうだと判断したぼくは攻勢を強める。
 「今度は、約束破らないよ。信じてくれないのなら、誓約書を書くよ」
 「契約書を書くんだな?」
 これでもう落ちたも同然だ。ぼくは躍り上がって喜ぶ所をぐっと我慢した。
 「書くよ、何枚でも。だからお願い!」
 「うーん、お前がそこまで言うのならしょうがないな。冬のボーナスを前借りしてやろう。二十万でいいんだな」
 「やったあ。お父さん、サンキュウ!」
 今度はホントに飛び上がって喜んだ。盆と正月がいっぺんに来たようなものだ。
 「あなた、ほんとにいいの?」
 ちょっと不満そうだが、母は父の意向には反対したことがない。だからもう大丈夫だ。
 「可愛い子には旅をさせろというじゃないか」
 「ほんとに、お父さんたら。お父さんは本当に薫に甘いんだから・・・・。しようがないわね。薫、行くのなら、きちんと勉強してくるのよ」
 結局母も甘いってことだけどとぼくは思っていたけど、そんなことは当然黙っている。
 「大丈夫さ。この恩は一生忘れない」
 「うまいこと言って、この子は。それじゃあ、契約書書いて!」
 「えっ、ほんとに書くの?」
 話の行きがかり上、契約書の話を持ち出したのだけど、ホントに書けと言われるとは思ってもみなかった。
 「書くって言ったのはあなたでしょう? その便箋に早く書きなさい。それとも、留学の話は諦めるの?」
 「うーん、判ったよ。仕方ないな。契約書だなんて言わなきゃ良かったよ」
 つい本音が出てしまった。
 「利子は十%ね」
 母は笑顔でさらりとそう言った。
 「そりゃ高いよ。親子だろう。せめて五%にしてよ!」
 「母さん、そう薫を苛めるなよ。薫、五%でいいぞ」
 父は話がわかる。わかりついでに、もう一声とばかり言ってみた。
 「三%にならない?」
 「もう、だめだ。いやなら止めてもいいんだぞ」
 初めから三パーセントと言えばよかったと後悔したけど、もう遅い。
 「判りました、判りましたよ。五%ね。厳しいな、うちの親は」
 「社会に出たらもっと厳しいのよ。これでも甘やかしているうちよ」
 「はい、はい。判りました。判りましたとも。はい、書いたよ、この通り」
 便箋に契約書を書いて、母に突き出してやった。母は便箋を一瞥してから父に渡した。
 「お父さん、圭子は? わたし来年は卒業よ。純子も礼子も、みんな卒業旅行に行くって言ってるわ。礼子なんかはギリシャに行くって」
 ぼくたちの話を横で聞いていた圭子姉さんが突然父に詰め寄った。
 「あ、うん。そうだな。圭子も、短大を卒業したら、ヨーロッパでもどこでも行かせてやるよ」
 「お父さん、本当! うれしい!! 薫、あなたのお陰だわ」
 にこにこ顔の姉は、リビングの中をスキップし始めた。
 「圭子姉さんもちゃんと返すんだよ」
 「わたし、聞いてないよ」
 「そんなのずるいよ。ぼくだけ、返さなきゃいけないなんて」
 「どうせ薫も大学を出る時には、卒業旅行に行きたいって言うんでしょう? 今回の分は特別だから、きちんと返しなさい。ねえ、あなた、それでいいでしょう?」
 「母さんの言う通りだな。薫、判ったな」
 返すなんて言わなきゃよかったと今更ながら後悔した。
 「はい、はい。おっしゃる通りです」

 父は、名古屋市内の広告代理店に勤める四十六歳のサラリーマン。三年前に清水の舞台から飛び降りる決心で買ったこの小さな分譲住宅と会社の間を毎日振り子のように往復するだけの真面目人間だ。晩酌にビールを一本飲む以外には、酒を飲みに行くこともなく、煙草も吸わない。賭け事もしなければ、女遊びもしない。趣味らしい趣味もない。何が楽しくて生きているのか、ぼくにはまったく理解できない。愛する妻と子供たちのために身を粉にして働いている。そんな人だ。でも、ぼくはそんな父が好きだ。
 母は四十二歳の専業主婦で、身内のぼくが言うのもおかしいけれど、かなりの美人で若く見える。三十代前半でも通るくらいだ。先日もコンビニの店員に圭子姉さんと姉妹ですかと言われたと言って喜んでいた。いくら若く見えるといっても、二十歳の圭子姉さんと姉妹とはあんまりだ。お世辞に決まってる。だけど美人なのは確かで、その昔、母が短大を卒業して父の勤める会社に入ってきた時、父が一目惚れして大恋愛の末、結婚したと何度も聞かされた。今でも父は母にぞっこんで、浮気のひとつもしたことがないらしい。もっとも浮気しようにも、母は父が浮気したら即離婚と宣言しているからその気にならないようだ。母の方も父一筋で、しかも父を男として立てている。結婚するんだったら、母のような人とぼくは思っている。
 圭子姉さんは、ぼくより二つ上の、エンゼル女学院と言う短大の二回生で、母に似ていて、すらりと背の高い美人だ。美人の割に彼氏はいないようだ。小さい時からずっとミッション系の女だけの学校に通っているから仕方がないのかもしれない。性格は母似。一見清楚で大人しそうに見えるけど、こうと決めたらテコでも動かないような頑固な所がある。
 ぼくの名前は、西条薫。名古屋市内では比較的有名な進学校に通う高校三年生だ。早生まれのせいか、それとも父親のせいか、ぼくは男としては小柄で、しかも痩せっぽっちだ。元来運動が嫌いなのと熟通いに明け暮れたせいもある。母似で色も白く、小学生のころ圭子姉さんと一緒にいると可愛い妹さんねとよく言われたものだ。大学に入ったら、ちょっとはスポーツをしなきゃいけないなと思っている。思っているだけで、実行されない可能性の方が高い、かも。

 ぼくの仕入れてきた留学の話は、夏休みを利用した約四週間のホームステイで、一日二時間の地元高校生を交えた講義と、社会実地訓練を兼ねたアルバイトが予定されている。もちろんアルバイトは滞在費を捻出するのが最大の目的だ。これは両親に宣言したとおりだ。
 ホームステイ先は、カリフォルニア州のロサンゼルス近郊のベッドタウンに家を構えるジョンソン家と決まった。同い年の男の子がいるとのことだ。実用的な英語が身に付くかも知れないと母には伝えたのだが、実際のところ、母の言うように役に立つかどうか保証の限りではない。そんなことは承知の上だ。短期間でもアメリカで生活する、そう考えただけで胸が躍った。

 アメリカへ出発する前日、持っていく荷物の点検をしているとぼくの部屋のドアがノックされた。
 「薫、まだ起きてる?」
 返事をする前に部屋の中に圭子姉さんが入ってきた。入ってきてもいいんんだけど、つい先月、ぼくがマスターベーションしているときに入ってきて、顔を真っ赤にして飛び出していったことをもう忘れているみたいだ。
 「まだ起きてるよ。興奮して眠れないんだよ」
 「そうでしょうね。はい、これ」
 圭子姉さんがぼくに手渡してくれたのは、お守りだ。ただのお守りじゃない。圭子姉さんの手作りのお守りだった。
 「わあ、サンキュウ」
 「アメリカは日本より治安が悪いから、気をつけてね。コレクトコールでいいから、毎日電話するのよ」
 まるで母みたいなことを言う。そう言えば小さいときからいつもこうだった。ぼくには母親がふたりいるようなものだ。
 「心配ないよ。治安に関しては、絶対大丈夫だと言っていたから」
 「ほんとに大丈夫かしら」
 「大丈夫だよ。心配要らないよ」
 「そのお守り、必ず身に付けていてね。死んでも離したらだめよ」
 「判ったよ。絶対体から離さない!」
 スーツケースの中にお守りをしまうと、圭子姉さんは安心したように部屋を出て行った。優しくて奇麗な圭子姉さん、ぼくは圭子姉さんが大好きだ。姉弟でなかったら、年下でなかったら、圭子姉さんと結婚したいところだ。


 成田空港は、夏休みを海外で過ごそうという人々で混雑していた。レンタルしたやや大き目のスーツケースをカウンターに預けると、ぼくは見送りに来た母と圭子姉さんと一緒に早めのランチを取るために空港のレストランへと向かった。
 「おーい、薫! 薫、待ってくれ! やっと見つけたよ。おばさん、こんにちは。圭子お姉さん、こんにちは」
 息を切らせてやってきたのは、大田真二だった。真二は、ぼくの幼なじみで、といってもぼくが小学校四年生のときに名張から名古屋に来てからの付き合いだけど、中学卒業まではいつも一緒だった。彼はぼくとは違う工業高校に通うようになってからも二日と開けず自転車に乗ってうちに遊びに来ていた。そろそろ十年の付き合いになる。四月生まれの真二は、二月生まれのぼくに比べて、体格もよく、身長が180センチ近くあった。ぼくが165センチしかないので、でこぼこコンビとよく言われた。
 「何だ、真二か。どうした?」
 「どうしたはないだろう。見送りに来てやったんだよ」
 汗かきの真二は、額に浮かんだ汗をハンカチで拭った。
 「誰を」
 「しらばっくれるなよ。アメリカに行くんだろう? ほかの用事を断って、名古屋からはるばる見送りにやって来たんだ。ありがたく思えよ」
 「別にありがたくはないな。ところで誰に聞いたんだ? 内緒にしてたのに」
 「えへへ、誰でもいいじゃないか、そんな事。しかし、水臭いな。ほかのやつらは別として、俺にも黙っているなんて」
 「たった四週間だからな。それに遊びに行くんじゃないし」
 「遊びと一緒だろう?」
 同意を得るように、母と圭子姉さんの顔を振り返った。
 「馬鹿言うなよ。勉強さ、勉強。ところで、見送りに来たのなら、餞別は?」
 ぼくは右手を真二の目の前に差し出す。真二はぱしりと差し出したぼくの手を払いのけた。
 「餞別? そんなものないよ。見送りに来てやっただけで充分だろう?」
 「おまえの顔なんか見飽きてるよ」
 「ひどいな。親友に向かって」
 「餞別がないんだったら、お土産は、なしだな」
 「お土産なんか期待してないよ。おまえのことだから、ろくなものは買ってこないからな。元気で帰ってくれば、それでいいさ。おまえが居ないと遊ぶ相手が居ないからな」
 「ははは。元気で帰ってくるよ。土産話をどっさり持ってな」
 「待ってるよ。圭子お姉さん、今日は一段とおきれいですね。スタイルもいいし、その服、とても良くお似合いですね」
 「ありがとう、真二さん。あなたのお世辞もますます磨きが掛かって来たわね」
 「そんなことないです。本心からですよ。ぼく、薫の友達で良かったなと思っているんです。こんな奇麗なお姉さんと顔見知りになれたから」
 「おい、真二。ほんとに俺の見送りに来たのか? 圭子姉さんに会うのが目的じゃないのか?」
 「何言ってんだよ。おまえの見送りに決まってるじゃないか。ところで、飯食いに行くんだろう? 俺も一緒にいいかい?」
 「いいけど、自分の分は自分で出せよ」
 「当然だよ。そうと決まれば、圭子お姉さん、一緒に行きましょう。ああ、あの席がいいですね」
 真二がうちに来るのはどうも圭子姉さんに気があるかららしい。いや、それに間違いない。見送りと称して圭子姉さんに会いに来たに違いない。遠路はるばるご苦労なことだ。しかし、どこからぼくの留学の話を聞きつけたのだろうか? 誰にも内緒にしていたのに。
 それにしても真二の図々しさには呆れ返る。母とぼくが一緒だというのに、圭子姉さんとふたりでテーブルに座って恋人同士のように話し込んでいて、時々ぼくたちに向かってピースサインなど送ってくる。よくも見送りに来ただなんて言えたものだ。
 圭子姉さんは真二のことをどう思っているのか、さっぱり見当が付かない。年下だから、ぜんぜん気にもしてないのかもしれないが・・・・。

 航空券一枚だけを手にしてゲートをくぐった。ゲートを抜けて振り返ってみると、母と圭子姉さんが手を振っていた。真二は圭子姉さんの横に恋人のように寄り添ってぼくに向かってにやにやしながら手を振っていた。
 「真二! 圭子姉さんを頼むぞ!」
 ぼくはゲートの向こうに向かって叫んだ。
 「任しとけ!」
 そう言いながら、真二は圭子姉さんの肩を抱いた。圭子姉さんは嫌がる素振りを見せなかった。圭子姉さんも真二に気があるのだろうかとその時思った。
 真二となら義兄弟になってもいいかもと思いながら奥へと進んでいった。この時、ぼくが西条薫として二度と日本へ戻ってこられないなどと誰が予期しただろう。


 アメリカでの生活も早や二週間が過ぎようとしている。予定期間の半分が過ぎようとしているわけだけど、ぼくの英語力は長足の進歩を遂げた。と言うのも、ホームステイ先のジョンソン夫妻のいずれもが日本語がまったくだめで、コミュニケーションの方法は英語だけなのだ。英検一級の自信は、着いてすぐに打ち砕かれたけれど、とくに奥さんのケイトの根気強い指導のお陰で、今では何不自由なく英語で会話を楽しめるようになっている。合衆国のどこに置き去りされてもひとりで帰って来られるくらいだ。留学の目的はほぼ達したといってよい。
 ジョンソン夫妻には、デヴィッドという息子がいる。九月からハイスクールの最高学年になるのだが、日本と違って受験戦争がないのでのんびりしたもので、ガールフレンドのナンシーの気を引くのに一生懸命だ。デヴィッドは一人っ子だったから、弟ができたといって喜んでくれて、アメリカの慣習を詳しく教えてくれたり、ナンシーを通じて女の子を紹介してくれ、四人一緒にディズニーランドに遊びに行ったりもした。これはと言う女の子もいたけれど、すぐに振られてしまった。ぼくの背が低いことが原因らしいけど、こればかりはどうしようもない。

 八月十日の夕食後、デヴィッドとぼくはリビングのソファーに座ってテレビを2時間ほど楽しんだ。
 「そろそろ、明日の予習をしなきゃ」
 ぼくは立ち上がった。
 「カオルは真面目だな」
 そう言いながらデヴィッドも立ち上がった。いつもならケイトに怒られるまでテレビを見ているのに、おかしいなと思いながらジョンソン夫妻にお休みを言って二階への階段を上った。ドアのノブに手をかけたとき、デヴィッドがポンとぼくの肩をたたいた。
 「カオル、ちょっとぼくの部屋に来ないか?」
 予習は1時間もあればすむ。ちょっとだけならいかとぼくは返事をした。
 「いいけど」
 デヴィッドはぼくを部屋に入れると鍵をかけた。
 「今日、ナンシーとデートしたんだ」
 「知ってるよ。それがどうかしたの?」
 「今日は両親とも出掛けているって言うんで、ナンシーの家に行ったんだ」
 「へえ? それで?」
 「ナンシーとやったんだよ」
 「やったって、セックスを?」
 興味津々でぼくは目を輝かせた。
 「そうなんだ。ナンシーのやつ、すごく積極的でね」
 デヴィッドは、彼女の乳房は非常にでかくて形がいいとか、ウエストがきゅっと締まっているとか、こまごまとしゃべりまくった。ぼくは女の子の手も握ったことがなかったので、興奮して聞き入った。

 午後十一時ころになって、デヴィッドがいい所に連れて行ってやろうと言い出した。
 「こんなに遅く出掛けて、見つかったら怒られるよ」
 「もちろん玄関から出ていくつもりはないさ。窓から出て、裏の樹を伝わって降りるのさ。帰りは逆のコース! どうする?」
 「うーん。どうしよう。予習もしなきゃいけないし・・・・」
 「カオルなら予習していかなくても大丈夫だろう」
 「・・・・そうだなあ」
 「行こう、行こう、ほら。ベッドの中に枕を入れて寝ている振りをしておけば、万が一部屋の中を覗かれても大丈夫さ」
 ぼくは好奇心とデヴィッドの熱意に負け、出掛けることに同意した。デヴィッドに教えられて、ぼくのベッドにも細工を施したあと、デヴィッドの部屋に戻った。
 デヴィッドは部屋の窓をそっと開いた。窓のすぐそばに庭木が一本立っていた。その樹の枝はまるで逃走用に誂えたように階段状になっていた。デヴィッドの続いて木を伝って地上に降り、辺りを窺いながら車庫へ行った。
 「カオル、きみはそっちを使えよ」
 「わかった」
 デヴィッドは先月買ってもらったばかりのマウンテンバイクを押し、ぼくはデヴィッドのお古のマウンテンバイクを借りて、音がしないように表へ出た。
 振り返ってみたけれど、ジョンソン夫妻は気づいていないようだ。次の角まで押して行って、誰にも見咎められないのを確かめてから、マウンテンバイクに跨って勢いよく走り始めた。

 夕方昇り始めた月が明るい。閑静な住宅街を抜け、小高い丘を上ると、ロサンゼルスの街の明かりが見えた。丘を猛スピードで下って、いくつかのビルが建ち並ぶ通りに出た。二人並んで通りを走った。
 「裏の樹の枝は、初めからあんな階段状になっていたの?」
 「ちょっと手を加えたけど、前からあんなもんだよ」
 「両親は気がつかないのかい?」
 「普段、真面目にしているからね。時々家を抜け出すのに使うけど、まだ見つかったことがないよ」
 「なるほど。日頃の行いか」
 そうでもないような気がするのにとぼくは思っていたが、口には出さなかった。
 「そういうことだよ。カオル、向こうのビルの上にあるSHARPのロゴの入った看板が見えるかい?」
 デヴィッドの指差す方を見てみると、数百メートル離れたビルの上に、日本では見慣れたSHARPの看板が見えた。
 「あれかい?」
 ぼくも指差してみた。
 「そうそう、あのビルの裏手なんだけどな。目的地は」
 「もう少しあるね。だけど、月が出てなかったら、こんな時間にこんな所には絶対来たくないね」
 「どうして?」
 「どうしてって、こういう所には、ゆすりやたかり、強盗なんてのがうじゃうじゃいるんじゃないのかい?」
 「心配ないよ。この辺はオフィス街だから、この時間は人通りがほとんどないんだ。だから強盗も失業保険を貰わなくちゃいけないくらいだよ」
 「へええ、確かに人通りがぜんぜんないけどね・・・・」
 見回してみても、人っ子一人いない。ゴミをあさる野犬すらもいなかった。
 「さあ、急ごう」
 デヴィッドは走り始める。デヴィッドの後を追おうとペダルを思いっきり踏んだら、ガリガリと音がして動かなくなってしまった。ギアからチェーンが外れてしまったのだった。
 「あれえ! デヴィッド! ちょっと待って! バイクのチェーンが外れた。すぐ直すから」
 デヴィッドはUターンして戻ってきてギアを覗き込んだ。
 「そいつ、最近調子悪くて、チェーンがよく外れるんだ。だからこいつを買ってもらったんだよ」
 ギアと車体の間にチェーンが入り込んでなかなか抜けない。
 「ギヤに絡んでなかなか直りそうもないよ」
 「ちょっと貸して。うーん、これは直すのに時間がかかりそうだな。おまわりに見つかるとやばいから、バイクはこの辺に隠して歩いて行こう。あそこがいいだろう」
 そう言うとデヴィッドは、マウンテンバイクを押していく。ぼくは動かないマウンテンバイクを担いで、ビルの路地に入っていった。デヴィッドはごみ箱の陰にマウンテンバイクを隠した。ぼくもその横に置いた。
 「この路地をこのまま行こう。二十分くらい歩けば着くよ」
 「まだ、二十分も歩くの?」
 「だらしがないな、二十分くらい。お楽しみが待ってるぞ。がんばれ!」
 マウンテンバイクで三十分以上走ってきたあとでもあるし、夜中と入ってもまだ昼間の熱気が残っていて、じっとりと汗が出た。
 細い路地の角を二、三度曲がって少し開けた場所が見えてきた時、数人の男たちが言い争う声が聞こえてきた。ぼくとデヴィッドは顔を見合わせ、足音を忍ばせてその声の方へ近づいていった。


 男たちは全部で4人。二人ずつ向かい合っていた。
 「レオン、おめえの時代はもう終わったんだ。さっさと引退して、孫の子守でもしていろ! それがお似合いだぜ」
 ドスのきいた声が響く。しかし、心なしか緊張しているように聞こえた。
 「自分のけつもふけねえような若造のくせして、生意気言うんじゃねえ。腹を空かせて死にそうだったおまえを拾ってやった恩を忘れたのか! ジャン」
 どんな威嚇にも消して屈しないと言う落ち着いた声が聞こえてきた。ぼくとデヴィッドは男たちの会話に耳を立てた。
 「うるせえ、レオン。そんな昔の借りはもう何十倍も返したじゃねえか。組織をここまで大きくしたのはこの俺だ。もうこれ以上おめえにこき使われる謂れはねえ。俺に組織を譲る気がねえんなら、ここでくたばりやがれ!」
 そう言うと、男は懐から拳銃を取り出して、レオンと呼ばれた男に向かって銃口を構えた。レオンと呼ばれた男の隣の男が身構えると、ジャンという男はその男に銃口を向け牽制した。
 「動くんじゃねえ、アルバート。死にたくなかったら、おとなしくしてろ。おめえまで殺るつもりはねえんだ。動くなって言ってるだろう。これは玩具じゃねえぞ」
 「レオンさんにそんな口を利くなんて、許せねえ。この恩知らずが!」
 「やかましい、そんなに死にたかったら、おめえも一緒に地獄へ落ちろ!」
 ジャンという男は、二人に向かって拳銃の引き金を引いた。しかし、銃声はせず、カチ、カチと空しい音がするばかりだった。
 「はっ、はっ、は。どうした、ジャン。女に貢ぎすぎて弾を買う金もねえのか? それとも弾をうちに忘れてきたのか?」
 「何故弾が入ってねえんだ! チャーリー、おめえの銃を貸せ!」
 「ジャン、諦めた方がいいぜ」
 チャーリーと呼ばれた男はレオンという男の横に移動した。
 「チャーリー、おめえ、裏切ったな!」
 「裏切るも何も、もともと俺はレオンさんの子分だ。おまえなんかに義理はねえ。弾はさっき車の中で抜いといたよ」
 「畜生! これまであんなに目を掛けてやったのに」
 「知ったことか」
 「そういうことだ、ジャン。あの世で後悔してろ」
 レオンという男が懐から銃を取り出した。ジャンという男は、持っていた弾の入っていない銃をレオンに投げつけ逃げ出した。その背中に向けてレオンの銃が火を噴いた。一発、二発、三発。ビルの谷間に銃声が鳴り響いた。撃たれた男は背中に銃弾を浴びて大の字になってばたりと倒れ、ピクリとも動かなくなった。
 ぼくはデヴィッドの脇腹をつついた。
 「デヴィッド、ここにいたら、まずいんじゃないか?」
 「そうみたいだな」
 ぼくとデヴィッドは壁に体を寄せたままゆっくりと後ずさりを始めた。レオンは倒れた男に近寄り、脇腹を二、三度蹴って死んでいるのを確かめると、今度は銃口をチャーリーという男の方に向けた。チャーリーという男は目を見開き、両手をあげて叫ぶようにして言った。
 「レオンさん、待ってください。何するんです。勘違いしないでください。俺はレオンさんの味方です」
 「ご苦労だったな、チャーリー。俺は裏切り者が嫌いなんだ。一度裏切ったやつは、また裏切る。裏切り者は許さない。それが、この世界で長生きする秘訣だ」
 冷たい口調で言った。
 「そんな! お願いです、レオンさん。絶対裏切らないから、殺さないでください。お願いです」
 チャーリーという男は土下座して地面に頭をこすりつけるようにして助けを乞った。
 「諦めな。こうなるのがお前の運命だ」
 レオンと呼ばれた男の銃が再び火を噴いた。銃声がビルの谷間にこだました。


 「カオル! 逃げるぞ」
 デヴィッドがぼくを突ついて小声で言った。ぼくの足は恐怖で震えて、ガクガクしていた。そろそろと後ずさり、今来た路地を戻ろうとして走りかけた時、何かが足にひっかり転んでしまった。ゴミの入ったアルミのバケツをひっくり返してしまったのだ。がらがらと大きな音が路地に鳴り響く。男たちが一斉にぼくたちにいる方を振り向いた。
 「誰か居る。見られたぞ。殺るんだ!」
 ぼくたちは一目散に走り始めた。走りながら振り向くと、二人の男たちが、逃げるぼくたちを追ってきた。銃声がして、必死で走るぼくたちの足元で弾丸が炸裂した。
 真っ直ぐに走ったら弾が当たると思ったぼくは次の十字路で右に曲がった。ところが、デヴィッドは左に曲がってしまった。道を知っているデヴィッドと一緒に行った方がいいのかもしれないとは思ったが、後の祭りだ。男たちが迫っている。引き返す余裕はない。そのまま振り向かずに走り続けた。
 ぼくはさらにすぐに左へ曲がり、さらに右に曲がって、もう一度右に曲がってすぐの場所にあったごみ箱に飛び込んで、ゴミの中に潜り込んだ。その時遠くで二発の銃声がした。
 バタバタと足音が近づいて来て通り過ぎて行った。ほっとしていたら、しばらくして戻って来て近くで足音が止まった。
 「畜生! くそ餓鬼め! どこへ行きやがった」
 レオンと呼ばれた男の声だ。隣のごみ箱の蓋が開けられた。ガサガサと音がする。ごみ箱の中を捜しているのだ。ぼくのいるごみ箱の蓋が開けられた。ぼくは息を殺してじっとしていた。心臓の鼓動が耳の奥でどくどくと鳴っている。
 ぼくの上にあるゴミがかき分けられた。見つかってしまうとの恐怖におびえたとき、もうひとつの足音が走って近づいてきた。
 「ボス、どこです?」
 「ここだ、アルバート。殺ったか?」
 ゴミをかき分けていた手の圧力がなくなった。
 「当たるにゃ当たりましたが、人がやって来たんで死んだかどうか確かめられませんでした。すぐにサツが来ますぜ。早くずらかりましょう」
 「顔は見られてねえな」
 「大丈夫です、ボス」
 「そうか仕方がねえな。小僧! この辺に隠れているのは判っているんだ。俺の言うことをよく聞くんだ。今夜のことは見なかったことにするんだ。判るな。何もなかった。何も見なかった。もしサツにたれ込んだら命はねえぞ。どこまでも追いかけて、必ず殺してやるからな。判ったな」
 遠くからパトカーのサイレンの音が聞こえてきた。救急車もやって来たようだ。二人の男たちは足早に立ち去って行った。
 男たちが立ち去った後もぼくは出て行く事ができず、ごみ箱の中で震えていた。
 「デヴィッドはどうなったんだろう。弾が当たったって言ってたけど・・・・。死んだんだろうか? どうか生きていてくれ。ぼくが躓いて音を出したせいだ。いや、それよりも、そもそもこんな所に来なけりゃよかったんだ。あの時、行かないときっぱりとデヴィッドに言えば良かったんだ」
 そう後悔しながら、ずっとごみ箱から出られずにいた。出たらあの二人がにやにや笑いながら待っていて、撃ち殺されるのではという恐怖心で一杯だった。
 「父さん、母さん、姉さん、助けて! もう、二度とわがまま言わないから!」
 ずいぶんと長い間、遠くでパトカーや救急車の音がしていたが、しだいにそれも聞こえなくなり、やがてもとの静けさに戻った。それでもぼくはごみ箱から出て行く事ができなかった。

 疲れで少しうとうとしたと思ったら、ごみ箱の隙間から光が射してきて、雀の鳴く声がし始めた。朝が来たのだ。腕時計を見ると、五時四十分過ぎだった。ぼくは、意を決した。このままずっとごみ箱の中にいるわけにはいかないのだ。
 ごみ箱の蓋をそっと開け、辺りを窺った。誰も居なかった。ほっとして、ごみ箱から外に出た。辺りをきょろきょろ見回しながら体に着いたゴミを払った。
 「どっちだったかなあ?」
 二人の男の恐怖におびえながら、昨夜来た道を思い出し出し、マウンテンバイクを隠した所まで戻った。
 マウンテンバイクは二台とも昨夜隠した場所にあった。ぼくの乗って来たマウンテンバイクのチェーンは直せそうもなかった。できるだけ早くこの場を離れたかったので、デヴィッドのマウンテンバイクを引っ張り出して通りに出た。
 マウンテンバイクに乗ろうとしたところで後ろから襟首を捕まれた。
 「おい」
 レオンという男の声に似ていた。
 「ギャ!」
 ぼくは悲鳴を上げてマウンテンバイクを放り出し、その場に座り込んで頭を抱えた。あの二人組が戻って来たと思ったからだ。何も起こらなかった。恐る恐る振り返って見上げると、太った背の低い黒人の警官と、背が高く映画のスクリーンから飛び出して来たようなハンサムな若い白人の警官がぼくを見下ろしていた。太っちょが警棒でぼくの肩をとんとんと叩きながら聞いた。
 「坊主、ここで何をしてる?」
 「・・・・」
 「名前は?」
 「カオル、カオル・サイジョウです」
 「どこから来た?」
 「リバーサイドタウンからです」
 「リバーサイドタウン? ああ、この先の住宅地だな。こんな朝早くから何をしているんだ?」
 「何にもしてません。散歩に来ただけです。もういいでしょう。早く帰らなきゃいけないから」
 本物の警官だろうかとぼくは疑っていた。ぼくがあの事件を目撃したことを確かめた上で殺そうとしているのではないかと思ったのだ。
 「こんなに早くから散歩だと。まだ、六時前だぞ。そのマウンテンバイクはお前のか? 盗んだんじゃないのか?」
 ゴミにまみれたぼくが、真新しいマウンテンバイクを押しているのだ。疑われても仕方がない。
 「いえ、ホームステイしている家の息子のものです。借りてきたんです。嘘じゃありません。本当です!」
 「その息子の名前は?」
 「デヴィッド、デヴィッド・ジョンソンです」
 「デヴィッド・ジョンソンだな!」
 「サム。デヴィッド・ジョンソンは、昨夜この先で撃たれて殺された少年の名前じゃないですか?」
 映画スターが、太っちょに耳打ちするのが聞こえた。デヴィッドはやっぱり死んだんだ。ぼくは泣き出しそうになった。
 「デヴィッドは死んだんですか?」
 「デヴィッド・ジョンソン、住所はリバーサイドタウン1029、間違いない。坊主、殺されたのはお前の友達らしいな。少し離れたところで、麻薬の密売人がふたり殺されているんだ。お前何か知っているだろう!」
 「・・・・」
 「おい、どうなんだ」
 「サム、署に連れて行きましょうよ。こんな所じゃ、調書も取れない」
 「そうだな、ジェフ。そのマウンテンバイクの窃盗未遂と言うことにしよう。おい坊主、大人しくついて来い!」
 ぼくは抵抗する気力もなく、映画スターに背中を小突かれながら、角に停めてあったパトカーの後部座席に押し込まれた。


 デヴィッドは、路地から広い通りに出る直前に背中と左足を撃たれ倒れた。たまたま通りかかった残業帰りのふたりのコンピューター技師達に発見され、救急車ですぐに救命救急センターに運び込まれたが、背中から入った弾丸が肺の大きな静脈を損傷しており、緊急手術が行われたが、午前一時十二分に死亡したとロス市警の取調室で聞かされた。
 サムは優しい人で、ジェフのように怒鳴り散らさなかった。熱いコーヒーをカップに入れてぼくの前に差し出すと、優しい言葉で質問し始めた。
 「昨夜は何時ごろ、家を出た? 坊主」
 「十一時ころです。午後の」
 「二十三時に家を出た、と。それからどうした?」
 ぼくは昨夜目撃した出来事をぽつりぽつりと話し始めた。本当は、話せば殺すと言われたことが恐ろしくて、最初はただ黙って下を向いていた。
 「お前の証言で、麻薬組織が壊滅できるかもしれん。話すことが死んだデヴィッドへの最大の供養だ」
 そう言われては、話さないわけにはいかなかった。
 「腹が空かないか」と問われて時計を見るともう午前十一時五十分だった。寝不足と緊張と悲しみで空腹感はなかったが、ジェフが買ってきたハンバーガーをあっという間に二個もたいらげてしまった。
 午後一時、FBIからふたりの捜査官がやって来た。ジェファーソン捜査官は、年取ったキアヌ・リーブスといった感じの二枚目で、三つ揃えのスーツをきっちり着こなしていたが、少々冷たい感じのする人だった。話し方も杓子定規で、あまり感情を表に出さないタイプだ。もうひとりのベイカー捜査官は、対照的に何ヶ月も洗っていないようなよれよれのスーツを着て、あまりさえない感じの人だった。ちょうどコロンボ警部のような感じの人だ。
 ふたりは、朝方、サムに話したことを何度も何度も聞き返した。質問するのはほとんどジェファーソン捜査官の方で、ベイカー捜査官はときどきぼそぼそと聞き取りにくい言葉で質問をした。
 「もういいでしょう。これ以上話すことは何もありません」
 「大事なことなんだ、カオル。きっちり証拠固めをして、やつらが二度と娑婆に出て来られないようにするんだ。さあ、今度は写真を見てくれ! レオンと呼ばれた男は、こいつだろう?」
 写真には、葉巻をくわえた男が写っていた。レオンと呼ばれた男だと思った。
 「月明かりだったけど、この男です。声を聞けば、もっとはっきりします」
 「間違いないね」
 ジェファーソン捜査官はぼくの目を覗き込んだ。
 「はい」
 ぼくはジェファーソン捜査官の目を見据えて答えた。ジェファーソン捜査官は、ウンウンと頷きながら話した。
 「この男は、レオン・スミスと言って、カリフォルニアの麻薬密売の大元締めだ。この男の逮捕がわたしの生涯を掛けた夢たったんだ。君に感謝するよ」
 ジェファーソン捜査官は、もう一枚の写真を撮りだしてぼくに見せた。
 「もうひとりの男は、こいつだろう?」
 これはあの男に間違いないと確信した。
 「そうです」
 「その男は、アルバート・キンスキー。レオン・スミスの右腕だ。このふたりが居なくなれば、カリフォルニアの麻薬組織はなくなったも同然だ」
 それまで乗り出していた体を椅子の背もたれにゆだねて、ジェファーソン捜査官は天井の方を仰いだ。
 「裁判で証言しなければいけないんですか?」
 ぼくは恐る恐る尋ねた。
 「もちろんだよ」
 「話したら殺すと言われました」
 「大丈夫。君の安全は保障するよ」
 「ほんとに大丈夫ですか?」
 「合衆国憲法が君を守る。信じたまえ!」
 信じるしかない。もう話してしまったのだから。


 「十一日午前零時ころ、ロサンゼルス市××通りの空き地で、ジャン・マックロード(三九)とチャーリー・スウェンソン(三二)の二人が射殺体で発見された。二人はかねてより麻薬密売の噂があり、ロス市警がマークしていた人物である。今回の殺人劇は、密売組織内の抗争の結果との見方が強い。この殺人現場に居合わせたと見られるデヴィッド・ジョンソン君(十七)は、背中と足に銃弾を受け、セントラル・パーク・メディカル・センターに運ばれたが、医師団の必死の治療も空しく十一日午前一時十二分死亡した。デヴィッド君と一緒に居て事件を目撃したと思われる中国人少年が、ロス市警に身柄を確保され、現在事情聴取されており、事件の解決は早いものと推測される」

 新聞のトップに、ジャン・マックロード、チャーリー・スウェンソン、デヴィッドの3人の写真が並び、麻薬撲滅協会やキリスト教会などの非難の声明が長々と載っていた。
 「カオル、いつの間にやら君は中国人に国籍変更されてるぞ」
 「その方が却っていいかもしれないね、ジェファーソンさん」
 「我々の目から見れば、東洋人は、みんな同じに見えるからあまり変わらんぞ。それより、新聞社もレオンたちもデヴィッド君の線から、君の身元を割り出すのは時間の問題だよ」
 「口止めできないんですか?」
 「一応手は打って置いたがね。だが、人の口には戸を立てられんからな」
 「そんな! 何とかしてください。ぼくを見殺しにする気ですか?」
 「できるだけ早く彼らを逮捕して、裁判に持っていこう。別件でもな」
 「お願いします。ところで、デヴィッドの葬式はいつですか?」
 「まさか行くつもりじゃないだろうな」
 「行ってはだめですか?」
 「腹を空かした狼の口の中に頭を突っ込むようなものだ。止めたまえ」
 「どうしても行きたいんです。行って、ジョンソン夫妻に謝りたいんです。デヴィッドが死んだのはぼくのせいだから」
 ぼくはほとんど泣き出しそうだった。イヤ、実際には泣いていたに違いない。
 「うーん、そうだな・・・・。葬式に行くのは何とかしよう。ただ、遠くから見るだけだぞ。ジョンソン夫妻に会うのは危険だ。手紙にした方がいい」
 「ほんのちょっとの間でいいんです。お願いします、ジェファーソンさん。このままでは、日本にも帰れません」
 「サムライ精神か? 困ったものだ」
 ジェファーソン捜査官は、腕組みをして考え込んだ。
 「お願いします」
 「判った、会えるにしてもちょっとだけだぞ。だめな時は、諦めるんだぞ」
 「ありがとうございます」


 百メートル先で、デヴィッドの葬儀が行われている。ぼくは、電話会社のカモフラージュをしたワンボックスカーの中に居て、じっと葬儀の進行を見守っていた。
 一人息子を失ったケイトは、アレンに抱きかかえられるようにして、棺の側に立っていた。
 「ケイト、アレン、ごめんなさい。みんなぼくが悪いんです。デヴィッドが死んだのはみんなぼくのせいです」
 ぼくは二人に駆け寄ってそう叫びたい衝動に刈られた。だけど、それは叶えられぬ願いだった。葬儀が終わっても、ジョンソン夫妻は、デヴィッドの墓石の前からなかなか立ち去ろうとしなかった。
 「いま、会いに行けませんか?」
 「いや、だめだ。レオンの手下らしいやつ等が、数人うろうろしていると無線が言っている。もう少し待て」
 ジョンソン夫妻は、何度も墓石の方を振り返りながら、親戚らしいふたりの男女に促されて、車に乗った。車は、真っ直ぐ自宅へ向かっているようだった。ぼくたちの乗った車もジョンソン夫妻の車を追ってゆっくり動き始めた。
 「カオル、いまあの角を曲がった黒の車が見えるか?」
 「はい。見えます」
 「あれには、レオンの手下らしい男たちが乗っている。出て行かなくて良かったな。殺られていたかもしれん。もう一台いるようだが、ジョンソン家までついて来なければ、家の前で会わせてあげよう」
 ぼくは、レオンの手下が諦めて去っていくのを願った。
 「墓地にいた車は、みんな帰ったと無線に入った。ジョンソン家の周りにも怪しい人影はないそうだ。カオル、五分だけだぞ。それ以上はだめだ。君は大事な証人なんだ。死なすわけにはいかんのだ」
 ぼくは、車を降りたばかりのケイトとアレンに駆け寄り、詫びを言おうとしたが、涙だけが溢れ出て言葉にならなかった。ケイトはぼくを抱き寄せ優しく言った。
 「カオル、いいの。サム・ケイン警部補から事情は聞いたわ。あなたが悪いんじゃないの。やつ等が悪いの。いい? 必ず証言して! デヴィッドの恨みを晴らして!」
 「判った、ケイト。仇は必ず討つよ」
 そう約束すると、ぼくはジェファーソン捜査官の待つワンボックスカーに乗り込んだ。ぼくを乗せた車は脱兎のごとくロス市警へと戻って行った。

10

 「十九日、レオン・スミス(五五)およびアルバート・キンスキー(三六)が麻薬密売ならびに殺人の容疑で逮捕された。ふたりは当日のアリバイを盾に容疑を否認、全面的に争う構えである。
 一方、ロス市警・FBI合同捜査本部は、レオン・スミスの経営する会社とふたりの自宅などの家宅捜査を行い、ふたりを有罪にする証拠固めを終えたと発表。裁判は、異例の速さで開始される模様である。
 今回起こった殺人事件の目撃者のひとりである日本人少年(十七)は、名古屋市在住で、父母と姉の四人暮らし。同じく事件の目撃者で、殺されたデヴィッド・アルバート君宅に先月二十五日からホームステイしていた。彼の証言が裁判の行方を左右する可能性が高く、麻薬組織の手が伸び生命の危険があるため、FBIの厳重な保護のもと証言台に立つ日を待っている」

 「日本人に戻っているな、カオル。マスコミが君のことをこここまで嗅ぎ付けているとすれば、君の身元はもうやつ等にも割れてしまっていると見た方がいいだろうな。写真が出ていないだけましだがな」
 ぼくの護衛をしてくれているベイカー捜査官がテーブルの上に新聞を放り出した。
 「ベイカーさん、新聞はこれだけではないでしょう? 他の新聞や雑誌なんかに写真が出てるんじゃないですか?」
 「マスコミには自粛を要請してあるから、写真までは出さんと思うが、我々の力が及ばんやくざ新聞もあるからな」
 「裁判が済んだら、日本に帰れるんですか?」
 「もちろんだとも、カオル。もし君が殺されるようなことがあったら、外交問題に発展するからな」
 「ほんとですね」
 「ほんとだとも。さて、このホテルも今日までだ。明日は、別のホテルに移ることになっているよ」
 手帳を取り出してベイカー捜査官は確認した上でぼくに告げた。
 「ここは安全ではないんですか?」
 「言いにくいことだが、百パーセントとは言えない。金で買収される警官が後を絶たないからな。情報がどこから漏れるかわからんのだよ」
 苦々しい口調で言った。
 「それにここは、人の出入りが多いからすべてをチェックできないんだ」
 「なるほどね。それで、明日の何時ごろどこへ行くんですか?」
 「それは、我々にも知らされていない。壁に耳あり、だからな」
 「ミステリーツアーみたいなものですね」
 「何だそれは?」
 「いや、判らなければいいです」
 「ふん。ところで、ルームサービスばかりじゃ飽きるだろう。気分転換に、ホテルのレストランでランチをご馳走しよう」
 堅物のベイカー捜査官の口からそんな言葉が出るとは思っても見なかったので、ぼくはちょっと驚いた。
 「いいんですか? 見つからないですか?」
 「少し変装をしてな。ルームサービスでよければ無理は言わんが」
 いつもの口調に戻った。
 「とんでもない! 嬉しいです」
 ぼくは、急いで野球帽に黒縁のメガネを掛けて、ベイカー捜査官ともうひとりのFBIの護衛ビルと一緒に部屋を出て、裏階段を下って一階のレストランへと向かった。
 ベイカー捜査官が先頭を行き、ぼくがそれに続く。そのあとをビルが警戒しながら下っていった。
 階段を二階まで降りたとき、ドカンとものすごい音がして三階の方から土煙が上がった。三階のスプリンクラーが作動したらしく、水がどっと流れてきて階段は水びだしになった。ホテル内は騒然となり、罵声が飛び交った。
 「ビル! 俺はカオルを連れてこの先の小会議室に避難しているから、様子を見てきてくれ」
 「判りました」
 救急車のサイレンが近づいてきた。どうやら怪我人が出たようだ。しばらくするとビルが息を切らせて小会議室へやってきた。
 「大変です。今までわれわれが居た部屋は爆破されて、跡形もありません。廊下を通りかかった宿泊客が巻き添えになったようです。隣の三〇六号室と三〇八号室にも怪我人が出ています」
 「カオル、危ない所だったな。出てくるのがもうちょっと遅れていたら、棺桶がもう三つ増えていた。気まぐれも、時には役に立つな」
 目をぎょろぎょろさせながらベイカー捜査官は言った。
 「変な冗談は止めてください、ベイカーさん。今からどうするんですか?」
 「もうここには居れない。すぐにFBI本部に連絡して、迎えに来てもらおう。しかし、いったいだれがここに隠れているのを漏らしたんだろう・・・・」

11

 「二十日午前十一時三十分ころ、ロサンゼルス郊外にあるロッキー・アーバン・ホテルの三〇七号室が何者かにより爆破された。犯人は向かいの倉庫ビルからロケット砲をホテルに向け発射したもので、現場には発射管とふたつの足跡が残されていた。また現場ビルの近くの路上に不審な車両があって、爆発の直後猛スピードで立ち去るのが目撃されており、市警は非常線を張って犯人の発見に努めているが、未だに犯人は逮捕されていない。
 このロケット砲は十四日未明、陸軍兵器庫から盗まれたものと判明。陸軍内部に手引きしたものがある可能性もあるため、関係者から事情を聞いている。
 この爆発で、廊下を通りかかったカール・ホイットマンさん(三一)と妻のキャシーさん(二七)が全身打撲のため搬送先の病院で死亡。他に数人の負傷者が居る模様。
 爆破された三〇七号室には、ジャン・マックロード殺人事件の重要参考人の日本人少年が保護されており、この少年を狙った犯行と推測されている。なお、少年も重傷を負って病院に運ばれたとの関係筋の情報もあり、安否が気遣われる」

 ぼくはあの爆破事件の後、騒ぎに紛れて迎えに来た三人のFBIの護衛とともに、ロングビーチにある、とある別荘に隠れていた。
 「ぼくはぴんぴんしているのに、重傷で、入院したことになっているんですね」
 「ベイカー捜査官がその情報を流したんだ。ロスの病院に入院していることになっている方が安全だからね、カオル」
 「ここは安全なんですか?」
 「この場所は、ここにいる我々しか知らない。君の保護を依頼したベイカー捜査官ですらもここを知らない。もちろんジェファーソン捜査官も知らない。ベイカー捜査官がそうしろと言ったんでな。知っている人間が少ないほど、秘密は守られ易い。もしここがやつ等に知られることがあるなら、ここにいる三人のうちのひとりが漏らしたことになる。そんなことはありえないから、君の安全は確保されているんだよ」
 「連絡はどうするんですか?」
 「携帯電話に決まっているじゃないか。普通の電話だと居場所が特定される恐れがあるからな。それに裁判の日まで余程のことがない限り、こちらからは連絡しないことにしているんだ」
 「いつまでここにいるんですか?」
 「裁判は来週八月三十日月曜日に行われる。それまでの辛抱だ」
 あと三日もこんな所に居なければならないかと思うとぞっとした。なにしろここには何も無いのだ。テレビは置いてあるが、どうやらフィーダー線が繋がっていないらしく、スイッチを入れても砂漠の嵐の二十四時間放送だ。ラジオも時々叩いてやらないと音がしなくなる代物だ。いくら運動嫌いのぼくでも、たまには外へ出てジョギングくらいしたいのに、それも許されていない。
 護衛たちは三交代で、ひとりが警戒しているとあとのふたりは居眠りしたり、ポーカーをしたりしている。三人ともヘビースモーカーで、護衛たちの吸うたばこの煙が部屋の中に充満していて、もう一週間も一緒に居たらうまく日本に帰れても肺癌になって死にそうだ。ぼくは壊れかけたラジオに耳を傾けたり、一度見た雑誌を何回も読み直したり、護衛たちのやっているポーカーを眺めて過ごすしかなかった。何もすることがないと言うことがこれほど苦痛だとは思わなかった。

12

 八月三十日、待ちに待った裁判の日がやってきた。ぼくは午前四時にたたき起こされた。ぼくは重傷で、病院から離れられないことになっていたし、裁判の開始は午後一時の予定なのに裁判所に着いたのは早朝の午前六時だったから、裏口から簡単に控え室に辿り着けた。控え室には机と椅子しかなく、ぼくはまたまた煙の中で忍耐を強いられた。朝早くから起こされたので、眠くてしょうがなかった。
 午前十時、担当検事がようやくやってきて打ち合わせが始まった。打ち合わせには二時間あまり掛かってしまった。昼食は、マックのハンバーガーだ。アメリカ人はよく飽きないなと思うくらいハンバーガー好きだ。
 出廷の時間が来た。ぼくは、死刑台にあがる囚人のような目だけに穴の空いた黒いフードを掛けられた。
 「裁判長、異議あり。覆面をした証人は認められません」
 レオン・スミスの弁護人が手を挙げた。
 「裁判長、証人は未成年です。しかも顔を見せることによって多大な損害を被る可能性があります。被告弁護人の異議を却下されるようお願いいたします」
 「よろしい。弁護人の異議を却下します。証人は覆面をしたままでよいから、証人席に座りなさい」
 ぼくはキリスト教徒ではないが、聖書の上に手を置いて宣誓をさせられた。
 「証人は、自身に不利になること以外は、うそ偽り無く正直に話さなければなりません。もし偽証すれば法により罰せられます。よろしいですね」
 「はい」
 ぼくは、あの夜の夕方からの出来事をこと細かく証言した。
 「ジャン・マックロードとチャーリー・スウェンソンのふたりを撃った男たちがここにいますか?」
 「はい、居ます。」
 「立って、その男たちを指差しなさい」
 ぼくは被告席に居るふたりの男を指差した。
 「レオン・スミス、アルバート・キンスキー、このふたりに間違いないですね」
 「はい、間違いありません」
 ぼくはきっぱりとそう答えた。
 「弁護人は反対尋問を」
 レオン・スミスの弁護人が立ち上がってぼくに近づいてきた。彼はハンサムでスタイルがよかった。彼の方が正義に味方のように見えるなとぼくはフードの穴越しに思っていた。
 「君が聞いたと言う名前は、レオン、アルバート、ジャン、チャーリーの四人に間違いないね」
 「はい」
 「姓を聞いたかね?」
 「いいえ、聞きませんでした」
 「それでは、何故君の聞いたレオンとアルバートがここにいる紳士だと言いきれるのかね」
 「顔をはっきり見ました」
 「現場検証に拠れば、あの辺りは昼でもかなり暗い。本当に君はこの二人の顔をはっきり見たのかね」
 「あの夜は、満月でした。あの時間には月は真上にあって、あの場所への細い路地の中でも懐中電灯なしにねずみでも見つけられました。レオンさんの顔だけでなく、左の二の腕に蜘蛛の刺青があるのを見ました」
 「証人は聞かれないことは言わなくてよろしい。弁護人、まだ尋問がありますか?」
 「ありがとうございます、裁判長。カオル、君はレオンなり、アルバートなりがデヴィッド・ジョンソン君を撃つところを目撃したかね」
 「いいえ。しかし、」
 アルバートがデヴィッドを撃ったと言っていたことを話そうとしたが、遮られてしまった。裁判とはそうしたものらしい。不利な証言はさせず、依頼人に有利になるように証言を誘導するのが弁護士の役割だとあとで聞かされた。
 「目撃しなかった。そうだね」
 「は、はい」
 「反対尋問を終わります」
 「証人は、退廷してよろしい。本日はこれにて閉廷とします。次回は、九月十三日とします」
 裁判長の木槌が打たれ、午後三時閉廷となった。退廷する時、レオン・スミスがぼくのそばを通り、どすの利いた声で言った。
「坊主、俺は一度口にしたことは必ず実行する。どこへ逃げてもな。覚えておきな」
 ぼくは、あの夜ごみ箱の中で聞いた彼の言葉を思い出し、ぞっとした。控え室に戻っても不安は去らなかった。
 「カオルよくやった。これでやつ等を極刑にできる。蜘蛛の刺青のことは聞いていなかったな。動かぬ証拠がひとつ増えたわけだ。デヴィッド君の件はアルバートが自宅の屋根裏に隠し持っていた拳銃とデヴィッド君の体内から摘出された弾丸の線条痕が一致しているから問題ないよ。やつは誰かの罠に嵌められたと反論していたが、やつが現場に居たことを君が証言したから、もう逃げられないよ」
 検事は笑顔でぼくの肩を叩いた。
 「もう日本に帰れるんでしょう? ここにいつまでも居たら殺されてしまいます。さっきもスミスに脅されました」
 「すぐに手配しよう。ただ、手続きするまで少し待ってもらわねばならん。それと相手の弁護士が要求してくれば、もう一、二度出廷せねばならんかもしれん。まあ、九月いっぱいには、けりが就くとは思うがね」
 「九月いっぱいですって! 学校が始まってしまう。学校はどうなるんですか? 留年してしまいますよ。せっかく決まった大学進学がだめになってしまう。裁判のたびに、こちらへ来ると言うのはだめですか?」
 「学校関係は、政府を通じていいようにしてあげよう。麻薬撲滅は政府の大きな仕事のひとつだ。それに協力しているんだ。大丈夫、来年の春には君は大学生だ。それから、裁判のたびに日本と合衆国を往復すると言うアイデアはだめだ。移動する時が一番危ないんだ。とくに空港がね」
 「そうですか。それじゃあしょうがないですね。学校さえ何とかなればぼくは構わないけど・・・・。とにかく学校のことはお願いします」
 「任せたまえ。日本に帰ってしまえば、やつ等は手出しできない。それまでの間、ジェファーソン捜査官が今後も君を保護してくれる。いいね」
 「判りました。ぼくはまだ、籠の中の鳥なんですね。仕方がありません。デヴィッドを死なせてしまったんですから・・・・。我慢します」
 しばらくすると、ジェファーソン捜査官とベイカー捜査官が、控え室にやってきた。
 「カオル、久しぶりだな。元気だったかい」
 「ええ、何もしないでボーッとしているのが好きで、毎日ハンバーガーで良かったら、こんないい生活はありませんね。命の危険がなかったら、もう最高ですよ」
 そんなジョークが口をついて出てきた。
 「はっ、はっ、は。もう少し頑張ってもらわんといかんよ。そうだ、片が付いたら、東海岸からヨーロッパ経由で帰国するように手配しよう。ヨーロッパは行ったことがあるかね?」
 「ヨーロッパなんて、もちろん行ったことなんかないです。うれしいな。そうなれば、また社会勉強ができる」
 「そういうことだよ」

13

 このホテルに来てからそろそろ五日目になる。明日か明後日かには、またホテルを移ることになるだろう。そう、ぼくはあの裁判が終わった後、やつ等に居所をつかませないようにFBIの護衛付きでほぼ一週間毎にホテルを変えているのだ。
 「裁判所から呼び出されそうなので、出国を二,三日延ばそう」
 そう言われて、そうこうしているうちに二週間以上が過ぎた。滞在が長くなりそうなので、FBIがぼくの偽の身分証明書を作って、匿ってくれる人物を探してくれているはずなのだが、ぼくが日本人なので、それもなかなか難しいと言って身分証明書もできない。本当に身分証明書を作ってくれているのだろうか? 本当にぼくを出国させる気があるのだろうか? だんだん不安になってきた。

 このホテルの名前はベイサイドホテル、裁判後三番目の隠れ家だ。ディズニーランドが比較的近くて、日本人の観光客が多く、カモフラージュになるだろうというのが、このホテルが選ばれた理由らしい。だけどそんなことが何の意味もないことをぼくは知っている。ホテルはおろか、部屋から一歩も出ることを許されず、日柄一日テレビを見ているか、護衛のジャックとポーカーをするしかないのだ。テレビが見られる分、ロングビーチの隠れ家よりましかもしれないが・・・・。
 もうひとりの護衛のケントは、廊下を行き来する足音に聞き耳を立てながら、部屋のドアに向かって蝋人形のようにじっと椅子に座ったままである。食事とトイレ以外に彼が動いたのを見たことはほとんどない。
 この部屋はホテルの七階にあって、窓の方を見張る必要はない。だが、その窓は分厚いカーテンで締め切られていて、外を覗くことも許されていない。隣のビルから狙撃されるのを防止するためらしい。隣のビルといっても、百メートル以上も離れているのだ。こんなに離れていて狙撃できるのはゴルゴサーティーンくらいなものだ。やつ等のヒットマンが、高額の報酬を得るために、血眼になってぼくを探しているから、用心して用心しすぎることはないというのが、ジェファーソン捜査官らFBIの意見だ。だけど、ぼくはこのもぐらのような生活に飽き飽きして、気が狂いそうだ。こんな生活に耐えられるのは、岩窟王とケントだけだろう。裁判の後、ぼくがお天道様に当たったのは、ホテルを移動するわずか数時間だけなのだ。神様、仏様、誰でもいいからどうかぼくをこの囚人のような生活から救い出してください。ここ数日は、そう祈る毎日だ。

 部屋のドアがノックされた。ケントがびくっと飛び上がって、腰の拳銃に手をやった。三回、ちょっと間が開いて二回、また間が開いて四回。ジェーンだ。ジェーンに違いない。ルームサービスは頼んでいないし、この部屋のドアをノックするのはぼくの迎えしかない。ぼくが移動する時は必ずジェーンが来てくれる。
 ジェーンは、ブロンドのすごい美人で、背格好はぼくくらいなのだけれど、並みの男はぜんぜんかなわないくらい(知力も体力も)優秀な婦人警官なのだ。最初ぼくの目の前に現れた彼女は、ブロンドの髪をポニーテールにして、女学生みたいな格好をしていて、とても二十九歳には見えなかった。一目見てぼくは彼女の虜になってしまった。次に彼女が現れたときは、別人かと思うような格好で、そう、言ってみれば幼稚園に子供を連れていっている生活に疲れたおばさんのような雰囲気だった。
 今日はどんな格好で現れるのだろうか? ぼくの胸は期待に膨らんだ。ケントはすぐにドアを開けようとせず、しばらく待ったあと、用心深くドアに近寄ると、覗き穴から外の様子を窺った。右手は相変わらず拳銃に掛けられたままだ。彼は外の人物を確認したらしい。右手を拳銃から離すと、ドアのふたつのロックを素早く外した。
 ドアを開けて中に滑り込んできたのは、やはりジェーンだった。天使が迎えに来てくれた。ブロンドの髪は今日は軽くウエーブが掛けられとても美しい。白のハイネックのサマーセーターにわずかにピンクがかったホワイトジーンズを穿き、薄いベージュのコートを羽織っていた。足元を見てみると、ピンクのストライプの入ったスニーカーだった。
 ジェーンは、コートを脱いでハンガーに掛けると、割と大きなボストンバッグとハンドバッグを空いた椅子の上に放り投げた。
 「大きなボストンバッグだね。何が入っているの? ジェーン」
 ハイヒールを履いているからぼくよりちょっと目線が上にあるジェーンに向かって尋ねた。
 「女の鞄の中身なんか聞くもんじゃないのよ、カオル。だけど今日は許してあげる。中は変装道具よ。出て行く時は違う格好にするの。前もそうしなかったかしら」
 まるで赤ん坊に言い聞かせるようにジェーンが答えた。
 「そうだったかなあ。覚えてないよ」
 「坊やの子守は飽き飽きしたぜ。俺達はいつ開放されるんだ?」
 ジャックが欠伸をしながら聞いた。
 「明日の朝七時に迎えが来るわ。そしたら、あなたたちは無罪放免。うちに帰って、ゆっくりシャワーを浴びて、一杯やれるわ」
 「今日じゃないのか? ジェーン」
 これまではジェーンがやって来たその日のうちに移動していたのだ。
 「わたしもほんとは今日だと聞いたんだけど、ほかのメンバーの都合が付かなくて明日に延びたらしいの」
 「判った。もう一晩の辛抱だな」
 ジャックはチッと舌打ちをしながら言った。
 「今度はどこへ移動するんだ?」
 「次の隠れ家は教えられない。そういう決まり。別に知らなくてもいいでしょう?」
 ジャックは肩をすくめた。ジェーンはぼくには優しいが、同僚には極めて冷たい。言うことを言うとハンドバッグから化粧ケースを取り出して化粧を直し始めた。
 ぼくはジェーンが化粧をするのをじっと見ていた。ほんとにジェーンは奇麗だ。うっとりしてしまう。ジャックは、護衛が一人増えたせいか、居眠りを始めた。ケントはすでに蝋人形に戻っていた。

14

 「カオル、六時よ。もう起きなさい!」
 味噌汁の匂いがした。台所に立つ母の後ろ姿。振り向いた母の顔がぼやけていて、微笑んでいるのか、泣いているのか、怒っているのか、まったく判らない。「母さん」と呼ぼうとしたとき、激しく肩を揺すられた。
 「カオル、早くしないと迎えが来るわよ!」
 目を開けると、目の前にジェーンの顔があった。夢を見ていたらしい。のろのろとベッドから起き上がると、ジェーンがインスタントの味噌汁をコーヒーカップに入れて運んで来てくれた。
 「日本人は、朝は味噌スープを飲むんでしょう? 昨日、ここに来る途中で買っておいたの」
 うれしかった。このところ、ほとんどホテルのルームサービスかマックのハンバーガーだったので、日本食に飢えていたのだ。インスタントでもありがたかった。ちょっと濃かったけれど美味しかった。ジャックとケントは、コーヒーを飲みながら、トーストを囓っていた。ぼくもトーストを一枚もらって頬張った。白いおにぎりが欲しかったけど、贅沢は言ってられない。
 「そろそろ迎えが来るわ。カオル、早く着替えて!」
 ぼくは、パジャマを脱いでバッグに詰め込むと、ジーンズを穿いて、Tシャツの上に黒のセーターを着た。
 「カオル! 靴は? 靴はどこにやったの?」
 「あれえ、どこにやったんだろう」
 「ジャック! あなた知らない?」
 ジェーンが少しいらいらした口調で叫んだ。靴下を履きながら、スニーカーをきょろきょろと探したが、どこにも見当たらない。
 「ベッドの下じゃないのか?」
 ジャックが不機嫌そうに答えた。その時、部屋のドアがノックされた。四人はぎょっとしてドアの方を見つめた。例の三回、二回、四回のノックだ。
 「迎えが来たみたいね。六時五十三分、ちょっと早いけどほぼ時間通りだわ。今日は天気も良さそうだし、いいドライブになりそうね。」
 ケントは腰の銃に手をやり、ドアに近づいた。例によって覗き窓から外を確認すると、安心したようにドアを開けた。その時ぼくはスニーカーを探してベッドの下を覗き込んでいた。
 ブシュッ、ブシュッ、ブシュッ、と鈍い音とともに、どさっと人の倒れる音が響いた。驚いて顔を上げると、ケントがドアの側に蹲るように倒れ、隣の部屋に逃げ込もうとしていたジェーンが、背中を撃たれて膝から崩れ落ちるところだった。ジャックは拳銃を抜こうと椅子から立ち上がりかけたところを撃たれ、椅子ごと後ろにひっくり返った。警官の服を着た、毛むくじゃらの腕をした天を衝くような大男がぼくに近寄ってきた。
 「小僧! レオンの言うことを聞いて、貝になっていればこんな目に会わないで済んだんだ。」
 「あんた、警官じゃないのか?」
 「偽物に見えるか? 正真正銘、本物の警官だよ、小僧。いわゆる悪徳警官ってやつさ。はっ、はっ、はっ」
 「警官がこんなことしていいのかよ」
 「やかましい! お前の知ったことか! 大人しくあの世に行きな!」
 そう言うと、サイレンサー付きの拳銃をぼくに向けた。
 「もうだめだ。ぼくは死ぬんだ」
 覚悟を決めて目をつぶった。ブシュッ、ブシュッ、とサイレンサーの音が響いた。だけど、どこも痛くない。
 「死ぬときは痛くないのかな?」
 そう思いながら、目を開けると、男が口から血を流しながら目の前に膝から崩れ落ちた。銃の音がした方を見てみると、ジャックが銃を握ってぼくを見ていた。ジャックが生きていた。ぼくは、飛び跳ねるように立ち上がると、ジャックの傍に駆け寄った。
 「坊主、どこもやられちゃいないか?」
 苦しそうにジャックが言った。腹部から血が流れている。
 「うん。どうもない。かすり傷ひとつないよ。」
 ジャックはにやりと笑って言った。
 「運のいいやつだ。そいつがしのごの言わずに坊主を撃っておれば、目的を達していたのにな。まあいい、坊主。俺の上着の左の内ポケットに携帯電話が入っている。一緒に電話番号を書いたメモが入っているから、それを持ってすぐにホテルから逃げろ」
 「誰か呼んでくる」
 「止めろ! 死にたくなかったら、言う通りにしろ。味方よりも新手の暗殺者が来る可能性の方が高いんだぞ。見た通り警官の格好をしていたって信用できないんだ。とにかくすぐにホテルを出て、十分離れたところから、メモの番号に電話しろ。いいな。誰も信用するんじゃない。判ったな」
 喘ぎながらそう言うとジャックは意識を失ってしまった。

15

 逃げ出す前に、フロントの電話番号を回すと受話器をそのまま机の上に置いておいた。こうしておけば、従業員が不審に思って部屋に来てくれるだろう。
 ジェーンは、ぴくりとも動かず、死んでいるのは明らかだった。ぼくの大好きなジェーン。涙がぼろぼろと零れ落ちた。まるで眠っているような死に顔だった。白いセーターに真っ赤な血が滲んで、まるでバラが咲いているようだ。
 逃げ出そうとして、ぼくは靴を履いていないのに新ためて気がついた。自分のスニーカーを探している暇はない。ぼくは、ジェーンの履いていたピンクのストライプの入ったスニーカーを脱がせると、急いで紐を緩めて履いてみた。ちょっときついけれど、あとでもう少し緩めれば大丈夫だと判断した。
 その時ふと、あるアイデアを思い付き、自分のバッグではなく、ジェーンのボストンバッグとハンドバッグを持ち、ハンガーからジェーンのコートを取ると、用心しながら部屋の外に出た。廊下には幸い誰もいなかった。二人組でなくて良かったと安心した。
 裏階段を昇って九階へと向かった。降りて行って新手の暗殺者と鉢合わせするのが恐かった。昇る方がむしろ安全だと思ったからだ。九階の廊下を見回してみたけれど誰もいなかった。ぼくは女子トイレを覗いて、誰もいないのを確かめると一番奥の個室に滑り込んで鍵を掛けた。
 ジェーンのボストンバッグを開けると、真っ黒なおかっぱのかつら、ピンクとグレーのチェックの模様のワンピースなどが入っていた。さらにバッグを探ると下の方から奇麗に畳まれたブラジャーとパンティー、袋に入った真新しいパンティーストッキングが二足出てきた。ハンドバッグの中には化粧ケースや小物が入っていた。必要なものはすべて揃っている。
 そう、ぼくは女装してこのホテルから抜け出すつもりなのだ。ぼくはちびで痩せているからきっとうまく行くと思った。
 ぼくは着ていたセーター、Tシャツ、ジーンズを脱いでブリーフ一枚になってからブラジャーを身につけた。アメリカでは胸の膨らみがなければ女ではない。ブラジャーのホックを留めると胸が圧迫されて苦しい。苦しくても我慢しなければならない。
 膨らみを作るために、ハンカチを詰めてみたけれど、少し膨らみが足りないようだ。ちょっと考えてから、床の上に脱ぎ捨てたTシャツを音がしないようにふたつに裂いて、ブラジャーのカップの中に丸めて押し込んだ。今度は大丈夫だった。
 いくら女装するからと言っても女のパンティーを穿く気にはならない。ぼくはブリーフだから問題ないと判断した。新品のパンティーストッキングを袋から出して穿いた。ワンピースに足を通し、ファスナーを上げようとしたら、ウエストがかなりきつい。お腹をひっこめれば、何とか上がりそうだが、油断してお腹に力を入れたらファスナーが壊れそうだ。ボストンバッグの中をもう一度探ると、髪を括るのに使うらしい幅の広いリボンが出てきた。リボンをウエストに巻いて力いっぱいウエストを絞ってから、もう一度ワンピースに足を通してファスナーを上げてみた。今度はファスナーは比較的簡単にウエストを通過した。ジェーンのウエストがあと二センチも細かったら女装作戦は中止しなければならなかったろう。しかし、ウエストの先が上がらない。手が届かないのだ。ぼくは四苦八苦して、ようやく一番上までファスナーを上げることに成功した。そう言えば、圭子姉さんがワンピースを着る時、ファスナーを上げるのをよく手伝わされたっけ。女はどうしてこんな着にくい服を着るんだろうと思わず苦笑した。
 ワンピースは、ぼくの膝上くらいの丈しかないので、手を挙げると太股の中程まで摩り上がってしまう。しかもスカートはズボンと違って、すうすうしてなんだかひどく無防備な気がする。他に着るものがないし、スカートでなければ女装の意味が半減してしまう。
 さあ、首から下はオーケーだ。

 その時、救急車のサイレンの音が近づいて来るのが聞こえた。ホテルの従業員が、ぼくらの部屋の異変に気づいて通報したのだろう。ジャック! どうか助かって! 今のぼくはそう祈るしかなかった。
 続いてぼくは化粧ケースを広げて、鏡を見ながら、化粧を始めた。ジェーンや圭子姉さんが化粧をするところを時々見ていたので、割とうまくいきそうだ。
 あんまり派手にならないように気を付けながら、最後に口紅を塗った。昨日ジェーンがしていた真っ赤な口紅ではなく、ピンクとオレンジが混ざったような大人しい色にした。コンパクトを覗いてみて、まずまずの出来だとは思ったが、げじげじ眉毛が男を主張している。眉毛を剃ろうかと思ったが、きれいに剃れるかどうか自信がなかったし、かつらの前髪がかなり長いのを思い出し、剃るのは止めた。かつらをつけてコンパクトを覗いてみると、げじげじ眉毛は完全に前髪に隠れていた。これなら大丈夫と頷いた。
 それでも不安になって、バッグの中をもう一度探って、バイオレットのグラデュエーションの入ったサングラスを見つけ出して架け、さらに喉仏を隠すために首にスカーフを巻いた。
 それから、スニーカーの紐を緩めて履き直してみた。これくらいのきつさなら問題はない。ジーンズとセーターをボストンバッグに詰め込み、化粧ケースをハンドバッグに入れると、トイレの中に誰もいないことを確かめて、個室からそろりと外に出た。ジェーンのコートを羽織ってトイレの鏡に全身を写し、「大丈夫! これならだれもぼくが男だとは気づくはずはない」と自分を勇気づけた。
 実際、鏡に映ったぼくは、かなり可愛い女の子らしくに仕上がっている。サングラスは掛けない方がむしろいいかもしれない。

 トイレの入り口から廊下の方を窺ってみると、四,五人の若い女性がエレベーターに向かって歩いていくところだった。ぼくは急ぎ足に彼女らの後ろに付いて行き、一緒にエレベーターに乗り込んだ。こういう場合は、裏から逃げるより正面から出て行った方が、安全なような気がしたからだ。もちろん、エレベーターに乗るときはできるだけ彼女らに顔を見せないように気を配った。
 エレベーターが七階で止まり、黒のサングラスを掛け、黒のダブルのスーツを着込んだ人相の悪い男がふたり乗り込んで来て、エレベーターの中を見回した。こんな男たちだったら、ケントもドアを開けなかっただろうに。
 ぼくはこれ見よがしにサングラスを外し、ハンドバッグから口紅を取り出してゆっくりと塗り直した。エレベーターがロビーに着くと男たちは急ぎ足に降りていった。気がつかなかった。良かった。背中に冷や汗がべったりと滲んだ。
 そのまま玄関から飛び出して行きたい気持ちを押さえ、さも彼女たちの仲間であるような振りをして、ロビーに留まった。
 何気ない振りをしてロビーの中を観察してみると、怪しげな男たちが数人いて行き交う人々を睨んでいた。警察関係者なのか麻薬組織の連中なのか見掛けだけではさっぱり判らない。玄関の外にはパトカーも停まっていたが、ジャックの言葉を思い出し、警官だって信用できないんだ。迂闊な行動はできないと自分に言い聞かせた。
 彼女たちのチェックアウトを待っていると、ぼくたちの降りてきた隣のエレベーターのドアが開き、救急隊員がストレッチャーを押して猛スピードで出てきた。ストレッチャーの上には、左腕に点滴をされたジャックが青い顔をして乗っていた。声を掛けたい衝動を何とか押さえ、ぼくはその場に佇んだ。ジャックがぼくの方を見て、ウインクしたような気がしたが、気のせいだったかもしれない。ジャックを乗せた救急車はサイレンを鳴らし、タイヤを軋ませながらホテルを出て行った。

16

 ぼくは、会計の終わった五人の女性について、ホテルを出た。しばらく外に出ていないので、サングラスをしているのにお天道様が眩しくて幻暈がした。
 ディズニーランド行きのバスに乗る五人を追いかけ、ぼくも一緒にバスに乗り込んで最後部席に腰を降ろした。座るとウエストに巻いたリボンが腹に食い込んで痛いが、我慢するしかない。彼女たちはおしゃべりに夢中で、ぼくの存在にはまったく気づいていないようだった。
 膝の上に置いたボストンバッグの中をもう一度探ってみたが、目新しいものはもうなかった。ハンドバッグの中を覗いてみると、財布が入っていた。財布の写真入れの中に、シュワルツネッガーみたいな筋肉マンと腕を組んでにっこり笑ったジェーンの写真が入っていた。ジェーンのご主人だろうか? それとも恋人だろうか? 涙が零れそうになるのを堪え、財布の中身を確かめてみた。普段はカードを使っているのだろう、小銭しか入っていなかった。十ドル札が三枚と、一ドル札が八枚、コインが十ドルほど入っていた。
 盗むことは悪いことだけど、ぼくはお金を十ドルほどしか持っていなかった。とりあえず、このお金を逃走資金に遣わしてもらうことにした。
 小一時間もするとバスはディズニーランドに到着し、五人グループは先を争ってバスを降りて、ディズニーランドの入り口めがけて駆けて行った。
 ぼくは最後にバスを降り、あたりに変な人物がいないかゆっくり見回した。「一番変なのはぼく自身だな」と苦笑しながら物陰に入り、ジャックからもらったメモを見て携帯電話のボタンを押した。呼び出し音が鳴っているのに誰もでなかった。もう切ろうとしたところで相手が出た。ジェファーソン捜査官だった。
 「カオルなのか? 無事だったか? みんな心配していたんだぞ。今どこにいる」
 いつものようにあまり感情のこもらない口調だ。
 「ジャックはどうなりました。ジェーンとケントはだめみたいだったけど」
 「ふたりには気の毒なことをした。ジャックは今手術中だが、一命は取りとめるようだ。君を早く保護しなければならん。どこにいるんだ。早く言い給え」
 「今ディズニーランドですけど、じっと待っていたら怪しまれます。これからサンタモニカに向かいます。また、連絡します」
 ジェファーソン捜査官の返事を待たずに電話を切った。先ほどのバスから降りた乗客は、みんなディズニーランドに入ってしまったようだ。ぼくがつい十分前に着いたバスから降りたことを知る人間がいないのを確かめ、サンタモニカ行きのバスに乗り込んだ。

17

 サンタモニカ駅前のバス停で降りると、マクドナルドに入って、ダブルバーガー一個とストロベリーのマックシェイクを買って近くの公園のベンチに腰掛けて腹ごしらえをした。
 リボンがウエストに食い込んで苦しいし、そろそろ女装を止めようかと思ったが、誰も気づかないし、男の姿より安全だろうと思い、しばらくこのままでいることにした。
 口紅を引き直し、人通りのあまり多くない木の陰に隠れて携帯電話を掛けた。今度もなかなか出ず、十四、五回目のコールでようやくジェファーソン捜査官の声が聞こえてきた。
 「カオルか?」
 「なかなか出ないんですね」
 「周りがうるさくて気づくのが遅れたんだよ。サンタモニカには着いたかね。」
 「着いてます。今、駅前の公園にある電話ボックスの中にいます。すぐ迎えに来てくれますか?」
 ぼくは、ちょっと嘘を言った。電話ボックスは、目の前の、十メートルほど離れたところにある。
 「すぐ迎えのものに連絡する。そこを動かないで待っていたまえ。」
 そう言うとジェファーソン捜査官は電話を切った。

 ものの十分もしないうちに黒塗りのキャデラックが電話ボックスの前にやって来て停まった。いかにもFBIと言った感じのするスーツ姿の体格がいい男が降りてきた。ぼくが出て行こうとしたとたん、その男は電話ボックス向けてマシンガンを乱射した。
 電話ボックスの中には、二,三分前からヤンキースの野球帽を被った黒人の少年が入っていて、受話器に向かって何やら喚いていた。女装したぼくに気づいて、ぼくの方をちらちらと見ては手を挙げて合図を送ってきていた。電話がすんだら、ぼくを引っかけに来そうな雰囲気だった。その少年は、もはや原形を留めていない電話ボックスの中に、ぼろきれのようになって転がっていた。
 マシンガン男は、いま命を奪った相手が黒人の少年で、殺す相手を間違えたことに気づいて、唾を道路に吐き捨てると、マシンガンを助手席にほうり込んで、キャデラックを急発進させて消えていった。

18

 騒ぎに紛れて、ぼくは乗車券を買うと改札を抜けて、ロサンゼルス行きの列車に乗り込んだ。ロサンゼルスであの裁判のときの検事に会って、力になって貰おうと思ったのだ。
 コンパートメントの中にはまだ誰もいなかった。ボストンバッグと脱いだコートを網棚に放り上げると、窓際に座って外を眺めた。ドアを開ける音がして誰かが入ってきた。びくっとして振り返ると、ひとの良さそうな太った黒人の中年女性だった。大きなバスケットを足元に置くとぼくの前の席にどんと腰を降ろした。
 「どちらまでいらっしゃるの?」
 ぼくは聞こえない振りをして、窓の外を眺めつづけた。
 「ねえ、聞こえないの? どこまで行くの? お嬢さん」
 何度もしつこく聞いてきた。無視できなくなったので、英語がよく判らないと言うジェスチャーをして諦めさせた。
 次に入ってきたのは、安物の葉巻をくわえ、よれよれのコートを着た男で、ぼくを舐めるように見たあと、ぼくの隣にどっかと腰を降ろした。スカートの方を見てぼくはしまったと後悔した。立っているときは膝上丈のワンピースだったが、座った今は太股の中程まで捲れ上がっていたのだ。隣の男は今にもぼくの太股に触ってきそうだ。思わずスカートの裾を押さえてしまった。
 「姉ちゃん、どこまで行くんや?」
 男はヤニ臭い息をぼくに吐きかけながら訛りのひどい英語で聞いてきた。ぼくはだんまりを決め込んでそっぽを向いていた。声を出せば男と気づかれる恐れがある。マクドナルドでは気づかれなかったけれど、長く話すわけにはいかない。たとえ気づかれなくてもこんな男とは一言だって話しもしたくない。
 「その娘は英語が判らないみたいよ」
 向かいのおばさんが助け船を出してくれた。助かった。諦めてくれ。ぼくはそう祈っていた。
 「そうか。それじゃどうしようもないな。セックスは言葉が判らなくてもできるが、口説くことができんとな。へっ、へっ、へっ」
 男は下品に笑うと、コートのポケットからペントハウスを取り出した。そしてぼくの方にヌード写真が見えるようにして読み始めた。
 ぼくも男だけど、こんな男をみると自分が男であることに嫌悪を覚えた。向かいの席に移ろうかと思ったが、そうすればスカートの中を覗かれる恐れがある。スカートの中をのぞかれるのはもっといやだと思ったので、男に背を向けてじっと列車の外を眺めていた。
 列車が動き出すと男はすぐに居眠りを始めた。向かいのおばさんは、ぼくがおしゃべりの相手にならないと諦め、バスケットの中から編みかけの毛糸を取り出すと黙々と手を動かし始めた。
 列車が走り出してどれくらい経っただろうか?コンパートメントのドアが突然開いて、ふたりの男が入って来た。
 「ここは、この三人だけか?」
 先頭の男が誰に聞くともなく尋ねた。ベイサイドホテルのエレベーターの中で出会った男たちだ。ぼくは見つかってしまうと覚悟を決めた。何故、この男たちがここに居るのだろう? さっきのキャデラックにしてもそうだ。まさかジェファーソン捜査官がぼくの居場所をやつらに知らせたわけではないだろうが・・・・。
 「ええ、そうよ。」
 黒人のおばさんが答えると、男たちは黙ってそのまま出て行った。ぼくがあのエレベーターに乗っていたのを覚えていなかったみたいだ。あの時はコートを着ていたからかもしれない。
 男たちが隣のコンパートメントのドアを開ける音がした。列車の中を調べて回っているようだ。ぼくを探しているに違いなかった。次の駅で男たちが降りていくのが見えた。今度は女装したままで良かったとほっとした。
 気が緩むと急に尿意を催し、おばさんにジェスチャーでトイレに行くことを伝えた。用を足して、服装を整えていると携帯電話が鳴った。ジェファーソン捜査官からだ。
 「今どこだ、カオル。その音からすると列車の中か?」
 「ひどいじゃないですか。もうちょっとで、ぼくは殺されるところでしたよ」
 「すまん。わたしのオフィスはどうも盗聴されているらしい。調査中だ。今は外から掛けている。今度は絶対大丈夫だ。どこに向かっている?」
 「ロサンゼルスです。あの検事のところへ行こうと思って」
 「それよりわたしが迎えに行こう。あとどれくらいで着く?」
 「もう十分くらいだと思うけど」
 「今、ベイサイドホテルにもう一度行くところだったんだ。すぐに引き返す。ロサンゼルス駅まで飛ばして三十分くらいだ。そうだ、クレインホテルがいい。クレインホテルの前で待ち合わせをしよう。」
 「クレインホテルですね」
 「そうだ。クレインホテルだ。駅から歩いて十分も掛からんだろう。駅の正面出口から、ホテルの大きな看板が見えるからすぐに判ると思う。シルバーのシボレーで行くから、もし君が先に着いたら、どこかに隠れて待っていてくれたまえ。いいかね?」
 「判りました。シルバーのシボレーですね。」
 「そうだ。今から一時間経っても君が現れなければ、我々はこの件から手を引く。FBIも忙しいからな」
 「そんな! 証言に立つ前には、ぼくを守ると約束したじゃないですか?」
 「必ず来るんだ。そうすれば約束は守られる」
 そう言うとジェファーソン捜査官は一方的に電話を切った。あの検事の居場所を探していたら、間に合わなくなる。選択の余地はない。ジェファーソン捜査官の言う通り、クレインホテルに向かうことにした。盗聴されていたというジェファーソン捜査官の言葉に多少疑問を感じながら・・・・。

19

 あのいやらしい男は、列車から降りてからも、しばらくぼくの後を尾けて来た。どうやってまこうかと考えていたら、駅前広場で顔見知りらしいけばけばした化粧をした、お尻が見えそうなくらい短いスカートを穿いた女に呼び止められて、そのままぼくと反対の方向へと行ってしまった。ほんとにいやなやつだった。
 クレインホテルはすぐに判った。ホテルの周りを見回したが、シルバーのシボレーはまだ来ていない。ぼくは知らん振りして、クレインホテルのロビーを抜けて、あたりを見回して人気のないことを確かめた後、男子トイレの個室に飛び込んだ。ここで女装を解くつもりだ。
 コートを脱いで手すりに掛けて、ボストンバッグからジーンズとセーターを取り出した。かつらを外して身に着けていたものを脱ぐとボストンバッグに詰め込んだ。それからブラジャーをはずし、カップの中に丸めて入れていたTシャツの残骸を汚物入れに捨てた。さて、困った。Tシャツの代わりに着るものがない。セーターだけでは少し寒いようなので、ワンピースをもう一度取り出して着て裾をジーンズの中に押し込むと、上からセーターを着た。別に人前でセーターを脱ぐわけではないからいいだろう。
 男の服装に戻ったが、まだ化粧を落としていない。化粧ケースの中からクレンジングクリームを見つけて化粧を落とした。トイレットペーパーで顔を拭いて、コンパクトで確認すると化粧はほぼ落ちている。外に出て、石鹸で顔をもう一度洗えばいいだろう。ジェーンのコートは男が着てもそう違和感のない色とデザインだ。
 トイレの個室から外に出て、セーターの上からコートを羽織った。洗顔を済ませ、ハンドバッグをつっこんだボストンバッグを抱えて、念のためホテルの裏口から外へ出て、ホテルの反対側にあるビルの陰に潜んだ。
 五分ほどしてシルバーのシボレーがクレインホテルの前に止まり、ジェファーソン捜査官が降りてきた。ぼくはすぐには出て行かず、しばらくジェファーソン捜査官を観察することにした。ジェファーソン捜査官はどうも信用できないような気がしたからだ。用心するに越したことはない。約束の時間までまだ七,八分あった。
 ジェファーソン捜査官が携帯電話を胸のポケットから取り出したので、ぼくは慌てて自分の持っていた携帯電話の電源をオフにした。案の定、ジェファーソン捜査官はぼくの携帯電話を呼び出しているようだ。この位置で、携帯がなったら、すぐに見つかってしまう。電源を切っていて正解だった。ジェファーソン捜査官はしばらく携帯電話を耳に当てていたが、諦めたらしく胸のポケットにしまって、いらいらした表情で熊のように車の周りを行ったり来たりし始めた。
 あたりを注意深く観察したが、罠らしい形跡がないようなので、決心してビルの陰から通りに出て、ジェファーソン捜査官の方へ歩いていった。
 「カオル、そんな所にいたのか? 怪我はないか」
 「大丈夫です。おひとりですか?」
 「ああ、そうだ。早く車に乗りなさい」
 ジェファーソン捜査官の言葉は、いつもと違って、いやに優しかった。ジェファーソン捜査官がちらっと車の方に目を遣ったので振り向いてみると、例の二人組が拳銃を手にして車から降りてくるところだった。驚いて、ジェファーソン捜査官の方を見ると彼は表情も変えず、上着の内ポケットから拳銃を取り出すところだった。
 「カオル、黙って車に乗れ。それともここで撃ち殺されたいか?」
 「やっぱり、あんただったのか!」
 ぼくはボストンバッグをジェファーソン捜査官に投げつけると、彼がひるんだすきにホテルの裏へ向かって駆け出した。こんな真っ昼間にこんな繁華街で、殺人が行われようとしているのに気づく人は誰もいない。彼はこの辺りには人通りが少ないことを知っていてこのホテルを選んだのだ。
 ぼくは心臓が口から出てきそうになりながら、狭い路地を走り続けた。この路地を抜ければ大通りに出ると安心した瞬間、乾燥した発射音がして弾丸が左の頬を掠めた。大通りまで五十メートルあまり。このまま走りつづければ、デヴィッドのように通りに出る前に弾丸の餌食になってしまう。
 ぼくはすぐ目の前の角を左に曲がった。十メートルも行かないうちに、ぼくは絶望のどん底に叩き落とされた。そこは、行き止まりだった。振り向くと、ジェファーソン捜査官が息を切らせながら、近づいて来た。
 「世話を焼かせるな、カオル。ベイカーがわたしを疑っているらしく、おまえの行方を探し出すのに苦労したんだ。ベイサイドホテルにおまえが隠れているのを見つけるのも大変だったんだ。ベイサイドホテルで死んでくれていたら、わたしが危険を冒して出てくることもなかったのに。大変な迷惑だよ」
 そう言うとぼくに向かって拳銃の引き金を引いた。ビルの谷間に銃声がこだまのように鳴り響いた。その銃声に驚いた数羽の鳩がバタバタと飛び立っていく。あの鳩のようにぼくも空を飛べたらと思った瞬間、下腹部に焼けるような激痛が走った。押さえたぼくの指の間から真っ赤な血が流れ落ちて、冷たいコンクリートの上に赤い斑点ができる。
 (もう駄目だ。ぼくはここで死ぬんだ。お母さん・・・・)
 膝の力が抜ける。ぼくは立っていられなくなって背にした壁にもたれかかってへたり込んだ。視界がぼやける。
 ぼくの額に銃口が押し付けられた。
 「カオル、おまえは運が悪かったんだよ。地獄でまた会おう」
 ぼくの意識は銃が発射される前に闇の中へと落ちて行った。



第一章終了