第14章 信じてもらえないだろうね

 スナック『カサブランカ』のマスター・三川治は、コップに磨きをかけていた。時計が午後9時の時報を告げた。そろそろお客が来る頃だなと思いながら、コップを棚に置いた。
 ガラガラとカウベルが鳴って、髪の長い可愛らしい女の子が入ってきた。すぐ後ろに背の高い男が彼女を守るようにして立った。
 「いらっしゃい。カウンターへどうぞ」
 一番奥の椅子を指さすと、彼女がにっこりと笑ってコートを脱ぐ。そのコートを男が取ってやり、コート掛けに掛けてから自分のコートを脱いだ。今どき優しい男だなと三川は思いながらふたりを見ていた。
 「はい、どうぞ」
 三川は突き出しを二人の前に差し出した。
 「何にいたしましょう?」
 「わたし、白波のオンザロック。あなたは?」
 「白波って、焼酎の白波か?」
 「そうよ。いけない?」
 「いけなかないけど、あんな臭いもの、よく飲めるな」
 「その臭さがいいのよ。ねえ? マスター?」
 にっこりと笑顔を向けられ、三川はどぎまぎとする。
 「あ、まあ。お好みですけどね」
 「そうなんだ。俺は、ソルティードッグを」
 「白波のオンザロックにソルティードッグですね。かしこまりました」
 男と女の注文するものが反対だなと思いながら、三川はオンザロックとカクテルを作って二人の前に差し出した。
 「相変わらず脳のない突き出しなのね」
 コンニャクのきんぴらを箸でつまんで口に入れながら彼女が言った。
 「えっ? そうおっしゃると、以前もこの店に来たことがあるんですか?」
 「ええ」
 三川は彼女の顔を覗き込んで首を傾げた。商売柄、一度店に来たお客の顔は絶対に忘れない自信があったのだが、思い出せない。
 「覚えがあるような気がするんですけれど、思い出せないなあ。ずいぶん昔のことですか?」
 「1年半ぶりくらいかな?」
 「1年半? おかしいなあ、それくらいなら覚えているはずなんですが」
 三川はもう一度女の顔を見た。しかし、思い出せない。
 「常連だったのよ」
 「ええっ?」
 「マスター、惚けたんじゃないの?」
 「そんなことはないですけど・・・・」
 「俺は? 俺も常連だったんだけど」
 ソルティードッグを飲み干して、グラスを差し出しながら男が言った。三川は男の方も思い出せない。
 「マスター、わたしもお代わり」
 女がグラスを差し出す。
 「おい。飲み過ぎだよ。お腹の子供に障るよ」
 「いいわよ。これくらい」
 女は口をとがらせた。
 「妊娠してるんですか?」
 三川はグラスを受け取りながら尋ねた。
 「ええ。わかったばかり。まだ3ヶ月よ」
 「それは、おめでとうございます。じゃあ、ちょっと少なめに」
 「だめだめ。ダブルでお願い」
 三川は、オンザロックとソルティードッグを作りながら考えるが、どうしても思い出せない。
 「降参です。どなたでしたでしょうか?」
 「ほら。やっぱりわからなかったでしょう? わたしの勝ち」
 女が男に向かって得意げに微笑んだ。
 「だからさあ。賭にならないって言っただろう?」
 「でも、勝ちは勝ちよ」
 「わかったよ。服でも宝石でも好きなものを買ってくれ」
 「わあ、嬉しいな」
 喜ぶ女を見ながら、三川は溜息をついた。一体誰なんだと。
 「ヒントをあげるわ。わたしがこの店に来ていたのは、毎日午前2時過ぎだった」
 「午前2時過ぎ? あなたが?」
 午前2時過ぎにこんな若い娘が来た覚えはまったくなかった。三川は首を傾げる。
 「そうよ。第二ヒント。注文するのはいつも、この白波のオンザロックだった」
 女はグラスを持ち上げ、そして口に運んだ。
 「ええっ? 午前2時過ぎに来て、白波のオンザロックを注文していた?」
 三川は天井を見て考える。そんなお客にひとりだけ思い当たるのだが、そのお客は男だった。
 「思い出せない?」
 「午前2時過ぎに来て、白波のオンザロックを頼んでいたお客と言ったら、小林って言う男の子だけなんだけど・・・・」
 「ふふふ」
 女が三川の顔を見て含み笑いをする。
 「まさか、あなた、わたしは小林ですなんて言い出すんじゃないでしょうね?」
 冗談半分にそう答えた。
 「ピンポン。わたし、小林です。小林徹です」
 女がにっこり笑って俺を見た。
 「小林君は男だよ。あなたは女でしょう?」
 「そう、わたしは女。妊娠しているから、間違いなく女。あのときは、男の子の格好をしていたの」
 女は悪戯っぽい目を三川に向けた。
 「絶対に違いますよ。そりゃ、体格とか、顔も、そう言えば似ていると思うけど、小林君は男装した女の子じゃなくて、間違いなく男だから」
 「どうしてそう言えるの?」
 彼女が小首を傾げていった。
 「だってね。酔っぱらった小林君がそこのソファーの上で裸踊りをしたことがあるんですよ。身体の割に立派なものが付いていたのをよく覚えていますよ」
 「あら? 恥ずかしい! そんなことがあったの?」
 女が頬を染めた。
 「小林君が女装しているって言うのなら、まあ、信じてもいいけど、だったら妊娠は嘘だな」
 「妊娠は本当よ。ほら、母子手帳も持っているわ」
 彼女はバッグの中から母子手帳を出して見せた。
 「じゃあ、あなたは小林君じゃない」
 「でも、わたし、小林なの。小林徹なの」
 「男が妊娠できるはずがないじゃないですか」
 「ま、そうね。それについては説明がいるわね」
 説明されたって、目の前にいる妊娠しているという女性が小林徹だとは信じられなかった。
 「ところで、俺は誰だと思う?」
 「常連さんですよね?」
 「そう。彼女と同じ時期にいつもこの店に来ていたんだ」
 「ぜんぜん、思い出せません!」
 三川は根を上げる。
 「じゃあ、ヒントをあげようかな? 俺がこの店に顔を出していた時間は午後10時前後。最初の一杯は必ず、ソルティードッグだった。これでどう?」
 三川は、1年半前のお客の顔を思い浮かべた。けれど、その中に目の前にいる男性の顔はなかった。
 「向こうの椅子に腰掛けて、いつもぼやいていたけど」
 そう言われて、ひとりの人物に思い当たったが・・・・。
 「島本香!」
 「ピンポンだよ」
 「彼女はデカパイだった。あなたにはそれがない。似てはいるけれど、彼女のはずがない。・・・・あ、もしかして、小林君の妹さんと、島本さんのお兄さんがわたしのことを担ごうとしてるんですね?」
 二人が顔を見合わせた。三川はそれが正解だなと胸を張った。
 「ピンポン・・・・と行きたいところだけど、違うんだな。俺は島本香で、彼女は小林徹なんだ」
 「からかうのはもう止めてくださいよ。いい加減にしないと怒りますよ!」
 相手がお客だからと我慢していたけれど、荒唐無稽の話に三川は切れかかっていた。
 「マスターが信じられないのはわかりますけど、これは本当の話なんです。わたしは、彼からおっぱいと腟、子宮それに卵巣をもらって、わたしのペニスと睾丸を彼にあげたんです。つまり、わたしたち、お互いに性器を入れ替えたんです」
 「冗談もほどほどにしてくださいよ。そんな手術ができるはずがないでしょう?」
 「できたの。だから、わたしたち、こうしてここにいるのよ」
 三川は信じられないような顔をして二人を交互に見た。
 「信じてもらえなくてもいいの。ただ、あのとき、ここで愚痴ばっかり零してたわたしたちがこうして幸せに暮らしているってことをマスターに知ってもらいたかったの。あなた、そろそろ帰りましょうか?」
 「そうだな。これ以上飲むと、お腹の子に障るからな」
 「じゃあ、マスター、子供が生まれて落ち着いたら、また来ますね。お休み」
 「お、お休み」
 狐につままれたような顔をしながら、三川は勘定を済ませてふたりを送り出した。

 「帰った?」
 店の奥から、大柄な女が三川に尋ねた。
 「あ、ああ。帰ったよ」
 「女の方は小林徹で、男の方が島本香なのよ」
 「ホントに、ホントなのか?」
 「間違いないわよ」
 「信じられない・・・・」
 「知ってって、知らんぷりするんだから、マスターも演技がうまいわね」
 「演技じゃないよ。事情を聞いていたって、とても信じられないよ」
 フフと笑って女がカウンターの方に回った。三川は女に水割りを手渡す。今出て行ったふたりがその大柄な女性の顔を見たら、死んだはずなのにと驚いていただろう。
 その大柄な女は、島本香から『お姉さん』と呼ばれていた人物だった。
 「奥野先生って、すごいわ。男性器と女性器を入れ替える手術をやっちゃうんだから」
 「しかも妊娠してるて言うじゃないか」
 「てことは、ちゃんとエッチできるってことよね」
 「そう言うことになるなあ」
 「奥野先生の腕にはほとほと感心しちゃうわ」
 「ホントだね。わたしも一杯頂こう。素面じゃ、やってられない」
 三川は水割りを作り始めた。
 「飲んで、飲んで。わたしが奢るわ」
 「じゃあ、遠慮なく」
 ふたりは水割りを飲み始めた。

 しばらくして、カウベルが鳴って中年男性が店に入ってきた。
 「こんばんは。暇そうだね」
 「あれ? 奥野先生。今、噂をしていたところなんですよ」
 「そうだろうな。どうもくしゃみが出ると思ったよ」
 軽口をきいて三川からお絞りを受け取る。
 「1時間ほど前、例のふたりがやってきたんですよ」
 「例のふたりって?」
 「小林徹と島本香ですよ」
 「ほう、そうか。ここに来たのか。で、どうだった?」
 「小林君は完全に女の子してたし、島本さんは男そのものでしたよ」
 「この前言っただろう? 彼と彼女の性器をそっくり入れ替えたって。小林君は今や女として、男である島本さんを受け入れられる。小林君、妊娠したって報告を受けているよ」
 「そう言ってましたよ。ホント、信じられませんよ」
 「大成功だね」
 奥野は胸を張って水割りを一気に飲み干した。