第2章 発声練習

 駅の階段を下りながら、ぼくは原口から手渡されていた地図を確かめた。
 「えっと、ここから右に行って、次の角を左だな」
 もう一度地図を確かめて、ぼくは歩き始めた。通りに出てすぐ、若い男がふたり近寄ってきて、ハッとしたような顔をしてぼくのそばを通り過ぎていった。
 「なんだよ。男かよ」
 そう呟いているのが耳に入った。どうも、ぼくを女と間違えてナンパしようとしたようだ。
 「女に見えるのかなあ?」
 ぼくは、ショーウインドーに映ったぼく自身の姿を確かめる。ぼくはベージュ色のジーンズに、紺のTシャツを着て、その上に前開きのファスナーが付いたベージュのベストを着ていた。
 「髪が伸びてるせいで、確かに女の子に見えないこともないな」
 胸が膨らんでいたら、間違いなく声をかけられていただろうと思った。
 「でも、背がもう少し高かったら、こんな格好をしていても女には見えないんだけどなあ」
 背が低い父さんをちょっと恨んだ。

 角を曲がって、道をまっすぐに10分ほど歩き、地図に示されたタバコの自動販売機を見つけた。
 「ここを右に曲がってすぐだな」
 角を曲がって三つ目のビルが目的地だ。
 「栄ビル。間違いない」
 ぼくは目的のビルを見上げた。栄ビルの一階は、ケーキ屋さんで、甘ったるい臭いが漂っていて、数人の女性たちがケーキを物色していた。
 「女って、どうしてケーキが好きなんだろう?」
 ダイエット、ダイエットと言いながら、ケーキみたいな甘いものを好む女の心理がよく分からない。
 その店の横の通路を奥に進むと、エレベーターと階段があった。エレベーターに向かって右側の壁に2階から4階までにあるテナントの名前が入っていた。
 「『演劇集団・風』。ここに間違いない。4階かあ。エレベーターで上ろう」
 ボタンを押すと扉がすぐに開いた。中に入ると、エレベ−ターがゆらりと揺れた。
 「あんまり上等のエレベーターじゃないみたいだな」
 階段にすればよかったかなと思ったけれど、そのまま4階のボタンを押した。
 「ちょっと待ってくれ」
 背の高い男が、手を上げながらエレベーターに駆け込んできた。行く先のボタンをちらりと見て、そのまま奥の壁にもたれて、ぼんやりと天井を見始めた。
 「4階しか押していないのに、他のボタンを押さないのは、この人も4階に行くつもりだな」
 そう思いながら、エレベータの表示が2、3、4と変わっていくのを眺めていた。

 4階に着くと、ぼくと一緒に男も降りてきた。男はずいぶん背が高い。大股で歩いてぼくを追い抜くと、『演劇集団・風』と書かれたガラスの入ったドアを開けた。
 「こんにちは。大崎です」
 「ああ、待ってたよ。中へ入って」
 ぼくも続いて入った。
 「大森ですけど・・・・」
 「大森豊さんですね。どうぞ、中へ」
 笑顔が可愛い女の人の示す方に、原口の顔が見えた。
 「こんにちは」
 ぼくは原口に頭を下げた。
 「よく来たね。さあ、これで全員集合だ。奥へ行こう」
 立ち上がった原口について、ぼくと大崎という男は隣の部屋に入っていった。隣の部屋は、そんなに広くはなかった。その中に、ほとんど男ばかりが十数人たむろしていた。
 「大崎君、大森君、・・・・江原君、こっちに来て並んで」
 江原というらしい若い男が、奥からやってきて、ぼくたちの横に並んだ。
 「みんな。今日から我々の劇団に加わった新人を紹介するよ」
 部屋の中にいた人たちは、腰を下ろしたり、椅子に腰掛けたり、思い思いの格好で、原口に注目した。
 「向こうから、大崎純一君」
 「大崎です。よろしくお願いします」
 「次は、大森豊君」
 「大森です。よろしくお願いいたします」
 ぼくはぺこりと頭を下げた。
 「一番こっちが、江原俊一君だ」
 「よろしく!!」
 「えっと、先輩たちの名前は、おいおい覚えるだろうから、自己紹介はなしと言うことにして、早速稽古に入って貰おう」
 「はい!」
 と威勢のいい返事が一斉に戻ってきた。こんな狭いところで稽古なんてできるんだろうかと思っていると、みんなドアに向かってぞろぞろと歩き始めた。
 「大森君。君はここに残って」
 原口にそう言われて、ぼくは立ち止まった。
 「菊池。大森君の方を片づけたら、稽古場に行くから、君がしばらく稽古をつけていてくれ」
 「わかりました」
 菊池と呼ばれた、髭面の男が敬礼風の挨拶を返していた。入り口にいた女の人も一緒に部屋を出ていって、部屋の中には、ぼくと原口だけが残った。
 「さて、大森君には、ここで発声練習をして貰う」
 「発声練習ですか?」
 「そうだ。舞台では、マイクなんてものはないから、声が観客に届くように、通る声でなくてはいけないんだ」
 「なるほど。ぼくだけですか? 大崎君とか、江原君は?」
 「ああ、彼らは演劇の経験があってね。発声については訓練の必要はないんだよ。必要なのは、君だけなんだ」
 「素人はぼくだけって訳ですね」
 「ま、そう言うことだ」
 そう言いながら、原口は鞄の中からプリントした本のようなものを取り出した。
 「これを見ながら、発声の練習をするんだ。ただ大声を出すんじゃなくて、口を大きく開いて、はっきりと一語一語を区切って声を出すこと。いいね」
 「はあ・・・・」
 「わたしが付いていて練習して貰うといいんだが、稽古場に行って来なければいけないから、わたしが帰ってくるまで、自己流でいいから、発声練習をしていてくれ。いいね」
 「は、はい」
 手渡されたプリントに目を落としていると、原口はぼくをおいて部屋を出ていってしまった。
 「ちょっと気が抜けたなあ。でも、基礎はしっかりやってなきゃ」
 ぼくはプリントを目の前にかざして、原口の残した注意に従って発声練習をし始めた。
 「あ、あ、あ、あ。い、い、い、い。う、う、う、う。え、え、え、え。お、お、お、お。あ、え、い、お、う。う、お、い、え、あ」

 1時間ほどしてドアが開き、原口が戻ってきた。
 「やあ、やってるな」
 「はい」
 ぼくは笑顔を原口に向けた。
 「最初のページから、やってみてくれ。悪いところは注意する」
 「お願いします」
 ぼくは、最初のページから読み始めた。
 「あ、あ、あ、あ。い、い、い、い。う、う、う、う。え、え、え、え。お、お、お、お。あ、え、い、お、う。う、お、い、え、あ」
 「もう少し口を大きく開いて。腹から声を出すようにするんだ。いいか。こうだ。あ、あ、あ、あ。い、い、い、い。う、う、う、う。え、え、え、え。お、お、お、お。あ、え、い、お、う。う、お、い、え、あ」
 さすがにプロは違うなと言う感じだった。
 「さあ、やってみて」
 「はい。あ、あ、あ、あ。い、い、い、い。う、う、う、う。え、え、え、え。お、お、お、お。あ、え、い、お、う。う、お、い、え、あ」
 「だいぶよくなったが、まだまだだ。もう一度」
 ぼくは腹に力を入れて、声を出した。
 「あ、あ、あ、あ。い、い、い、い。う、う、う、う。え、え、え、え。お、お、お、お。あ、え、い、お、う。う、お、い、え、あ」
 「もう一度」
 「あ、あ、あ、あ。い、い、い、い。う、う、う、う。え、え、え、え。お、お、お、お。あ、え、い、お、う。う、お、い、え、あ」
 夕方まで、こんな事が延々と続いた。解放されたのは、夕方の4時過ぎだった。喉の奥が焼けるように痛かった。それ以上練習したら、声が出なくなりそうだった。
 「何時間やっても声が出るような発声方法でないといけないんだ」
 見透かされたようにそう言われて、ぼくはそそくさと事務所をあとにした。

 「へえ、今日一日発声練習だけだったの」
 母さんが、ジュースを入れたコップをぼくにくれながら、肩をすくめた。
 「声が届かないと、うまく演じても意味がないからね」
 「それはそうね」
 「オシの役だったらできるんじゃないの?」
 帰ってきた姉さんが、横やりを入れる。
 「そんな役がどこにあるんだよ!」
 「ヘレン・ケラーとか」
 「あれは声を出して表現するより、ずっと難しいんだよ」
 「そうなの? ・・・・そんなこと、どこで勉強したの?」
 「常識だよ」
 「常識ねえ・・・・」
 姉さんは、ぼくが口から出任せを言っていると思っているようだ。でも、劇団に入ると言うことで、ぼくは少しだけ勉強していたのだ。他の部分はまだ読んでいないけど・・・・。

 翌日も、発声練習だけだった。その翌日も。
 「かなりよくなった。次に行こうか?」
 四日目の朝、原口が、発声練習に飽きてしまったぼくに言い出した。
 「次は演技の稽古ですか?」
 「いや、まだだ」
 その原口の言葉にがっかりした。
 「じゃあ、何を練習するんですか?」
 「次は、女の声を出す練習だ」
 「えっ!? 女の声? どうしてですか?」
 「時には女も演じて貰わなければならないからな」
 「ええっ!? お、女を演じるって・・・・」
 ぼくは、ちょっと身を引いて原口に尋ねた。
 「うちは、女性の団員が少ないだろう?」
 そう言われなくても、少ないことが分かっていた。受付をしていた女性も劇団員だとしても、確か3人しかいない。あとはみんな男ばかりだ。
 「はあ・・・・」
 「木谷君と小笠原君にも、時々女役をやって貰っているんだが、もう一人女役ができる団員が欲しくてね」
 「女性を入団させればいいのに」
 「それが、なかなかわたしのめがねにかなった女性がいなくてねえ」
 「だから、ぼくに?」
 「君は、背も高くないし、女役が適任だと思うが」
 「そんなことはありません!」
 ぼくはかなりむくれた。
 「いつも女役をやれと言う訳じゃないんだ。やれるようにしておいて欲しいと言うだけなんだ。たのむよ」
 両手を合わせて頼まれれば、イヤとは言えなかった。
 「仕方ないです」
 「じゃあ、発声方法を教えよう。女の声を出すためには、ただ単に声を高くすればいいと言うもんじゃないんだ」
 「へええ」
 「喉の奥に声がこもらないように、どちらかというと、口先だけでしゃべる感じにすると、かなり女性らしくなるんだ。やってみて」
 「なんてしゃべれば?」
 「プリントの最初から、やるんだ」
 そう言うわけで、またもらプリントの初めからやり直しだ。ただし、女の声で。
 「あ、あ、あ、あ。い、い、い、い。う、う、う、う。え、え、え、え。お、お、お、お。あ、え、い、お、う。う、お、い、え、あ」
 「あ、あ、あ、あ。い、い、い、い。う、う、う、う。え、え、え、え。お、お、お、お。あ、え、い、お、う。う、お、い、え、あ」
 「あ、あ、あ、あ。い、い、い、い。う、う、う、う。え、え、え、え。お、お、お、お。あ、え、い、お、う。う、お、い、え、あ」
 女の声を出す練習をしているなんて家族には言えないから、まだ発声練習が続いているとだけ言っておいた。

 ぼくは絶対素質がある。三日後には、女性らしい声を出せるようになった。
 「木谷と小笠原は、一ヶ月かかったんだが、大したもんだ」
 「元々少し声が高いですから」
 「まあ、そう謙遜するな。イヤ、大したもんだ」
 褒められて、嬉しくなってしまった。

 日曜日は、劇団は一応休みと言うことになっていた。舞台稽古がある先輩たちは、今日も練習をしているらしいけど、ぼくは家にいて、発声練習をしていた。
 自分の部屋に籠もって、自分の出した女性の声をテープに録音して聞いてみた。
 「姉さんの声そっくりだ」
 何度聞き返しても、姉さんの声に聞こえた。
 「姉弟だもんね」
 ぼくは、うまく女の声を出せると確認してほくそ笑んだ。その時、電話が鳴った。誰かが出るだろうと思って言うのに、誰も出ない。電話も鳴りやまない。
 「みんな、どこに行ったんだよ」
 ぼくは一階に下りて、電話を取った。
 「もしもし、三輪です」
 受話器から流れてきた男の声を聞いたとき、ぼくは悪戯心を出した。三輪というのは、姉さんの彼氏だ。デートのお誘いか何かだろう。
 「あら? 三輪さん? お早う」
 さも姉さんが電話を取ったかのように女声で答えてみた。
 「お早う。実はね。今日、デートできないって言ったけど、仕事がキャンセルになったんだ」
 三輪はぼくを完全に姉さんだと勘違いして話し始めた。ぼくは相手を続けた。
 「じゃあ、デートできるのね」
 「そう。えっと、今9時半だから・・・・、1時間もあったらアルタ前で会えるよね」
 「そうね。でも、出かけるんだったら、ちょっとお化粧し直さなくちゃ。それに服も選びたいし」
 「わかった。わかった。じゃあ、11時にアルタ前で」
 姉さんはいつもこの調子だから、三輪は信用したみたいだ。
 「11時に、アルタ前ね」
 「じゃあ、待ってるよ。チュッ!」
 受話器にキスする音がした。ぼくも受話器にチュッとキスしてやった。
 「あ、そうだ」
 受話器を置こうとすると、三輪が再び話し始めた。
 「何?」
 「この前、コンドームしなかったけど、ホントに大丈夫だった?」
 ギョッとした。姉さんは、つい先週23になった。23にもなって処女なんておかしいけど、ホントに男とセックスしていることを知って、ぼくはどぎまぎした。
 「なあ、大丈夫だったのか?」
 三輪が心配げな口調で繰り返した。
 「あ、ああ。大丈夫よ。あの日は安全日だったんだから」
 「ホントだよね」
 「嘘言っても仕方ないでしょう?」
 「そうだな。・・・・今日はコンドームがいるよね」
 「そうね。今日は付けていた方がいいかも」
 分からないけど、そう答えておいた。
 「付けなくてもいいようになりたいね」
 ぼくはちょっと考える。
 「なに? それ? プロポーズのつもり? プロポーズなら、電話じゃなくて、直接言ってよ。それに、コンドーム付けなくてもいいようになりたいねなんて最低よ。もっといい言葉を言ってよ。一生の思い出になるような」
 「あ、わかった。じゃあ、あとで」
 「じゃあね」
 三輪は姉さんとの結婚を考えているようだ。姉さんの気持ちも確認しないで、あんな話しをしてよかったのだろうかとちょっと心配になった。だけど、もう後の祭りだ。
 「豊! 誰からの電話?」
 姉さんが、バスタオルを胸に巻いてバスルームから出てきた。ずいぶん色っぽく見えて、姉弟だというのに、ぼくは勃起してしまった。
 「ねえ、豊。誰からの電話だったの?」
 姉さんは三輪からの電話を期待していたのだろう。ぼくを睨み付けながら言った。
 「三輪さんだよ」
 「茂からだったの? どうして替わってくれなかったのよ」
 「シャワー浴びてるなんて知らなかったんだもん。あんなに鳴ってるのに誰も出ないから、出掛けていると思ったんだ」
 「なんて言ってたの?」
 「今日、仕事がなくなったから、姉さんとデートしたいって」
 そう言うと、とたんに姉さんの表情が変わった。
 「いつ? どこで?」
 「11時。アルタ前」
 「11時! きゃあ、早く準備しなくちゃ」
 姉さんは、階段を上り始めた。
 「姉さん?」
 「なによ」
 姉さんが振り返ったとき、バスタオルの裾が開けて、茂みが見えたような気がした。ちょっとどぎまぎしながら、ぼくは尋ねた。
 「三輪さんと結婚するつもりなの?」
 「あ、・・・・あんたと関係ないでしょう?」
 「今日プロポーズされるかもね」
 「何でそんなことをあなたに言ったのよ」
 ぼくは女声で姉さんに答えた。
 「わたし、劇団の練習で、女の声を出す練習をしてるの。三輪さんが姉さんと間違ったみたいよ」
 ぼくの声に、姉さんは唖然として階段の途中に立ち止まっていた。
 「信じられない・・・・。茂と変な話しはしなかったでしょうね」
 「してないよ。でも、三輪さんが、この前のデートの時、コンドームしなかったけど、大丈夫だったかなあって言ってたな」
 「ああ。なんて事・・・・」
 「大丈夫だって答えたけど、よかったんだよね」
 「・・・・まあね」
 姉さんお返事はおかしかった。もしかすると、安全日だと嘘を言って、出来ちゃった婚を狙っているのかもしれない。でも、三輪の方も、姉さんとの結婚を望んでいるみたいだから、問題はなさそうだ。
 「それにしても、ぼくの出す女性の声は完璧らしい」
 ぼくはほくそ笑んだ。