「大久保様、ここでしたか。お探ししていたんですよ」
大久保が部屋を出て行こうとしたとき、使用人の木下が顔を出した。
「どうしたんだ?」
「実は・・・・」
ふたりはこそこそと話しをしている。ぼくは、屋敷を出ていく準備を始めた。しばらくして、ドアが開いて、大久保が再び入ってきた。
「すぐに出ていきますから」
ぼくは言われる前に機先を制した。
「いや、出ていくのはちょっと待ってくれ」
「え? どうして?」
「詳しくはまだ話せない。ただ、まだ出ていかないで待っていて欲しいのだ。いいね」
「・・・・はい」
訳がわからず、ぼくはそう返事をした。ぼくを動かすリモコンは、今は大久保の手中にあるのだから・・・・。
「加奈子お嬢様、長々と失礼をいたしました」
大久保は、何故かそんな風に大きな声で言うと、部屋を出ていってしまった。
午後7時になって、佐藤がぼくを夕食に呼びに来た。
「猿渡様が、食堂でお待ちでございます。加奈子お嬢様、さあ、早く下へ」
どうしていいのかわからなかったけれど、大久保がまだ屋敷にいろと言った以上は、屋敷にいなければならないし、屋敷にいる以上は、ぼくは加奈子として振る舞わなければならない。ぼくは、これまでと同じように、加奈子として食堂へ降りていった。
「やあ、加奈子さん。待ってたよ」
真一が、満面の笑顔をぼくに向けた。ぼくが出ていったら、大久保は真一にどんないいわけをするんだろうかと考えていた。
「元気がないんだね」
「ちょっと体の具合が悪くて」
「そうか。じゃあ、今日は早く休んでくれ」
「加奈子、あれと違うのか?」
工藤勝正が、にやりと笑っていった。工藤は、ぼくが生理になっていると言いたかったのだろう。
「そうか。女は大変だな」
真一は工藤の言わんとすることがわかって、にっこりと笑った。
「すみません。早めに休ませていただきます」
ぼくは否定も肯定もせずにそう答えておいた。
午後9時過ぎ、ベッドの中に横になっているとドアがノックされた。
「はい」
「遅くに申し訳ございません。大久保でございます」
「どうぞ」
「失礼いたします」
いつもと変わらぬ様子で大久保が部屋の中に入ってきた。
「いつ出ていけば・・・・」
そんなぼくの問いに戻ってきた返事にぼくはビックリした。
「もう出て行かなくてもいいです。いや、出ていってもらっては困るのです」
大久保の口調が元の丁寧な口調に変わっていた。
「はあ? どう言うことでしょうか?」
「あなたは加奈子お嬢様です。ずっと今まで通りでいてください」
「どういうことです? 説明してください」
「実は、光子お嬢様が、自殺を企てられまして」
「ええっ! 光子さんが? でもお祖父様も猿渡さんも全然そんなことを言ってられなかったわ」
「猿渡様には、先ほどお伝えいたしました。旦那様にはまだお伝えしておりません」
「それで、どうなったの?」
「懸命の努力をしていただいて、なんとか命は取り留めたのですが、発見が遅れたために意識が全くないのです」
「意識がない・・・・。元に戻るの?」
「わかりません。医者が言うには、脳死に近い状態で、二度と目覚めないかもしれないということなのです」
「・・・・そうですか」
「そう言うわけですから、光子お嬢様にもしものことがあれば、旦那様にはもうあなたしかいなくなりました。あなたがいなくなれば、旦那様がどんなに悲しむか」
「でも、わたしは加奈子ではないのですよ」
「それはわかっています。しかし、このまましばらく加奈子お嬢様を演じていただきたいのです。旦那様のために。どうかお願いです」
大久保はぼくに向かって深々と頭を下げた。急転直下、妙なことになってしまった。舞台の上から引きづり降ろされそうになったのに、もう一度演じろと言うわけだ。
「わかりました。光子さんが回復するまで、これまで通り、加奈子を演じます。でも、お祖父様はいいとしても、猿渡さんは? わたしと結婚するのですよ。わたしは女じゃないんですよ」
「それについては、わたしに任せてください」
大久保は、ドンと胸を叩いた。胸を叩いて解決するような問題じゃないと思ったのだけど・・・・。
「・・・・原口は? 原口はどうするんです? あの人、あのビデオテープのコピーを持っているかもしれないのよ。猿渡さんと結婚したあとになって、あれをばらまかれたりしたら・・・・」
「それもわたしのお任せください」
よくわからないけれど、こうなったら、大久保の言うとおりにするしかない。何しろ大久保もあのビデオテープを持っているのだから。
「わかりました。大久保さんの言うとおりにします」
「よかった。くれぐれもばれないようにお願いいたしますね」
「あのビデオテープがなかったら、疑ってましたか?」
「いえ」
「じゃあ、大丈夫でしょう」
「そうですね。それでは、わたしは忠実な執事に戻ります。加奈子お嬢様、お休みなさい」
「お休み、大久保」
ぼくはにっこりと笑って、大久保に小さく手を振った。
大久保がぼくの部屋から姿を消してから考えた。あのとき、使用人の木下が光子が自殺を図ったことを大久保に伝えに来たとき、万が一を考えてぼくに屋敷に留まるようにしたようだ。先々のことを瞬時に判断して行動する大久保は、かなり切れ者のようだ。光子が回復したとき、どうなってしまうかわからないけれど、ともかくこのまま加奈子を演じ続ける以外になさそうだ。
翌日朝早く、工藤勝正に呼び出された。工藤は、いつもの工藤ではなくパニック状態になっていた。
「加奈子。おまえだけは、わたしの元を去るんじゃないぞ」
工藤は、光子が自殺を図って危険な状態だと言うことを知らされたようだ。
「はい。お祖父様。ずっとお祖父様のそばにいます」
「きっとだぞ。いいな」
「はい」
日本の経済を左右するほどの人物が、この時はただの老人になっていた。その老人を安心させることが出来た。ぼくはこのために女を演じてきたのだ。ぼくはなんだか嬉しくなってしまった。
「旦那様、お話が」
「何だ? あらたまって」
「お人払いを」
「加奈子もか?」
「はい」
大久保は、ぼくのことを工藤に言うつもりだろうか? ぼくは目を見開いて大久保を見た。しかし、大久保はそんなぼくを無視して、ぼくが工藤の部屋から出ていくのを待った。
「お祖父様。エステに行って参ります。昼食はご一緒に」
「ああ、待っているよ」
ぼくは、大久保の行動が気になりながらも工藤の部屋を出た。
エステサロンから帰って、すぐに食堂へ向かった。紅茶を飲みながら待っていると、工藤が姿を現した。
「加奈子。待たせたな」
その言い方からすると、大久保はぼくのことを話していないようだと判断した。そうすると、大久保は人払いをしてまで、工藤に何の話をしたのだろうか? 工藤に続いて入ってきた大久保を見たけれど、大久保はいつものように直立不動で立っていて、何が話されたか想像もできなかった。
「加奈子。わたしは明日から、検査入院することになったんだ」
「検査入院?」
「そうだ。わたしの体の調子が悪いのは、若いときに肝臓を痛めたせいで、肝硬変になっているせいなんだ」
「肝硬変・・・・」
原口は癌だと言ったが、肝硬変だったのだ。だけど、肝硬変も絶対治らない病気だ。そう言う意味では癌よりたちが悪い。
「ひどく悪いの?」
「大したことはない。加奈子が産んでくれるひ孫が結婚するくらいまでは何とか生きていられるだろう」
「なんだ。だったら、お祖父様は90才を越えてしまうわ」
「わたしは100才まで生きるつもりなんだが、ダメか?」
「そんなことないけど、100才まで生きられたら、やしゃ孫の顔も見られるかも」
「そうありたいね」
ぼくは子供を産めないけれど、行きがかり上そんな受け答えをせざるを得なかった。
翌日、工藤は検査入院のため車で屋敷を出ていった。工藤が外出するときには必ず付いていく大久保が、その日は屋敷に残っていた。
「加奈子お嬢様。ちょっとお話が」
「何でしょう?」
「お部屋でよろしいでしょうか?」
「いいわ。部屋へ行きましょう」
ぼくの部屋に入ると、鍵を閉めてぼくの向かいに座った。
「一昨日、光子お嬢様が脳死に近い状態になったと言いましたね」
「はい。それが?」
「昨日の朝早く、脳死は間違いないと言う連絡が入りました」
「そうなの・・・・」
「脳死と言うことは、光子お嬢様はお亡くなりになったと言うことです」
ぼくはお亡くなりになったという言葉をぼんやりと聞いていた。光子のことは気の毒だと思った。しかし、これでぼくは屋敷から追い出されずにすむと考えていた。つまり、ぼくは人の不幸を喜んでいた。ぼくは、ぼくは・・・・、ぼくはいつからこんな人間になってしまったのだろうか?
「わたしの言わんとすることがおわかりですか?」
「え?」
「あなたは、これから先、ずっと加奈子お嬢様を演じていただくことになるのです」
「あ、そうですね」
「昨日お願いいたしましたように、くれぐれもよろしくお願いいたします」
「わかりました」
ぼくの返事を聞いて、ホッとしたように大久保は安堵の表情を浮かべた。
「ところで、旦那様が入院されたのは、検査のためではありません」
「はあ? どう言うこと?」
「光子お嬢様の肝臓を移植して貰うためです」
「肝臓移植!?」
「そうです。旦那様は、100まで生きるとおっしゃいましたけれど、実のところはあと半年も持たないくらいに肝臓が悪化していて、残された治療は肝臓移植しか残されていなかったのです」
「そうなの・・・・」
これで原口の言った意味が分かった。原口は、工藤の肝臓がかなり悪いことを知っていたのだ。
「移植は絶対に成功するの?」
「日本の第一人者を集めていますから、大丈夫です」
「それなら安心だわ」
「旦那様が移植手術を受けている間、加奈子様にもちょっとした手術を受けていただこうと思っております」
「ちょっとした手術? いったい何?」
「今は申せません」
「聞かないで手術なんて受けられないわ」
「わたしの言うことを聞いていただきます」
大久保は恐ろしくなるくらいの目をしてぼくを睨んだ。
「わ、わかりました。何でも受けます」
「それでは、この薬を毎日飲んでください」
「何です? これは?」
大久保は、テーブルの上に薬の入った袋を置くと、何も言わずに首を横に振った。聞くなと言うことだ。
「わかったわ。何も聞かないで飲みます」
「それでは、飲み忘れがございませんように」
いつものように直立不動の姿勢で大久保は部屋を出ていった。
エステと工藤の入院している病院、屋敷を移動する日々が続いた。工藤の肝臓はかなり悪く、やはり移植以外にないと診断された。
光子の方も回復の兆しはまったくなく、移植に向けた脳死判定が行われ、ゴーサインが出た。移植手術は近親者が優先と言うことはないのだが、工藤は金の力でその原則を曲げたようだ。
「まさか、孫の肝臓をもらうことになろうとは思わなかった」
工藤は少し悲しげに言った。
「他人のものより、成功率が高いですから」
「そうだな。光子の、わたしへの大きなプレゼントだと思うことにしよう」
「はい。光子お嬢様の命をかけたプレゼントですから、元気になられることが一番の供養になるでしょう」
「そうだな」
「お祖父様。死んじゃいやよ」
「ああ、心配するな」
工藤への光子の肝臓の移植は、その翌々日と決まった。工藤が入院してから、10日目に当たる日だった。
「同じ日に、加奈子お嬢様も手術を受けていただきますので」
「それじゃあ、看病ができないじゃないの」
「旦那様は、しばらく意識がないでしょうし、ICUですから付き添いの必要もありませんから」
「そう・・・・。じゃあ、いいわ」
その日、直ちに入院となり、いろいろと検査された。手術当日、工藤を心配させないようにと、私服で工藤を手術室に送り出したあと、ぼくも着替えて手術室へ運ばれた。何の手術をされるのかわからないのだから、不安がいっぱいだった。だけど、大久保の言いつけは絶対なのだ。
「眠くなりますよ。大きな息をして」
麻酔医にそう言われたあとのことはまったく何も覚えていない。