第13章 事故

 真一が工藤家の屋敷から去っていったあと、ぼくたちは各々の部屋に戻っていった。階段を上りながら、光子が咲子に話しかけていた。
 「もし咲子さんが選ばれたら、わたし、2号さんでもいいな。咲子さんは?」
 そんな光子の言葉を聞いて、咲子は顔色を変えた。
 「わたしはお断りよ。父が、どれくらい妾の子、2号の子って言われて苛められたことか! あなたはずいぶん自信がありそうだけど、わたしが絶対選ばれてみせるわ。わたしは、真一の弱点を知っているんだからね」
 「弱点て、何よ?」
 「わたしが教えるわけがないでしょう? 知りたかったら、真一に聞いてみる事ね。ただし、あなたみたいな処女には無理でしょうけどね」
 光子は、目を丸くしてたたずんだ。ぼくも咲子の言葉にどきりとした。咲子は真一と関係があるというのだろうか?

 部屋に戻ってぼくは受話器を取った。それまで内線専用だと言う先入観があったのだけど、試しに0を押してみた。ツッツッツッと言う短い発信音が、ツーッツーッツーッと言う長いものに変わった。
 「やっぱり外線に繋がるんだ」
 そんな当たり前のことに気付かなかった自分を恥じながら、原口に電話した。
 「原口さん? わたしです。加奈子です」
 『ああ、加奈子か。連絡がないから、心配していたんだ。どうだ? 工藤はおまえのことを孫娘だと信じたか?』
 「ええ、孫娘の加奈子だと認められました」
 『そうか。うまくいったか!』
 原口の喜びが伝わってきた。
 『これで、第1の難関は突破だな』
 「ええ。でも、問題が・・・・」
 『問題? 何だ? 問題って?』
 「工藤勝正が、跡を継がせようとしている猿渡真一って言う男のことは知ってるんでしょう?」
 予行演習の時、土田をそう言う立場でぼくに会わせたんだから、知っていると判断していた。
 『知っているさ。その猿渡とおまえを結婚させて、工藤の財産をすべて相続させるのが、今度の作戦だ』
 「でも、孫娘はわたしだけじゃないんです」
 『そんなことはわかっている。咲子と光子のことだろう?』
 「知ってたんですか?」
 『それくらい知ってるさ。それがどうしたんだ?』
 「工藤は、咲子、光子、わたしの3人の中から猿渡の花嫁候補を選ばせるって言うんです」
 『何だって!? 咲子も光子も妾宅の孫じゃないか! それを直系の加奈子と対等に扱うって言うのか!?』
 「ええ」
 『あいつがそんなことを考えるんなんて、信じられん・・・・』
 「でも、そう言ったんです」
 『そうか・・・・。じゃあ、少し作戦を変えなければならないな』
 「どうしたら・・・・」
 『おまえは心配しないでいい。おまえは、猿渡真一に気に入られるように、せいぜい媚びを売っておけ。いいな』
 「・・・・はい」

 原口への電話を切ってからいろいろと考えた。原口はせいぜい媚びを売っておけといった。真一を色仕掛けで落とすか? とても咲子や光子には敵いそうもない。真一の気を引かせる方法は? まったく分からない。女は本能的に男を引きつける方法を知っているとぼくは思っている。ぼくにはその方法がわからない。本物の女性ふたりを相手に、俄づくりのぼくが勝てるわけがない。3人の中でぼくが一番不利な立場にいることは間違いないようだ。真一の相手に選ばれなかった時の原口の行動が怖い。ぼくはまんじりともしなかった。

 午前3時の時報までは覚えていた。その後は眠ったようだ。目が覚めると、時計は午前9時を回っていた。
 大欠伸をしていると、木村が部屋に入ってきて、はしたないというような顔をして、ぼくを睨んだ。ぼくは、舌を出して下を向いた。
 「お着替えを持ってまいりました。すぐにお食事を持って参りますので、お着替えになって、洗面をすませて置いてください」
 「はあい」
 また木村に睨まれた。今日も肩が凝りそうだ。

 木村が置いていった着替えと言うのは、白のスリップに白のブラウス。それに白に近いピンクのフレアスカートと白のソックスだった。
 「まさにお嬢様ルックだな」
 そう思いながら、それらを身につけた。

 洗面所で歯を磨いて顔を洗っていると、光子がネグリジェのままやってきた。光子もかなり寝坊したようだ。
 「お早う、加奈子さん」
 「おはようございます」
 「あなた。素肌が綺麗なのね」
 光子は、ぼくのほっぺたを指でつついて、トイレに入っていった。一番綺麗に見えた光子は、化粧していないとそれほどでもなかった。それがわかって少し安心した。

 部屋に戻って窓から外を覗くと、咲子が庭を散歩していた。処女ではないと宣言した咲子。こうして見ると、一番女らしく見える。ぼくが選ぶ側なら、咲子を選ぶだろうなと思った。

 フレンチトーストにサラダ、果物、紅茶の朝食を済ませると、木村がワゴンを片づけながら、ぼくに命じた。
 「お嬢様、少しお洋服を誂えませんと。30分ほどしましたら出掛けますので、準備をしていらしてください」
 「どこへ出掛けるの?」
 「もちろん高島屋でございます」
 「ああ、そう・・・・」
 鏡に向かって化粧をして、北野の店から持ってきて貰った荷物の中から、サーモンピンク色のカーディガンを出して上に着て、木村がやってくるのを待った。

 「加奈子お嬢様、迎えに参りました」
 部屋のドアを開いてぼくの姿を見ると、近寄ってきてカーディガンを値踏みするように触った。
 「加奈子お嬢様が着るような代物ではございませんが、他にありませんので仕方がありませんね。向こうに着いたら、すぐにいいものと取り替えましょう」
 「これ、気に入ってるんだけど・・・・」
 「工藤家のお嬢様に、そんなものを着させるわけにはいきません。さあ、加奈子お嬢様、出掛けますよ」」
 キッパリと言うと、先に歩き始めた。ぼくは黙って付いていくしかなかった。

 「宇都宮! 出掛けますよ」
 木村がそう叫ぶと、車庫の前でタバコを吸っていた運転手らしい男が、慌ててタバコをもみ消して、クラウンを玄関に回してきた。
 「さあ、加奈子お嬢様。後ろのお席に。わたしは助手席に座りますので」
 ぼくは運転手の真後ろの席に座った。木村が乗り込むと、車は音もなくスタートした。

 門を抜けて、クラウンは坂道を下り始めた。工藤の屋敷も大きいが、坂道に並んでいる屋敷も大きなものが多い。ぼくは感心したように眺めていた。
 「あれ?」
 宇都宮が首を傾げた。
 「どうかしたの?」
 木村が尋ねた。
 「ブレーキが」
 宇都宮は、ブレーキを何度も踏んだ。しかし、スピードは落ちずに、クラウンは坂道を下っていく。スピ−ドメーターがどんどん上がっていった。
 「糞! 糞! 糞う!!」
 フットブレーキはまったく利かないらしく、宇都宮はサイドブレーキも左足で一生懸命踏んでいたが、スピードは落ちる気配がない。
 「何とかして!」
 「どうしようもないんです!」
 宇都宮は、ギアをシフトダウンしようとしたが、Dレンジから動こうとしなかった。クラウンは、タイヤを軋ませて坂道を下っていった。宇都宮は他の車にぶつからないように、クラクションを鳴らす。
 「お嬢様。何かに掴まっていてください」
 そう言うと、宇都宮は車を横の壁に当てて何とか停めようとしている。ガリガリという衝撃が伝わってきた。
 「キャア、車が!!」
 木村が叫んだとほとんど同時に、ドカンという衝撃があって、ぼくは前の座席に体をたたきつけられて気を失った。

 目を覚ますと、目の前に大久保の顔があった。
 「ああ、よかった。お嬢様、大丈夫でございますか?」
 「ここは?」
 「お屋敷の近くにある救急病院でございます」
 「救急病院?」
 ぼくの乗った車がブレーキが利かずに、横から出てきた車にぶつかったことを思い出した。
 「痛・・・・」
 「お動きにならない方が・・・・」
 ぼくの左肩に固く包帯が巻かれていた。
 「左の肩を脱臼されておりまして、そのように包帯を巻いておりますので」
 「そう・・・・」
 左の腰と膝も少し痛むけれど、大したことはないようだ。
 「木村さんと宇都宮さんは?」
 「エアバッグのおかげで命には別状はございませんが、木村は右手を骨折、宇都宮は胸と膝の骨を骨折して治療中です」
 「よかった。・・・・どうしてブレーキが?」
 「ただいま調査中です」
 大久保に妙な表情が浮かんだ。
 「いえ、お嬢様がご心配なさることではございません」
 ただの故障ではなさそうだとぼくは感じていた。
 「そう。ところで、いつまで入院していなければならないの?」
 「一週間くらいと医者が言っておりました」
 「一週間も? どうしてそんなに入院しなくちゃいけないの? たかが脱臼でしょう?」
 「そう言われましても、医者の言いつけですから」
 「もっと早くはならないの?」
 「早くならないことはないでしょうけれど、少なくとも今晩だけは安静が必要かと」
 「どうせベッドに寝ているだけでしょう? こんなところにいたくないわ。何とかしてよ」
 「はあ。しかし、そう言われましても。医者が何というか?」
 「それくらい何とかなるでしょう? どうしても医者の診察がいると言うのなら、屋敷まで来らせればいいわ」
 「はあ。加奈子お嬢様がそうおっしゃるのなら」
 大久保はちょっと困った顔をして、病室を出ていった。病室は特室らしく、入院生活をするのには、快適そのもののようだ。ぼくが大久保に退院を執拗に迫ったのは、病院にいたら、もしかするとぼくが女ではないと見破られるかもしれないと思ったのだ。
 しばらくして大久保が戻ってきた。
 「往診は出来ないそうですが、毎日通院すると約束するのなら、今日帰ってもいいそうです」
 「わあ、ありがとう。でも、通院は面倒ね」
 「加奈子お嬢様。そこまで我が儘を言うのは・・・・」
 「わかったわ。でも、今度はちゃんとブレーキの利く車にしてね」
 「承知しております」

 大久保が退院手続きを取っている間に、ぼくは木村の病室を訪ねた。
 「木村さん、大丈夫?」
 「加奈子お嬢様。お見舞いなんて結構でしたのに」
 「そう言うわけにはいきません。あなたはわたしにとって大事な人ですから」
 「まだ、加奈子お嬢様のお世話をし始めて一日しかたっていませんのに・・・・」
 木村は涙を流してくれた。
 「加奈子お嬢様は大丈夫なんでしょうか?」
 「わたし? わたしはこの通り」
 そう言いながら、肩を動かそうとして痛みで顔をしかめた。
 「加奈子お嬢様。安静にしていらっしゃらないと」
 「そうするわ。ただ、病院なんていたくないから、屋敷に帰るわ。あなたも許可が下りたら、早く帰ってきてね」
 「はい、加奈子お嬢様」
 運転手の宇都宮の方は、かなり重傷らしく、まだ手術が続いていた。だから、見舞いはせずに、大久保に連れられて屋敷に戻った。

 工藤の屋敷に戻ると、すぐに工藤勝正の部屋へ行った。
 「加奈子、大丈夫か?」
 工藤は、心配のあまり顔色が真っ青だった。
 「お祖父様、大丈夫よ。この通り」
 少しでも動かすと痛むのだけれど、表情には出さずににっこり笑って見せた。
 「そうか。よかった、よかった」
 工藤に安堵の色が浮かんだ。
 「もうご心配されないで。すぐによくなるわ」
 工藤はうんうんと涙ながらに頷いた。
 「じゃあ、お祖父様。わたし、ベッドで安静にしろって言われてますから、部屋に戻ります」
 「ああ。・・・・大久保。二度とこんな事のないようにするんだぞ」
 「承知しております」
 ぼくは出来る限り元気な振りをして、工藤に手を振りながら部屋を出た。
 「痛あ・・・・」
 工藤の部屋を出ると、ぼくは顔をしかめて肩を押さえた。
 「加奈子お嬢様は、大した役者でございます」
 そんな大久保の言葉にちょっとどきりとしたけれど、言っている意味が違うとすぐに分かってぼくは答えた。
 「お祖父様にご心配をかけたくないから」
 「加奈子お嬢様は、お優しい。こんなお孫様を持たれて、旦那様は幸せ者です」
 大久保は、涙を流さんばかりだ。ぼくが偽物で、しかも男だったと知ったら、どんな顔をするだろうかと思っていた。

 木村の代わりに佐藤がやってきて、ネグリジェに着替えさせて貰ってベッドに入った。
 「体をお拭きいたしましょうか?」
 着替えるときに、そんな風に言われたのだけれど、見られたら女じゃないと分かってしまうかもしれないと思って断った。病院だったら、否応なしに体を隅々まで拭かれて、ばれていたかもしれないから、しゃにむに屋敷に帰ってきて正解だったと思った。
 その夜は、夕食は部屋まで運んで貰って食べた。あのテーブルに並んで食べるよりは、ずっと気ままでゆっくりと料理の味を楽しんだ。。

 翌日、病院での診察をすませて、宇都宮を見舞おうと病室を訪れた。
 「宇都宮さん、加奈子ですけど」
 「ああ、お嬢様。ちょっとお待ちになってください」
 病室の中を覗くと、中には人相の悪い男がふたりいて、宇都宮に何かを聞いていた。
 「じゃあ、ありがとうございました。また何かありましたら伺います」
 ぼくの姿を見ると、さっと立ち上がって手帳をしまうと、ぼくに軽く頭を下げて出ていった。
 「誰?」
 「あ、いえ。お嬢様には関係のないことで」
 「そう?」
 ぼくは不審に思いながらも話題を変えた」
 「どう? 傷の方は?」
 「お陰様で、ほとんど痛みはありません」
 宇都宮は、ギプスを巻いた腕を上げて見せた。
 「そう。それはよかったですね」
 「お嬢様の方こそ痛みませんか?」
 「わたしはただの脱臼だから、たいしたことはないわ」
 「それはよかった。お嬢様にもしものことがあったら、なんと申し開きしてよいものやら」
 「あなたのせいではなくて、車のせいでしょう?」
 「車のせいと言えば、車のせいですが」
 「あ、そうか。車のせいと言うことは、あなたの整備不良のせいなのね」
 「それはありません。整備には万全を尽くしています」
 「じゃあ?」
 「お嬢様には、まだ言う段階ではありません」
 大久保の態度といい、やっぱりただの事故ではなさそうだ。
 「整備不良じゃなかったのね」
 「・・・・まあ」
 さっきの人相の悪い男たちは、恐らく刑事か何かだろう。整備不良でなければ、誰かがブレーキの細工をしたとしか考えられない。
 何のために? もちろんぼくを殺すためだ。ぼくを殺して、競争相手を減らすためだ。なにしろ100数十億円もの財産が手に入るかどうかの瀬戸際なのだ。

 ぼくの命を狙ったのはいったい誰だ?
 咲子と光子、そして各々の両親の顔が浮かんだ。しかし、あの一見上品に見える人たちがブレーキの細工できるなんて思われない。
 「あの人たちが直接関わっているんじゃなくて、誰かに頼んだんだわ」
 とんでもないことになりそうだ。原口は、こんな状況になることを予想していたのだろうか?

 みんながぼくの命を狙っているような気がして、病院から帰った日の夜は、まったく眠れなかった。部屋の外でコトリと音がしても、すぐに飛び起きてしまうのだ。気が狂いそうだ。
 「加奈子お嬢様。わたしが守って差し上げますので、ご心配なく」
 大久保は、そう言ってぼくのそばにずっといてくれた。大久保だけは信頼できそうな気がしていた。