「佳奈、いつまで寝てるんだ。腹が減った。飯を作ってくれ」
そんな声に目を覚ますと、布団の傍らに清が座って、煙草を吸っていた。子どもがいるのに、煙草を吸うなんて。
「清! 煙草は吸わないでよ。子どもがいるのに」
「はあ!? 佳奈、おまえ、何言ってんだよ。子どもって、何のことだ?」
驚いて、子どもを寝かせていた場所を見た。そこには、赤ん坊はいなかった。
「赤ちゃんは? わたしの赤ちゃんはどこ?」
「佳奈、夢でも見たのか? ここに赤ん坊なんて、いるわけがないじゃないか」
どういうことだ。・・・・そういえば、産後のけだるさも、乳房の張りもない。目の前にいる清は、かなり若く見える。
そんな・・・・。
「佳奈、飯作ってくれないのか?」
わたしは返事をせず、玄関に走って新聞を取った。
やはり・・・・、日付は1994年12月17日だった。また、5年前に戻ってしまった。わたしの産んだ赤ん坊は・・・・消えてしまった。結婚、妊娠、出産の喜びで、元に戻ることをすっかり忘れていた。結婚はともかく、妊娠、出産は許されなかったのか?
「どうしてよ! 何が、どこが悪いのよ。わたしの赤ちゃんを返してよ!!」
わたしは、玄関に座り込んで、わあわあと大声をあげて泣いた。これほど悲しいと思ったことは、今までなかった。
「佳奈。いったいどうしたんだ?」
清がわたしの傍らに座って、わたしの肩を優しく抱いた。
「清! 赤ちゃんが欲しい。ねえ、お願い。すぐに赤ちゃんが欲しいの」
「何馬鹿言ってんだよ。赤ん坊なんて、真っ平だって、いつも言ってるだろう?」
「欲しいのよ。お願い!」
「馬鹿言うな。結婚もしていないのに」
「じゃあ、すぐに結婚して! それならいいでしょう」
「だめだ。結婚何て、する気はない」
「お願いよ。お願い、結婚して! 赤ちゃんが欲しいの」
「おまえ、気が狂ったのと違うか?」
「気なんて狂っていない。わたし、赤ちゃんが欲しいの。それだけよ」
「やだね」
清は、わたしの手を振り払うと、逃げるように部屋を出ていった。ひとり取り残されたわたしは、布団の上で泣き続けた。この不条理なループの中にわたしを閉じこめた悪魔を呪った。
2時間ほどして清が帰って来て、わたしを探るような目で見た。顔が少し赤い。何処かで、安酒でも飲んできたようだ。
過去二回の経験から、清には、わたしの方からあまり迫らない方が無難だとは分かっていた。しかし、わたしは産んだ子どもがいなくなったことで、自制が効かなくなっていた。男だったときには、絶対そんなことはなかったのに、女になったせいだろうか?
「清、帰ってきてくれたのね。考え直してくれた?」
「まだ、子どもが欲しいなんて言ってるのか?」
「そう、子どもが欲しいの」
「他の男に頼むんだな。俺は、お断りだ」
「そんなこと言わないでよ。お願いよ」
「いやだって、言ってるだろう? 分かんないのか?」
「清、お願い!」
「そんなに言うのなら、俺は出ていく」
清は立ち上がって、ドアの方へ歩いていこうとした。このままにしておけば、清は出て行ってしまう。
「出て行くなんて言わないで、愛してるんだから」
子どもが欲しいばかりに、わたしは心にもないことを言って、清を引き留めようとした。
「子どものことを言わないのなら、ここにいてやる」
「・・・・もう、言わないわ」
わたしは、そう清の答えた。そう答えたが、清を騙して妊娠するつもりだ。ピルを飲んだ振りをしていればいい。妊娠したら、清に用はない。とにかく子どもを産みたい。それが今のわたしの正直な気持ちだ。
「わたしのそばにいてくれるのね?」
「ああ。子どものことは、もう言うなよ」
「分かったわ」
清は機嫌を直してわたしを抱いてくれた。まだピルが効いているはずだから、すぐには妊娠はしない。早くても1月だろう。
ふと、最初のループのとき、12月31日に生理になったことを思い出した。あの時は、清は、そんなことに無頓着だった。しかし、今回は、わたしが妊娠を望んでいることを知っているから、生理になったりすればピルを飲んでいないことに気づくだろう。わたしは、その日から5日間だけピルを飲んで止めた。これで、恐らく正月明けに生理になるから、清には気づかれないですむだろう。
正月休みが終わった1月6日から生理が始まった。わたしの目論見どおりだ。清には正月休みの間、充分サービスしておいたから、生理中の一週間は、わたしの迫ってくることはなかった。
生理が終わった。もう一週間ほどすれば、排卵日が訪れる。わたしは、排卵日にあわせて、自分のほうから清を誘った。
わたしは妊娠した。ぜったい間違いない。何も確実なものはないのに、何故か、それが分かった。例え複数の男と関係があっても、誰の子を妊娠したか分かるという確信があった。あの時、小夜子は、間違いなくお腹の子どもはわたしの子どもだと言った。今のわたしには、それが嘘ではないことが分かる。
2月に入り、つわりらしい症状が出始めた。清にばれないように、じっと我慢した。清は、相変わらず日曜日の夕方からわたしを責め立てた。流産しないかなと心配しながらも、妊娠していることを知られないために、清の望みに応えざるを得なかった。
5月の連休明けになって、わたしは産婦人科を訪れた。
「17週だね。どうするの? 産むの?」
問診表に独身と書いてあるからか、ドクターがわたしにそう尋ねた。
「はい。産みます」
「それはよかった。初めて妊娠した子供さんは、産んだ方がいいからね。で、相手の人とは結婚するの?」
「さあ、どうでしょう。子どもが嫌いだと言ってるから、結婚してくれないかもしれないけど・・・・」
「えっ!? 結婚しなくてもいいの?」
「そんなこと、どうでもいいんです。わたし、子どもが欲しいだけなんです」
「まあ、堕ろしてくれと言われるより、産みたいと言ってくれる方がいいのはいいんだが・・・・」
ドクターは、少し呆れたような顔をしていた。
その日の午後10時、いつもより早めに清が仕事から帰ってきた。今日もかなり疲れている様子だ。わたしは風呂上がりの清にビールを注いでやりながら、妊娠の報告をした。
「やっぱりそうだったのか。太ったにしては、妙だと思っていたんだ」
「怒らないの?」
「去年の暮れに、おまえが子どもが欲しいって言って泣いたろう」
「ええ」
「こうなるんじゃないかと思っていたんだ」
「子どもは嫌いなんでしょう?」
「おまえがどうしても欲しいって言うんならしょうがないよ」
「産んでもいいの?」
「しょうがないだろう?」
「じゃあ、結婚してくれるの?」
「まあな」
「嬉しい!!」
清が出て行っても、止めるつもりはなかったのだが、結婚してくれると言うのなら、それはその方がいい。子どもにとっては、両親が揃っている方がいいに決まっている。それに、清は知らないけれど、わたしとしては、清とは3回目の付き合いだから、気心が知れている。何をすれば喜ぶか、何をすれば怒るか、よく分かっている。今更別の男を捜すよりはいい。それに、経済的なことを心配しなくてすむからだ。
4年半後の12月16日、どうなるのだろうか? 佳奈は、清と結婚して、子どもを産むのだ。娼婦じゃない。幸せになるのだ。今度は、元に戻れるはずだ。
しかし、先のことは今は考えないことにする。今は、ともかく無事子どもを産むことに専念するのだ。
前回無事に子どもが産まれたのに、どうしても死産だった最初の妊娠のことが、頭から離れない。女はいつもこんな思いをして子どもを産むのかなと思った。
9月20日、無事元気な女の子が産まれた。2910グラム。わたしは幸せだった。ただ、今回は、清はお産の付き合ってはくれなかった。清は、わたしが入院してから、一度も病院へは来てくれなかった。
わたしのお腹が大きくなり始めた頃から、清の様子が少しおかしかった。どうも浮気しているようだ。わたしは、口を使ったりして、清を満足させてやっているつもりだったが、それでは足りなかったようだ。
妻が妊娠中の、夫の浮気という話は良く聞く。自分が愛した女が、全魂を込めて子どもを産もうとしているときに浮気するなんて・・・・。男はほんとにくだらない生き物だと痛切に感じた。そんな男という生き物に、わたしは戻るつもりなのだろうか・・・・。考えさせられてしまう。
清がわたしの元へ帰ってきたのは、産後一ヶ月経ってからだった。その間、わたしはたったひとりで、産まれた子供の世話をした。体調は最悪だった。産後は2ヶ月くらいは安静が必要とされているが、それができなかった。康子が時々来てくれなかったら、わたしは死んでいたに違いない。
それなのに、帰ってきた清は、家ではごろごろしているばかりで、何も手伝ってはくれなかった。
結婚何てしなければ良かった。本気でそう思った。そうすれば、子供の世話だけで事足りたのだ。結婚しているから、清の世話もしなければならない。経済力のことばかり考えた、わたしが馬鹿だった。完全にわたしの判断ミスだ。
浮気は間違いないとは思ったが、証拠がどこにもない。生活費はきちんと入れてくれていた。子どもも可愛がってくれている。子供の世話をしてくれないから別れてくれとは言えなかった。
経済的に独立できない女は、男が浮気しようと何しようと、我慢しなくてはならない。こんな馬鹿なことがあるものか! しかし、それがこの世の中に生きるほとんどの女の立場なのだ。
産後6ヶ月経って、ようやく体調が良くなったと思ったら、また妊娠した。
迷った挙げ句、わたしは産む決心をした。せっかくこの世に生まれようとする生命を消してしまう権利は、わたしにはないと思った。医者としてのわたしも、いつもそう勧めていたからだ。
12月22日、長男が生まれた。今度も、清は何も手伝ってはくれず、やはり浮気しているようだった。わたしは悲しくて悲しくて、毎日泣いて暮らした。
どうしてこんな目に遭わなければならないのだろうか?
「あんな男とは別れたら?」
康子は、わたしの会いに来る度にそう言った。
「お産の前後だけだからね。仕方ないよ」
わたしはそう答えた。そう答えたが、浮気何て、して欲しくはない。それが本心だ。
聡子が、わたしの浮気を知ったらどう思うのだろうか? やはり悲しむのだろうなと思う。いくら望んで結婚したのではないからと言っても、愛してやるように努力しなければならなかったのだろう。浮気は男の甲斐性と言うが、それは男の勝手な論理だと思う。浮気されて、どうも感じない女はどこにもいない。いま、それが実感できる。
平成11年12月16日、わたしは分娩台の上にいる。4人目の子どもを産むためだ。このまま水沼佳奈でいたい。清のためではなく、子どもたちのために・・・・。けれども、それが恐らく不可能なことが、わたしには直感で分かる。明日になれば、わたしは5年前に舞い戻る。必ず・・・・。
今回も、わたしは道を誤っている。だからこそ、わたしはあのカラオケハウスの前に行けないのだ。どこがどう間違っているのか? それは分からない。3人の子どもたち、そして、今まさに生まれようとする赤ん坊と別れるのは辛いけれど、わたしはやり直さなければならない。
もしかすると、このまま時が過ぎ去って、わたしは水沼佳奈のままかも知れないと言う淡い期待を持ちながら、わたしは4人目の子どもを産もうとしていた。
「もうすぐ出てくるわよ。頑張って」
助産婦がわたしを励ます。子どもを産むのは5回目だなとぼんやり思う。わたしが大友佳奈の人生をやり直すとすれば、これらの5人の子どもたちはどうなるのだろうなと不思議に思う。これは夢なのかも知れないな。わたしが大友佳奈になった言うのも、わたしの見ている夢、妄想なのかもしれない。きっとそうだ。
子どもが産まれた。元気な泣き声がする。これが夢のはずがない。そう思いながら、わたしはうとうとと眠りについた。