第五章 運命の日を待って

 「佳奈、いつまで寝てるんだ。腹が減った。飯を作ってくれ」
 そんな声に目を覚ますと、布団の傍らに若い男が座って、煙草を吸っていた。色の黒い、ごつい男だ。この男は、この女の何なんだろう? 夫だろうか? いや、そんなはずはない。表札には、大友佳奈としかなかった。結婚していたら、男の名前も出ているはずだ。
 「何してんだよ。早く作ってくれよ。腹減ってたまらんよ」
 どうしたらいいんだろう? わたしは、布団の中から頭だけ出して、男をじっと見ていた。
 「どうかしたのか? 佳奈。具合でも悪いのか?」
 男が立ち上がって、わたしの傍らに座り、わたしの額に手を当てた。見かけの割に、結構優しい男だなと思った。
 「熱なんてないじゃないか。さあ、早く起きて、飯作れよ」
 そんなこと言われても、わたしは食事の支度など、したことがない。どうしようもなく、わたしは布団の中に潜っていた。
 「早くしろって言ってんだろうが・・・・。こいつ! 早く起きろ」
 布団の上から、尻を蹴飛ばされた。訂正する。男は、優しくなんてない。そのままじっとしていると、男は力任せにわたしから布団をはぎ取った。
 「なにが気にいらねえんだ? あっ? 気にいらねえことがあるんだったら言ってみろ。さあ。飯を作らない理由は何だ!」
 男はわたしに馬乗りになって、わたしをばしばしと殴り始めた。
 「止めて!」
 「他に男でもできたのか?」
 「違う、違う」
 「じゃあ、何故だ」
 男はわたしを殴り続けた。そうするうちに、わたしのうなじにキスし始めた。
 「なあ、俺のことが好きなんだろう? いつも優しくしてやってるじゃないか。飯くらい作ってくれよなあ」
 わたしは身を固くして丸くなっていたのだが、男がわたしの体を撫で回した。そうするうちに、ブラージャーを外され、パンティーを脱がされた。
 「なんだ。こんなに濡れているじゃないか。そうか、こっちが欲しかったのか。分かったぞ。待ってろ」
 男がズボンを下ろし始めた。わたしは、次に起こる事態を想像して、恐慌状態に陥った。わたしは、今は女。しかも、素っ裸にされている。
 「わたしは、佳奈じゃない。佳奈じゃない!」
 「何馬鹿言ってんだよ」
 どうすればいいんだ。何と言ったら、この男は分かってくれるんだ。しかし、どうしようもないことが分かっていた。何と説明しても、この男は勿論、他の誰もこんなことを理解してはくれないだろう。
 「佳奈、おまえが好きだ」
 「止めて、止めてよ」
 無駄だと分かっていたが、わたしは、大声で叫んだ。
 「うるさいぞ! 静かにしろ!!!」
 隣の部屋から、男の声がした。隣に人がいる! もしかすると、助けてくれるかもしれない。
 「助けて! 誰か、助けてください!」
 「佳奈、いいかげんにしろ。誰も助けに来やしない」
 また、男に撲たれた。
 「いやあ、止めて」
 「うるさいて言ってるだろう。やるんなら、静かにやれ」
 隣の男が、また叫んで、壁をどんと叩いた。
 一生懸命逃げようとして抵抗したのに、男の力は強く、押さえつけられ、無理矢理うしろからペニスをインサートされてしまった。それでも、わたしは逃げようと必死に抵抗した。
 「いや、いや、いやよ」
 「やかましい。静かにしろ!」
 腕をねじられ、髪の毛を引っ張られ、わたしは身動きできなくなっていた。
 「いやだあ」
 「フェッ、フェッ、フェ」
 わたしが抵抗するのを、男はむしろ喜んでいるようだ。もう逃げようがない。わたしは、諦めて抵抗を止めた。男は、腰を動かしながら、わたしの背中に舌をはわせた。
 感じるはずはないと思っていたのに、わたしの心の中とは裏腹に、体は感じていた。わたしは次第に男の腰の動きに合わせて、腰を振り、男がわたしの中で果てた瞬間、わたしもいってしまった。こんな馬鹿なことがどうして起こるんだ!!!
 男が耳元でささやいた。
 「佳奈、今日は特別良かったぞ。たまには強姦ごっこもいいな」
 わたしにとっては、強姦ごっこではなく、強姦そのものだ。しかし、男はそれを理解してはくれないだろう。

 諦めと絶望を感じながら、そのまま昼過ぎまで男に抱かれて眠っていた。男は、余程疲れている様子で、わたしが起き出しても、目を覚まさなかった。
 わたしは下着を身につけ、タンスを探って、セーターを着てジーンズを穿いた。そうしてから、男の脱ぎ捨てた服を調べた。ズボンの後ろポケットに、財布と免許証があった。免許証を調べてみた。男の名前は、水沼清。昭和44年2月14日生まれ。今年平成6年には、25歳と言うことになる。財布の中に身分証明書が入っていた。その身分証明書に寄れば、運送会社に勤める運転手らしい。
 タンスの中に、男物の下着や服があった。どうやら結婚はしていないが、大友佳奈は水沼清と同棲しているようだ。困った状況になった。女になっただけでも大変なのに、同棲している男がいるなんて・・・・。絶望感は募るばかりだった。
 煙草の焼け跡だらけの畳にぼんやり座っていると、電話が鳴った。どうしよう。電話はいつまでも鳴り続けている。20回ほどなって、切れたかと思ったら、もう一度鳴り始めた。思い切って電話に出た。
 「もしもし」
 「もしもし、佳奈?」
 親しそうな女の声だ。佳奈の友人だろうか?
 「は、はい」
 「今日はどうしたの? 連絡なしで休んだから、店長が怒っているわよ」
 「店長?」
 「どうしたの? どっか具合でも悪いの?」
 「えっ、ええ。ちょっと熱が出ちゃって」
 「そうなの。明日は来られるかって、さっき店長に言われていたの? どう? 出て来られる?」
 どう答えて良いものやらわたしには分からなかった。店長? 何の店だろう? 大友佳奈はそこで何をしているのだろう?
 「明日から3日間、大売り出しでしょう? レジが混むから、ひとりでも欠けると大変なのよ。ねえ、佳奈。無理してでも出てきてよ。わたしからも、お願いよ」
 「分かったわ。何とか出るから。今日のことは、店長さんに謝まっといて」
 「分かったわ。じゃあ、お大事に」
 電話が切れた。レジが混むか。佳奈というこの女は、何処かのスーパーか何かに勤めているようだ。それが何処だか分からないが、明日までには調べておかなければ。レジの仕事くらいは、何とかできそうな気がする。
 「佳奈、飯食いに行くぞ」
 電話している間に、水沼清が起き出して、服を着ていた。そう言えば、わたしもお腹が空いた。
 「どこいくの? 清さん」
 「・・・・佳奈。おまえ、ほんとにおかしいんと違うか? 清さんなんて、気持ち悪いよ」
 清さんじゃないのか。・・・・清ちゃんじゃないな。清君も合わない感じだ。となると、清と呼び捨てと言うことになる。部屋のまん中で、立ち止まってじっと考えていると、清が苛立ったように言った。
 「何してんだよ、佳奈。いつものところだ。さあ、行くぞ」
 「は、はい」
 戸締まりをして、清に付いて行った。とりあえずは、大友佳奈として、水沼清の同棲相手、そして、スーパーのレジを演じておかねばならないだろう。

 佳奈のアパートから歩いて5分ほどのファミレスで、日替わりランチを食べた。ランチを食べながら、清に探りを入れた。
 「清、わたしは大売り出しで、3日間仕事だけど、あなた、あさっての日曜日は、仕事だったかなあ?」
 「前も言っただろう? 今年は、今日が最後の休みで、30日までずっと休みなしだって」
 「あっ、そうだったわね」
 「物忘れがひどいんだなあ。さっき電話で熱が出たって言ってたけど、今日は俺の今年最後の休みだから、一緒に休もうって言ってたのに、店長に頼むのを忘れてたのか?」
 「すっかり忘れてたわ」
 「どうしようもないなあ。早く食えよ。買い物して帰るぞ」
 「帰るって、せっかくの休みなのに、どこへも行かないの?」
 清は不思議そうな顔をして、わたしを見た。
 「やっぱ、おまえ、熱あるな」
 「えっ!?」
 「今日は、一日中やりまくるって約束を忘れた訳じゃないだろう?」
 清が声を落として、わたしに耳元でそう囁いた。また、この男とセックスしなければならないのか? しなければならないことは、たくさんあるのに・・・・。
 逃げ出したいけれど、逃げ出しても、お金はないし、住むところもない。すぐに元に戻るのならば、逃げ出すのだけれど、それは期待しない方がいいような気がする。セックスするのはイヤだけど、相手をしてやるしかない。元に戻れば、わたしの体じゃない。そう思えば気楽なものだ。
 ファミレスを出ると、清は、アパートとは違う方向へ歩き始めた。
 「清、どこへ行くの?」
 「おまえのスーパーに寄っていこう」
 「清、わたしはだめよ。病気だってことになってんだから」
 「じゃあ、そこで待ってろ。俺が買い物してきてやる」
 佳奈が勤めているというスパーは、ファミレスから歩いて5分、おそらく佳奈のアパートからも歩いて5分くらいの場所だろう。コンビニに毛が生えたくらいのスーパーだ。
 わたしは、清が買い物をしてくるのを物陰に隠れて待っていた。15分ほどして、清が大きな袋をふたつ抱えて歩いてきた。
 「佳奈、康子が心配していたぞ。熱はどうですかって」
 康子というのは、恐らく電話してきた佳奈の同僚だろう。
 「何て答えたの?」
 「大したことはない。疲れが出ただけだから、明日には出て来られるだろうって、言っておいた」
 「うまいのね」
 「ほんとのことが言えるかよ。元気にしてます。今から帰って、やりまくりますなんてさあ」
 清は、冗談ではなく、部屋に帰ってわたしと寝るつもりだ。やりまくる? どれくらいするつもりなんだろう? 溜息が出た。

 買ってきたものを冷蔵庫にしまい始めたときから、清はわたしのお尻を撫でたり、胸を触り続けた。そう言えば、わたしも小夜子の部屋に行くと同じことをしていた。男というものは、みんなそうなんだなと思った。
 清は元気だ。夕食にと買ってきた弁当を食べる時間を挟んで、合計5回もわたしの中に放出した。わたし、三ヶ尻昭夫には、とてもこんな真似はできない。
 女になって丸一日も経たない間に、わたしは女として6回ものセックスを経験した。イヤだと思っていたのに、女としてのセックスも結構いいなと思う。絶頂感も長いし・・・・。セックスの最中は、男に戻ることなど忘れて、わたしは没頭した。ただ、ああしろ、こうしろと清に命令口調で言われることには、少し不満を感じる。わたしは、何に対しても支配欲が強いからだ。しかし、今は我慢するしかない。

 朝、目覚めて、トーストを焼いてやり、ウインナーソーセージと目玉焼きを皿に載せて清に食べさせた。清は不思議そうな顔をしている。
 「いつも炒り卵なのに、なんかおまえ、変だな」
 「そうかな」
 「変だよ。いつもはそんなに素直じゃないしな・・・・」
 「人間、時と共に変わるのよ」
 「そうか。おまえのことがますます好きになったよ」
 清は出がけにもう一度わたしを抱いていった。ほんとに元気な男だ。参ってしまう。

 新聞に、佳奈が勤めるスーパーのチラシが入っていた。本日、大売出し。午前10時開店と書いてあった。少し早いとは思ったが、8時半に店へ出かけていった。遅刻するよりはましだと思ったからだ。
 「おはよう、佳奈ちゃん。今日は頼むよ」
 店長らしい男が、ちょうど店の事務所を開けるところだった。
 「昨日は済みません。連絡もしないで」
 「次からは連絡してくれよな。人員配置に困るから」
 「はい」
 店長は、少し首を傾げている。わたしの反応がおかしいのだろう。そうは言っても、普段の佳奈の態度を知らないから、わたしはわたしなりにやるしかないのだ。
 事務所で、レジの鍵と釣り銭を受け取り、指定されたレジへと向かった。レジを開けて、釣り銭を配置し、大きく息をする。さあ、がんばらなくっちゃ。
 POSシステムだから、金額を打ち込む必要がほとんどない。ときどき、バーコードが付いていないときに打ち込むだけだ。最初はちょっとミスしたが、すぐに慣れた。これくらいの仕事なら、何とかやっていける。

 午後6時、アパートに帰り着いた。一日中立っていたので、足が棒のようになった。疲れてはいるが、夕食を作らねばならない。清は何も言わないで出ていったが、今晩は帰ってくるのだろうか? 帰って来ないなんて事はないだろうなと思う。朝、帰宅する時間を聞いておけばよかった思ったが、後の祭だ。
 例え帰って来なくても、少なくとも、自分が食べるものを作らなければならない。こうしてみると、女は大変だなと思う。男なら、家に帰れば、女が食事を用意していてくれる。共働きでは、男が作ることも多くなっているとは聞くが、大抵は女が作るらしい。三ヶ尻昭夫は、帰る時間がまちまちだったから、聡子も大変だったろうなと思う。
 カレーを作ることにした。カレーなら、若い頃作ったことがあるからだ。もし清が遅くに帰って来ても、少し温めれば食べられるし、もし帰ってこなくても、明日の分にすればいい。
 カレールーの入った箱の裏に書かれた通りに作った。何だか少しおかしな味だなとは思いながらも、自分で作った初めての食事だ。ゆっくり味わって食べた。
 一坪もない小さな浴室で体を洗った。湯船に体を沈めていると、どうしようもなく悲しくなった。どうしてこんなことに・・・・。

 午後8時、覚えていた電話番号にダイヤルした。呼び出し音がしているのに相手が出ない。10数回目に相手が出た。
 「もしもし」
 「もしもし、三ヶ尻でございます」
 眠そうな聡子の声だ。わたしは急いで電話を切った。そうか、聡子がいたんだ。わたしは、シカゴに留学する直前に聡子と結婚して、シカゴに連れていっていた。外国人と懇ろになってしまっては大変だと、わたしの両親が教授に頼んで、聡子をわたしに引き合わせたのだ。
 それにしても随分眠そうな声だったなと思い返した。そう思いながら、こちらとシカゴでは時差があるのに気付いた。そうか、日本が午後8時ということは、・・・・シカゴはまだ午前5時だ。眠たそうな声のはずだ。もう少し経ってから、電話することにした。
 午後10時。シカゴは、午前7時だ。そろそろ起きている時間だ。もう一度、ダイヤルした。今度はすぐに出た。
 「もしもし、三ヶ尻さん?」
 「はい、そうですけれど、あなた、どなた?」
 「ご主人をお願いします」
 「あなた、誰ですか? 主人に何の用ですか?」
 「とにかくご主人をお願いします。怪しいものではありません」
 「お名前が言えないのなら切ります」
 若い女からの電話だ。聡子が不審に思うのは当たり前だ。
 「名前は・・・・」
 名前を言っても、1994年のわたしは、大友佳奈を知らない。どうしたらいいんだろう。わたしは、迷いながら電話を切った。過去のわたし自身に電話をかけても、やはりどうしようもないのだ。
 しばらくして、わたしは気がついた。そう言えば、シカゴにいるとき、聡子が変な若い女から電話があったけど、思い当たる節はないかと詰問されたことがあった。あれは、わたしだったのだ。

 元に戻る手がかりを求めて、わたしはあのカラオケハウスへ顔を出した。しかし、何の手がかりもなく、元に戻る気配は、まったくない。
 元に戻る手がかりは、何もない。5年待つしかないのだろうか? 5年待って、入れ替わったわたしを捕まえるしか・・・・。

 清が帰ってきた。午前0時を回っていた。ものも言わずにカレーを頬張ったあと、風呂に入ると、布団の中に潜り込んだ。わたしが横に入ると、パジャマの下から手を入れて、しばらくわたしの乳房を触っていたが、あっという間に高鼾をかいて眠り込んでしまった。余程疲れているに違いない。

 清は、毎朝午前5時に起きだして仕事に出かける。帰りは早くて午後10時。一日で二日分働いているようだ。わたしの仕事は、午前9時から午後5時半まで。単純な仕事だが、一日中立っているので、かなり疲れる。わたしは、水曜日が休み。清は、年末が過ぎて、日曜日が休みになった。日曜日の夕方からがふたりでゆっくり過ごす時間と言うことになる。
 清は、毎日疲れ切って帰ってくるので、わたしを抱く気はあっても、風呂に入るとほとんどすぐに眠ってしまう。だから、日曜日だけは、わたしの帰りを待って、狂ったようにわたしを攻めたてた。いつしか、わたしもそれが楽しみになっていた。
 1,2週間に一回、わたしはカラオケハウスに顔を出してみるが、何の収穫も得られなかった。

 3月に入って、ひどく気分が悪い日が続いた。何か悪いものでも食べたのだろうかと思っていた。スーパーに買い物に来たお腹の大きな女性を見て、わたしははっと気付いた。わたしは、妊娠しているのではないかと。わたしは、女なのだ。避妊もせずにセックスしていれば、妊娠するのだ。
 休みの水曜日、わたしは隣町の婦人科の門を潜った。女ばかりの待合室。自分も女なのに、ひどく恥ずかしいような気がした。検査用の尿を提出して1時間後、診察室に呼び込まれた。
 「おめでとう。間違いないよ」
 「えっ!? やっぱり・・・・」
 「最終月経が12月31日からでしたね。妊娠11週目になりますね」
 「11週? 妊娠3ヶ月ってことですね」
 「そういうことです。独身でしたね。どうします?」
 「彼と相談してきます」
 「初めての子供さんは、産んだ方がいいよ」
 「分かりました」
 正月休みにわたしは、生理になった。清は、何でだよとぼやいていた。ふたり揃って休みなど滅多にないことだから、清は楽しみにしていたみたいだが、その当てが外れたのだ。
 そう言えば、その後、生理がなかった。生理が毎月あるという認識がなかったから、今日の今日まで気がつかなかった。避妊していなかったのだから、妊娠するのが当たり前なのだ。そんなことに気付かないなんて。わたしは医者だったのに・・・・。

 その日、清は少し早めに帰ってきた。風呂上がりにビールを注いでやってから、わたしは切り出した。
 「清、話しがあるの」
 「なんだ」
 「できたみたいなの」
 「できた? 何が? まさか、子どもなんて言わないだろうな」
 「そう、11週目だって」
 「おまえ、ピル飲んでたんじゃないのか?」
 「ピル?」
 「忘れたのか。馬鹿だなあ。忘れたらできるのは当たり前だろう? ・・・・そうか。だから、正月に生理になったのか。・・・・堕ろせ。堕ろしてこい。結婚もしていないのに、子どもなんて・・・・」
 「あなたの子どもよ。それなのに・・・・」
 「おまえが、ちゃんとピルを飲まないからいけないんだ。すぐに堕ろせ。子どもなんて真っ平だ」
 「でも・・・・」
 「堕ろさないのなら、俺はでていく」
 清の言葉が、突き刺さった。避妊はともかく、できた子どもは、清の子どもなのだ。それを・・・・。清を殺したくなった。
 そう思いながら、小夜子もわたしに対して、こんな思いをしたのだなと思い至った。そして思った。そうか。これは罰なのだ。小夜子にあんなことを言った・・・・。
 小夜子はひとりで産んで、ひとりで育てると言った。今のわたしのそんな啖呵が切れるだろうか? 思い悩んだ末に出した結論は・・・・。
 「産むわ。産んで、わたしが育てる」
 「馬鹿なこと言うなよ。おまえの稼ぎで、子どもを育てられるもんか!」
 「育てるわ。育ててみせる」
 「馬鹿なこと言ってないで、明日にでも堕ろしてこい。俺よりも、子どもの方が大事か?」
 女にとって、男よりも子どもの方が大事に決まっている。そう、そうなのだ。今、小夜子の気持ちがよく分かる。
 「あなたも大事だけど、子供はもっと大事なのよ。堕ろさないわ」
 「勝手にしろ」
 怒った清は、ばたんとドアを閉めて出て行った。清は本当に帰ってこないつもりだろうか? ひとりで産んで育てると言ったのに、清が出て行くと、急に不安になった。

 午前1時過ぎ、清が帰ってきた。少し安心した。産んでもいいのだと思った。清は、わたしを抱いたあと言った。
 「堕ろすんだろう?」
 「堕さないって言ったでしょう?」
 「俺が出ていってもいいんだな」
 「ほんとに出て行くつもりなの?」
 「堕ろすんのなら、いてやる。堕ろさないのなら出ていく。そう言ったろう?」
 「絶対、堕ろさない!」
 「そうか」
 そう言うと、清はわたしに背中を向けて寝てしまった。

 次の日仕事に出て行ったまま、清は、二度とアパートには帰ってこなかった。わたしは、男の身勝手を恨んで泣いた。
 わたしの給料は、11万あまり。それで子供を産んで、育てていけるだろうか? 考えてもどうなるというものではない。やってみるしかないのだ。

 10日ほど経って、清が帰ってこないことを確信すると、スーパーの仕事のあと、近くのスナックで働きはじめた。
 若くて可愛い子が入ったと言うことで、しばらくの間はお客が増えた。しかし、わたしのお腹はだんだん大きくなっていく。ゆったりとした服を着て誤魔化していたが、6ヶ月に入る頃には、妊娠していることを誤魔化せなくなってきた。わたしが妊娠していることを知ると、次第に客足は遠のいていった。

 「佳奈ちゃん、どうしても産むの?」
 スーパーの同僚の康子が心配して声をかけてくれた。
 「産みたいの。産んでみたいの」
 それが、わたしの正直な気持ちだった。子供を産むと言うことが、どんなことなのか知りたかった。
 「あんなろくでなしの子供なのに?」
 「いいの。この子は、わたしだけの子どもなの」
 この気持ちは、男には分からないだろうなと思う。わたしを妊娠させた男に、もう興味はない。わたしにとって一番大切なのは、子どもが確かにわたし自身の分身だと言うことだ。そして、その分身をわたしの手で産めると言うことだ。男には絶対経験できないことだ。
 「あなたが未婚の母でいいというなら、仕方がないわね」
 早く元気で生まれてね。自分のお腹をさすりながら、毎日そう念じていた。ところが・・・・。

 9ヶ月目に入ったある日、それまで元気にわたしのお腹を蹴っていた子どもの様子がおかしくなった。胎動を感じないのだ。
 慌てて産婦人科に駆け込んだが、すでに遅かった。
 「大友さん、お気の毒です。胎児の心音が聞こえません」
 「心音が聞こえないって?」
 「子宮の中で子供さんは、もう死んでいます」
 「嘘よ。嘘!」
 「元気がよすぎて、臍帯が首に巻き付いてしまったようです」
 わたしは泣いた。泣いて泣いて泣き明かした。いくら泣いても、子供は戻ってこなかった。

 わたしが大友佳奈となって一年が経過した。元に戻る気配はまったくなかった。1999年12月16日を待つしかないと心に決めた。
 わたしはスーパーを辞めて、スナックだけで働き始めた。この方が楽をして稼げるからだ。スーパーで朝から晩まで働いても11万あまり。このスナックでは、週に二日休んでも、25万はくれた。人は、易きに流されるものだ。
 わたしが妊娠していたことを知って、離れていたお客も、死産だったことを知り、しかもわたしには今は男がいないと知ると、うまくいけばわたしと寝られるかも知れないという下心からか、スナックに戻ってきた。セックスを知っていて、男のいない女。男にとって、こんな都合のいい女はいない。

 わたしは気が向くと、そんな男たちと寝た。男たちは帰り際に、枕元に5万ほど置いていった。初めのうちは、気に入らない男とは寝なかったのだが、しばらくするうちに、金のためなら、誰とでも寝るようになった。
 気がついたときには、スナックを辞め、わたしは完全な娼婦になっていた。生きていくためだけならば、週に2、3回でよかった。しかし、贅沢したいがために、わたしはほとんど毎日男と寝た。
 自分でも馬鹿なことをしていると思いながら、性的快感が得られて、しかもお金になる娼婦という仕事から抜け出せなかった。わたしは心の奥底で、必ず三ヶ尻昭夫に戻れると信じていた。だから、元の戻ったあとの大友佳奈がどうなろうとも、どうでもいいと思っていたのだ。
 ・・・・わたしは、くだらない人間だ。

 大友佳奈になって2度目の春が来た。この4月には、三ヶ尻昭夫は留学先のシカゴから帰ってきて、市民病院の外科医長として赴任しているはずだ。しかし、何も知らないわたし自身に会いに行けるわけもなかった。わたしは黙って、運命の日が訪れるのを待つしかないのだ。

 大友佳奈になって3度目の春、車を買った。真っ赤なGTOだ。一度こんな車に乗ってみたかったのだ。この車を買うために、何人の男と寝ただろうか?
 このGTOの世話をしてくれた男、安岡茂といつのまにか一緒に住み始めた。安岡は、わたしが娼婦をしていることを薄々知りながら、知らない振りをしていた。
 半年ほどして、安岡は仕事を辞めてしまい、わたしのヒモになり下がった。わたしが稼いできた金をせびっては、パチンコ、競馬につぎ込み、酒を浴びた。
 こんな男と何故別れなかったかというと、安岡が優しかったからだ。清も結構優しかったが、時々発作的に暴力を振われることがあった。安岡はそんなことは絶対なかった。セックスも上手く、わたしを満足させてくれた。ひとりで暮らしていくことが、寂しかったせいもある。
 その安岡とも、1年後別れた。安岡が浮気したからだ。それも女子高校生とだ。いろいろと言い訳していたが、わたしは安岡を叩き出してやった。それなのに、誰もいない部屋に戻ると、安岡を追い出したことを後悔して泣いた。女とは、不思議な生き物だ。

 1999年12月16日になった。わたしは、小夜子のマンションの前で、わたし、三ヶ尻昭夫が出てくるのを待っていた。
 午後10時少し前、三ヶ尻昭夫がマンションの玄関から出てきた。青ざめて意気消沈した顔をしている。エリート外科医の面影はない。
 三ヶ尻昭夫は、その足で行きつけのスナックへと向かうはずだ。もう、5年も経ってしまったから、覚えているようで、どこをどう歩いたか覚えていない。わたしは、見失わないように、少し距離を置いて尾けていった。
 ああ、このスナックだったな。店の前に来て、ようやく思い出した。三ヶ尻昭夫は、確かここで1時間ばかり飲むはずだ。
 わたしは、向かいの喫茶店に入って、コーヒーをちびりちびりと飲みながら、三ヶ尻昭夫が出てくるのを待った。
 午後11時過ぎ、三ヶ尻昭夫がスナックから出てきた。あの時は、酔っていないと思っていたが、かなりふらふらしている。
 尾行していく。カラオケハウスが近づいてくる。あのカラオケハウスの前で、三ヶ尻昭夫は、大友佳奈に声をかけられるはずだ。

 その時、わたしはようやく気付いた。声をかけるのは、わたし自身なのだ。わたしが三ヶ尻昭夫に声をかけて、カラオケボックスの中に入り、野球拳をしながら、酔いつぶして入れ替わるのだ。
 そうか、そうだったのか・・・・。わたしは、自分の体を奪われるのではなく、自分の体を取り戻すのだ。

 わたしは、わたし、三ヶ尻昭夫のあとを追いかけていった。あの時の言葉は・・・・『小父さん、一杯奢ってくれない?』だったと思うが・・・・。
 急がなければ、三ヶ尻昭夫がカラオケボックスの前を通り過ぎてしまう。
 「よう、佳奈じゃないか? どうだ? 今晩付き合ってくれないか?」
 急ぎ足で、三ヶ尻昭夫に追いつこうとするわたしの腕を掴む男がいる。顔を見ると、以前二度ほど寝たことのある男だ。
 「ごめん。ちょっと急ぎの用なの」
 「まあ、そう言わないで付き合ってくれよ」
 「ほんとに急いでるの。またね」
 男を振り払って、追いかけたが・・・・遅かった。三ヶ尻昭夫を乗せたタクシーは、すでに走り出していた。そんな・・・・。ここで、わたしは三ヶ尻昭夫の体を取り戻すはずなのに・・・・。どうしてこんなことに・・・・。もう、わたしは元に戻れない。わたしは・・・・わたしは、娼婦として生きるしかなくなってしまった。
 必ず元に戻れると信じて、むちゃくちゃな生き方をしたせいだろうか? きっとそうに違いない。

 ふらふらと力無く通りを歩いて、アパートへ向かった。歩きながら考えた。今夜、わたしが三ヶ尻昭夫に声をかけなかったから、三ヶ尻昭夫はこんな生活をしなくてすむ。同棲相手のいる若い女になって、妊娠して捨てられ、その子どもも死産で失う。挙げ句の果てが娼婦だ。元に戻りたくないと言ったら嘘になる。しかし、三ヶ尻昭夫を同じ目に遭わせたくはない。・・・・わたしさえ我慢すればいいのだ。・・・・これで良かったんだ。これで・・・・。
 止めどなく涙が流れた。わたしは涙を拭いもせずに、アパートまで歩いて帰った。
 服を脱いでふとんに潜り込んだ。ほとんど毎日、わたしは男に抱かれて眠る。けれど、今日はそんな気にならなかった。冷たいふとんの中で、わたしはひとり泣き濡れた。