第三章 不倫の発覚

 時計を見ると、7時少し前だった。そろそろ聡子がわたしを起こしに来る頃だ。
 「あなた、そろそろお時間ですよ」
 「ああ、分かった」
 7時ぴったりに聡子の声が掛かった。わたしは、のろのろとベッドから起き出した。
 土曜日は休みだが、術後の患者がいる。病院へ顔を出さねばならない。術後患者だけではない。他の患者たちも、わたしが顔を出すのを待っている。一日でも休めば、患者は不安に思うものだ。だから、学会出張や、正月の数日を除いて、わたしは毎日病院へ出かけていく。
 歯を磨きながら、白髪の混じり始めた自分の顔を見た。来月には、わたしも40になる。『40にして惑わず』か・・・・。とてもまだその心境にはなれないなと思う。
 コーヒーを飲みながら、新聞をじっくり読む。わたしは、普段はほとんどテレビを見ない。得られる社会の情報は、すべて新聞からだ。テレビは時間に縛られるが、新聞は自分が読みたいときに読めるからだ。
 聡子が、トーストを焼き、野菜サラダ、ハムエッグ、野菜ジュースをテーブルの上に並べた。わたしは新聞を読みながら、それを口に入れる。卵料理とジュースの種類が変わるだけで、朝食はいつもこのパターンだ。
 「新聞を読みながら食べるのは、およしになったら?」
 新婚の頃、何回か聡子にそう言われたが、一向に改めようとしないので、聡子はこの頃はもう何も言わない。
 「病院までお送りしますから、少しお待ちになって」
 そう言われて、車を病院へ置いてきたことを思い出した。
 聡子の車はベンツで、しかもかなりの高級車だ。どれ位するのか知らない。当然、聡子の父親が買い与えたものだ。わたしの車はシーマ。これもシーマの中では一番高いものだが、聡子の車の半分もしないらしい。

 午前9時、病棟に顔を出した。ナースステーションで、看護婦たちが申し送りをやっていた。小夜子の顔も見えるが、いつものようにわたしとは何の関係もないと言った顔で、申し送りを聞いていた。
 わたしは、申し送りが済むまでの間、術後以外の患者を見て回った。術前の患者には不安を与えないように、手術が済んで帰るばかりの患者には、退院後の生活についてアドバイスをする。
 部屋に行きにくいのは、再発の患者だ。最近は癌の患者でも癌だとはっきり言うことが多いが、こと再発に関しては、まだまだはっきり言えないことが多い。あとどれくらい生きられるかなどと言うことは、患者本人に言うことは、ごく一部の例外を除いて、ないと言ってよい。
 治らないのが分かっていて、もう少しだから頑張りましょうと言うのには引け目を感じるのだが、それしか言うことがないのだ。それを毎日言わなければならない苦労など、誰も分かってくれはしない。

 午前10時少し前、看護婦と共に昨日の手術患者の佐藤さんの付け替えをした。ドレーンからの滲出液は、黄色漿液性で問題ない。
 「佐藤さん、痛くないかい?」
 「先生、ありがとうございました。お蔭でぜんぜん痛くありません」
 「痛くないのは、背中に入っている管のお蔭ですよ。痛み止めが少しづつ入っていますからね。良かったですね」
 「もっと痛いと思っていたから、随分楽です」
 この佐藤さんの麻酔に、麻酔医の坂本は全身麻酔に硬膜外麻酔を併用した。この硬膜外麻酔は局所麻酔の一種だが、麻酔に使った細いチューブを術後も残して置いて、これからゆっくり麻酔薬を入れることで、術後も痛まないですむのだ。昭和天皇の手術に使われた麻酔として有名になったが、西日本では、それ以前からよく使われている麻酔の一種だ。
 「ガスが出るまで、もう少しの辛抱ですよ。ガスが出たら、もっと楽になりますから」
 「ガスはいつ出ます?」
 「昨日ご主人にも言いましたが、火曜日くらいでしょう」
 「もっと早くでないんですか?」
 「田植えをしてすぐには稲刈りできないでしょう? それと同じです。早くても、月曜日の夜中ですよ」
 「分かりました。安心しました」
 この例えは、効果抜群だ。特にこの病院のような、患者の半分くらいが農業と関係のあるところでは。
 「じゃあ、頑張って。明日、また来ます」
 「先生、明日は日曜日ですよ」
 「医者に日曜日も祭日もないですよ。来て欲しくないって言うのなら別ですけどね」
 「そんなことないです。先生の顔を見ると安心です」
 「じゃあ、また、明日」
 「ありがとうございました」
 部屋を出ると、夫が心配そうな顔で待っていた。
 「先生、具合はどうでしょうか?」
 「順調ですよ」
 「ありがとうございます」
 「じゃあ、また、明日来ます」
 「よろしくお願いいたします」
 佐藤さんの夫は、立ち去るわたしに深々と頭を下げていた。ナースステーションに戻る途中、小夜子とすれ違ったが、『お疲れさまです』のひと言だけわたしに投げかけて、病室へ入っていった。大した役者だ。いつもそう思う。

 カルテに記述して、自宅へ帰った。聡子が外出の準備をして待っていた。病院でいろいろと問題がなければ、土曜日は、聡子と買い物に出かけ、レストランで昼食を摂る。ただウインドウショッピングのことが多いが、聡子にとっては、わたしと一緒に出かけることが、一番の楽しみらしい。わたしと一緒にいることが嬉しいのではなく、エリート医師の妻であることを、ひけらかせたいがためだと、わたしは思っている。
 そんな姿を同僚や看護婦に目撃され、仲がよいと言われているようだが、わたしにとっては苦痛以外の何者でもない。しかし、小夜子と不倫しているという後ろめたさからか、わたしは何も文句を言わないで、聡子に付き合っている。

 火曜日、病棟へ顔を出すと一番に看護婦に声をかけられた。
 「三ヶ尻先生! 佐藤さん、ガスが出ましたよ」
 「そうか、分かった」
 病室に入ると、患者の佐藤さんも夫もにこにこ顔だ。
 「ガスが出たそうですね」
 「はい、2時頃出ました」
 「その後、何回出ましたか?」
 「何回も。恥ずかしいくらい」
 「じゃあ、つながり具合を見てみましょう。あとでレントゲン室に降りてもらいますから、待っていてください」
 「お願いします」
 わたしは、ナースステーションへ戻り、術後透視の指示を出した。今日は午前中は病棟係だ。病棟全体の付け替えをして回る。それが済んだら、術後透視の段取りとなる。

 術後透視に問題なし。水分摂取と食事開始の指示を出して、佐藤さんの手術は、最終段階を迎える。食事をして熱が出たり、ドレーンから膿が出なければ、オーケーだ。佐藤さんの場合、そんなことは万が一にもあるまい。術後1週間後に抜糸をして、ドレーンを抜き、食事が充分食べられるようになったら退院だ。

 今日の午後は、大腸癌の手術のため手術室へ入る。主治医は坂田だ。今日は、金曜日のお返しに、わたしが助手に付くことになっている。お返しという言い方はおかしい。お互い様なのだ。手術は、ひとりではできない。助手が必ずいる。手術のたびにお互いに手伝うという格好だ。坂田も手術が上手い。一緒にやっていて、安心感がある。

 金曜日、今日は午前午後とも助手を務めた。自分の患者ではないから、術後管理の必要がない。気楽に研究会へ出席できる。
 今日の研究会は、肝・胆道研究会。わたしの専門ではないが、小夜子に会いに行く口実に、この研究会を利用している。開会される少し前に会場へ着き、顔見知りの医者に挨拶することを忘れない。研究会に出席していたというアリバイ工作のためだ。

 午後8時少し前、小夜子のマンションへ向かおうと会場を抜け出たところで、義父に呼び止められた。
 「昭夫君、ちょっと付き合ってくれんか?」
 「ああ、内田先生。いいですよ。ちょっと、トイレに行ってきますから、待っててください」
 会場を抜け出たのが、トイレに行くためだと申し開きをするために、行きたくないトイレへと向かった。
 何の用だろう? わたしに用事なんて珍しいな。そう思いながら、手を洗って義父のもとへ急いだ。
 義父は、わたしを会場となったホテルの地階にある割烹の和室へと誘った。
 「まあ、内田先生、お久しぶりでございます」
 「女将、娘婿の三ヶ尻君だ。よろしく頼むよ」
 「三ヶ尻先生でいらっしゃいますね。この店の女将をやっております。よろしくお願いいたします」
 わたしは、女将に軽く頭を下げた。結構若い女将だと驚いた。35,6だろうか?
 「いつものやつを頼む」
 「かしこまりました。お酒は何にいたしましょうか?」
 「取り敢えず、ビールだな。昭夫君、ビールでいいね」
 「はい。何でも結構です」
 「女将、キリンのラガーを貰おう」
 「ハイ、承知いたしました」
 女将は襖を閉じて出て行った。
 「何のご用でしょうか?」
 「どうだね、病院の方は?」
 「働きやすいし、手術数も多いから、満足しています」
 「そうかね。君が医長になってから、手術数が増えているらしいね」
 「スタッフが優秀ですから」
 「君らしい返事だね。ところで、子どもは、まだかね。妻もわたしも、孫の顔を見たくて、楽しみにしているんだがね」
 「失礼いたします」
 襖が開き、女将がビールと小鉢を盆に載せて部屋の中へ入ってきた。
 「お料理、すぐにお持ちいたしますので」
 女将は、わたしと義父にビールを注ぐと、そう言い残して部屋を出ていった。わたしは中断された話しを再開した。
 「子どもですか。なかなかできませんね。もう結婚してから5年ですからね。申し訳ありませんが、もうだめかもしれませんね」
 「他で頑張る分を聡子に注いだら、できるのではないかな?」
 「えっ!?」
 突然の義父の言葉に、わたしは絶句した。
 「高山小夜子と言ったかな? 同じ外科病棟の看護婦をしている。三宅町のマンションだったな」
 どこでどうやって調べたのだろう? 小夜子のことを義父が知っているなんて。背中に冷や汗が流れた。義父は、わたしの顔を見ずに、箸を動かしている。
 「あのう」
 「聡子の耳に入らないうちに別れてくれ。それとも、聡子と別れると言うつもりなのか?」
 義父は、顔を上げてわたしの顔をぎょろりと見た。
 「い、いえ。そんなつもりは・・・・」
 「話しはそれだけだ。おい、女将! 料理はまだか! 昭夫君、ここの料理は美味いぞ。一度、聡子を連れてくるといい。さあ、一杯いこう」
 料理は美味かったのだろうが、砂を咬むような味がした。酒もかなり飲んだのに、まったく酔えなかった。

 義父と別れたのは、午後9時前だった。少し遅くなったが、今晩は小夜子と会う約束をしている。義父にばれた以上、早めに決着を付けて置かねばならない。わたしはホテルの前でタクシーを拾うと、直ちに小夜子のマンションへと向かった。もう隠す必要もない。
 「遅かったのね。首を長くして待ってたのよ。もう来ないのかと思っちゃった」
 わたしはコートを脱いで、部屋の中へ入るとソファーに座った。
 「聡子の父親にひっかかっててね」
 「まあ」
 小夜子がグラスにビールを注ぐ。わたしは、それをぐっと飲み干した。
 「わたしたちの関係を知られた」
 「えっ!」
 「別れろと言われた」
 「そうなの。ばれちゃったの・・・・」
 小夜子は、わたしの向かいに力無く座り込んだ。いつもの笑顔は、もうそこにはない。別れれば、あの笑顔をわたしに見せることはなくなるだろう。
 「用心していたんだが・・・・」
 「ばれたものは仕方がないわ」
 小夜子の言うとおりだ。今更どうしようもないのだ。
 「別れてくれるか?」
 「できたの」
 小夜子が発した短い言葉は、わたしを驚愕させた。その意味するところは分かっていた。分かっていたが、わたしは小夜子に聞き直した。
 「えっ!? 何だって?」
 「できたの。こども・・・・」
 「何を冗談言ってるんだ。ちゃんと避妊していたじゃないか」
 「でも、できたのは事実なの・・・・」
 小夜子との不倫が義父にばれた上に、まさかと思っていた言葉、恐れていた言葉を突きつけられて、わたしはパニック状態だった。
 「嘘だ。できるはずがない。ぼくの子じゃない」
 「ほんとよ。先生の子どもに間違いないわ」
 「嘘だ。嘘だ。わたしを引き留めようとして、嘘を言っているんだ」
 「嘘じゃないわ。先生の子どもよ」
 「堕ろせ!」
 「いや、いやよ。先生の子どもを堕ろすなんてできないわ」
 「堕ろすんだ」
 「絶対いや!」
 小夜子は、わたしの目を見たままきっと唇をかみしめた。
 「勝手にしろ! 帰る。もう、二度と来ない」
 「勝手にするわ。ひとりで産んで、ひとりで育てるから」
 わたしの背中に向かって、小夜子はそう叫んだ。わたしは、それ以上何も言わずに、小夜子のマンションを離れた。できることなら、小夜子に子供を産んで貰って、一緒に暮らしたかった。しかし、それはできない相談だ。地位も名誉も捨てて、そんなことはできない。

 わたしはふらふらと行きつけのスナックへ足を向けた。ダブルのウイスキーをあおるわたしに、スナックのママが心配そうにしていたが、わたしは無視して飲み続けた。一時間あまりの間に、ボトルを一本開けてしまった。
 わたしの意識は朦朧としていたが、足取りだけはしっかりしているつもりだった。実際にわたしが歩いているのを見たら、素面で歩いていると思われるだろう。と思っていた。

 「小父さん、一杯奢ってくれない?」
 そんな声に振り向くと、若い女がわたしの前に立っていた。その女は、レザーの黒コートに、同じく黒のレザーの短いスカートを穿いていた。少し屈めば、パンティーが見えそうなくらい短いスカートだ。それに踵の高いロングブーツを履いている。コートの下は、タンクトップというかキャミソールというか、そんなものを着ていた。そんな格好で、良く寒くはないな。それがわたしの第一印象だった。
 焦点の合わない目で女を見てみた。女は、24,5くらいだろうか? 髪の長い、結構美人だ。こんな美人で若い女が、わたしのような中年の男に声をかけるなんて信じられない気持ちだった。
 「ねえ、小父さん。奢ってくれるの? くれないの?」
 ぼったくりバーの連れ込みか? それとも娼婦か? わたしは、危ないなと思いながらも、その若い女に、何故か心惹かれた。
 「いいよ。どこへ行く?」
 「そこのカラオケボックスへ行こう」
 目の前にカラオケボックスがあった。カラオケボックスと言うより、カラオケハウスだ。ここなら、ビール一本で、何万円も取られることはないだろう。
 個室に入ると、女は中から鍵をかけ、注文しておいたシーバスリーガルのボトルからグラスに酒を注いだ。向かいに座った女のスカートからパンスト越しにパンティーが見えた。真っ白なパンティーだ。わたしは、思わずにやりとした。しかし、わたしの一物はぴくりともしなかった。わたしは、かなり酔っている。
 「かんぱあい」
 そう言われて、一緒にグラスの酒を飲んだ。わたしは、今にも倒れそうだ。この女、酔わせて金を盗もうという気じゃないだろうな。そんなことを思った。そんなことを思いながら、この女になら、財布に入った5万ほどの金を盗られてやってもいいなとも思っていた。
 「小父さん。野球拳しようか?」
 カラオケハウスで野球拳か。いったいこの女、何を考えているんだろうか?
 「いいよ」
 「小父さん、何枚着てる?」
 「ええっと、上が3枚、下が2枚かな」
 「わたしは、上が2枚、下がパンストを入れて3枚だな。ちょうどいいね。じゃあ、始めましょう。ジャンケン・・・・ポン」
 「あれ、負けてしまったな。上着を脱ぐぞ」
 「そんなの脱いだうちに入らないわ。じゃあ、次行くわよ」
 「ジャンケン・・・・ポン」
 「わあい、また勝っちゃった」
 また負けた。わたしは仕方なく、ネクタイを外してワイシャツを脱いだ。それから、水割りをあおった。いくら遊びでも、勝負事には負けたくない。それがわたしの性格だ。
 「ジャンケン・・・・ポン」
 「あいこで・・ショ」
 「今度は、わたしの勝ちだな」
 「あああ、負けちゃった。キャミソールちゃん、さよなら」
 女は、ブラジャーも白いものを身につけていた。パンティーの白と言い、着ているものから想像すると、色物かなと思ったのに、意外な感じだ。
 さらにジャンケンは続いた。またもやわたしは負けてしまって、シャツを脱いで上半身裸になった。
 「小父さん、結構筋肉質ね」
 「だいぶ弛んだよ」
 「そうなの? 次、行くわよ」
 今度はわたしは二回連続して勝った。女はスカート、次いでパンストを脱いだ。あとは下着だけ、ブラジャーとパンティーだけだ。次に負けたらどちらを取るだろうか? 当然ブラジャーだろうなと思う。そんなに大きな胸ではなさそうだが・・・・。
 負けた。わたしはズボンを脱いでトランクス一丁になった。今度は負けられない。水割りをぐっと飲み干した。
 勝った。女は、恥ずかしそうにブラジャーを取った。よし、次も勝つぞ。次に何を出そうかと考えながら、何て馬鹿なことしてるんだろうなと思った。
 女は、左手で乳房を隠しながら、ジャンケンする。指の隙間から、ピンク色の小さな乳首が、のぞいて見えた。よし勝った。やったぞ。
 「脱がないと・・・・だめ?」
 女は、上目遣いにわたしを見た。ドキッとする表情だ。素っ裸のこの女の姿を見てみたい。わたしは、飢えた狼になっていた。
 「それが野球拳の約束だろう? さあ、脱いだ、脱いだ」
 「仕方ないわね。じゃあ、わたしのすべてを見せてあげるわ」
 女の手がパンティーに掛かり、降ろし始めた。もうすぐ茂みが露わになる。わたしは、穴が開くほど、じっと女の股間を見ていた。しかし、目の焦点が急に合わなくなって、見え始めた茂みがぼやけてきた。酔いが回って、わたしはついに意識を失って、ソファーの上に倒れ込んだ。