第十二章 秘密

 「頑張って! もう少しよ」
 足元で、助産婦さんがわたしを励ます。わたしは、分娩台の上にいて、まさに子供を産まんとしていた。
 「佳奈! 頑張れ!」
 夫が、三ヶ尻昭夫がわたしの両手を握りしめて、励ましてくれている。夫は、白衣のままだ。まだ勤務時間だというのに、わたしのために抜け出してきて、こうして手を握っていてくれる。嬉しい。
 「三ヶ尻さん、出てきたわよ。さあ、もう一度いきんで!」
 わたしは、最後の力を振り絞った。わたしの中から、痛みとともに巨大なものが抜け出ていく。それが抜けたあと、痛みは急速に消え、この世のものとも思えぬ快感が体を貫いていった。子供産むという作業でしか味わえない快感だ。男には決して味わうことの出来ないものだ。
 その快感の中で、子供の泣き声が聞こえた。元気な泣き声だ。
 「三ヶ尻さん、とっても元気な女の子ですよ」
 よかった。無事産まれた。愛する夫、三ヶ尻昭夫の子供が産めた。わたしは、無上の喜びを感じていた。
 「オキシトシンを」
 「はい、先生」
 わたしの担当医の高林先生の声がした。しばらくして、再び痛みが押し寄せ、わたしの中から、何かが抜け出ていった。そうか、後産だ。今、わたしの子宮の中から、もはや無用となった胎盤が排出されたのだ。
 「出血はなし。三ヶ尻先生。もう大丈夫ですよ」
 「ありがとう。高林先生。佳奈、お疲れさん。よく頑張ったな」
 夫は、まだわたしの手を握っていた。
 「ありがとう、あなた。でも、もう、仕事に戻って。午後は、手術があるんでしょう?」
 「まだ、大丈夫だ。午後の手術の開始まで、もう40分ある」
 夫は、わたしを嬉しそうな顔をして覗き込んだ。高林先生や、助産婦さんたちがいなかったら、今にもわたしにキスしそうな雰囲気だった。わたしは、夫に精一杯の笑顔を戻した。
 「奥さん、麻酔をするからね」
 「はい」
 出産が始まる前、初産の場合は、膣が妙な方向に裂けないように、はさみで切ると言っていた。最近では、そんなことをしないところも多いと聞いたが、三ヶ尻の勤めるこの病院では、以前出産時に膣が肛門の方に裂けて、膣と直腸の間に穴が空いてしまった女性がいて、訴えられた経験があるものだから、それ以来、はさみで切っていると三ヶ尻に聞いた。
 「痛い!!」
 「ごめん、ちょっとの辛抱ですから」
 切るときは、全く痛くなかったのに、麻酔の針がすごく痛かった。
 「これ、痛いですか?」
 高林先生が、わたしの股間を触っているのは分かるのだが、痛みは感じなかった。麻酔が効いたのだ。
 「いえ、痛くありません」
 「じゃあ、縫合しますからね。もし痛かったら言ってください。そのときは、麻酔を追加しますから」
 「はい、分かりました」
 高林先生が、はさみを入れたわたしの膣を縫い始めた。出産だから、あられもない格好をして、産婦人科医の高林先生に見られても、恥ずかしさなどなかったのに、今はなんだか恥ずかしい。
 「三ヶ尻先生、少し縫い縮めておきますからね」
 「縫い縮めるのはいいが、あんまりやりすぎないでくれよ。入らなくなってしまうと困るからな」
 「じゃあ、ちょっとだけにしておきましょう」
 なんてこと言うんだろうと思っていたが、夫の顔を見ていると、ふたりとも冗談で話しているようだ。それにしても、ちょっと冗談が過ぎるんじゃないかと思った。わたしは、夫を睨み付けた。
 夫は肩をすくめて、頭を掻いた。

 助産婦が、沐浴を済ませた生まれたばかりの我が子をわたしに見せてくれた。可愛らしい子だ。きっとわたし以上の美人になるに違いない。
 可愛いわたしの子供。愛する三ヶ尻昭夫との子供。もう二度とわたしの腕の中から消えないで。
 わたしは、子供を腕に抱き寄せた。子供の顔を見ながら、わたしは思いだしていた。あの朝、1999年12月17日の朝のことを・・・・。

 「佳奈、いつまで寝てるんだ。腹が減った。飯を作ってくれ」
 やっぱり、5年前に戻った。やり直しだ。そう思って、目を開けると、ベッドのそばには誰もいなかった。いると思った清の姿がない。今の声は、夢だったのだろうか?
 部屋の中を見回すと、部屋は去年引っ越してきたマンションだった。ベッドのそばにあるドレッサーを覗いてみた。そこには、大友佳奈の姿が映っていた。その姿は、昨日の佳奈と変わらない。26歳の佳奈の顔だ。
 わたしは、キャミソールに、ミニのタイトスカートを穿いたままベッドの中にいた。昨夜、出かけるときに着替えたものと同じ服装だ。ただ、パンストを身につけていなかった。
 あの時わたしは、カラオケハウスの中で三ヶ尻昭夫と野球拳をして、酔いつぶれたときには、ほとんど全裸になっていた。三ヶ尻昭夫が、わたしに服を着せて、この部屋まで運んでくれたようだ。
 時計を見た。午前8時だった。と言うことは・・・・。わたしは、玄関に新聞を取りに行った。新聞の日付を見た。1999年(平成11年)12月17日になっていた。思った通り、新たな時が刻まれていた。
 どう言うことなのか、分からなかった。三ヶ尻昭夫に戻らないのなら、5年前の大友佳奈になり、下着姿で布団の中で眠っていて、腹を空かせた清に起こされるはずなのに・・・・。
 あの時、わたしは、このまま大友佳奈として、三ヶ尻昭夫のそばにいたいと願った。その願いが叶ったのか!? そうに違いない。わたしは5年前に戻らず、大友佳奈のままだ。
 大友佳奈のままだが、三ヶ尻昭夫はここにいない。三ヶ尻昭夫は、昨夜、わたしに別れを告げた。今はもう、妻、聡子の元に戻ったはずだ。
 願い通り、大友佳奈のままでいられたのに、三ヶ尻昭夫は、わたしのそばにいない。わたしは悲しくて、涙を流した。こんなことなら、大友佳奈として、三ヶ尻昭夫のそばにいたいなどと願わなければ良かった。それなら、わたしは、5年前の大友佳奈になっていたはずだ。5年前に戻れていたら、もう一度、いや、何度でも三ヶ尻昭夫に愛されることができたのに・・・・。

 わたしは、のろのろと起き出して、ベッドルームから、リビングへ足を運んだ。ふとテーブルの上を見ると、一冊の本が置かれてあった。その本を開いてみた。それは、わたしが三ヶ尻昭夫に戻ったとき、5年間の記憶がないだろう佳奈のために書き残した日記だった。
 わたしは、その日記をそこに置いた覚えがない。誰が置いたのだろうか? この部屋の鍵を持っている人間は、わたしの他には、三ヶ尻昭夫しかいない。三ヶ尻昭夫が、昨夜わたしをこの部屋連れて帰ったあとに、隠していた日記をテーブルの上に置いたとしか考えられない。しかし、三ヶ尻昭夫は、日記の隠し場所は勿論、その存在すらも知らないはずだ。
 三ヶ尻昭夫が、日記の隠し場所を知っていると言うことは・・・・。現在の三ヶ尻昭夫も、わたしと同じように、大友佳奈として25年を過ごした三ヶ尻昭夫の記憶を持っていると言うことだ。それ以外にない。
 どうしてこんなことが起こってしまったのだろうか? どう考えても訳が分からない。しかし、たとえ三ヶ尻昭夫に大友佳奈として暮らした25年の記憶があったとしても、三ヶ尻昭夫は、もはやわたしの元には戻ってこないだろう。
 三ヶ尻昭夫に戻っていれば、わたしは、聡子と一からやり直そうと決心していた。大友佳奈とは不本意ながら縁を切ろうと考えていた。三ヶ尻昭夫は、決して戻ってこない。
 もし、三ヶ尻昭夫が戻ってきたとしても、わたしは三ヶ尻昭夫に愛される資格がない。わたしには、三ヶ尻昭夫としての記憶以外に、大友佳奈の記憶が蘇っていた。忌まわしい幼い頃の記憶が・・・・。わたしは、三ヶ尻昭夫に愛されるわけにはいかないのだ・・・・。
 新たな涙が流れた。わたしの流した涙が、ぽたりと日記の上に落ちて、大きなシミを作った。ひとつ・・・・、ふたつ・・・・。

 わたし、大友佳奈は、群馬県高崎市で、父、大友繁と、母、喜美子の長女として生まれた。他に姉妹はなく、3人暮らしだった。
 父は、学歴はなかったが、まじめな男で、左官としての腕は一流だった。母とは大恋愛の末結ばれ、仲のいいことが近所でも評判の夫婦だった。
 そんな母が、中学校の同窓会で再会した同級生と浮気した。相手は、東京の大学を出て官僚となった男で、父よりも背が高く、いい男だった。ずっと母のことを思って独身を通してきたと言われた母は、わたしを置いてその男の元へ去っていった。
 それからと言うもの、父はほとんど働きに出ず、酒浸りとなった。たまに働きに出ても、すべて酒代に消えた。わたしが、10歳、小学校4年の時だった。
 わたしは、学校から帰ると、新聞配達や近所の家の手伝いなどをして、僅かな金を手に入れて生活費にあてていた。幼かったわたしが、父を養っていたのだ。
 父が、生活保護を受けることを拒否したため、わたしが中学に上がるときには、セーラー服を買うお金も、教科書を買うお金もなかった。
 見かねた近所の人たちが、古着のセーラー服や古い教科書を与えてくれ、ようやく中学校へ通うという状態だった。
 そんな状態だったのに、わたしは、ぐれることもなく、ひたすら耐えて、炊事、洗濯、掃除と、父のために働いていた。それが、子どもの義務だと思っていた。

 そんなある日の夜、ふと目を覚ますと、酒に酔った父が、わたしの布団の中に入ってきた。
 「何するの? お父さん」
 「黙ってろ。言うことをきけ」
 「止めて、お父さん」
 いくら酔っているとは言え、大人の男に中学生の女の子が敵うはずがなかった。
 「止めて、止めて! お父さん」
 「うるさい! 静かにしてろ!」
 わたしは、処女を失った。実の父に犯されたのだ。

 その日以来、わたしはほとんど毎日、父に犯され続けた。ただ、父はその日からぱったり酒を絶ち、真面目に働き始めた。そのため、生活が少し楽になった。わたしが生活費を稼ぐ必要がなくなったから、学校にもきちんと行けるようになった。母が出て行く前のように、生き生きとした父を見ていると、わたしは、そのことを誰にも打ち明けられなかった。
 中学を出たら、働きに出るつもりだったけれど、父は学歴がないと馬鹿にされるからと、わたしを高校へ進ませた。学歴の高い男に母を奪われたと言うこともあったが、わたしに対する父の罪滅ぼしだったのかも知れない。名前さえ書けば通ると言う高校だったが、ともかくわたしは高校生となった。
 高校生とはなったが、わたしの生活は変わらなかった。炊事、洗濯、掃除。そして、夜は父の相手。まるで父の妻だった。高校へ行っているときだけが、わたしの心が安らぐ時間だった。
 わたしは、父を憎んでいた。しかし、父を愛してもいた。女として・・・・。
 わたしは、そんな相反するふたつの感情を心の奥底に沈め、表面上は、明るく、父の世話をよくする女の子として振る舞っていた。

 卒業が迫ったある日、アルバイトで遅くなって家に帰ると、奥の部屋で父が若い女と寝ていた。父に抱かれたその女の喘ぎ声を聞いた瞬間、わたしは切れた。わたしだけを愛してくれると信じていた父に裏切られたと感じ、わたしは、前後の見境もなく、台所から包丁を取り出して父を刺し、家を飛び出した。
 それ以来、家には戻っていない。父は重傷だったらしいが、命は取り留めた。ただ、わたしに刺されたとは、決して言わなかった。言えるわけもなかった。
 父は、それから2年後、肝硬変で死んだ。わたしが家出してから、再び酒浸りに戻り、肝臓を悪くしたと聞かされた。わたしが家出したせいだと・・・・。
 わたしが悪いんじゃない。わたしを裏切った父が悪いんだ。
 葬式には行かなかった。その時、わたしの心の中には、父に対する憎しみしか残っていなかったからだ。

 わたしは、あのスーパーに職を得て、一人暮らしを始めていたが寂しかった。愛が欲しかった。わたしは、言い寄る男に抱かれ、娼婦まがいのこともした。数人の男と同棲もした。水沼清は、そんな男のひとりだ。
 清は優しかったが、発作的に暴力を振るった。そんな清がイヤだった。チャンスがあれば、別れるつもりで居た。だから、わたしとなった三ヶ尻昭夫が、清と別れたことは、わたしの望むところでもあった。

 あの夜、1999年12月16日の夜、わたしは一人暮らしの寂しさを紛らわすため、盛り場へ出かけていった。誰か、わたしに優しくしてくれる男を捜していた。そこで、三ヶ尻昭夫と出会った。
 三ヶ尻昭夫は、父に似ていた。わたしが小学生の頃の、優しかった父に・・・・。
 わたしは思わず、声をかけた。
 「小父さん、一杯奢ってくれない?」

 カラオケボックスの中で、野球拳をしたところから、大友佳奈としての記憶はない。それから5年間は、三ヶ尻昭夫が大友佳奈として暮らした記憶が埋められている。

 大友佳奈となった三ヶ尻昭夫が、自分自身に近づいた動機、それは妻、聡子との仲を修復するために他ならない。大友佳奈として、三ヶ尻昭夫のそばにいたいと考えたのは事実だが、三ヶ尻昭夫に戻ることができた今、わたしを振り返ることはないだろう。
 2年間だけだったが、優しかった頃の父に似た三ヶ尻昭夫の愛を受けられたことを心に抱いて生きよう。わたしに残された道はそれしかないのだから・・・・。
 涙があとからあとから沸いてきた。

 ガチャガチャとドアの鍵を開ける音がした。わたしは、驚きと期待の入り交じった気持ちで、ドアの方を見た。この部屋のドアを開けるものは、あの人しかいない。わたしは、ドアの方を見つめて待った。三ヶ尻昭夫が部屋の中に入ってくるのを・・・・。
 部屋に入ってきたのは、やはり三ヶ尻昭夫だった。二度と会えないと思っていたのに、もう一度会えた。嬉しくて涙が溢れた。
 「佳奈、どうした?」
 「先生。・・・・三ヶ尻先生なの?」
 「一晩で、ぼくの顔を忘れたのかい?」
 何と答えたらいいのだろうか? 恐らく三ヶ尻昭夫は、わたしにはこの5年間の記憶がないと思っている。わたしは、5年間の記憶がない振りをして、三ヶ尻昭夫の動向を窺った。わたしと別れる決心をしたはずの三ヶ尻昭夫が、どうしてこの部屋に戻ってきたのか知るために。
 「・・・・そうなんです。なにもかも・・・・。わたし、この日記に書かれた5年間の記憶が全くないんです」
 「ぼくが、別れようって言ったせいだろうな」
 「分からない。わたし、どうしていいのか・・・・」
 三ヶ尻昭夫はわたしのそばに座って、抱きしめてくれた。どうなるのだろう? 昨夜はわたしと別れると言ったのに・・・・。
 「佳奈、泣くな。ぼくが悪かった。別れるなんて言ったから」
 「何も思い出せない。別れるって言われたことも・・・・」
 「別れなくていい。今日からは、ずっと一緒だ」
 「えっ!?」
 「妻と別れてきた。ぼくと結婚してくれ」
 三ヶ尻昭夫は、地位も名誉も捨てるというのか? わたしのような女のために。
 「どうして? わたし、先生と結婚できるような女じゃないのよ」
 「いいんだ。ぼくは、佳奈を愛している。佳奈の過去のことは、みんな知っている。だけど、そんなことは問題じゃない。いま、ぼくが佳奈を愛しているって事が大事なんだ。佳奈、ぼくを愛してくれるかい?」
 三ヶ尻昭夫は、わたしの過去を知っていると言った。しかし、それは、ほんの一部にしか過ぎない。すべてを知ったとき、ほんとに愛してくれるだろうか? いや、三ヶ尻昭夫は、過去のことが問題じゃない。今が大事だと言ってくれた。きっとわたしを愛してくれる。
 「・・・・嘘じゃないのね」
 わたしは、三ヶ尻昭夫の腕の中に顔を埋めて泣いた。

 三ヶ尻昭夫に戻りたいという願いと、大友佳奈として三ヶ尻昭夫のそばにいたいという願いの両方が叶えられてしまったのだ。何と不思議なことが起こってしまったのだろうか? ただ、このことは、元に戻った三ヶ尻昭夫は知らない。わたしだけの秘密だ。

 夫は、生まれた子供に明るく生きて欲しいと願いを込めて明子と名付けようと提案した。わたしも大賛成だ。
 幼い頃のわたしは、何故この世に生まれてきたんだろうと、いつも絶望していた。だからわたしは、明子が、この世に生まれてきて良かったと思うように育てて行くつもりだ。そのためには、わたし自身が、この世に生まれてきて良かったと思える人生を送ることだ。
 父のことは、心の奥底では、まだ恨んでいる。しかし、わたしにあんなことをしたのは、父が母のことを愛していたからだと言うことが分かっている。父は、わたしを母の身代わりにしたのだ。父は可哀想な人なのだ。だから、わたしは、父とのことを忘れるつもりだ。
 もう、過去は振り返らない。過去にこだわっていても、何も変わらない。今を、そして、未来を力の限り生きるのだ。愛する夫と娘のために。