1999年12月16日、わたしは自分のマンションにいた。また、水沼清と顔を合わせなければならないかと思うと、憂鬱だった。今回、三ヶ尻昭夫と関係を持つまでは、清を愛していると思っていた。しかし、三ヶ尻昭夫を愛した今、清は大陽の前の月のようなものだ。わたしの憂鬱は当然だろう。その憂鬱を吹き払うために、今回最後の三ヶ尻昭夫との夜を楽しもうと思っていた。
午後9時15分を回った頃、少し酔った三ヶ尻昭夫がやってきた。
「遅かったのね。待ってたのよ。もう来ないのかと思っちゃった」
三ヶ尻昭夫はコートを脱いで、部屋の中へ入るとソファーに座った。
「聡子の父親にひっかかっててね」
「まあ」
そうだった。この日は、聡子の父親に、呼び出されて、不倫相手のわたしと別れろと言われているはずだった。
わたしがグラスにビールを注いでやると、三ヶ尻昭夫はそれをぐっと飲み干した。
「わたしたちの関係を知られた」
「えっ!」
わたしは驚いてみせた。それが自然な反応だからだ。
「別れろと言われた」
「そうなの。ばれちゃったの・・・・」
「用心していたんだが・・・・」
不倫相手が小夜子だった場合、ここで小夜子は、できたのと言う場面だ。しかし、わたしはピルを欠かさず飲んでいる。絶対に妊娠はしない。
「ばれたものは仕方がないわ」
次に三ヶ尻昭夫が発する言葉は分かっていた。地位と名誉を棄てたくないために、私に別れてくれと言うのだ。
「別れてくれるか?」
覚えていた通りだ。自分の言葉ながら、恥知らずな言葉だと思った。しかし、この頃のわたしは、保身しか頭になかった。仕方のないことだ。だからこそ、わたしは25年もの間、こうして苦労しているのだ。イヤ、もう5年続くことは確実だ。
「別れたくはないけど、先生のためなら仕方がないわ」
「すまんな」
「先生、最後にもう一度抱いて下さいますか?」
三ヶ尻昭夫は、何も言わずにわたしを抱きしめた。わたしは、三ヶ尻昭夫が好きだ。わたしはわたしに恋している。こんなことは、おかしいのだろうか? 三ヶ尻昭夫は、地位と名誉のために女を棄てる身勝手な男なのに・・・・。
5年前に戻りたくない。ここまま、大友佳奈のままでいたい。三ヶ尻昭夫に抱かれながら、わたしは涙を流した。
午後10時過ぎ、三ヶ尻昭夫は、わたしの部屋を出ていった。わたしはどうしようもなく悲しくなって、ウイスキーをあおった。
一時間ほどして、わたしは、タクシーを呼んで、フラフラと町へ出かけていった。どうしてそんなことをしたのか、自分でもよく分からない。とにかく、町に行かなきゃと思った。
タクシーを降りて、ぼんやり歩いていると、角のスナックから、毅然として歩いているが、かなり酔った男が出てきた。三ヶ尻昭夫だった。
わたしもかなり酔っていた。前後のことも考えずに、三ヶ尻昭夫に声をかけた。
「ねえ、小父さん。奢ってくれない?」
三ヶ尻昭夫が、わたしの方を振り向いた。
「ねえ、小父さん。奢ってくれるの? くれないの?」
わたしは繰り返す。まるで、今日初めて出会ったかのように。
「いいよ。どこへ行く?」
三ヶ尻昭夫は、わたしがからかっていると思っているのだろう。知らない女に声をかけられた振りを装う。
「そこのカラオケボックスへ行こうよ」
目の前にあるカラオケハウスに、ふたりで入って行った。階段を上りながら、カラオケボックスじゃなくて、カラオケハウスだったなとぼんやり思った。
個室に入ると、わたしは中から鍵をかけ、注文しておいたシーバスリーガルのボトルからグラスに酒を注いだ。向かいに座った三ヶ尻昭夫は、わたしのスカートの中を覗いている。今日は、真っ白なショーツを穿いていたかなと思う。わたしも酔っているが、三ヶ尻昭夫も、かなり酔っていた。
「かんぱあい」
そう言って、一緒に酒を飲んだ。三ヶ尻昭夫は、今にも倒れそうだ。三ヶ尻昭夫は、今何を考えているだろう。最後のセックスは終わったから、今晩は飲み明かそうと思っているのだろうか?
「小父さん。野球拳しようか?」
どこからそんなアイデアが浮かんだのか分からない。三ヶ尻昭夫と大友佳奈がカラオケハウスにいて、あの時は野球拳をした。だから、そう言わなければダメなのだと思ったのに違いない。
「いいよ」
「小父さん、何枚着てる?」
「ええっと、上が3枚、下が2枚かな」
「わたしは、上が2枚、下がパンストを入れて3枚だな。ちょうどいいね。じゃあ、始めましょう。ジャンケン・・・・ポン」
このあたりから、わたしは妙な気がし始めていた。今日着ている服は、あの時と同じ、キャミソールに、黒のレザーのミニスカートだ。黒のレザーのコートも着てきた。ブラもショーツも白だ。このまま行けば、わたしは三ヶ尻昭夫に戻ってしまうのではないかと・・・・。
イヤ、絶対そんなことはない。状況が違うのだ。そう思い直して、ジャンケンを続けた。
「あれ、負けてしまったな。上着を脱ぐぞ」
「そんなの脱いだうちに入らないわ。じゃあ、次行くわよ」
「ジャンケン・・・・ポン」
「わあい、また勝っちゃった」
三ヶ尻昭夫は、ネクタイを外し、ワイシャツを脱いで、水割りをあおった。
「ジャンケン・・・・ポン」
「あいこで・・ショ」
「今度は、わたしの勝ちだな」
「あああ、負けちゃった。キャミソールちゃん、さよなら」
わたしは、上半身ブラジャーだけになった。
さらにジャンケンを続けた。三ヶ尻昭夫が負けて、シャツを脱いで上半身裸になった。
「小父さん、結構筋肉質ね」
「だいぶ弛んだよ」
「そうなの? 次行くわよ」
今度はわたしは二回連続して負けた。わたしはスカート、次いでパンストを脱いだ。あとはブラとショーツだけだ。三ヶ尻昭夫は、わたしの隅々まで知っているくせに、まるで初めてわたしの素肌を見るようないやらしい目でわたしを見ていた。
勝った。三ヶ尻昭夫はズボンを脱いでトランクス一丁になった。三ヶ尻昭夫は、気合いを入れて、水割りをぐっと飲み干した。
負けた。わたしは、恥ずかしそうにブラを取った。
やはりおかしい。今度はわたしが負ける番だ。そして・・・・。イヤ、絶対そんなことはあり得ない。歴史が変わってしまうなんて。
あの時、佳奈は何を出しただろうか? グーか? チョキか? それともパーか? 思い出せない。ままよ。わたしは、左手で乳房を隠しながら、ジャンケンした。・・・・やっぱり負けてしまった。
「脱がないと・・・・だめ?」
わたしは、三ヶ尻昭夫を、上目遣いに見た。三ヶ尻昭夫は、目を爛々とさせて、わたしを見ていた。
「それが野球拳の約束だろう? さあ、脱いだ、脱いだ」
「仕方ないわね。じゃあ、わたしのすべてを見せてあげるわ」
わたしはショーツに手をかけ、ゆっくり降ろし始めた。もうすぐ茂みが露わになる。これまで、何度も三ヶ尻昭夫の目の前で裸になったのに、今は凄く恥ずかしい。三ヶ尻昭夫はストリップのかぶり付きのような格好で、わたしを見ている。
三ヶ尻昭夫の目から急に輝きがなくなって、ばたりとソファーの上に倒れ込んだ。それとほとんど同時に、わたしも意識を失った。
目が覚めた。寒くてくしゃみが出た。起き上がると、向かいのソファーに裸の女が眠っていた。どう言うことだ? 女はだれだ?
顔を覗き込むと、大友佳奈の顔だった。ビックリして、自分の体を見た。トランクスを穿いた男の体だった。
テーブルに顔を映してみた。三ヶ尻昭夫に戻っていた。信じられなかった。頬を抓ってみた。やっぱりわたしは、三ヶ尻昭夫に戻っていた。
早くこの場を逃げださなければならないと思った。早く逃げださなければ、わたしはまた佳奈になってしまうと思ったのだ。
わたしは、大急ぎで服を着込むと、部屋の鍵を開けて外に出た。ドアを閉めようとした時、ソファーの上に横たわったほとんど素っ裸の佳奈の姿が目に入った。
このままわたしがカラオケハウスを出て行けば、早晩従業員が部屋の後片付けにやって来る。そして、裸の佳奈を見つけるだろう。そのとき、佳奈はどんな思いをするだろうか? きっと恥ずかしさのあまり、泣きだしてしまうに違いない。
三ヶ尻昭夫に戻った今、佳奈がどんな思いをしようとわたしには関係ない。いったんは、佳奈を置いて立ち去ろうとした。しかし、考えた。
25年に渡った佳奈としての生活。セックス、妊娠、出産。女としての喜び、苦しみ、哀しみ。あれは、あれは夢ではない。わたしが佳奈として体験したことだ。佳奈は今や他人ではない。佳奈は、もはやわたしの分身だ。そんな佳奈を、このまま放置していける訳がなかった。
わたしは、部屋に引き返して中に入ると、ドアに鍵をかけた。
佳奈は、脱げかけたパンティーに手をかけたまま、ソファーの上で眠っていた。わたしは佳奈に服を着せ始めた。
膝まで下げられたパンティーを引き揚げてやり、上半身を起こして、ブラジャーを着けてやった。ブラジャーは、ストラップのないタイプだったから、比較的簡単だった。背中でホックを留めて、乳房をカップに入れてやればよかった。
パンストを穿かせるのは諦めた。自分で穿くのも大変なのに、意識のない人間に穿かせられるわけがない。わたしは、パンストを丸めると佳奈のバッグの中に押し込んだ。
それから、キャミソールを着せた。これが一番苦労した。人事不明の人間に服を着せるのは大変なのだ。
最後に、スカートを穿かせた。スカートはミニのタイトだったから、思ったより容易に穿かせることができた。
佳奈の服装を整えるのに小一時間掛かってしまい、体を動かしたせいで、少し醒めかけていた酔いが、再びまわってきた。わたしは、水差しから、コップに水を注いで、グッと飲み干した。
アルコールのせいで、まだ少しぼんやりした頭で考えた。今、わたしは三ヶ尻昭夫に戻っている。あの忌まわしいループから抜けだせたのだろうか?
わたしが、小夜子と不倫していたという事実が変わるはずがない。だから、もし抜けだせたとすれば、わたしが不倫しているのは、高山小夜子で、ループから抜け出せていなければ、大友佳奈だということになるが・・・・。
その時、わたしは思いついて、佳奈が持っていたバッグの中を探った。バッグの底から鍵の束を見つけ出した。
自分の持っていた鍵と照合してみた。同じ鍵があった。佳奈のマンションのものに違いない。・・・・と言うことは、わたしが不倫している相手は、佳奈だ。
わたしは、まだループから抜け出せていない。きっとそうだ。今の状態は一時的なもので、もうしばらくすれば、わたしはまた、5年前の佳奈に戻るに違いない。
さて、どうしようか? 佳奈は、ソファーの上でまだ眠りこけている。いくら別れ話をした後だと言っても、佳奈をこんなところに置いていく訳にはいかないだろう。佳奈を放置していくなんて、わたしのポリシーに反する行為だ。わたしは、佳奈をマンションに連れて帰っておくことにした。
わたしは、カラオケハウスの従業員を呼び寄せた。
「すまない。連れが、酔いつぶれてしまったんだ。ちょっと手伝って貰えないか?」
勘定を済ませ、従業員に手伝ってもらって、佳奈と共にタクシーへ乗り込んだ。
タクシーの中で、カラオケハウスでもらった領収書を見た。1999年12月17日、午前1時27分。時は進んでいる。5年前に戻るのは、もう少し時間が経ってからだろう。
佳奈のマンションへ着き、運転手に佳奈を背負わせてもらって、エレベーターで昇った。
部屋のドアは、わたしが、三ヶ尻昭夫が持っていた鍵で開いた。ループからまだ抜け出ていないことを確認させられたようで、ちょっとがっかりした。
佳奈をベッドに寝かせて、床に座り込んで考えた。時計は、午前2時を廻っている。一番最初、この時間にはわたしは佳奈になっていた。しかしその後は、清に起こされるときから始まる。夜が明けたら、わたしは佳奈に戻る。それは間違いがないのだ。
そう考えながら、夜が明けても、三ヶ尻昭夫のままでいられないものかと思った。このまま元に戻ってしまうと、小夜子と不倫して子どもができたという状況はなくなってしまう。そうなれば、嬉しいのだが、そんな都合の良い事が起こる訳がない。
そう思いながらも、そうなることを期待して、わたしは、大友佳奈として、書き綴って置いた日記を取り出して、佳奈が目覚めたときに読むようにテーブルの上に置いた。
わたし、三ヶ尻昭夫との関係も詳しく書いてある。そして、今日別れたことも。恐らく佳奈は5年間の記憶がない。佳奈は、日記を読んで、どう感じるだろうか?
わたしは、ベッドで眠っている佳奈の頬に軽くキスをすると、部屋を出た。
表通りでタクシーを拾い、自宅へ帰った。聡子はもう寝ているのだろう。聡子の寝室の明かりは消えていた。わたしは、自分の寝室のベッドに倒れ込んで時計を見た。午前3時だった。
次は、三ヶ尻昭夫との不倫を早めに切り上げなければ・・・・。そうすれば、今度こそ上手く行く。そう思いながら、眠りについた。
「佳奈、いつまで寝てるんだ。腹が減った。飯を作ってくれ」
そんな声に目が醒めた。やはり、元に戻った。そう思った。しかし、わたしのそばに清はいなかった。見まわすと、わたしは三ヶ尻昭夫の寝室のベッドの上にいた。急いで股間を探ってみた。ペニスも睾丸もあった。勿論、乳房はなかった。
わたしは、三ヶ尻昭夫のままだ。時計は午前8時を指していた。新たな時が刻まれていた。わたしは、5年前に戻らなかった。佳奈にならなかった。
それでもわたしは信じられず、寝室を飛び出て玄関まで新聞を取りに行った。新聞の日付けは、1999年(平成11年)12月17日だった。玄関の時計も午前8時を廻ったところだった。やった!! ループから抜けた! ほっとした。わたしが、どれほど安心したか、誰にも分からないだろう。
緊張が抜けたとたん、ひどい頭痛がし始めた。痛いはずだ。ウイスキーを1本半は飲んでいるのだ。
「聡子! おおい、聡子。クスリを持ってきてくれ。頭が痛いんだ」
返事はなかった。わたしは、重い頭を抱えながら、リビングへ入って行った。リビングは寒々としていた。誰もいない。聡子はどこへ行った?
キッチンで水を飲んだ。
「聡子! 聡子!」
いくら叫んでも、やはり返事はない。わたしの声だけが家の中に響いた。
ふとテーブルの上を見ると、緑色の紙が置かれていた。それは聡子のサインと判が押された離婚届だった。書き置きも何もない。ただ、書類が一枚だけ置かれていた。
全身の力が抜けて、わたしはソファーの上に座りこんだ。小一時間、ぼんやりと座っていた。一からやり直そうと思っていたのに・・・・。
わたしは、電話を取って、聡子の実家にダイヤルした。わたしの電話を待っていたかのようにすぐに相手が出た。義父の声だ。
「ああ、昭夫君か。今電話しようと思っていたところなんだ」
「聡子は、そちらに?」
「ああ、昨日の夜からこちらに来ている。・・・・君と離婚したいと言っているんだが・・・・」
「例の件は?」
「まだ話していない。聡子が言うには、この5年間努力してきたが、君とは、結局合わないことが分かったと言うんだ」
「そうですか・・・・。わたしとしては、もう一度やり直したいのですが・・・・。彼女とも、あの後別れてきましたから」
わたしの脳裏には、ある疑問が渦巻いていた。わたしの不倫相手は、小夜子か? それとも佳奈か? 元に戻った以上、小夜子であるはずだ。歴史が変わるはずはない。そう思いながらも、もしかすると、歴史が変わったのかも知れないとも思っていた。だから、名前を言わずに、彼女と別れたと表現したのだ。
「・・・・そうか。しかし、聡子の決心は固いようだ」
「聡子と話しができませんか?」
「無駄だと思うよ」
義父は、すでにわたしと聡子を別れさせる腹づもりのようだ。義父の性格は分かっている。義父は一度こうと決めたら、てこでも動かない。別れるしかないのだ。
別れてしまえば、わたしは大きな後ろ盾を失う。これも自分の撒いた種だ。甘んじるしかない。それでも、わたしは女々しく食い下がった。
「何とか、なりませんか?」
「君が大友佳奈と別れただけじゃ、事はすまんのだよ」
義父は、義父は、大友佳奈と言った!!! つまりわたしの不倫相手は大友佳奈だと言うことだ。歴史が変わってしまったのか!? わたしは、自分の興奮を抑えながら、言葉を継いだ。
「と、言いますと・・・・」
「わたしの口から言いにくいことなんだが・・・・」
義父は既に知っているようだ。
「聡子と坂田とのことですか?」
「知っていたのか」
「薄々は・・・・」
「元々は、君の浮気が原因で、坂田君に相談したのが始まりらしいんだが、聡子は、どうしても坂田君と一緒になりたいと言ってきかないんだよ」
「そうですか・・・・」
「性格の不一致と言うことで、どうだ? お互いの名誉のためにも」
ここまで来たら、イエスと言わざるを得ない。わたしは、渋々返事をした。
「・・・・はい」
「じゃあ、決まりだ。慰謝料はなしと言うことにしよう。それから、君の住んでいるうちだが、そのまま住んで貰って結構だ。わたしが買ってやったから取り上げようなんて、大人げないことはしたくないからね。それから、同門として、君への援助は惜しまないから、遠慮なく言ってくれたまえ」
「ありがとうございます」
聡子と離婚か・・・・。仕方がない。電話が切れたあと、わたしはしばらくソファーの上にぼんやり座っていた。
午前9時の時報がなったとき、はっと気付いた。離婚が成立すると言うことは・・・・。
わたしは、病棟へ電話し、風邪で体調がすぐれないからと、一日休む旨を伝えた。今日が外来日でなくて良かった。外来日なら、遅刻してでも病院へ出ていかなければならないからだ。
それからわたしは、市役所へ行って離婚届を出し、その足で佳奈の住むマンションへと向かった。
わたしは、歴史は絶対変わらないものと信じていた。だから、義父が発した大友佳奈という名前は何かの間違いで、わたしが向かっているマンションに、佳奈が居るはずはないと思っていた。
しかし、わたしが目指したマンションの郵便受けには、大友佳奈の名前があった。それでも信じられなかった。何かの間違いだ。偶然の一致に過ぎない。歴史は変わらない。そう思いながら、覚えていた佳奈の部屋の前に立って、ドアの鍵穴に自分の持っていた鍵を差し込んで廻した。この鍵は、小夜子のマンションのもののはずだ。廻る訳がない。そう思っていたのに、鍵は・・・・カチリと音を出して廻った。
ドアを開けて部屋に入ると、佳奈がビックリしたよう顔でわたしを見ていた。もう疑いようがなかった。歴史が変わってしまった。わたしは、罰を受けたが、罪をすべて償ったからだろうか?
「佳奈、どうした?」
「先生。・・・・三ヶ尻先生なの?」
「一晩で、ぼくの顔を忘れたのかい?」
「・・・・そうなんです。なにもかも・・・・。わたし、この日記に書かれた5年間の記憶が全くないんです」
佳奈には、この5年間の記憶がない。わたしのことも、実際には知らない。床に座り込んだ佳奈の足元には、わたしが書き残していた日記があった。日記を読んでも、佳奈は混乱しているに違いない。わたしだって、今は混乱している。しかし、そんなことは、おくびにも出さなかった。
「ぼくが、別れようって言ったせいだろうな」
「分からない。わたし、どうしていいのか・・・・」
佳奈は、ボロボロと涙を流して泣き始めた。わたしは佳奈のそばに座って、佳奈を抱きしめた。
「佳奈、泣くな。ぼくが悪かった。別れるなんて言ったから」
「何も思い出せない。別れるって言われたことも・・・・」
「別れなくていい。今日からは、ずっと一緒だ」
「えっ!?」
「妻と別れてきた。ぼくと結婚してくれ」
佳奈は、頬に伝う涙を拭いもせず、目を見開いてわたしを見た。
「どうして? わたし、先生と結婚できるような女じゃないのよ」
「いいんだ。ぼくは、佳奈を愛している。佳奈の過去のことは、みんな知っている。だけど、そんなことは問題じゃない。いま、ぼくが佳奈を愛しているって事が大事なんだ。佳奈、ぼくを愛してくれるかい?」
「・・・・嘘じゃないのね」
佳奈は、わたしの腕の中に顔を埋めて泣いた。わたしは、佳奈が愛おしくてならなかった。大友佳奈は、わたしの分身だからだ。
わたしは、佳奈を伴って、婚姻届を出しに行き、そのまま自宅へ連れていった。佳奈は、これからふたりで住むことになる家を見て、唖然としていた。
「わたし、こんなに幸せでいいのかしら」
「いいんだ。佳奈には、感謝して、感謝しきれるものじゃないんだからね」
「えっ!? どういうこと?」
「何でもない、何でもないんだ」
これまでのことを、佳奈に話しても、理解してはくれないだろう。
月曜日、病院へ顔を出すと、わたしの離婚は、すでに病院中へ広がっていた。あんなに仲が良さそうだったのにと言う顔で見られた。
わたしは、離婚や新たな結婚のことなど、まったく気にも掛けない振りをして仕事に励んだ。
坂田は病院へ出てきていない。坂田は窮地に追い込まれていた。聡子の父親が、坂田に離婚して聡子と結婚するように迫ったのだが、坂田の妻が頑として、それに応じないのだ。それに加えて、高山小夜子の妊娠だ。高山小夜子が、坂田に対して、認知裁判を起こしたのだ。
あの時、佳奈になったわたしは、絶望の淵に立っていた。しかし、それが、こんなにも変わろうとは思わなかった。あのままだったら、わたしは、聡子と離婚し、高山小夜子と結婚する羽目になっていたはずだ。高山小夜子は、医者の妻というステータスが欲しかっただけに過ぎない。そんなことは、口が裂けても言わないだろうが・・・・。
わたしはほっとした。
佳奈は、可愛い。勿論、わたし好みの美人だと言うこともあるが、わたし自身が、佳奈だったときにも感じていたのだが、セックスも相性がいいようだ。
わたしのベッドでのテクニックも格段に上達した事もあるし、佳奈のどこを攻めればいいのか、わたしには手に取るように分かる。わたしは佳奈として25年を過ごしたからだ。
「ただ今」
「お帰りなさい、あなた」
午後7時、玄関を開けると、佳奈が、エプロンで手を拭きながら出てきた。わたしは、佳奈と再婚してからは、余程のことがない限り、午後7時に帰宅するようにしている。そして、一緒に食事をする。病院に残りの仕事があるときは、食事が済んでから、もう一度出かけるようにした。
「佳奈、つわりはもう治まったか?」
「もう大丈夫よ」
佳奈は、現在妊娠6ヶ月。産まれてくる子どもは、女の子だと言うことだ。佳奈に似た美人で、可愛い子どもが産まれるだろう。
「あなた、もう安定期に入ったから、少しは、いいって」
「そうか」
佳奈が妊娠してから、わたしは夜の生活を少し控えめにしていた。佳奈は、そんなわたしを満足させようと気を使う。勿論浮気などするつもりは、毛頭ない。女の悲しみを嫌と言うほど体験したからだ。
もう同じ鉄は踏まない。わたしは、佳奈として生きた25年間に多くのことを学んだ。それを無駄にはしないと心に決めていた。
久しぶりに佳奈を抱きながら思った。もしかすると、これが本来あるべき姿だったのかもしれない。わたしの浮気相手は、小夜子ではなくて、佳奈でなくてはいけなかったのではないだろうか? きっとそうだ。そうに違いない。
あの不条理と思われたループは、そのためにあったのだ。それに、わたしは、女を経験することにより、人間として成長した。今は感謝するばかりだ。
わたしは、わたしの腕の中で眠る佳奈に優しく口づけをした。