第8章 諸岡瞳の願いを叶えるために

 わたしは、諸岡瞳の残した手紙をじっと見つめました。両親をお願いしますと、二度に渡って書かれています。彼女の身代わりをして、彼女の願いを叶えてあげるべきなのでしょうか?
 彼女の残した大学ノートを開いてみました。ノートには、細かい文字がびっしりと書かれています。父親、母親。亡くなった瞳の姉、姉の夫、その子どもたち。叔父、叔母、3人のいとこたち。小学校、中学校、高校時代の仲がよかった同級生。近所のおばさんたち。よくもここまで書いたものです。
 彼女は、わたしを仕事に出したあと、ずっとこのノートを書いていたのに違いありません。
 わたしはじっと考えました。職場の人たちをこの一週間騙し通せてきました。うまくいけば、彼女の願いを叶えてあげられるかもしれません。けれど・・・・。
 大学ノートには、かなり多くの人たちのことが書かれています。その人たちの多くは、恐らく騙せるでしょう。でも、問題は両親です。両親を騙すことなどできるのでしょうか?
 諸岡瞳の戸籍だけをもらって、遠くに引っ越して暮らすという手もあります。でも、それでは、彼女の両親のことをお願いしますという願いを叶えてやることができません。
 いったいどうしたらいいのでしょうか?
 彼女の願いなど無視して、彼女の戸籍だけを使えばいいのかもしれません。何しろわたしは、最初は彼女を殺そうとしたわけですから。
 でも、一週間一緒に暮らしたせいで、彼女に対する親近感が生まれていました。まるで姉妹のように。
 彼女の願いを何とか叶えてやりたいと思いました。両親を騙せないかもしれません。そうすれば、わたしは諸岡瞳の戸籍も使えなくなって、すべてが無に帰するかもしれないのです。でも、わたしは「きっとうまくやってくれると信じています」と言う彼女の言葉を裏切れないと思ったのです。ばれたらばれたときです。その時は、一週間前に諸岡瞳になることを諦めてこのアパートを出ていったと思えばいいのです。
 わたしは、彼女の残したノートを隅から隅まで何回も読み、頭の中にたたき込むことにしました。諸岡瞳として暮らしていくために。

 翌朝、彼女のいない部屋で目が覚めました。まるで、片方の羽を失った鳥のような気分でした。
 「ホントに諸岡瞳として暮らしていくつもりなの?」
 ベッドの上に起きあがって、そんな風に何度も自問自答しました。
 「やろう! 彼女のために」
 そんな決心が固まった頃、ピンポンとチャイムが鳴りました。心臓が飛び出るくらいビックリしました。だけど、冷静になって返事をしました。
 「はい。どなた?」
 「ミユキ・クリーニングです。洗濯物を持ってきました」
 「はい。ちょっと待って」
 彼女の残した大学ノートによれば、毎週一回、出していた洗濯物を洗濯屋さんが届けに来ることになっていたのです。ドアを開けると、30半ばくらいの女性が洗濯物を抱えて立っていました。
 「毎度どうも。今日出すものはありませんか?」
 そう言って、ビニール袋に包まれた洗濯物をわたしに手渡しました。
 「ちょっと待ってね」
 玄関脇に置かれた袋の中に洗濯に出すものが入れられていました。受け取った洗濯物をベッドの上に置いてから、袋を洗濯屋のおばさんに手渡しました。
 「これ、お願いします」
 「はい、了解」
 小さなノートに洗濯物の種類を書き込むと、洗濯物だけ取りだして袋を戻してくれました。
 「毎度あり」
 元気な声を残して去っていきました。すっぴんでパジャマ姿だったのですが、彼女もわたしのことを不審には思わなかったようです。
 「ともかくこちらにいれば、わたしは諸岡瞳として暮らせる。彼女の実家には、できるだけ近寄らないようにしよう。彼女がいなくなったことを悟らせないように最低限のことをしていればいいだろう」
 改めてそう決心したのです。

 諸岡瞳が失踪して、2週間がたちました。新聞やテレビ、ラジオから、諸岡瞳らしい女性の死体が見つかったという報道は流れては来ませんでした。何事もなく、わたしは諸岡瞳として無事に暮らしていました。
 その日は休みの日で、のんびりとしていました。午前10時頃、電話が鳴りました。森川ひとみや太田緑が時々電話をかけてきます。休憩に入った森川ひとみか、遅出で今頃起き出した太田緑かなと思いながら受話器を取りました。
 「もしもし、瞳?」
 聞き慣れない声です。そんなに若くもなく、そんなに年寄りの声でもありません。
 「はあ? どなたでしょう?」
 「瞳! 母さんの声を忘れるなんて、もう更年期なの?」
 彼女の母親でした。
 「あ、ごめん、ごめん。今起きたばかりだったから、ちょっと寝ぼけてて」
 「今日、休みだと思って、夜遊びしてたんでしょう?」
 「はは、ばれたか」
 こういう話し方をしろと大学ノートに書かれてありました。
 「来週あたり休みが取れるんでしょう? 帰ってくるの?」
 2月になると、ホテルは閑散期に入ります。お客が少なくなるこの時期に交代で休みを取ることになっているのです。彼女の母親はそのことを知っているのです。
 「あ、まあ。どうしようかな?」
 「正月も一日しかいなかったんだから、帰ってきなさいよ。父さんがあなたの帰りを楽しみにしてるんだから」
 母親だってきっとそうなのでしょう。帰らないわけにはいかないようです。
 「わかった、わかった。帰るから、わたしの好きなものを作っておいてよ」
 「はい、はい。じゃあ、待ってるわ」
 冷や汗が出ました。電話ではばれませんでした。声も話し方も合格のようです。

 翌週の遅出の三日間を休み、通常の休みと合わせて4日の休暇を取ることにしました。休みに入るまでの三日間は、諸岡瞳の残した大学ノートと首っ引きです。
 そして、休暇の日になりました。早出が終わった夕方から諸岡瞳の実家にいくこともできたのですが、できるだけ諸岡家にいる時間を短くするために、翌日行くことにしました。
 父親にはシルクのネクタイを、母親には京菓子の詰め合わせをお土産として買い、電車に乗りました。
 駅前からバスに乗ります。どのバスに乗ればいいのかも暗記していました。バス停で降りてから、あたりの景色を確かめながら、彼女の実家へと向かいました。わたしの記憶に間違いはなく、彼女の実家へと辿り着きました。
 「ただいま」
 玄関を開けると、彼女のアルバムで確認していた母親が顔を出しました。彼女は、アルバムに誰が誰だという付箋を付けていてくれたのです。
 「遅かったのね」
 「お土産買ってたから」
 「あなたの顔が何よりのお土産よ」
 「お父さんは?」
 「応接室よ」
 「また、囲碁やってるのね」
 彼女の父親は、休日家にいるときは、ほとんど囲碁の本を見ながら碁盤に向かっていると大学ノートに書かれていました。
 「そう」
 「いつまでたっても上達しないのに、よくやるわね」
 「何もしないと惚けるんですって」
 「そうか。これお土産ね。着替えてくるわ」
 わたしは、二階へと駆け上がりました。背中に冷や汗がべったりと出ています。彼女の部屋に入ってドアを閉めると力が抜けました。
 「今のところ大丈夫。母親が大丈夫なら、父親も大丈夫だわ」
 そう自分に言い聞かせて、普段着に着替えました。

 「ただいま、お父さん」
 応接室に入って声をかけると、彼女の父親は、視線だけをわたしに向けてきました。
 「おう、よく帰ったな」
 ただそれだけ言うと、視線を碁盤に戻しました。大学ノートにも、父親とはあまり話をしないと書いてありました。ですから、安心です。でも油断は大敵。ばれないように細心の注意を払わなければ、これまでの努力が水の泡です。
 キッチンでは、母親が夕食の準備をしていました。
 「何か手伝おうか?」
 「いいわよ。あなたはテレビでも見ていなさい」
 そう言われて、ちょっとホッとしました。一緒にいる時間はできるだけ短い方がいいのです。

 午後7時前に夕食が始まりました。父親は、熱燗をちびりちびりと飲んでいます。
 「瞳も飲め」
 そう言って、杯をわたしに差し出しました。これが問題なのです。わたしはお酒はほとんどダメです。でも彼女は結構飲めるのです。
 わたしは、手を振って断りました。
 「ちょっと肝臓を痛めているの。しばらく禁酒を言い渡されているから」
 「あら? そんなこと言ってなかったわね」
 「心配すると思って」
 「ひどく悪いの?」
 「ちょっとだけよ。だから心配しなくていいわ」
 父親は諦めて、杯を戻しました。わたしは、カンピンを持って父親に注いでやります。嬉しそうに杯を受ける父親が可愛く見えました。
 食事の味は、諸岡瞳が作ったものと同じ味がしました。もしわたしが作ることになったとしたら、同じ味は出せそうもありません。味付けするときには、逃げておかないとと思いながら、箸を進めました。
 「片づけはお母さんがするから、瞳、お風呂に入りなさい」
 「お父さんは?」
 「お父さんは、とっくの昔に入ったわよ」
 「そう? じゃあ、先に入らせていただきまあす」
 下着とパジャマをバッグの中から取りだして、浴室に向かいました。裸になるときが一番危険です。もし、一緒に入ろうなんて母親が言い出したら、いっぺんにばれてしまいます。母親が、片づけを終えないうちにさっさと上がってしまうのがベストです。
 大急ぎで体を洗って、充分暖まらないうちに風呂から出ました。下着も身につけて、パジャマを着たところで、母親が浴室に顔を覗かせました。
 「あら? もう上がったの? 裸のおつきあいをしようと思ったのに」
 案の定でした。これも諸岡瞳の大学ノートのおかげです。
 「今日は疲れてるから、もう寝るわ」
 「もう? まだ9時前よ」
 「早出の癖が付いてるの。じゃあ、お休み」
 不満そうにしている母親を浴室に残し、今にいる父親にお休みを言って諸岡瞳の部屋に上がりました。
 「ふう。何とかなったわ」
 入浴を終えた母親が押し掛けてこないように、部屋の電気を消して布団に潜り込みました。
 「明日もうまくいくかしら?」
 緊張したせいで、ホントに疲れていたようです。午後9時前だというのに、アッという間に眠り込んでいました。

 夢を見ました。わたしは生まれたときから諸岡瞳で、応接室でパチリパチリと碁石を並べている父親に挨拶をしていました。わたしは文金高島田を着ているようです。
 「お父さん、今日まで育ててくれてありがとうございました」
 などと言いながら、三つ指をついて涙を流しているのです。夫となる新郎が姿を現しました。その人は、わたしの初めてのひとでした。嬉しくてその胸に飛び込もうとしたとき夢が覚めました。
 わたしは、夢が現実になってはいないかと、股間を触ってみましたが、余計なものはまだそこにありました。
 「わたしが女になるのも、あの人と結婚するのも、夢のまた夢だわ」
 悲しくなって、涙が出ました。時計は、まだ午前6時を過ぎたばかりでした。実家に帰ったときには、必ず寝坊すべしと言う諸岡瞳の書き置きに従って、わたしは寝床の中で何度も寝返りを打っていました。
 「瞳! 瞳!! そろそろ起きなさい!」
 そんな母親の声が掛かったのは、午前7時半頃でした。
 「いつまで寝ているの? 目が腐っちゃうわよ」
 「はあい」
 わたしは、のろのろと起きだし、歯を磨いて顔を洗いました。
 「瞳。お味噌入れて。お母さん手が離せないから」
 母親の声が庭先から聞こえてきます。どうやら、洗濯物を干しているようです。
 「困ったぞ。ただ味噌を入れればいいだけだろうか?」
 困惑しながらも、味噌を味噌こしに入れて溶かし込みました。味は・・・・、いいようです。
 「これでいい?」
 キッチンに戻ってきた母親に聞くと、味見をしながらちょっと妙な表情を浮かべました。それが何なのかわたしにはわかりませんでした。
 「いいみたいね。さあ、朝ご飯にしましょう。お父さんを呼んできて」
 「どこいるの?」
 「寝室で着替えをしてるでしょう」
 「わかった」
 わたしは、両親たちの寝室のドアを開けます。
 「お父さん。ご飯だよ」
 「すぐ行く」
 ネクタイを締めながら、父親が答えました。諸岡瞳の父親は、59才。来年は定年だそうで、頭に白いものが目だちます。
 父親の方は、食事がすむとさっさと会社に出かけていきました。わたしと母親は、片づけを始めたのですが、何だか雰囲気がおかしいのです。母親は、わたしの行動をじっと観察しているようなのです。あの味噌汁の味付け以来です。何か違うことをやったようですが、それが何なのかわかりません。聞くわけにもいかず、わたしはただぼろが出ないように行動するしかありませんでした。
 片づけが済んで一段落した頃、母親がわたしに言います。
 「ちょっと用事があるから、ここで待ってなさい」
 何だろうと思っていると、何やら写真らしきものを持ってきました。
 「またお見合い写真なの?」
 諸岡瞳が実家に帰ると、必ず見合い写真を見せられると書いてありました。30前の独身女性の母親はみんなそう言うことをするのでしょうか?
 「今度のひとはいい人よ」
 そう言いながら、写真を広げて見せました。どこがいい人なのだろうか? お世辞にもいい男とは言えません。
 「ちょっとこの人は・・・・」
 「じゃあ、こっちは?」
 もう一枚写真を取り出しました。二枚目の方が少しましですけど、よほど収入でもよくない限りは、うんとは言えないでしょう。
 「だめだめ。わたしが自分で見つけるから。お断りして」
 「男は顔じゃないと思うんだけど」
 「ふたりとも、一緒に歩きたくないもの」
 「そう? じゃあ、お断りしておくわ」
 写真を仕舞いに行ったあとは、探るような雰囲気は消えました。何が何だかわかりませんでした。

 その日の夕食後、前日と同じように母親より早く入浴していると、突然浴室のドアが開いて母親が入ってきたのです。ビックリしてしまいましたが、幸いなことに石鹸の泡でわたしの股間は隠されていました。
 「昨日は一緒に入れなかったから」
 そんな言い訳をしながら、お湯を浴びて浴槽の中に入りました。わたしは、タオルでさりげなく股間を隠しました。
 「少し太ったかねえ」
 「え? そんなことないわよ。体重、同じだから」
 「年を取ると、体重は同じでも体型が変わるからねえ。結婚するのなら、今のうちにしないと・・・・」
 「体が目当ての人とは結婚しないわ」
 「そう? そんなこと言っておられるのは今だけよ。胸がたれて、お腹が出てきたら、どんな美人でも相手にはしてくれなくなるわよ」
 「結婚だけが人生じゃないから」
 「年を取ってひとりだと寂しいわよ」
 「どうしても結婚させたいの?」
 「娘の幸せを祈らない親はいないでしょう?」
 「結婚だけが幸せじゃないでしょう?」
 「女にとっては結婚することが一番の幸せなの」
 母親のこの感覚は一向に理解できません。
 「はいはい、わかりました」
 「今度帰ってきたときには、もっといい人を見つけておくから」
 「それまでに自分で探しておくわ」
 「そうしてくれると嬉しいけど・・・・」
 母親はまったく疑っていないようです。わたしは安心しました。安心しましたけれど、股間を見られたら最後です。見られないように、母親と入れ替わって湯船に入り、母親が体を洗っている間に浴室を出ました。
 下着とパジャマを身につけると、どっと疲れが出ました。
 「早く東京に帰った方がいいかも」

 しかし、その後は、何事もなく三日が過ぎ去り、わたしはアパートへ帰りました。
 「瞳さん。あなたの役目を立派に果たせたわ」
 諸岡瞳の写真に手を合わせて、そう報告しました。