第7章 身代わり生活

 「起きて。遅刻するわよ」
 諸岡瞳に起こされました。いつの間にか再び眠り込んでいたようです。彼女は、すでに下着を身につけて、裸のわたしを見下ろしていました。急に恥ずかしくなりました。昨夜わたしは男として機能したのです。女の彼女にわたしの裸の姿を見られたくないと思ったのでした。やっぱりわたしの中には、まだ男としての意識が残っていました。
 さっとシャワーを浴びてから、諸岡瞳が用意してくれた通勤着を着ました。その間に、彼女が朝食を作ってくれました。
 「わたしはいつもコーヒーだけだから」
 そう言いながら、彼女はコーヒーカップを傾けます。わたしは、健康のために三食きちんと取る主義なので、遠慮なく彼女が用意してくれたトーストを頬張りました。

 東京はと言えばラッシュを思い浮かべるかもしれませんが、午前6時前の電車に乗る人はそう多くはありません。今日も座席に座ることができました。初めて諸岡瞳を尾行したときのように慌てることなくホテルにたどり着きました。
 その日は原田絹子の姿はありませんでした。彼女は、その日から遅出になったのです。代わりに、太田緑というちょっと太めの女子従業員が仲間に加わりました。女子従業員は、三日早出の後、三日遅出になり、次の日は休みです。これが繰り返されます。早出も遅出も三人ずつで、一人ずつ交代するようになっています。ですから、明日は、森川ひとみが遅出になり、その次の日には、諸岡瞳が遅出になります。
 ちょっと太めと言いましたが、太田緑はかなり太めです。制服のウエストが肉に食い込んで、バストの前にあるボタンは今にも飛びそうです。
 でも、太った人間に悪い人間はいないと言うわたしの今までの観察を裏付けるように、彼女もかなり人がいいようです。いつもにこにこと笑顔を崩しません。
 問題は、親友である森川ひとみでも見破られなかったのに、太田緑がわたしのことをどうも不審気な眼差しで見ることでした。はっきりと他の従業員に話すようなことはありませんでしたが、わたしの方を見て首を傾げるのを何度か目にしました。気にする態度を見せると却っていけないと思って、仕事に神経を向けていました。
 気をつけていたのに、坂井和夫にお尻を触られました。わたしは、諸岡瞳に言われていたように、プウと膨れて睨んでやりました。坂井和夫は、にやりと笑って厨房へ消えていきました。
 「やられたわね」
 森川ひとみが、近づいてきて耳打ちしました。
 「ほんと。やなやつ!」
 わかるようにそう呟いてみましたが、ほんとはわたしとしては嬉しい限りです。坂井和夫はわたしのことを諸岡瞳だと思いこんでお尻を触っているのです。つまり、見破られていないのですから。
 午後になって、太田緑の疑いも消えたように思えました。

 明けの時間になりました。何とかその日もうまく乗り越えられたのでした。ロッカーで着替えをしていると、前日と同じようにやっぱり森川ひとみが近づいてきました。
 「今日はつきあってもらえるかな?」
 「ごめん。今日もだめなの」
 「まだいるの?」
 「今週いっぱい休みだって言ってたから」
 「今週いっぱい休みかあ。そんなにいい人なの?」
 「女だってば」
 これは嘘偽りはありません。わたしの方が男で、アパートで待っているのは女の諸岡瞳ですから。
 「ほんとに?」
 今日も疑う目でわたしを見ました。
 「男だと思うのなら、ちょうどいいこと始める時間あたりに電話してみたら?」
 「あれ? そう言うところを見ると、ほんとらしいけど・・・・。それもカムフラージュかな?」
 「だから、電話してみなよ」
 「ほんとに電話していいの?」
 「何にも後ろめたいところはないからね」
 「そう。じゃあ、気が向いたら電話するわ」
 「じゃあね。来週はつきあうわ」
 「宛にしないで待ってるわ」
 「バイバイ」
 どうやらわたしの話しぶりは、諸岡瞳と同じようだ。彼女はつゆも疑っていないようでした。

 その日は買い物などを頼まれていなかったので、真っ直ぐ諸岡瞳のアパートに戻りました。
 「お帰り」
 「ただいま」
 「今日もうまくいったみたいね」
 「太田緑から疑いの目を向けられたけど、何とか凌いだわ」
 「彼女、結構勘がいいからね。ひとみと彼女をだませたんだったら、もう大丈夫よ。他には、勘のいい人はいないから」
 「それなら安心」
 「普段着出してたから、着替えなさいよ」
 「いいの?」
 「いいも悪いもないでしょう?」
 「そうね」
 わたしは、出されていたジーンズとTシャツに着替えました。
 「ところで、わたしが仕事に出ている間、何して過ごしているの?」
 「いろいろよ。普段できないことなんかをね」
 「そう・・・・」
 今日もテーブルの上に本が広げられていました。

 夕方まで一緒にテレビを見て、一緒に夕食を作り、一緒に食べました。他人から見れば、わたしたちは妙な関係でしょう。一度は殺そうとした人間と、殺されかけた人間が仲良く暮らしているのですから。
 それから、交代で入浴しました。今日は、ショーツとともにパジャマが用意されていました。
 一応わたしという男が一緒にいるというのに、彼女はその日はその気がないようでした。わたしの方は当然前の日のような気持ちはありませんでした。彼女にその気がないのは、毎日じゃなくていいと言うことか、それともわたしの粗末なものでは満足できないと思ったかどちらかでしょう。
 わたしの持ち物では満足させてあげられないと考えるわたしは、やっぱりまだ男だったのでしょうね。
 午後11時前、ふたりでテレビを見ていると電話のベルが鳴りました。
 「きっと、ひとみだわ」
 夕食を食べながら、昼間の森川ひとみとの会話を諸岡瞳に話しておきました。だから、諸岡瞳が電話に出ました。
 「人の言うことを信用しない人ね」
 《電話しろって言ったのはあなたよ》
 「わかった。わかった。で、彼女が電話に出ればいいのね」
 《そう言うことよ》
 「ひとみの疑いを晴らすためよ。礼子、代わって」
 諸岡瞳がわたしに受話器を手渡しました。礼子というのは、あらかじめ決めていたわたしの偽名です。わたしは、諸岡瞳の声色ではなく、わたし自身の女声で話しました。
 「こんばんは。礼子ちゃんです。瞳とレズってます。あなたも来ない?」
 「礼子! 変なこと言わないでよ」
 横から諸岡瞳が叫びました。これも打ち合わせ通りです。
 《女より男がいいって瞳に言ってて。じゃあ、お休みなさい》
 電話が切れました。わたしと諸岡瞳は笑い転げました。

 その翌日も、ウエイトレスを無難にこなし、そのまた翌日から遅出となりました。メンバーは最初の原田絹子と森川ひとみです。もう誰もがわたしのことを疑っていません。
 「今日はつきあえるの?」
 「ちょっとだけなら」
 「礼子って子、面白い人ね」
 「そうでしょう? 気が合うのよ」
 「ほんとにレズってたりして」
 「真似事ならしたことはあるけど、やっぱ男がいいわ」
 「そりゃそうね」
 森川ひとみは、わたしの軽口を信じたようです。春物のワンピースを買うという森川ひとみにつきあいました。
 「瞳! いつからそんなにセンスが良くなったの?」
 わたしの選んでやったワンピースを着ながら、森川ひとみが感嘆の声を上げました。
 「わたしだって、少しは勉強してるのよ」
 「勉強! あなたからそんな言葉を聞こうなんて思ってもみなかったわ」
 「あ、馬鹿にしてるう」
 森川ひとみは、ペロッと舌を出しました。諸岡瞳にとって、森川ひとみはホントにいい友人のようです。
 一緒に食事をしようというので断り切れず、イタリアンレストランに入って、イタ飯しました。アパートで夕食を一緒にするのを待っているだろう諸岡瞳の顔が浮かびましたが、待っている人がいないことになっていますから、断れなかったのでした。

 「遅かったのね」
 ドアを開けると、不服そうな諸岡瞳の顔がありました。
 「森川に誘われちゃって、断り切れなくて」
 「ひとみにかあ。それじゃあ、仕方ないわね」
 「食事はしたの?」
 「焼きめしをチンして食べたわ。あなたは?」
 「イタリアンレストラン」
 「あ、いいな」
 「ごめんね。わたしだけいい思いをして」
 「身代わりやってもらっているから仕方ないわ。お風呂、沸いてるわよ」
 「ありがと」
 諸岡瞳は、すでに入浴をすませているようで、パジャマ姿でした。わたしは、そのまま浴室へ向かいました。
 浴室を出ると、いつものように下着とパジャマを用意してあります。諸岡瞳は、ほんとに気のつく女性です。

 鏡に向かって顔の手入れをしていると、諸岡瞳がわたしの肩を抱きました。
 「わたしを放っておいしいものを食べた代償に、今晩はつきあって」
 殺人未遂で警察に突き出す代わりというようにましな言い方でした。
 「いいわ」
 そう言って、着ていたものを互いに脱がしあったのですが、わたしはまったくだめです。諸岡瞳がかなり頑張ったのですが、ぴくりともしませんでした。森川ひとみと飲んだワインのせいかもしれません。
 「どうしてだめなの? ああ、なんとかして。お願い」
 「なんとかしてって言われても・・・・」
 「引き出しにあれがあるわ」
 「あれ?」
 「あれよ」
 諸岡瞳が指さした引き出しを開けてみると、電動のディルドーが隠されていました。わたしはそれを使って、諸岡瞳を何とか満足させてやりました。
 わたしが完全な男なら、こんな情けない話はないなと思いました。

 「今日もお願いね」
 諸岡瞳からなかなかお許しが出ません。ですから、わたしは、諸岡瞳として出勤を続けざるを得ませんでした。わたしを働かせて、のんびりできるのですから、こんなにいいことはにでしょう。

 「明日は休みだね。明日は、あなたにアパートにいてもらって、わたしが出かけようかな」
 そんな冗談とも本気とも取れる言葉に送り出されて、遅出の三日目の仕事に出ました。
 「明日は休みでしょう? 飲みに行きましょうよ」
 太田緑に誘われました。諸岡瞳から聞いたところによると、太田緑からの誘いは遅出の三日目はだいたいいつものことのようです。断る理由が見つからないまま、いつも行くというスナックに連れて行かれました。
 わたし自身はカラオケが大好きなのですが、諸岡瞳は決して歌わないと言います。うずうずしながら、太田緑の歌声を聞いていました。
 「今日は飲まないのね」
 「ちょっと胃の具合が」
 「そうか。最近ちょっとおかしいと思ったら、胃の具合が悪いせいか」
 やっぱりわたしのことをおかしいと思っていたようです。しかし、変なふうに誤解を解いてくれたみたいで安心しました。太田緑はあまり疑うことを知らないようです。

 終電で諸岡瞳のアパートに帰りました。
 「怒ってるだろうな。でも、今日は太田緑から誘われる日だとわかっているから、まあいいかな?」
 そんな風に考えながら、アパートの階段を上りました。遅出の時は、帰る時間が午後11時過ぎです。その日はスナックに行きましたから、午前様でした。
 人が中にいると悟られないように、部屋の明かりは消しています。諸岡瞳は、暗い部屋の中で、蛍光灯のスタンドの明かりを頼りに読書しているはずです。
 鍵を開けて中に入りました。
 「ただいま」
 返事がありません。
 「瞳さん?」
 やっぱり返事がありません。天井の蛍光灯をつけました。部屋の中には、諸岡瞳はいませんでした。いったいどこへ行ったのでしょうか?
 トイレでしょうか? そう思って、トイレのドアを開き、浴室のドアを開きましたが、諸岡瞳はいませんでした。
 「こんな時間に、いったいどこへ行ったの?」
 バッグをベッドの上に放り出して、ふとテーブルの上を見ると大学ノートと封筒が置かれていました。
 封筒の表には、「瞳さんへ」と書かれてあります。わたし宛なのでしょうか? それとも、誰かが諸岡瞳に宛てた手紙をテーブルの上に置いていたのでしょうか?
 封筒を手に取ってみると封がされていません。誰も見ているわけでもないのに部屋の中を見回してから、わたしは中身を取り出しました。
 中身は、諸岡瞳がわたしに宛てたものでした。

 『もう一人の瞳さんへ

 瞳さん。あなたにはまだ女として生きる希望があります。でも、わたしは生きていくこと自体が苦痛でなりません。もう生きていく力がありません。
 わたしは何度も自殺しようとして思いとどまりました。それは、わたしには両親がいるからです。姉が死に、子供はわたししかいません。わたしが死んでしまったら、両親がどれほど悲しむかと思うと、どうしても死に切れませんでした。
 そんなとき、あなたがわたしの前に現れました。自分で死ねなかったわたしをほんとは殺して欲しかったのです。けれど、あなたはそれができませんでした。残念でなりませんでした。
 でも、わたしそっくりなあなたと話していて、いいアイデアを思いついたのです。わたしの身代わりができないかと。あなたがわたしの身代わりができるのなら、わたしはこの世からおさらばできると。
 そこでわたしは、あなたがわたしを殺そうとした弱みにつけ込んで、わたしとしての生活を試させました。
 ここ一週間、あなたは、わたしの職場で立派にわたしとしてやっていくことができました。恐らく今後も大丈夫でしょう。
 だから、わたしの計画通り、あなたにわたしのすべてを託すことにしました。たった今から、あなたは諸岡瞳です。諸岡瞳として生きてください。わたしの両親を頼みます。あなたなら、きっとうまくやってくれると信じています。
 わたしは、ようやく安らかな気持ちで行くことができます。決して誰にも見つからないところで、わたしは平穏を迎えることでしょう。
 さようなら。
 どうか、わたしの最後の願いを聞き入れてください。もう一度言います。わたしの、いえ、あなたの両親をよろしくお願いいたします。

 瞳

追伸。大学ノートに、これからあなたが接するだろう人たちのプロフィールや、思い出に残っている出来事を書いておきました。参考にしてください』

 諸岡瞳は、わたしに身代わりをさせて、自分は自殺するつもりのようです。いつ出かけたのでしょうか? 決して誰にも見つからない場所とはどこのことでしょうか? 探そうにもどうしたらいいのかわかりません。
 その時、ハッと気がつきました。最近彼女に買ってきてくれと頼まれた本です。富士山周辺の見所を書いたものです。
 「富士山の樹海に入って自殺するとほとんど見つからないって聞いたことがある・・・・」
 もうひとつ気がつきました。わたしが彼女として初めてホテルに出勤した日に彼女が買ってきたユニクロの服です。タンスの中を探してみると、それが見あたりませんでした。
 「もし富士山の樹海の中で白骨死体などで見つかっても、衣服から身元がばれないように量産品のユニクロの服を着ていったんだわ」
 恐らくわたしの想像は間違っていないと思いました。

 警察に届る? 生きて見つかればいいのですが、もしすでに死んでしまっていたら、彼女の願いを聞き届けることができなくなってしまいます。
 どうしたらいいのでしょうか?