第5章 諸岡瞳の提案

 わたしのすぐそばの床の上に、諸岡瞳が横たわっています。わたしは床の上に崩れるように座り込んでいました。何故か、涙が出ます。ぽろぽろと止めどなく流れて、床の上にシミを作っていきました。
 そんなわたしを諸岡瞳が見つめていました。そうです。結局わたしは彼女を殺せませんでした。もう数秒首を絞め続けていれば、彼女の命はなかったでしょう。でも、自分の利益のために他人を殺すことなど、やっぱりできませんでした。わたしは男を捨てましたが、良心までも捨ててはいなかったのです。
 「あなたは、誰?」
 彼女がわたしに尋ねました。
 「・・・・わたしは、諸岡瞳になりたかった男・・・・」
 「男? わたしになりたかった男?」
 驚いたように彼女が床から起きあがって、わたしに尋ねました。
 「・・・・そう」
 わたしは力無く答えました。
 「あなた、ホントに男の人なの?」
 わたしは、彼女の方を向いて、小さく頷きました。
 「とても男の人には見えないわ」
 「そうでしょうね」
 「ニューハーフなのね」
 「そう言う言い方もあるわ」
 「わたしそっくりなのね。まるで双子みたい」
 「そう。だから、こんなことをしようと思いついたの」
 「こんなことって?」
 「話すわ。初めから・・・・」
 わたしは、その日から遡る二年前、新宿駅で諸岡瞳を見かけてからそれまでの経緯を語って聞かせました。

 午前0時の時報が鳴り始めました。丁度わたしの話も終わったところです。
 「そうだったの」
 「ごめんなさい。わたしの身勝手で、あなたをひどい目に遭わせて」
 「もういいわ。大したことはないから」
 彼女は自分の首をそっと撫でています。
 「そんなに女になりたかったの?」
 「ええ」
 「どうして?」
 「だって、お化粧したり、綺麗な服を着られるじゃないですか」
 「それだけ?」
 そう言われて、答えにはたと困りました。それだけのように思えますし、それだけじゃないようにも思えます。わたしは答えに窮しました。
 「女なんて、いいこと、ないわよ」
 吐き捨てるように諸岡瞳が言います。
 「そうなの?」
 「特にわたしみたいなブスは、いいとこなしよ」
 「あなたがブスだなんて、そんなことないわよ」
 「ブスよ。・・・・そうか、わたしがブスだって認めたら、あなたもブスだってことになるわね」
 「そうじゃないわ。そりゃあ、とびっきりの美人とは言えないわ」
 「やっぱりそうでしょう?」
 「でも、愛らしくて、可愛いと思うわ」
 「それは、28の女に対する褒め言葉じゃないわよ」
 「そう言う意味じゃなくって、そうね、何と言っていいかわからないけど、魅力があるって言うのかな?」
 「魅力ねえ・・・・。男から見ればってこと?」
 ちょっと返事に戸惑いました。わたしは自分のことを男だとは思っていませんでした。けれど、女を見る目は、男なのでしょうか?
 「魅力があるからこそ、男の人と付き合ってたんでしょう?」
 「魅力のせいかしら?」
 「違うの?」
 「あいつらは、わたしの体が欲しかっただけよ。セックスするために、わたしのことが好きだって言った。わたしに魅力があった訳じゃないわ」
 「そんなことないと思うけど・・・・」
 わたしのその言葉に、彼女は首を振りました。
 「あなたには金輪際理解できないわ。あなたは、女じゃないんだから」
 そう言われれば、身も蓋もありません。
 「最初に付き合った男は、毎日毎日電話をかけてきて、好きだの愛してるだの言ったくせに、一度ベッドをともにしたとたん、なしのつぶてよ。その次の男は、木村徹って言って、3年付き合ったかな? 将来は絶対結婚するから、今度だけはって言われて、3回も堕したのよ。それが、上司の娘とさっさと結婚してしまって。その上、下手な医者にかかったものだから子供を産めない体になってしまって、踏んだり蹴ったりよ。先月まで付き合っていた男は、わたしが子どもを産めないとわかると、急によそよそしくなってしまって。女は子どもを産む道具じゃないわよ!」
 いつの間にか、彼女の目から涙が零れていました。
 「わたしがもっと魅力のある女なら、子供が産めなくたって結婚してくれるはずだわ」
 「あなたに魅力がなかったせいじゃないと思うわ」
 「じゃあ、どうしてなの?」
 「相手が悪かったのよ」
 「相手が?」
 「そうよ」
 「・・・・わたしの、男を見る目がなかったって言いたいの?」
 わたしは、彼女にちょっと恨めしげに睨まれて肩をすくめました。
 「そうかもしれないわね。わたしが焦りすぎていたのかも。早くに結婚した、姉の幸せそうな顔ばかり見ていたから」
 「お姉さんがいるの?」
 「いたのよ。1年半ほど前の夏の暑い日に亡くなったけど」
 諸岡瞳はちょっと悲しげな目をしました。
 「・・・・そう」
 「あのまま絞め殺してくれても良かったのに」
 「えっ!?」
 そんなことを言われて、わたしは驚きの声を上げました。
 「わたしね、生きる意欲を失ってるの。生きていても、何の喜びもないのよ」
 「生きていれば、いつかはいいことがあるわ」
 「あなたは、楽観主義者ね。わたしはダメ。姉を失って悲しんでいる両親がいなかったら、わたし、とっくの昔に自ら命を絶っていたわ」
 「そんなことは考えないで、頑張りましょうよ。わたしも何とか頑張ってみるから」
 彼女はフフと笑いを浮かべました。
 「そうね。わたしより、あなたの方がずいぶん苦労しているみたいなのに、わたしが死ぬなんて言ったらおかしいわね」
 「そうよ。人生、先が長いわ。きっといいことがあるって」
 「あなたにそう言われると、何だか勇気が湧いてきたわ。自分自身に言い聞かせられているみたいだものね」
 「そうね」
 彼女の表情が一変しました。暗かった表情が明るくなったのです。
 「コーヒーでも飲む?」
 「明日は早いんでしょう? そろそろ寝なければ」
 「そうか。明日は、早出か・・・・」
 「じゃあ、わたしはお暇するわ。もう二度とここへは来ませんから、安心して」
 わたしは立ち上がって、ドアへと向かいました。
 「ちょっと待って」
 「なに?」
 振り向くと、彼女がわたしに近寄ってきました。
 「背も変わらないし、ホントに双子みたいね」
 「だから、どうしたの?」
 「わたしを殺して、ホントに入れ替われると思ったの?」
 「何とかなると思ったわ」
 「自信、ある?」
 「え、ええ」
 彼女は何を言いたいのでしょうか? わたしは、じっと彼女を見つめました。
 「どう? 入れ替わってみない?」
 「ええっ!?」
 「あなたがわたしの代わりに仕事に行ってくれると、わたし、明日一日、ゆっくりできるんだけど」
 彼女の提案に、わたしは目を見張りました。
 「ねえ、いいでしょう? さっきわたしを殺したと思って、やってみてよ」
 面白い悪戯を思いついた子どものように、彼女はわたしに向かって微笑みました。
 「ねえ、お願いよ」
 もう一度そう言います。わたしは頷くしかありませんでした。
 「やってみるわ」

 わたしは、チェックのミニスカートにセーターを着てコートを羽織り、バッグを膝の上に載せて電車の椅子に腰掛けていました。わたしは、諸岡瞳の提案を受け入れて、彼女の振りをして彼女のホテルへ向かっているのでした。
 最近は、完全女装で電車に乗っています。ですから、慣れているはずなのに、なぜだか胸がどきどきしていました。
 新宿駅に着き、諸岡瞳の定期券を機械に通しました。わたしが諸岡瞳でないことがばれて、ブザーが鳴るのではないかと思って緊張しました。けれど、そんなことは起きずに、定期券は無事機械からはき出されて、わたしは改札を抜けました。
 諸岡瞳が勤めるホテルが見えてきました。胸の高鳴りは、さらに増強します。心臓が喉から飛び出しそうです。でも勇気を振り絞ってホテルの従業員入り口へと向かいました。
 「おはよう、瞳ちゃん」
 「あ、お、おはよう、ございます」
 従業員入り口で、守衛の小森さんに声をかけられたのです。小森さんは、60過ぎの気さくないい人で、いつも彼女に声をかけてくれるそうです。
 「今日はちょっと化粧が濃いんじゃないか?」
 小森さんの指摘はあたっていました。ばれないようにと化粧が少し濃くなっていたのです。
 「そうですか?」
 「瞳ちゃんは、薄化粧の方が似合うよ」
 「明日からは薄くします」
 「それがいい。じゃあ、頑張って」
 「はい。小森さんもね」
 わたしは手を振って、奥のロッカールームへ向かいました。小森さんは、わたしが諸岡瞳だと思って疑っていないようです。ホッと溜息が漏れました。
 「おはようございます」
 「おはよう」
 ロッカールームに入ると、ふたつ年上の原田絹子が着替えをしていました。わたしはその右側にあるロッカーを開いて、着替えを始めました。原田絹子は、挨拶の後は一言も口を利かないで、着替え終わるとさっさとロッカールームを出ていきました。彼女も気がつかなかったようです。
 原田絹子は、諸岡瞳とはあまり仲が良くないので、適当に挨拶しておけばいいと教えられていました。
 「おっはよう!」
 諸岡瞳の職場では一番の難関である、森川ひとみがやってきました。諸岡瞳よりも三つ年下なのですが、名前が同じと言うことで、非常に仲がいいのだそうです。こんなことは、諸岡瞳の口から聞いていなければ、わからなかったところです。
 森川ひとみとは仲がいいので、見破られる可能性が高いのです。もし、彼女に見破られなければ、恐らく大丈夫だろうと諸岡瞳が言っていました。
 「おっは! 今日も頑張りましょう!」
 「うん。頑張って、いい人、見つけましょうね」
 「了解でござる。先に上がるわよ」
 「ああん、瞳。ちょっと待ってよ」
 「待ったげるから、早く着替えなさい」
 わたしは、森川ひとみがブラとショーツだけのセミヌードになって、制服を身につけるのをじっと見ていました。もちろん、そんな姿を見ても、わたしのペニスはまったく反応しません。ここ数ヶ月、男ともセックスしていないので、いつ勃起したのか忘れるくらいです。
 「さあ、行きましょう」
 着替え終わった森川ひとみに促されて、レストランへと向かいました。

 レストランには、ふたりのウエイターがいました。ひとりはウエイター長の坂井和夫で、もうひとりはまだ一年目の島岡貢です。
 島岡貢の方はウエイトレスには関心がないので、問題にはならないだろうけれど、坂井和夫の方は気を付けるように言われていました。セクハラに近い軽口を叩いたり、お尻を触るなどの完全なセクハラ行為は日常茶飯事で、噂ではセックスを強要されて辞めたウエイトレスがいると言うことでした。
 「おはようございます」
 「ああ、おはよう。ダブルひとみちゃん。今日も可愛いね」
 「ありがとうございます」
 森川ひとみは、にっこり笑いましたが、わたしはフンと顔を反らせて、開店の準備にかかりました。

 午前6時半を回った頃、最初のお客が顔を現しました。
 「いらっしゃいまいせ」
 「いらっしゃいまいせ」
 年下の順にお客の接待を始めます。これは暗黙の了解なのだそうです。ですから、最初のお客のテーブルには、島岡貢が行きました。
 次々にお客がやってきました。わたしも接待に動きます。伏せてあったコップを起こして、水を注ぎます。
 「ご注文は?」
 「モーニングセットを」
 「卵料理はいかが致しましょう?」
 「スクランブルで」
 「パンはトーストとクロワッサンがございますが」
 「トーストで」
 「コーヒー、紅茶は?」
 「コーヒーを」
 「モーニングセットを、卵料理はスクランブルで、パンはトースト、お飲物はコーヒーでよろしいですか?」
 「ああ」
 「少々お待ちください」
 喫茶店でウエイトレスをしていたので、簡単なものです。その通りです。デパートを馘首になったあと、時給が安いのにウエイトレスにこだわったのは、入れ替わったときに役に立つと思ったからです。
 ホテルに泊まったお客の大部分がホテルで朝食をとります。ですから、かなり忙しいのです。忙しいと言うことは、他人のことを気にしている暇はないと言うことで、わたしが諸岡瞳でないことがばれずに時間が過ぎていきました。
 朝食タイムが終わると、従業員は少し早めの、かなり早めの昼食を交代でとります。それから、ランチタイムとなります。
 ホテルでランチをとる人は、昔は会社の接待が多かったそうですが、今は有閑マダムが多いそうです。ランチタイムの2時間を食事しながらおしゃべりをして過ごすと言うことなのです。夫が働いているときに優雅な食事をするなんて、ちょっと許せないような気がします。
 ・・・・これは男としての感覚なのでしょうか? それともホテルでランチするようなお金のないもののひがみなのでしょうか?

 午後3時になりました。早出組は、遅出組と交代です。
 「ばれなかった・・・・」
 ホッと溜息を吐きながら、わたしはそそくさと着替えをしました。
 「瞳! 一緒に夕食しない?」
 ロッカールームを出ようとすると、森川ひとみがわたしを呼び止めました。
 「あ、ごめん。実は、高校時代の同級生が遊びに来ていて、早く帰らないといけないんだ」
 「高校時代の同級生? 男?」
 「まさか。女よ」
 「ホント?」
 「疑ってんの?」
 「ひと月も男がいないなんて、瞳にしては珍しいからね」
 「女だってば。疑うのなら、あとで電話してみたら?」
 「疑ってないわよ。・・・・じゃあ、彼氏によろしく」
 「やっぱ、疑ってんじゃないの」
 フフと笑いながら、森川ひとみはわたしを追い抜いてホテルの外へ駆けていきました。もし、森川ひとみが諸岡瞳のアパートに電話してきたら、わたしが出ればいい。少し音質を変えれば、ばれないでしょう。
 デパートの地下食品売り場に寄って、諸岡瞳に頼まれていた買い物をして帰りました。

 諸岡瞳のアパートに戻ってくると、隣の部屋に住む大学生と出会いました。
 「こんにちは」
 「あ、こ、こんにちわ」
 恥ずかしそうに目を伏せる若い男の子が可愛らしく思えました。その大学生が階段を下りていったあと、わたしはバッグの中から鍵を取り出してドアを開けました。中には誰もいないことになっているのですから、中から開けてもらうわけにはいかないのです。
 ドアを閉めると、諸岡瞳は何やら本を読んでいました。テーブルの上には飲みかけのコーヒーカップが置かれています。
 「ただいま」
 小さな囁くような声でわたしは彼女に声をかけました。
 「お帰り。どうだった?」
 彼女も声を落として訊ねます。わたしは、ピースサインを出しました。
 「ホント?」
 わたしは大きく頷きました。
 「あなた。大したもんだわ」
 「一日閉じ籠もっていて、退屈だったでしょう?」
 「まあね。でも、読もう読もうと思っていた本を読めたからいいわ」
 「ほんと。頼まれていたもの、買ってきたけど」
 「冷蔵庫に入れましょう」
 ふたり並んで、買ってきたものを冷蔵庫に納めました。
 「ひとみは疑ってなかった?」
 「ひとみって、森川ひとみのこと?」
 「そうよ」
 「ぜんぜんよ」
 「彼女をだませたんだったら、もう大丈夫よ。明日もお願いするわね」
 「えっ!? 明日も?」
 「ちょっと休養を取りたいのよ。ね、いいでしょう?」
 「でも・・・・」
 「わたしを殺そうとしたのよ。罪滅ぼしと思って」
 半分脅迫みたいな要求です。けれど仕方ないなと思うしかありませんでした。
 「わかったわ。・・・・そうすると、今晩もここに泊まらなきゃいけないけど・・・・」
 「何か困ることでも?」
 「昨日下着取り替えてないから」
 「わたしのを使えばいいわ。サイズは変わらないんでしょう?」
 「え、ええ」
 「パジャマもみんな貸してあげる。いいわね」
 わたしは頷くしかありませんでした。