第2章 わたしのこと

 わたしが諸岡瞳を初めて見かけた5年前の忘年会は、わたしにとっては歓迎会でもありました。だから、いつもなら一次会が終わるとさっさと帰っていたところを、二次会のカラオケにもついていったのです。
 歓迎会と言っても、別に新たに会社に勤め始めたというわけではありません。その年の12月の初めから働く部署が変わっていたのです。そのことを言い渡されたのは、冬のボーナス戦線が始まろうかという頃でした。松本主任に呼び出されたのでした。
 「大林君。これを婦人服売り場の板井主任に届けてくれないか?」
 「婦人服売り場の板井主任にですね」
 「そうだ」
 「わかりました」
 松本主任から茶封筒に入った書類を手渡されて、どうしてこんな雑用を言いつけるのだろうかと訝りながらも、わたしは婦人服売り場へと向かいました。
 婦人服売り場は、わたしの勤めるデパートの2階にあります。わたしは裏の階段を駆け下って、婦人服売り場へと降りていきました。
 キョロキョロと見回したけれど、板井主任らしい人はいません。わたしはすぐ近くのレジにいた顔見知りの店員に声をかけてみました。
 「佐藤さん、板井主任はどこにいます?」
 「あら? 大林さん。久しぶりね。主任に何の用?」
 「松本主任から、板井主任にこれを渡してきてくれって頼まれて・・・・」
 「そう? うちの主任は、確か大きいサイズにいたわよ」
 「大きいサイズのパーテーションですね。ありがとうございます」
 わたしは、佐藤さんにお礼を言うと廊下を右に折れて、大きいサイズの婦人服売り場へと向かいました。
 廊下の突き当たりにある大きいサイズの婦人服売り場に、板井主任とふたりの女子店員の顔が見えました。
 「そのマネキンは奥へやって、そこは空間を開けた方がいいな」
 そんな板井主任の声が聞こえてきました。どうやらディスプレーをいじっているようです。
 「すみません、板井主任?」
 「うん? なに?」
 振り向いて、板井主任はわたしのネームプレートを見ます。わたしの顔は知っていても名前までは覚えていてくれていないようです。
 「これを板井主任に渡すように、松本主任に頼まれました」
 わたしは手にしていた茶封筒を板井主任に渡します。
 「そう」
 茶封筒を手に取ると、板井主任は中身を取り出しながら、ふたりの女性店員に指示しました。
 「残りはふたりで相談してやってみて。あとで点検にくるわ」
 「はい」
 ふたりがディスプレーに取りかかると、板井主任は、わたしに手招きして廊下を歩き始めました。わたしはそれに従って歩きました。
 「大林君。あそこのマネキンをどう思う?」
 突然立ち止まって、板井主任が聞きます。わたしは、板井主任が指さす方を見ました。そこには、一体のマネキンが立っていました。
 「あそこって、あの黒のスカートをはいたマネキンですか?」
 「そうよ」
 「そうですね。色の取り合わせはともかく、あのブラウスには、ミニよりももう少し長めのスカートの方がいいと思いますけど」
 「長めのスカートねえ・・・・」
 わたしの顔をちらりと見て、再び歩き始めました。
 「あのマネキンは?」
 「あれですか? そうですね。Tシャツのボーダーがもう少し細い方がいいかと」
 「なるほど、なるほど。いいでしょう。じゃあ、来週から、よろしくね」
 「はあ?」
 板井主任の言っている意味がわからず、わたしは首を傾げて聞きました。
 「あら? 聞いてないの?」
 今度は板井主任が目を丸くして驚いたようにわたしを見ました。
 「聞いてないのって、いったい何のことでしょうか?」
 「あなた、このフロアーに配置換えになったのよ。来週から」
 あまりに突然の話で、わたしはその場に呆然とたたずんでいました。
 「来週から、配置換え?」
 「そうよ」
 「そうよって、まさか婦人服売り場へ、ぼくが?」
 「その通りよ」
 この時のわたしは、恐らく「鳩が豆鉄砲を食らった」と表現するのが相応しい表情をしていたと思います。
 「ど、どうして?」
 「あなた。紳士服売り場には、ちょっとそぐわないわね」
 「そ、そんなことはないです」
 「否定したって、そのことを一番知っているのはあなた自身でしょう?」
 そう言われれば、返す言葉もなかったのです。わたしは黙り込んでうつむくしかなかったのでした。でも、わたしは反撃しました。
 「だけど、売り上げでは誰にも負けていません」
 「だから、婦人服売り場に引き抜いたのよ。あなたは、婦人服に対するセンスもいいようだし、あなたが来てくれれば、今度拡張した売り場面積以上の売り上げが期待できるからね」
 紳士服売り場にわたしはそぐわないなんて言うからちょっとむっと来ていたのですが、わたしの販売員としての腕を買っての移動だと言われてちょっと機嫌を良くしたのでした。
 「そう言うことでしたら喜んで」
 「書類を届けてくれてありがとう。月曜日から一緒に働くことを楽しみにしているわ。じゃあ」
 「お願いします」
 わたしは頭を下げて、板井主任の後ろ姿を見送ったのでした。

 紳士服売り場に戻っても何だか気分が乗りません。お願いしますとは言ったものの、「どうして婦人服売り場なんかに」と言う思いが沸々と湧いてきます。
 その日は、一着も売れずに夕方を迎えました。
 「大林君、ちょっといいかね?」
 「はい、なんでしょうか?」
 松本主任が、事務室からわたしに手招きしました。事務室に入っていくと、松本主任はわたしに椅子に座るように促します。
 「君に辞令が出ててね」
 「何の辞令でしょうか?」
 婦人服売り場への移動の辞令でしょうけど、板井主任から聞いていると言えば、松本主任の顔がつぶれるだろうと思ってわたしはとぼけます。
 「来週から、婦人服売り場へ移動だ」
 「婦人服売り場へですか?」
 「そうなんだ。君は売り上げナンバーワンだから、手放したくはないんだが、婦人服売り場拡充のためと言われれば、断るわけにはいかなくてな。つまり君の販売員としての腕を買っての移動なんだ。君は別に問題ないだろう?」
 決めてしまってから当事者の意見を聞くなんてルール違反だと言おうとしたけれど、わたしはその言葉を飲み込みました。いらない人間だから移動させるんじゃなくて、優秀だから必要とされているとの自尊心をくすぐる説明に拒絶はできなかったのです。
 「特に問題は」
 「じゃあ、新天地で頑張ってくれたまえ」
 松本主任はわたしに辞令を渡すとさっさと事務室を出ていってしまいました。松本主任の態度を見ると、優秀だから引き抜かれただけではなさそうだと感じていました。紳士服売り場に女性従業員がいることはまれではありませんが、婦人服売り場に男性従業員がいるなんてことは聞いたことがありません。これはわたしに対する嫌がらせだと思いました。男としては貧相で、職場での付き合いのよくないわたしが、いつも売り上げが一番と言うことで、主任の不興を買ったに違いありません。
 その日の夜は、むしゃくしゃして飲めないお酒を飲んで帰りました。

 その翌日、朝から腹の具合が良くありませんでした。婦人服売り場への移動という精神的ストレスと、やけ酒とともに食べた貝のバター焼きがよくなかったようです。会社に出てからも何回かトイレに駆け込みました。
 「おい、大林のやつ、移動になるらしいぞ」
 「ほんとか?」
 トイレに座っていると、同僚の後藤と相原の声がしました。わたしのことを話しているようなので、耳を澄ませて聞くことにしました。
 「ああ。昨日、幸子に聞いたんだ」
 「幸子って、人事部の?」
 「ああ」
 「どこまで進んでるんだ?」
 「え? あ、ああ。ただのお茶のみ友達だよ」
 「それだけか?」
 「そんなことどうでもいいだろう? それでだな。大林の異動先ってのが、婦人服売り場らしいんだ」
 「婦人服売り場!?」
 「そうなんだよ」
 「男が婦人服売り場に移動なんてのは、前代未聞だな」
 「聞いたことがないな」
 「あいつにゃ、相応しいかもしれんな」
 「俺もそう思うな。あいつはどう見ても紳士服売り場って柄じゃないからな」
 「そう、そう。それにしても、年末商戦の真っ最中に何でまた移動なんだ?」
 「そのことなんだがな」
 後藤が声を落としました。
 「売り上げ、いつも松本さんが負けてるだろう? だかららしいよ」
 「へえ。目の上のたんこぶは排除って訳だ」
 「そう。あいつがいたら、出世に響くってことらしい」
 「松本さんも結構やるね」
 わたしの想像したとおりでした。
 「俺たちも気を付けなきゃな。婦人服売り場なんかに飛ばされた日にゃ、とてもここに勤めていられねえよ」
 「大林のやつは?」
 「あいつは勤めるさ。辞める度胸なんてあるわけがないだろう?」
 「そりゃそうか」
 ふたりは笑いながらトイレを出ていきました。わたしは悔しくて涙が出ました。辞める度胸がないと言われたけれど、辞めてやろうかと思いました。
 だけど、ここで逃げ出すわけには行きません。辞めてしまったら負けですし、辞めたら生活できません。婦人服売り場で頑張って、わたしを紳士服売り場から追い出したことを後悔させてやろうと決心しました。

 翌週の月曜日、わたしはスーツをぴっちりと着て、ネクタイをきりりと締め、髪をなでつけて出社しました。
 婦人服売り場の従業員はみんな女性で、男性はわたしだけです。移動を断れなかった自分を恨んでみましたが、もう手遅れです。
 「今日からこのフロアで一緒に働くことになった大林茂君です。みんなよろしくね」
 板井主任が紹介してくれました。
 「大林です。よろしくお願いいたします」
 「よろしく」
 何人かは笑顔で迎え入れてくれたけれど、何人かは眉をひそめていました。
 「その格好で働くんですか?」
 眉をひそめたひとりが言います。
 「そうねえ・・・・」
 板井主任が、わたしのスーツ姿を上から下までまじまじと眺めました。
 「やっぱりスーツじゃまずいわね」
 「制服が入りそうだから制服にしますか?」
 悪戯っぽくひとりが言います。
 「制服って、スカートをはかせようって言うの? まさかスカートははかせられないわよ」
 制服というのは、もちろん女子従業員の一部が着ているもので、白のブラウスの上に空色のベスト、同色の膝上丈のスカートというものです。
 「でも、大林君が着てみたいって言うのなら、着てみる?」
 冗談でしょうけど、わたしに向かって板井主任が言いました。女子従業員たちが、侮蔑混じりの目をわたしに向けてきます。わたしは慌てて首を振りました。
 「そうでしょうね。どうしたらいいかしら? 婦人服売り場でその格好じゃあ、ガードマンみたいで、誰も声をかけてはくれないでしょうね」
 板井主任は腕組みをします。
 「おかま風にしたらどうかしら?」
 誰かが言いました。
 「それがいいわ」
 別の誰かが同調しました。
 「おかま風て言うのはねえ・・・・。そうね。中性風って言うのはどう? 女っぽくしたら、大林君が可哀想だし、男っぽくしたら、お客さんが寄りつかないでしょうから」
 「賛成!」
 「賛成!!」
 「どう? 大林君?」
 わたしの意向はすでに無視された形でした。うんと言わなければ、誰も納得しないでしょう。おかま風というのはイヤですが、中性風というのならなんとか我慢できそうです。朝三暮四のような気もしますけど。
 「・・・・そうですね」
 「じゃあ、そう言うことで。北村君。あなた、手伝って、大林君に適当に着せてあげて」
 「はい」
 そう言うことで、中性風という服装に着替えさせられる羽目になってしまったのでした。

 みんなが事務室から出ていき、わたしと北村かなえが残されました。
 「大林さん、上着を脱いで」
 わたしは促されてスーツの上着を脱ぎました。
 「思っていたより細いのね。いったい何キロあるの?」
 「50キロ」
 「ふうん・・・・。身長は?」
 わたしはちょっと不機嫌そうに上目遣いに北村かなえを見ます。
 「わたしと変わらないくらいかしら?」
 北村かなえがわたしのそばに近寄ってきて並びました。ハイヒールを履いている分、北村かなえの方が高いようです。
 「靴のサイズは?」
 「靴も履き替えるんですか?」
 「当然でしょう?」
 「23.5です」
 「23.5ね。だいたいわかったわ。ここで待っててね。適当に持ってくるから」
 北村かなえは、意気揚々と事務室を出ていきました。一方わたしは、どんな服を着せられるのかと戦々恐々としていました。
 「中性風って言ったけど、北村かなえはどんな服を持ってくるんだろう?」

 北村かなえが持ってきたのは、白いブラウスとベージュ色の綿のパンツでした。どちらも女物です。
 「これはちょっと・・・・」
 「いいから着てみなさいよ。絶対似合うから」
 その日わたしが着る服は、北村かなえに一任されているわけですから、断るわけにもいきません。それに、もし断って、もっとひどい、つまりひらひらしたレースの飾りなどが付いた服などを持ってこられては困るので、わたしはその服を着ることにしました。
 「あ、着たら声をかけてね。外で待ってるわ」
 わたしがズボンのベルトに手をかけたままじっとしているのを見て、北村かなえは慌てて事務室の外へ出ていきました。
 スーツとワイシャツを脱いで、トランクスとTシャツ姿になって、ブラウスを着ました。ボタンが男物と反対ですから、着にくいと言ったらありません。パンツをはいて付属のベルトを締めました。お尻の周りがかなり緩いようです。
 「着た?」
 北村かなえが顔を覗かせます。
 「あ、はい」
 「いいようだけど・・・・」
 北村かなえは、わたしの下半身をじっと見つめました。
 「何かおかしいんですか?」
 「トランクスが透けて見えるわ」
 わたしがはいていたトランクスは当然のことながら柄物で、ベージュのパンツですから透けて見えるのでした。
 「換えはないですから」
 「なんとかするわ。それから、やっぱりベストが必要ね。ちょっと待っててね」
 北村かなえは再び出ていきました。

 しばらくして戻ってきた北村かなえの手には、背中が黒で表が花柄のベストと小さな包みが乗せられていました。
 「はい。まずトランクスを着替えて」
 わたしは小さな包みを見て固まりました。
 「こ、これは・・・・」
 「ブリーフを買おうと思ったんだけど、わたし、男物は買ったことないのよ。男物の下着売り場に行く勇気がなくて。だから、今日のところはこれで我慢して」
 「上に買いに行ってきます」
 「もう始業時間よ。間に合わなくなるわ。早く!」
 これではまるで苛めです。苛めでなかったら、わたしを困らせて喜んでいるとしか思えません。
 泣き出しそうになりながら、わたしは北村かなえを部屋から追い出して、トランクスをショーツに履き替えて、パンツを再びはいてベストを身につけました。
 「北村さん。着ましたよ」
 北村かなえが事務室に入ってきてにっこりと微笑みました。
 「似合うわ」
 中性的って言ったのに、まるでおかまでした。
 「ヘアスタイルもちょっといじりましょう」
 わたしの返事を待たずに、北村かなえは櫛を使ってわたしの前髪をおろして、耳に架けていた髪の毛を外して耳を隠すようなヘアスタイルにしました。
 そうすると、ますますおかま風になっていました。
 「靴はそれを履くのよ」
 床にはかかとのあまり高くないミュールが置かれていました。色は白です。サイズは23です。
 「ちょっと小さいんじゃあ・・・・」
 「それでいいと思うんだけど。履いてみて」
 履いてみると、丁度いい大きさでした。
 「いざ、出陣よ」
 こんな姿を他人には見られたくないと思いました。とくに紳士服売り場の連中には。だけど、このまま働くか、辞めますと言うしかないのです。辞めるわけにはいかない以上、このまま北村かなえについていくしかないのです。
 「あら? いいじゃない」
 板井主任が早速笑みを送ってきました。
 「ホント。可愛いわ」
 可愛いという表現にはちょっと賛成できませんでした。何しろわたしは今年で28になるのですから。でも、出会う従業員がみんな笑顔をわたしに向けてきました。従業員たちの誰もが、わたしの姿に違和感を覚えないようです。
 「大林君。紳士服も婦人服も、基本的には同じだから、頑張って売り上げを伸ばしてね」
 「・・・・はい」

 こうして、わたしの婦人服売り場での仕事が始まったのでした。