心の奥底に封印していた欲望が頭を持ち上げてきた誘因のひとつは、あの女性に出会ったことでした。あの女性、諸岡瞳を新宿駅西口で見かけたのは、丁度5年前の暮れのことでした。
その日は、わたしの働く職場の忘年会が行われました。アルコールを飲むことがあまり好きではないわたしにとって、忘年会や歓送迎会などの飲み会ほど苦痛なものはありません。けれど、職場の懇親の意味が含まれている以上、嫌でも参加せざるを得ないのです。
その日の忘年会は、新宿にある小さな居酒屋を貸し切って行われました。わたしの職場は午後7時が閉店で、その後にその居酒屋に出かけていきましたから、忘年会が始まったのは、午後7時半をかなり回った頃だったと思います。
わたしはアルコールの方は遠慮して、並べられた料理をただひたすら食べていました。宴会が終わったのは午後9時半過ぎで、それから、その店のすぐそばにあるカラオケへ出かけました。わたしはカラオケは大好きです。どうしてかというと、歌っていないと他人の下手な歌を聴かなければならないからです。一時間ほどそこにいて、トイレに行ったついでにカラオケハウスを出ました。
新宿駅へ向かって歩いている途中で、彼女・諸岡瞳を見かけたのです。
わたしが彼女に目をつけたのは、彼女が決して目だつ格好をしていたわけではありませんでした。彼女は、朱鷺色のワンピースの上にベージュ色のコートを羽織り、プラダのバッグを肩にかけという、ごく普通のOL風の通勤着を着ていました。
ヘアスタイルもこれまたごく普通のセミロングで、それほど目だたない栗毛色に染められているようでした。化粧も濃からず、薄からずと言ったところでしょう。
そんな彼女に、どうしてわたしが注意を奪われたかというと、彼女がわたしの姉そっくりだったからなのです。
彼女を見留めたとき、わたしは一瞬「姉さん」と声をかけそうになりました。だけど、わたしは即座に頭を振りました。
「あのひとは姉さんじゃない。・・・・姉さんはとっくの昔に死んだのだ」
わたしの姉は、わたしよりふたつ上でした。男が振り返って見るほどではなかったけれど、笑顔がすてきな可愛らしいひとでした。高校時代は、先輩たちからラブレターを姉に手渡すようによく頼まれたものです。
その姉が死んだのは、わたしが大学を卒業する直前のことでした。急性骨髄性白血病という病気でした。
大学のサークルで知り合った先輩との結婚が決まって幸せの絶頂にあった姉は、発病わずか1ヶ月で黄泉の世界へと旅立ってしまいました。心残りだったろうけれど、姉は婚約者の腕に抱かれて安らかに息を引き取ったのです。
姉の笑顔は二度と見られないだろうと思っていたのに、その笑顔を再び見ることができたと思いました。わたしは嬉しくて嬉しくて、その笑顔をもう一度見たいと思いました。同僚らしい女性と談笑しながら改札を抜ける諸岡瞳を見つけたとたん、わたしはすぐにその後を追いました。
彼女も、わたしと同じく忘年会帰りだったのでしょう、頬が少し紅潮し足元がわずかにふらついていました。
彼女たちはどうやら西武新宿線へ向かっているようです。わたしの帰路とは反対方向になるのですけれど、わたしは躊躇せずに彼女たちの後を追いました。
わたしは、5メートルから10メートルの距離をおいて尾行を続けました。話に夢中なふたりは、わたしが尾行していることにはまったく気付く様子はありません。もっとも、まだ午後11時前と時間が早いせいで、人が多いこともわたしの尾行を成功させたひとつの要因でもありました。
「こんな時間まで一体に何をしているんだろう?」
尾行を続けながら、わたしはすれ違うセーラー服姿の若い女性を見ながらそう思いました。高校生らしいのですが、ひとりやふたりじゃありません。塾帰りのようにも思えません。そんな女子高生を横目で見ながら、ふとショーウインドウに映った自分の姿を見てギョッとしました。
「血走っている・・・・」
わたしはまるで変質者が獲物を狙うような目をして歩いていたのです。わたしは一度立ち止まり、背筋を伸ばして大きく深呼吸すると、ちょっと笑みを浮かべてみてから再び歩き始めました。
そんなわたしの様子を見ていた若い女性が気持ち悪そうな表情を浮かべましたが、当然のごとく無視しました。
ふたりは定期を通して改札を抜けます。西武新宿線など乗ったことのないわたしは、慌てて切符売り場へ急ぎました。コインを投入しながら、横目でふたりの姿を追います。
「もたもたするなよ」
慌てているせいで、コインを落としてしまったわたしに、酔っぱらいが後ろから怒鳴ります。いつもなら、わざとゆっくりしてやるのですが、今日はそうはしておられません。最後のコインを投入すると、切符をちぎるようにして取りだして改札口に向かいました。
電車に乗り込むふたりの姿が目に入りました。わたしは、駆け込み乗車は危険ですというアナウンスを無視して、ふたりの乗った電車に飛び乗りました。ふたりは、乗車口にもたれるようにして話し込んでいて、やっぱりわたしには気付かなかったようです。
座席は空いていたのですが、わたしはつり革にぶら下がって、電車の外の景色をぼんやり眺めているような振りをしながら、ふたりの様子を窺っていました。
電車の中は、ほとんど酔客で占められていました。もちろん、この年の瀬の夜遅くまで働いて疲れ切って、他人のアルコール臭にイヤな顔を見せながら座席の上でじっと耐えている人もいました。
同僚らしい男性が数人つり革にぶら下がったまま、大きな声を張り上げて上司の悪口を言っているのが聞こえます。若い女性の甲高い笑い声が聞こえます。携帯電話を取りだして、なにやらピッ、ピッ、ピッとやっている若者が何人かいます。メールでも打っているのでしょう。そんな喧噪の中で、鼾を掻いて寝ている男たちもいます。
わたしが尾行している彼女たちふたりの話し声は、そんな喧噪にかき消されてまったく聞こえません。ふたりの表情からすると、そんなに深刻な話をしているようには見えません。きっとお気に入りのタレントやファッションの話しでもしているのでしょう。
「それにしても、ホントによく似ている」
わたしは、諸岡瞳の横顔を横目でちらりと見ました。色白で、睫毛が長く、ぱっちりとした二重の目。鼻の格好も唇の具合もまさに姉そのものです。違うところと言えば、眉が姉に比べてやや細めで、えくぼがないところくらいでしょうか? 姉は、にっこりと微笑むと、右の頬に片えくぼがあったのです。
わたしはさらに観察を続けました。
背丈は、姉よりも高いようです。姉は155センチでした。諸岡瞳は、160は越えているでしょう。ただ、165はなさそうです。
コートを羽織っていますから、体型ははっきりしませんが、ふくらはぎの格好や締まった足首を見ていると、スタイルも結構良さそうです。わたしは、視線を電車の窓の外に移して、彼女の裸体を想像します。
お椀型の形のいい乳房。大きさはCカップ程度。ピンク色の乳首がつんと立っています。ウエストは細く、形のいいピップを細い足が支えます。
情が深いことを表すように、あそこの毛はやや濃いめ。年齢的には処女ではないと思うけれど、そんなに使い込まれてはいなくて、ピンク色の襞。
そんな妄想をかき立ていると彼女たちに動きがありました。
「瞳。お休み。また明日ね」
諸岡瞳の連れがそう言い残して、東伏見駅で電車を降りていったのでした。もちろん、わたしはこの時に彼女のファーストネームが瞳だと言うことを知ったのでした。
「お休み」
そんな返事をして、諸岡瞳は、ホームにいる連れの女性が見えなくなるまでいつまでも手を振っていました。その連れの女性がわたしを見て、妙な顔をしたように思えて、わたしは慌てて顔を背けました。
「尾けているのがばれたかな?」
そう思いましたが、諸岡瞳は電車の外を眺めているばかりなので、少なくとも彼女はわたしの尾行には気付いていないと思いました。
連れが降りてから二つ目の田無駅で、諸岡瞳は電車を降りました。わたしも何気ない振りをして電車を降りました。降りる乗客はそれほど多くはありませんでしたが、彼女はわたしに尾けられているなどとはつゆも思っていないのでしょう、ゆっくりと改札口へと向かいました。
わたしは、改札口で精算すると、彼女の後を追いました。駅前にはバス停があるのですが、彼女はそれをやり過ごしてどんどんと歩いていきます。幸いにして、同じ方向に歩いて行くのはわたしたちだけではないようです。
それでもひとりふたりと人影が消えていきます。わたしは、距離を開けて急がず慌てず歩いていきました。
5分ほど歩いたでしょうか? 彼女は3階建ての建物の前に立って、バッグを開け始めました。わたしは物陰に隠れて彼女の様子を窺いました。
バッグの中から鍵を取りだしてドアを開いて、すぐ右にある階段を上り始めました。3階に上り、最初の部屋のドアを開けて中に入りました。そこが彼女の部屋のようです。
わたしは、あたりの様子を窺ってから、建物の裏側へ歩いていきました。彼女の部屋を見上げてみました。花柄のカーテンの向こうに人影が動くのがわかります。
カーテンの左側にある小さな窓に明かりがともりました。部屋の構造を想像してみて、あれは浴室の明かりだろうと思いました。彼女はシャワーでも浴びるのでしょう。
人通りは少ないのですが、じっとたたずんでビルを見上げているわたしを見とがめる人がいます。わたしは、それ以上そこにとどまることを止めて、帰路に就きました。
アパートに帰って、古いアルバムを引っ張り出してみました。死の直前に撮った写真の姉は、やつれていて彼女とは別人のように思えました。だけど、発病前に撮った姉の写真を取りだして見てみると、溜息が出るほどよく似ています。
「姉さん・・・・」
大好きだった姉さんの思い出が蘇ってきて、涙が思わず零れました。
「もっと彼女のことを知りたい」
その日から、わたしの彼女に対するストーカーのような行為が始まりました。
西武新宿駅で定期券を使ったことから、彼女の職場は新宿にあると判断しました。
「彼女の職業は、どんな職業だろうか?」
想像を巡らせます。銀行員? わたしと同じようにデパートの店員? 商社のOL? どうもぴんとくるものがありません。
広い新宿で、再び偶然会えるとも思いませんでしたが、職員食堂で昼食をとるのを止めて外に食べに出ることにしました。
行き交う女性をひとりひとり見ていると、しばしば睨み返されました。それにもめげずに毎日毎日女性たちの中に諸岡瞳を捜しました。
「やっぱり見つからないな」
それは当然でしょう。わたしは、方法を変えました。朝早くから西武新宿駅で彼女を待ち伏せするのです。これは良いアイデアだと思ったのですが、わたしが職場へ行く時間になっても彼女は姿を現しません。どうやら彼女の勤務開始時間が遅いようです。
三日西武新宿駅に通いましたが、彼女には会えず、朝早くからじっと改札口近くに立っている不振人物と見られたのか、駅員がわたしのことを妙な顔で見るようになったので、この方法は諦めざるを得ませんでした。
そこで次の方法に変えました。彼女の住居はわかっています。彼女が出かけるときに尾けていって、どんな仕事をしているか調べようと決めました。
年が明けて最初の休みの前日、わたしは仕事を終えると、着替えの入ったバッグを抱えて、新宿ワシントンホテルに泊まりました。翌朝早く起きて、始発で彼女のアパートに行くことにしたのです。わたしのアパートからだと、彼女が出かける前に着くことができないかもしれないと思ったのです。彼女の乗り降りする田無駅近くにカプセルホテルでもあれば良かったのですが、それを見つけることができなかったので、こうせざるを得なかったのです。
西武新宿駅で一日中見張るという手もないことはないのですけれど、駅員に顔を覚えられているようだし、彼女が休みだったら目も当てられません。ですから、彼女のアパートに行くことにしたのです。
朝の4時に目覚ましで目を覚まし、早速着替えました。わたしはスーツ姿はあんまり似合わないし、若く見られるので学生風にチノパンにTシャツという出で立ちでホテルを出ました。新宿ワシントンホテルは、自動チェックアウトがあるので、妙な顔をされるおそれがなくて便利です。
前日着ていた服を入れたバッグを新宿駅のコインロッカーに預けて、文庫本を片手に西武新宿線始発に乗って彼女のアパートへ向かいました。始発だった上に、都心へ向かうのとは反対方向ですから、ゆったり座れました。
彼女のアパートの出口が見える場所に陣取って、カロリーメイトを囓りながら、彼女が出てくるのを待ちました。
年末の張り込みで、彼女がアパートから出てくるのは午前8時以降だろうと思っていたのに、意外にもわたしが到着したそのすぐあとに彼女が慌てた様子でアパートを飛び出てきたのです。わたしはすぐに彼女の後を追いました。
早足で歩きながら彼女はしきりに時計を気にしていました。寝坊して遅刻するって言うような様子です。ですから、わたしが尾行していることなど気付く様子はまったくありませんでした。
駅に着いたとき、新宿までの切符を買っておきましたから、彼女のすぐあとに続いて改札を抜け、丁度来た急行に乗りました。
彼女の斜め前の席に座って様子を見ていたのですが、彼女は何度も時計を気にしていました。あんまり見つめていて気付かれるといけないので、わたしは手にしていた文庫本に目を落とし、上目遣いに時々彼女の様子を窺っていました。
わたしの時計で6時10分、西武新宿駅に到着。彼女はあたふたと改札を抜けていきました。わたしも後を追います。
彼女は、センチュリーホテル東京の従業員通路に消えていきました。
「へえ、ここで働いているのか。いったい何をしてるんだろう? フロント係? 客室係? それともレストランのウエイトレス?」
大きなホテルですから、そう簡単にはわかりそうもありません。一日休みですから、ゆっくり調べることにしました。
新宿駅まで戻って、丁度開いた喫茶店に入ってモーニングセットを頼んで、じっと考えました。
フロント係の交代時間はもっと遅いだろう。客室係の出番はさらにもっと後だと思う。ウエイトレスか? あのホテルの朝食開始は何時だろうか? 午前6時半なら、彼女は何とか仕事に間に合ったことになるのですが・・・・。
あのホテルには、以前泊まったことがあります。以前と言っても、ずっとずっと前のわたしがこちらへ就職する前の話しです。たしか、和食は地下にある和食の店で、洋食は2階のレストランだったような気がします。
コーヒーとは名ばかりの苦い茶色の液体を飲み干してから、わたしは彼女の働くホテルの2階にあるレストランへ向かうことにしました。このレストランは、昼間は喫茶室に早変わりするのです。一流ホテルですから、もう少しましなコーヒーが飲めると期待していました。
「ちょっと早すぎるな」
時計は、まだ午前8時を回ったばかりです。こんな時間にホテルにコーヒーを飲みに行く人はいないでしょう。わたしは、24時間営業のサウナに入って2時間ほど時間を潰しました。
ホテルへ向かう途中、変装と言っては何ですが、野球帽とサングラスを買って身につけました。ショーウインドウに映るわたしの姿は、かなり怪しげですけど、これくらいの格好の若者ならごまんといます。
まずはロビーの椅子に腰掛けて、待ち合わせのような顔をして10分ほど過ごしてから二階に行きました。
喫茶室となったレストランには、数人のお客がいて、コーヒーを飲んだり軽食を食べていました。
わたしは、レストランの中が見渡せる隅の方にある席に陣取りました。すぐにウエイトレスがやってきました。
「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりでしょうか?」
そのウエイトレスを見て心臓が止まりそうになりました。彼女だったのです。わたしの予想が当たったのでした。ピンク色のミニ丈の制服を着た彼女は、すごく可愛く見えました。
「コ、コーヒーを」
「コーヒーは、ホットでよろしいでしょうか?」
「は、はい」
わたしは目を伏せたまま答えました。不審に思ったかもしれませんが、そこはウエイトレスが長いのでしょう、気にも留めないと言うような態度で、厨房の方に戻ってわたしの注文を伝えていました。
わたしは、胸に付けられていたネームプレートを思い出します。
「諸岡って書いてあった。すると諸岡瞳って言うことだな。諸岡瞳。諸岡瞳。いい名前だ」
わたしは、彼女の名前を心の中で何度も繰り返しながら、コーヒーがくるのを待っていました。
5分ほどして、彼女がコーヒーを運んできました。
「ごゆっくりどうぞ」
笑顔の彼女に姉を思い出します。でも姉と違うのは、声です。先ほど注文を受けに来たときにも、ちょっと意外に感じたのですが、女としてはかなり声が低いと言うことです。女としては背も高い方ですから、2丁目あたりにいるとニューハーフと間違えられそうな気がします。
「ホントにニューハーフじゃあ?」
ちらりとそんな思いが過ぎりました。だけど、そんなはずはありません。たとえウエイトレスとは言え、こんな高級ホテルがニューハーフを雇うわけがないのです。
「履歴を偽って?」
疑ったら切りがありません。調べていけば、そのうちにはっきりするでしょう。その日は、彼女の名前と職場がわかって嬉しくなってそのまま帰りました。
彼女、諸岡瞳のことをもっと知るために、興信所に調査を依頼しました。
「兄貴が一目惚れして付き合いたいって言うんだけど、どんな人か知りたくて」
そんな風に理由を付けたのです。もちろんそんな理由は信じていないようでしたけれど、きちんと調べてくれました。
「諸岡瞳。27才。10月15日生まれ。戸籍は間違いなく女。宇都宮市内の高校を卒業したあと、東京に出てきて、いくつか職を転々をしたあと、5年前、今のホテルにウエイトレスとしてアルバイトに入り、気に入られてそのまま就職、現在に至る。
19才から23才まで木村徹という男と同棲していたが、木村が上司の娘と結婚したあとは、ひとり暮らしで現在は相手はいない」
要約すればそんなところでした。