横領と背任の罪だって? 俺はいったい何をやったんだ? 『俺』になった弘子にはそれが何かわかっているはずだ。しかし、俺には弘子の記憶しかないから、何をやったのかさっぱりわからない。どんなことをやったのかはともかく、このままでは俺が犯した罪で弘子が罰せられるのは確かだ。
さて、どうしたらいいんだろうか? 後ろめたいのだが、今の俺には罪を犯したという意識がないから、元に戻って刑務所などには入りたくない。罪を犯したという意識があったとしても、刑務所なんかには絶対入りたくない。当然だ。
このまま黙っていたら、弘子が苦しむことになるのだが、いったいどうしたらいいんだろうか?
逆の対場だったらどうだ? 弘子が何かの罪を犯していて、弘子になっている俺が逮捕される。俺になっている弘子は、俺と入れ替わって罪を償ってくれるだろうか?
難しいなあ・・・・。
イヤ待てよ。弘子のヤツ、もう一日待ってくれって言ったな。明日になれば俺たちは元に戻ることが出来る。一日待てと言うことは、俺と入れ替わったあとで、俺を逮捕してくれと言うことなのだろうか? 俺の代わりに罪を償う気持ちなんてこれっぽっちもないのかもしれない。
もしそうだとすれば、愛していると言いながら、なんて冷たいヤツなんだろう。・・・・しかし、逆の立場だったら、俺も罪を逃れるために元に戻ることを選択するな。当然と言えば当然か・・・・。
どうしようか? やっぱり、刑務所には行きたくないな。このまま弘子に俺の代わりをやって貰おうか。
待てよ。そうなると、俺は弘子のままでいなければならないと言うことになるな。罪は免れたいけど、女のまま一生を暮らしていかなければならないのか。そんなのはイヤだな。
難題だぞ、これは・・・・。
考えても考えても結論は出ない。そのうち、あることに気がついた。元に戻るとして明日から8日間の余裕がある。その間に結論を出せばいいのだ。
俺は、考えるのを止めて入浴してベッドに入った。
6時半に目が覚めた。習性とは恐ろしい。もちろん、弘子の身体に刻み込まれた主婦としての習性だ。
夫が逮捕されたというのに、ゆっくり寝ていてよかったのかな?
そう言うことで、手早く朝食を済ませると、俺は警察署に赴いた。昨日の刑事が応対に出てきた。
「わたし、昨日は動転してしまって、事情も聞けなかったんですけど、主人はいったい何をやったんでしょうか?」
刑事は、腕組みをして目を瞑ったまましばらく考えたあと、しゃべり始めた。
「一昨年の初め頃から、お客さんの旅行費用を水増しして請求し、その差額を着服していたようですね」
「どれほどの金額でしょうか?」
「2000万ちょっとです」
「2000万以上ですか? 水増しって、そんなに多額は出来ないと思いますけど?」
これは弘子の経験から来るものだ。
「塵も積もればというヤツで。それに団体客を主にターゲットにしていたようですね」
「そうなんですか・・・・」
「昨年の秋頃から会社の方はおかしい頃に気がついて内偵を進めていたようです。年末になって、お宅の御主人の仕業であることが明確となり、今年に入って警察に告訴状が寄せられましてね。容疑が固まったところで逮捕という次第になったわけで」
「主人はそのことに気がついていたんでしょうか?」
「そこのところは、現在追求中です」
「刑は重いんでしょうか?」
「軽くはないですね。横領と言うだけではなく、会社の名誉を著しく損なっていますからね」
「会社は馘首ですか?」
「そうなるでしょうね」
俺はひとつ溜息をついた。
「ところで奥さん? ご主人が横領に関しての話はまったくしないで、おかしなことを言ってるんですが」
おかしなことの予想は付く。けれど、俺は惚けて尋ねた。
「おかしなことですか?」
「ご主人と奥さんの人格が入れ替わっているって言うんです」
予想された返事が戻ってきた。
「ご主人は、奥さんであり、自分がやったことではないと言い張っているんです」
「まあ」
俺は呆れてみせる。
「わたしも今までいろいろな言い逃れを聞いてきましたが、これにはまったく呆れてしまいましたよ」
「そうですよね。あの人、気でも違ったのかしら?」
「イヤ、気が触れたようには見えません」
「じゃあ、入れ替わりという話を信じるのですか?」
「そうじゃありません。何か意図があってそんな馬鹿なことを言っているのだと思っているのです」
「何か意図があるとおっしゃいますと?」
「それはまだわかりません。そこでですね。奥さんにお願いがあるのですが」
「何でしょうか?」
「奥さんの方から、くだらない冗談は止めて正直に話すように説得していただけませんか?」
下らない冗談じゃないんだけどと思いながら俺は答えた。
「あ、そうですね。やってみましょう」
「助かります。よろしくお願いします」
そう言うわけで、俺は『俺』に話をすることになった。
取調室で俺と『俺』になった弘子が向かい合う。刑事がそばにいるから迂闊な話は出来ない。
「あなた! わたしの身体を返してよ!」
『俺』の第一声がこれだった。
「あなた! 人格が入れ替わったなんて話、誰が信じるって言うんですか? きちんと話さないと罪は重くなるばかりだし、精神病院に入れられるわよ!」
「わたしとあなたが入れ替わったのは、ホントの話じゃないのよ!」
「そんなこと言ってたら、時間がたつばかりよ。正直に話した方が、早く片が付くんじゃないの? あなたに残された時間は少ないのよ」
人格の入れ替わりなど誰も信用しない。そんなことを信用させるよりも、取り調べを早く終わらせて、保釈などして貰って、幸せ研究所で元に戻して貰った方がいいのだ。
刑事がそばにいるから、はっきりとそのことを言えず、少し婉曲的に言ったのだが、『俺』はそれがわかった様だ。俺の言った『残された時間は少ないのよ』と言う言葉を刑事がどう受け取ったかは不明だが、あまり気にしていない様だ。
「・・・・そうだな。そうしないといけないんだな」
「そうして。それが早道だわ。わたし、マンションで待っていますから」
取調室を出た。刑事が満面の笑顔を俺に向けた。
「さすが奥さん。ほんの二言三言で説得されるとは恐れ入りました」
「いえ。・・・・ところで、保釈というのは可能なのでしょうか?」
『俺』が保釈になれば、元に戻すことが可能になるわけだが、実際そうするか否かは決めていなかった。ただ、筋道だけは立てておきたかったのだ。
「裁判官が決めることですからはっきりとは申し上げられませんが」
「もし、保釈になるときには保釈金がいるんでしたね?」
「いりますね」
「いかほどでしょうか?」
「逃亡の恐れがなければ、ま、そうですね、50万とか100万とかの場合もありますが、逃亡されては困ると判断されれば、被害額相当と言うこともありますね」
「被害額と言いますと、2000万と言うことでしょうか?」
「そう言うことになりますね」
2000万などと言うお金の調達はちょっと無理だろう。俺たちには貯金はそれほどない。弘子の両親は、俺たちの結婚に反対していたから、犯罪を犯した俺の保釈金など出してくれるはずがない。俺の両親は、田舎の百姓で、田畑を売っても2000万を調達することは無理だろう。
お金を払って保釈して貰うかどうかは別として、ともかく帰ってどれほどの蓄えがあるか確認しておこう。
マンションのある場所に隠してある箱を取り出す。預金通帳や生命保険証書などが入っている。
調べてみると、普通預金が20万足らずと50万と30万の定期預金だけだ。
100万しかないのか・・・・。生命保険を解約したら少しは戻ってくるかもしれないが・・・・。
横領と背任罪で告訴されたわけだから、刑事が言うように会社は当然馘首だろう。となると、収入源がないと言うことになるから、貯金をゼロにするわけにはいかない。
元に戻る戻らないは別として、この弘子の今後の生活が脅かされるのは避けなければならない。
『俺』になった弘子は弘子に戻ったら、こんな俺とは離婚すると言い出すかもしれない。その可能性があるのに、俺は『俺』の保釈の算段をしている。しかも、弘子の今後のことまで考えている。自分でもおかしいと思う。妙な心理状態だ。
「おや?」
箱の底に収められていた封筒を見つけた。
「何だろう?」
中に入れられていた書類を取り出して俺はビックリした。それは離婚届だった。しかも、『俺』の名前が書かれ、印鑑が押されていた。筆跡は『俺』のものだ。
俺の中にある弘子の記憶では、この箱の中には、少なくとも12月の末まではこんなものは入っていなかった。この離婚届は、今年に入って書かれたものだ。
俺には『俺』の記憶がないから、『俺』自身が書いたものかもしれないけれど、離婚届も封筒も真新しかった。それに、この箱は弘子専用だ。俺が書いたとしてもこの箱にこんな書類を収めておく理由がない。
こんな事態にならなければ、俺がこの箱を開けることはなかった。つまり、弘子が、この離婚届の存在を知られないために、この箱の中に隠したとしか考えられない。
この離婚届は、『俺』になった弘子が書いたものだ!
これではっきりとわかった。弘子は、元に戻ったら、やはり『俺』と離婚するつもりなのだ。
俺の中にある記憶によれば、弘子は俺との離婚など考えてはいなかった。何とか関係を修復しようと思い、大久保老人の話に乗ったのだ。
しかし、『俺』になってみて、『俺』のすべてを知り、もう一緒に生活出来ないと判断したのだろう。元に戻ったら、弘子のサインをいれて提出するつもりだったのだ。
それにしても俺に内緒でこんなものを書いておくなんて!
腹が立った。俺は、『俺』の罪を弘子に押しつけないで、『俺』に戻って罪を償ってやろうかなとも考えていた。しかし、その離婚届を見た瞬間、そんな思いやりの様な考えは消えてしまっていた。
『俺』の犯した罪を弘子に押しつけて、罪から逃れるために俺は弘子のままでいなければならない。弘子のままでいると言うことは、女のままでいると言うことだ。
かなりの違和感は拭いきれない。けれど、刑務所に入ることに比べれば、何てことはない。
ピンポーン。
突然のチャイムに俺は飛び上がって驚いた。
「どなた?」
「弘子、わたしよ」
「あら? お母さん」
弘子の母親だった。ドアを開くと、弘子の父親の顔まで見える。
「どうしたの?」
「どうしたはないでしょう? あいつ、逮捕されたんだってね」
『あいつ』とは、『俺』のことだ。弘子の両親は、そばに『俺』がいないときは『あいつ』と呼ぶ。俺たちの結婚の経緯を快く思っていないからだ。
「ええ。昨日の夕方、警察の人が来て」
「いつかはこうなるって思っていたのよ」
部屋に上がりながら、憎々しげに言った。
「弘子、この際だから、あんなヤツとは離婚してしまいなさい」
弘子の母親はまくし立てた。
「あら?」
テーブルの上に出しておいた離婚届に気がついて、手に取って見つめる。
「あいつの名前が書いてあるじゃない」
「うん」
「どう言うこと? 弘子に迷惑を掛けないように書いておいたの?」
「そうみたい」
このシチュエーションではそう答えるしかないだろう。
「へえ。あいつにしては洒落たことをするじゃない。ねえ、お父さん?」
弘子の母親が父親に笑顔を向けた。
「最後のけじめだけは付けたって訳だな。まあ、それくらいはしてもらわないとな」
離婚届を受け取って確認しながら、いつもは見せたことのない笑みを浮かべた。
「そう言うことなら、早速役場に出しましょう。わたしは部屋の片づけを始めておきますわ」
俺は離婚届の妻の欄に弘子の名前を埋めた。俺が書いてもきちんと弘子のちょっと癖のある右上がりの文字になる。
弘子の父親に付き添われて離婚届を提出した。
「お父さん、先にマンションに帰っていて。わたし、あの人に離婚届を出したことを報告しておくから」
「わざわざ報告などしなくてもいいだろう?」
「わたしがちゃんと出したかどうか気になるだろうから」
「・・・・そうだな。じゃあ、行ってきなさい」
弘子の父親と別れて警察署へと向かった。離婚届を提出したと知ったら、どんな顔をするだろうかと、俺は心の中で『俺』の顔を思い浮かべていた。
「どうしてだよ!」
俺が離婚届を出したと報告すると、『俺』はすごい剣幕で俺につかみかかってみた。そばにいた刑事が『俺』を引き離す。
「あら? あなた、離婚届に名前を書いていたでしょう? わたしへの思いやりだと思って」
「そんなつもりじゃ・・・・」
「どんなつもりだったの?」
『俺』は言葉に詰まっている。それはそうだろう。俺を見捨てるつもりだったなどと言えるはずがない。
「このまま元に戻らないつもりなの!」
女言葉で『俺』が叫んだ。
「戻るも戻らないも、そんな現実にあり得ないことを言うのはもう止めたら?」
俺の返事は、元に戻るつもりはないと言うことを宣言したものだ。そのことを理解して『俺』は泣きわめき始めた。
「ひどい! ひどいわ! わたしの身体を返してよ!!」
刑事が『俺』を押さえつける。俺はお願いいたしますと頭を下げて警察署を出た。
さよなら、弘子。達者でな。