「年末から『幸せ研究所』に行ったときまでの記憶なら、わたしの中にあるわよ」
『俺』が俺に向かっていった。男の姿をした『俺』が女言葉を使うのはちょっと気持ちが悪い。止めてくれって言う感じだ。けれど、俺は黙って『俺』の話に耳を傾けた。
「今年の年末年始は、マンションにいたわ。だって、実家に帰ると教え合わなきゃならない記憶が増えるでしょう?」
俺は頷いた。
「あなたは不審そうな顔をしていたけれど、実家に帰るのもめんどくさいなと言って賛成してくれたわ。覚えていないの?」
「ぜんぜん思い出せない」
「そう。何事もなく年末年始が過ぎて、あなたは1月6日の仕事始めに出かけていったわ。わたしが大事な話があるから早く帰ってきてと言うと、あなたは不満そうにしていたけど、きちんと6時に帰ってきたわ」
「珍しいこともあるんだね」
「そう。何だか感じるものがあったんでしょうね。あなたが帰ってきたところで、大隈老人から聞かされた『幸せ研究所』の話を持ち出したの。あなたはそんな機械があるものかって笑っていたけれど、一緒に行ってくれなかったら離婚するって言って、離婚届を突きつけたの」
「突然妙な話をされて離婚届を突き付けられたら、ビックリしていただろうな?」
「少しはね。でも、ちょっと考えてから、きみがそこまで言うのならってやるよって答えたの」
「へえ。ちょっと信じられないな」
「でも、それが真実よ」
「当日に話をすると言う目論見が成功だったわけかな? それから?」
「ホントに覚えていないの?」
「俺が覚えているのは、年末までと、1月8日からだ。その間の記憶はまったくない」
『俺』になった弘子が女言葉を使うから、俺は自然に男言葉を使った。他のものが聞いたら、きっと俺たちふたりの気が狂ったと思うだろう。
「仕方ないわね。じゃあ、話すわ」
わたしたちふたりは、財布の中に仕舞い込んでいた地図を頼りに『幸せ研究所』を訪れた。応対に出てきた大隈老人は、その日はぴしっとした白衣を着ていて、まるで別人のように見えた。
わたしたちを前にして、大隈老人はもう一度あの時と同じ説明をした。
「よろしいですね?」
わたしは即答し、主人は渋々と言った表情ではいと答えた。
「それでは、人格交換室に案内しましょう」
わたしは立ち上がって大隈老人に従った。主人はちょっとふてくされた様子で、ポケットに手を突っ込んでわたしたちのあとをついてきた。
わたしと人格交換するということは、女になると言うことだ。わたしの話に承諾したあと、主人は女になるなんて嫌だなともらしていた。照れがあってそんな態度をとったのだろうとわたしは思っていた。
「ここです。どうぞ」
大隈老人がドアを開いた。部屋の右隅に大きな機械が据えられていて、その機械の前に椅子の様なものがふたつあった。
大隈老人は、その反対側にある机の上にある操作盤のスイッチを入れた。
「どちらでもいい。ふたりとも椅子に座ってくれ」
促されるまま、わたしは奥の椅子に、主人は手前の椅子に座った。大隈老人は、操作盤の前に座って、何やらスイッチを入れていた。すると、上からコードがたくさんついた帽子の様なものが下がってきて、わたしと主人の頭を覆った。
「リラックスして。人格交換には数分かかるけど、自覚的には一瞬だからね」
ぶーんと言う音が部屋の中に響き渡り、わたしは気を失った。いや、気を失ったと思ったのは気のせいで、一瞬目の前が暗くなったかと思ったら、すぐに目の前が明るくなった。
「あら?」
大隈老人を見ていた視角が変わった様な気がした。微妙に角度が違うのだ。
「ホントに入れ替わったよ」
甲高いわたしの声が部屋の中に響き渡った。わたしは声のした方を見た。そこにはわたしがいた。わたしが、何だか嬉しそうな顔をして身体を撫で回すようにして自分の姿を見ていた。
わたしもわたしの身体を見た。ジーンズにセーター、ブルゾン姿だった。真っ平らな胸は堅い筋肉で覆われていた。股間を触ってみようと思ったけれど、大隈老人が見ていたので止めた。
「弘子! 胸って重いんだな」
わたしになった主人が胸を両手で持ち上げるようにしてわたしに言った。
「あなた! そんなはしたないことを・・・・」
「おう! そうだったな」
女になんかなりたくないと言っていた割には、主人はけっこう喜んでいる様だった。
「くれぐれも、72時間の間はセックスをしたり、アルコールを過剰に摂取しないように気を付けてください。よろしいですね?」
「わかっておりますよ」
乱暴な言葉で主人が答えた。
「それでは、1週間から2週間の間に研究所においで下さい。来られなければ、二度と元には戻れなくなりますので」
「はい。わかっています」
わたしと主人は、一緒に研究室を出た。
「急に女になったから、苦労するかと思ったけど、どうもないんだな」
「大隈さんの説明を聞いていなかったの? 人格が入れ替わっただけで、他の部分はわたしそのものなんだからって」
「便利だな」
何もわかっていない。これでわたしの苦労を理解出来るのだろうか? 不安になった。
「言葉遣いだけは気を付けて。言葉遣いだけは、自分でコントロールしなければならないみたいだから」
「わかったわ。あなたも気を付けてね」
わたしになった主人がわたしに向かってウインクした。
「お腹減ったわね。これから夕ご飯作るのも大変だから、食べて帰りましょうか?」
主人が甘えた声でわたしに言った。
「だめだめ。俺の苦労を知って貰わなければならないんだから、帰って作るんだ。いいな?」
主人はふてくされていたけれど、わたしが頑として聞き入れなかったから、仕方ないなという顔をしてマンションに戻った。
主人は、いつもの手早さで鶏の唐揚げと味噌豚を作ってテーブルの上に並べた。
「手が勝手に作る。便利だね」
「俺の過去の経験が生かされているんだよ」
わたしがそう言ったけれど、主人はニコニコしながら箸を取った。明日から、わたしの苦労、苦しさを味合わせてやるわ。そう思いながらわたしも箸を取った。
「そういったところね」
『俺』になった弘子がお茶を一口飲んだ。
「1月6日まではわかった。1月7日の記憶もないんだけどな」
「翌日ね。教えてあげるわ」
翌1月7日、目覚ましが鳴ったのに主人は起きない。イヤ、起きてはいるようだが、そのままもう一度眠るつもりのようだ。
「おい! 起きる時間だぞ!!」
「まだ早いじゃないか。おまえの起きる時間だろう? 早く起きて飯を作れ」
「飯を作るのはおまえだろう? 忘れたのか!!」
主人を睨み付けて怒鳴ると、主人はハッと気がついたように胸を触った。
「・・・・そうか。おまえになっていたんだ」
「そうだよ。早く起きろよ」
「仕方ないな」
主人はノロノロと起きあがる。
「女言葉!」
「わかってますよ」
ブスッとして着替えてキッチンへと向かった。7時前になって、主人はわたしを起こしに来た。わたしは顔を洗ってからテーブルに着いた。
「ハイ、お茶。それに新聞」
「うん」
それだけ答えて、わたしはお茶を飲みながら新聞を読んだ。
これはいいわ。最高の気分だわ。ずっとこうしていたいな。
そんなふうに思いながら、主人がテーブルに朝食を並べ終わると、箸を取って舌鼓を打った。
結婚する前は主人と同じ仕事をしていた。しかも主人の記憶もある。だから主人の仕事なんて簡単なものだ。それに正月明けと言うこともあって、仕事もそれほど多くなかった。
夕方、仕事を終えると、会社の同僚たちと新年会と称して飲みに出かけた。もちろん、家には連絡しない。連絡しないことで、いつもわたしがどれほど悲しい思いをしているか思い知らせてやるのだ。
アルコールの過量摂取は危ないと聞かされていたので、ほどほどにして午後11時前帰宅した。帰宅すると、わたしになった主人は頬をぷうと膨らませてわたしを睨み付けた。
「遅くなるなら遅くなるって連絡くらいしろよな」
「女のくせになんて言う言葉遣いだ! それにいちいち遅くなるって連絡出来るかよ! それくらいわかってるだろう?」
主人は、悔しそうにしながらもわたしにお茶漬けを作ってくれた。
さあ、一週間の間、わたしの苦労を思い知らせてあげるからね!
話が終わった。『俺』になった弘子がもう一度お茶を啜った。
「なるほど。だから、8日も何の連絡もなしに遅く帰ってきたわけだ」
「そう言うことよ。で、どうなの? 少しは反省したの?」
「ああ、おまえのつらさはわかった。けれど、どうして月末から7日までの記憶がないんだろう? おまえは?」
「ちゃんとあるわよ。あなただけどうしてなんでしょうね?」
俺にはさっぱりわからない。
「俺を襲ったりはしていないよな?」
「当たり前でしょう? そんなことしちゃいけないって言われてるんだから」
「俺が酒を飲んでいたなんてことは?」
「飲んでいなかったと思うわ。空き瓶も空き缶もなかったでしょう?」
その通りだ。俺が弘子の仕打ちに頭に来て飲んだなんてことはあり得るが、その痕跡がまったくないのだ。
「もう元に戻ろうか?」
「だめよ。少なくとも13日までは元には戻れないわよ」
「そうか。1週間から2週間の間だったな」
「我慢しなさい。我慢して、わたしのつらさを思い知るがいいわ」
弘子の顔が鬼に見えた。その顔は俺の顔なんだが・・・・。