壮一は、月曜日から木曜日までは東京にいて、昼は会社で仕事、夜は三木のマンションで三木に抱かれて過ごしていた。木曜日の仕事が早めに終われば、壮一は三木のマンションに直行し、時間ぎりぎりまで三木と過ごすのだ。
今日もほんの少しまで三木に抱かれていた。三木の放った白濁した液体が、まだ壮一の体内に残っていた。
そんな余韻が残っていたから、壮一のハンドルさばきは危うかった。
「わおうっ!」
危うく道路外に飛び出しそうになり、壮一は慌ててブレーキを踏んでハンドルを切った。
(危ない、危ない。こんなところで死ぬわけにはいかないぞ。計画を完成しなくちゃ)
気を引き締め、タイヤを軋ませながら、壮一は別荘へ向かう道をのぼっていった。
別荘の灯が見えてきた。暗い道を車の灯だけで走っていたから、砂漠の中でオアシスを見つけたときのようなホッとした安堵感が壮一の胸に広がった。
ザザザザザッと砂利を蹴立てて車を駐車場に停止させた。玄関に灯がともる。絵理子がスイッチを入れたのだ。壮一は、バッグを抱えて玄関へ向かった。
絵理子が玄関から飛び出てきて、壮一に抱きつきキスをした。
「おい、おい」
「寂しかったわ」
「わかった、わかった。中に入ろう」
「誰も見てないわよ」
「その顔を早く何とかしないとな」
そう言うと絵理子は、ハッと顔を隠して壮一を置いて別荘の中に駆け込んでいった。壮一は鞄を持って後を追った。
靴を脱いでいると、能面を付けた絵理子が戻ってきた。薄暗い中の青白く光るその能面に壮一は思わず息をのんだ。同じ状況で他の人間ならば、きっと悲鳴を上げていただろう。
「どうかしたの?」
「その能面の方が不気味だな」
「じゃあ、どうしたらいいの? 夜叉にする? それとも、おてもやんにでもする?」
「いっそ何もつけない方がいいんじゃないか?」
「いやよ。こんな顔、見せたくないもの」
「そうか・・・・。まあ、仕方ないな」
「お食事は?」
「まだだよ」
「じゃあ、すぐに用意するわ」
絵理子はキッチンへと向かって歩いていった。音もなく。まるで幽霊のようだと壮一は思った。
壮一も足音を立てないようにしてリビングへと入っていった。以前はドンドンと足音を立てていたのだが、絵理子が足音を立てないので壮一もそれが癖になっていた。
リビングのソファーの上に鞄を置いてダイニングに行くと、絵理子がテーブルの上に皿を置いていた。
「ビーフシチューか?」
絵理子は頷く。絵理子はこういったシチューとかスープのたぐいを作るのが好きだ。食卓に並ぶ食べ物の半分は、シチューかスープと言ってよい。壮一も好きだから文句を言ったことがない。
壮一はスプーンを取ってひとくち口に運んだ。
「美味い。絵理子、おまえも一緒にどうだ?」
絵理子はいつものように首を振った。拒絶するのはわかっていた。食べるためには能面を外さなければならないからだ。薄暗ければあるいはと思うが、この明るい灯の下ではまず無理だ。
「ボク以外に誰もいないんだ。だから、いいじゃないか」
「例えあなたでも、絶対イヤよ。こんな醜い顔を見せられるわけがないでしょう?」
「醜いなんてことはない。絵理子の思いこみすぎだよ」
「あなたには女の気持ちがわからないわ。こんな顔を人前にさらすなんてこと、死んでもできないわ」
「さっきは面をしないでボクに抱きついてきたじゃないか?」
「つい忘れていただけよ」
「忘れられるんだったら、ボクの前くらいは素顔でいろよ」
「いやよ! 絶対イヤ!!」
絵理子は両手を能面にあて大声で泣き始めた。
「すまなかった。泣かせるつもりじゃなかったんだ。ただ、・・・・ただ、おまえと一緒に食事したかった。それだけだ」
「あなたには何でもないことでも、わたしには死ぬほどの苦痛なのよ」
そう言い残すと、絵理子は階段を駆け上っていった。壮一は絵理子の後を追った。絵理子は、来客用のベッドルームへ入りガチャリと鍵を掛けた。
「絵理子! 絵理子! 開けろよ」
「イヤだ!! 入ってこないで!」
絵理子の泣き声が別荘中に響いた。これでしばらくは部屋で泣いているだろうから、安心して作業を進められると壮一はニヤリと笑った。壮一は、自分から絵理子を遠ざけるためにわざと顔のことを口にしたのだ。
ビーフシチューを平らげたあと、壮一は絵理子の様子をもう一度窺ってから奥の部屋へ行った。続きの作業を始めるためだ。
(あの様子では絵理子はここへは来ないと思うが・・・・)
それでも用心のためにドアに鍵をかけた。コンピューターに向かって歩いているとき、床が滑って危うく転びそうになった。
(おっと、危ない、危ない)
机の下から石膏の固まりを取り出してテーブルの上に置いた。指で触ってみると、石膏の中でシリコンの樹脂が固まっていた。そのシリコン樹脂を注意深く取り出す。仕上がりを見て、壮一はフフと笑いを浮かべた。
その石膏の固まりを作ったのは、日曜日の夜だ。あの日、絵理子が夕食をしている間に作ったものだ。
鼻に息抜きの管を挿入し、用意した石膏を顔全体に塗り広げて、椅子の上に天井を向いて座り、石膏が固まるのを待っていた。
石膏が固まると、注意深く取り外しテーブルの上に置いて、その石膏固まりを雌型にして雄型を作った。雄型の材料はシリコン樹脂だ。
足元の袋から材料をいくつか取り出して容器の中でよく混合してエーテルを加え、できた樹脂を石膏の型の中に流し込む。それを絵理子に見つからないように机の下のさらにわかりにくい場所に隠してあったのだ。
そのライブマスクを噴霧器のセットされたテーブルの上へ固定し、コンピューターを立ち上げる。
(うまくいけよ)
壮一はリターンキーを叩いた。緑色の光が光った。
耳を澄ませてみると、キッチンから水の流れる音がするのが聞こえてきた。絵理子が洗い物をしているようだ。
(もう泣きやんでしまったか。もう少し泣いていると思ったのに。予定外だな。すると、この部屋にやってくる可能性が高いな)
壮一はもう一台のコンピューターを立ち上げ、作業中のような振りを装うことにした。しばらくしてドアがノックされた。鍵を開けてやると絵理子が盆を持って入ってきた。盆の上にはティーカップが載っていた。
「ごめんね。さっきは取り乱しちゃって」
ティーカップをテーブルの上に置きながら絵理子が言った。
「イヤ、ボクの方こそすまなかった。おまえの気持ちも考えないで」
「もう、いいの」
「もうすぐ、そんなことを気にしなくてもよくなるからね」
「ホントにできるの?」
「ああ。元のおまえに戻してあげるよ」
絵理子を見上げると、能面の下から涙がこぼれてきた。今度はうれし涙のようだ。
「いつ? いつですか?」
「そうだな。明日の朝、テストしてみよう。うまくいけば、今度ここにいる間には何とかなるだろう」
「嬉しいわ」
ホントはテストどころかできあがりつつあるのだが、今のところは絵理子には内緒だった。
「先に寝てもいいぞ」
「今日は早く寝たらいいのに」
絵理子が今日も誘っていた。しかし、三木との余韻が完全に消えていない壮一は、絵理子にそのことがばれるのを恐れた。
「もうすぐできるんだ。だからもう少し頑張ってみるよ。だから、先に寝てくれ」
「・・・・そう」
かなり不満そうだったが、早く元の顔に戻りたいという思いもあって、絵理子は二階へと上がっていった。
絵理子が部屋に来る前に噴霧を終わったライブマスクの表面には肌色の薄い膜が形成されていた。
壮一が作ろうとしているものは、本物と変わらない色、質感、手触りの人工皮膚だ。人工皮膚の製作に取り掛かったのは、当初は絵理子のためだった。
絵理子がその顔を夫である壮一にも見せられず、人里離れた別荘に住んでいるのは、その顔にひどいケロイドがあるからだ。
1年とちょっと前、その事件が起こった。
大学の研究室にいた壮一だったが、父親が心臓発作で死亡したために、急遽父親の経営していた会社の専務として働かなければならなくなった。父親の死で一度は傾きかけたが、叔父の協力もあって何とか持ち直していた。
会社の建て直しがうまくいくと、それまで大学の研究室でやっていた仕事をこの別荘で半ば趣味のようなことで再開した。
部屋の中には、酸やアルカリ、有機溶媒などが所狭しと並んでいた。部屋にお茶を持ってきた絵理子が、濡れた床に足を滑らせて、テーブルの上に置いてあったアルカリの溶液を顔に浴びたのだ。
すぐに洗い流したのだが、顔の3分の2以上が焼けただれてしまった。皮膚の移植を何度かやって、ひどい引きつれはかなりよくはなったのだが、例え化粧をしたとしても人前に出られる状態には戻らなかった。
壮一は、これ以上の治療は無駄と判断して、それまで培ってきた研究成果を利用してケロイドを覆い隠す方法を試みることにしたのだ。
裏面をケロイド状態の絵理子の顔にピッタリ合うように、表面は絵理子の元の顔になるように人工皮膚を作成しようと言うわけだ。
初めは絵理子のためにやっていた。しかし、途中から目的が変わった。壮一自身のために人工皮膚を作ろうとしていた。そのことを隠すために、絵理子のものも作っていた。
壮一が作成した人工皮膚は、裏側が壮一のものだ。それをシリコンの雄型からゆっくりと剥がしていった。
目、鼻、口の部分に穴を開けて、壮一は自分の顔に当てて鏡を覗いてみた。
(うん、いいようだ。さて、もうひとつ作っておかなければ)
壮一は、持ってきた鞄の中からふたつの固まりを取りだして、噴霧器のテーブルにセットした。モニターに別の画面を呼び出してリターンキーを叩くと噴霧が始まった。ふたつの固まりが肌色に染められていった。
「あなた、あなた」
絵理子に肩を揺り動かされて目が覚めた。
「あ、ああ。いつの間にか眠ってしまった・・・・」
「大丈夫? あんまり無理しない方が」
「おまえのためだ。少しくらいは」
壮一は、できあがったふたつのアイテムを使って遊んでいたのだが、そのことは勿論絵理子には内緒だ。
「でも、あなたが体を壊してしたら何にもならないでしょう?」
「そうだな」
「できましたの?」
「できたよ。今から実験しようと思ったら気が抜けてしまって眠ってしまったんだ」
こんな嘘を言うのは、すべて計画のためだ。
「すぐにできるの?」
「できるけど、腹が減ったな」
壮一は、腹を押さえた。
「すぐに準備するわ。待ってる間、眠気覚ましにコーヒーを飲んでいて」」
「わかった」
壮一は立ち上がりながら舌を出した。
ダイニングに行くと、コーヒーのいい香りが漂っていた。壮一はカップに注がれたコーヒーに口を付けた。
「うん、うまい」
バターが塗られた厚めのトーストが載った皿を映理子が差し出すと、壮一はこれもうまそうに囓った。生野菜の方がビタミンが多いんだけどと映理子は思いながら温野菜の入った皿をテーブルの上に置いた。
「おっ! 今日はサラダじゃないんだな」
「生野菜をお食べにならないから」
「最近はちゃんと食べているだろう?」
「でも、その方がいいでしょう?」
壮一は肩を竦め、温野菜を口に運んだ。
「さて、そろそろ取り掛かるか」
壮一は腰を上げて奥の部屋へと向かった。絵理子もついてくる。壮一はコンピューターのモニターには向かわず、入って左側の壁際に置いてある棚の扉を開いた。
上から二番目の棚の上に能面が置いてある。この能面はふつうの能面とはちょっと違う。どこが違うのかと言えば、この能面には目がない。目を瞑っているのだ。
壮一はその能面を取り出してジッと見つめ、それからよしと一声を発してからコンピューターデスクの左側へと歩を進めた。
「それを何にするの?」
「見ていればわかるよ」
壮一は50センチ角ほどの平らな台の上に能面を置き、位置を調整して動かないようにセットした。
「さて・・・・」
3種類の液体が入った噴霧器を点検する。
「なに? これ?」
「これが人工皮膚の材料さ」
「へえ、これが?」
「そう。見てろよ」
壮一はモニターの前に座った。モニターには、あの事件以前に撮った絵理子の写真から作り出された3Dの顔が大きく映し出されていた。髪の毛、眉、睫のない、目を瞑っているちょっと違和感を覚える絵理子の画像だ。壮一は画面を切り替えてマウスを操作した。
ウイインと音がし始めて、左隣に置かれた能面の上を緑色の細い光がゆっくりと動いていく。それにつれて、モニター上に能面が立体的に表示されていった。
20分後、スキャンが終わった。モニターに映し出された能面の画像をチェックする。
「よし。問題ない」
絵理子の顔の画像を呼び出して、能面の画像と重ね合わせる。
「目の位置を合わせればいいだろうな」
「能面とわたしの目の大きさが少し違うけどいいの?」
「これくらいの違いは大丈夫だ。テストだからね」
「はあ、そうなの」
「これでよしと・・・・」
壮一は、もう一度すべてを点検する。間違いないことを確かめてから、リターンキーを叩いた。
ホントはテストなどしなくてもいいのだが、一応の手順を踏んでおくことにしていた。絵理子に疑われないためだ。
固定された能面の上に肌色の液体が噴霧され始めた。ゆっくりと左右に動き次第に上から下へと移動していく。能面の上に肌色の薄い膜が形成されていった。絵理子は興味津々でその様子を見つめていた。
壮一は時計を見た。
「この分では2時間は掛かるな」
「そんなに?」
「綺麗に仕上げるためだ」
そう答えると絵理子はハアと溜息をついた。早くできるのが待ち遠しいのだ。
機械が止まったのは、リターンキーを叩いてから2時間を15分ほど回った頃だった。能面はもはや能面ではなく、絵理子の顔になっていた。
壮一は、真正面から見たり、横から見たりして仕上がりを確かめた。
「いいぞ、いいぞ」
「すごい。すごいわ」
絵理子も喜んで能面を見つめていた。
「固まるまでじっくり待つとしよう」
「まだ待つの?」
「もう少しな」
「じゃあ、あなた、お茶にしましょう」
「そうだな」
足早にキッチンへ向かう絵理子のあとを壮一はついていった。細いウエストからヒップの線を見ながら、あんな曲線が自分にも欲しいと壮一は思った。
「あら? もうこんな時間。お茶と言うより、お昼の時間だわ」
壮一も時計を見た。正午を回っていた。
「完成までどれくらいかかるの?」
「二時間くらいかな?」
「じゃあ、その間にお昼を作るから、待ってて」
「そうだな」
絵理子はキッチンへと回り、何やらごそごそやっている。一時間ほどしてトレーに皿とカップを載せて壮一の元に戻ってきた。
「ほう。リゾットか」
「うまくできたかしら?」
「おまえが作ってくれるものなら、何でもいい」
壮一はスプーンでひとくちすくって食べた。
「・・・・ちょっと濃いな」
「やっぱり・・・・」
「ま、いい」
壮一はあっという間にリゾットを平らげ、カップに入ったスープを飲み干した。
「あなた、お茶を」
「あ、うん。そうだな」
立ち上がりかけて壮一は椅子に座り直した。絵理子の入れたお茶はちょっとにがかった。
「さあ、そろそろいいだろうな」
壮一は時計を見て言った。
「ちょっと待って。汚れ物を水につけておくから」
絵理子はテーブルの上のものをシンクの中に沈め、先に部屋を出て行こうとする壮一の後を急ぎ足で追った。
壮一は大股で奥の部屋へ歩いていくと勢いよくドアを開いた。そのまま能面の前へと急ぐ。そうしてから能面をジッと見つめた。あとから部屋に入ってきた絵理子が壮一の肩口から能面を覗き込んだ。
「よし。いいできだ」
「まるでわたしの顔だけがそこにあるみたい・・・・」
絵理子がゴクリと唾を飲み込んだ。能面の表面に噴霧された樹脂が固まって、能面はモニターに映し出された絵理子の顔に変化していた。
「ここまで来るのに苦労したんだ」
「ごめんなさい、わたしのために」
「いいんだ。おまえのためなら、どんな苦労もいとわない」
なんて臭い言葉だと壮一は心の中で思っていた。心にもないことをよく言えるなと自分でも感心していた。
壮一は能面の上部に指をあてて、能面から樹脂の膜を取り外した。
「それをわたしの顔にくっつけるの?」
「イヤ、違う」
「どこが違うの?」
「この膜は、この能面にフィットするように作られている。つまりこの能面用なんだ。この能面の顔を、おまえという別人の顔にするために樹脂の厚みを微妙に変化させているんだ」
「すると、わたしの用のものは別に作る必要があるのね」
「そうだ」
「なんだ。すぐにつけられると思っていたのに。じゃあ、すぐに作ってよ」
「作るには、今のおまえの顔の型が必要だ」
「わたしの顔の型がいるの? わたしの顔を使って直接作ることはできないの?」
「できないこともないが、固まるときにかなり熱が出る。熱くて耐えられんだろう。それに」
「それに?」
「それに、固まるまで2時間くらいはジッとして表情を変えられないんだ。そんなことができるか?」
「・・・・できそうもないわ」
「そうだろう? だからまず、型を作る」
「それは簡単なの?」
「簡単じゃないが、直接樹脂を吹き付けるよりはましだ」
「すぐにやって」
「わかった。すぐにやろう」
壮一はデスクの引き出しを引いた。