寒さと空腹で目が覚めた。目を開けると、カーテンの隙間から光が差していた。
「朝か・・・・」
壮一はソファーからふらふらと立ち上がった。
「うう、寒い。着るものは・・・・」
壮一は二階を見上げた。衣服は一階にはない。あるとすれば二階の寝室だ。壮一は二階に上がる階段に手をかけたが躊躇った。昨日はけっこう歩けたのに、一夜明けた今日は足にまったく力がなく歩くとふらついた。二階に昇る自信はとてもなかった。
(這って上がろうか? イヤ、待てよ・・・・)
壮一はバスルームへ向かった。汚れた壮一のバスローブはもう着られないが、絵理子のバスローブがあった。それに手を通して前を合わせ、鏡に映してみた。襟元にピンクのラインが入っているが、それほどおかしくはなかった。
(これでよし。次は腹ごしらえだ)
冷蔵庫の中のものはわかっている。他に食料はないものかと探し回った。棚の中を捜してみると、米と小麦粉があった。調味料はまだ使えそうだった。
(飯を炊くより、ホットケーキのようなものを焼こう)
小麦粉をボールの中に入れて塩とバター、ベーキングパウダーを入れ水を加えて練ってからフライパンの中に入れた。焼けるまでの間に湯を沸かす。紅茶を入れるつもりだ。
ジュウジュウと焼ける音、いい匂いがしてきた。壮一は焼けたホットケーキもどきのものを皿の上に移し、蜂蜜をかけた。紅茶を入れてホットケーキもどきのものをフォークで食べた。ひどい出来だったが、腹の中に押し込んだ。また吐き気がしたが、しばらくすると治まった。
テレビをつけてみた。絵理子に閉じこめられてから何日たったか知りたかったのだ。
「一ヶ月!」
あの日から33日が経過していた。
壮一はこれからどうするか考えた。一ヶ月以上経過しているけれど、ともかく東京へ戻って絵理子の犯罪を暴かなければならない。そのためには何とかして東京へ戻らなければならない。
窓から駐車場を覗いてみた。駐車場には車はなかった。絵理子が乗っていったようだ。タクシーを呼ぼうにも唯一の通信手段である携帯電話も絵理子が持ち去ったようで、どこにも見あたらなかった。となると、歩いて人家のあるところまでいかなければならない。しかし、壮一は素肌の上にピンクのラインが入った女物のバスローブ姿だ。
(こんな姿では人前には出られない。何か他のものを着なければ・・・・。しかし、ボクの着るようなものを置いてあっただろうか?)
壮一は、この別荘に来るときにバッグの中に下着やイージーパンツを詰めてきて、月曜日の朝汚れ物を会社に持っていって大塚恵に洗濯を頼んでいたのだ。絵理子の負担をかけまいとの心配りが、今となってはあだになってしまった。
(いや、何かあるかもしれない)
壮一は階段の手すりに足をかけた。二階を見上げる。
(昇れるだろうか?)
一度大きな息を吸ってから、一段、一段とゆっくり昇っていった。半分昇ったところで息が切れて昇れなくなった。壮一は階段の途中に座り込んで息を整えた。
振り返り階段を見上げた。まるでアルプス登山を試みているようだと壮一は思った。
「ともかく昇ろう」
気合いを入れ直して階段を這って昇った。階段を昇りきると壮一は廊下にばったりと倒れた。鏡に映った自分の姿を思い浮かべ、体力が極限まで落ちていることを悟った。
しばらく横になったあと、壮一はよっこらしょと掛け声を掛けながら起きあがり、寝室へと壁づたいに歩いていった。
洋ダンスを開いた。絵理子の着古したワンピース、ガウンなどが下がっていた。壮一のものはなかった。続いてタンスの引き出しを上から順に引いてみた。
「ない。・・・・ない。・・・・ない」
どの引き出しを開いても壮一のものはなかった。
「やはりここにはボクの服は置いていなかったか・・・・。こちらにも着るものを置いておけばよかった」
ブツブツと呟く。
(絵理子の服を着るわけにはいかないからな。どうしたものだろう?)
考えを巡らせるが、いいアイデアは浮かばなかった。壮一は、寝室を出て階下へと降りることにした。
壁づたいに階段まで来て足を踏み出した。
「あっ!」
踏み出した足ががくっと折れた。踏ん張りがきかなかった。バランスを崩し、階段を数段転げ落ちた。
「痛・・・・」
背中や腰をしこたま打って痛みが走った。
(下まで転げ落ちないでよかった。下手をすれば死んでいたところだ)
痛む身体を起こして、壮一は後ろ向きになって階段を下っていった。一階まで降りて這ってソファーに座り一息ついた。
(ふう。着るものどころじゃない。まず体力を何とか回復させないと、人家のあるところまで降りることなどできはしない)
着るものについては、体力がついてから考え直すことにした。肉や野菜のストックはそう多くはないものの、米と小麦粉はたっぷりあった。壮一は何とかなるだろうと考えた。
朝食はホットケーキもどきと紅茶、夕食は野菜と冷凍庫から出して解凍しておいた肉を刻み込んだ雑炊をつくって食べた。その合間にも砂糖をたっぷりと入れた紅茶を何杯か飲んだ。少しずつではあるが確実に体力は回復していった。
一週間が経過し、何とか支えなしに歩けるようになった。しかし、まだ人家のあるところまで歩くのはとても無理だと思われた。歩き出して途中で動けなくなったとき、行くことも戻ることもできなくなってしまう可能性があったからだ。
バスルームで体重計に載ってみた。45キロに増えていた。
「40日が経過している。今更焦っても仕方がない。50キロだ。50キロになるまで待とう。50キロになったら下るのだ」
そう決めた。
シャワーを浴びて、バスローブを着ようとして壮一は顔を顰めた。前日から気にはなっていたのだが汗くさいのだ。もう我慢できなくなった。バスローブを洗濯機の中に放り込んでスイッチを入れた。
身体をバスタオルで拭いてからどうしようか考える。
(乾いていないバスローブを着るわけにはいかない。バスタオルを巻いて寝るか? そうするしかないな。今日は寝室で寝よう。ベッドの中なら裸でも大丈夫だ)
腰にバスタオルを巻き、ベッドルームに行くと、そのまま中に潜り込んだ。その前日までソファーで寝ていた壮一にとって、ベッドでの睡眠は心地よかった。その日は久しぶりにぐっすりと眠った。
目覚めていつもと様子が違うことにちょっとビックリしたが、寝室で寝ていたんだとすぐに思い出した。
ベッドから起き出してみて、腰に巻いていたバスタオルがないことに気づいた。寝ている間に結び目がほどけてしまったのだった。
立ち上がってバスタオルを腰に巻き直しながら、壮一はふとタンスの方を見遣った。
(絵理子のものならあるんだが・・・・)
壮一は、引き出しを開いた。中に並んだものをジッと見つめる。そこには着古された下着がいくつか残っていた。新しいものは絵理子が持っていったようだ。壮一は部屋の中をキョロキョロと見回し、フッと笑った。誰かに見られていないかと思った自分がおかしかったのだ。
(ちょっと恥ずかしいけど、誰が見ているというわけでもないんだからな)
壮一は、一番手前に畳んで置いてある淡いピンク色のショーツを手に取った。
(素っ裸でいるよりはましだ)
そう判断してショーツに足を通した。伸び縮みするショーツが腰にピッタリとフィットした。
(結構いいじゃないか。しかし、まさか、絵理子の下着を着るとは思わなかった。・・・・さて、上は・・・・)
ブラジャーを横に退け隣に畳んであったキャミソールを取り出して広げてみた。
「うーーーん。ランニングシャツみたいなものか。まあ、いいだろう」
頭からかぶって、裾を引っ張る。ドレッサーに映してみた。
「見られたものじゃないが、裸でいるよりはいいか・・・・」
自分を納得させるために言葉に出して言ってしまう。他に着られそうなものを探してみたが、古くなったスカートかワンピースのようなものしかなかった。
(新しいものや、高価なものはみんな持っていったようだ。こんなスカートしか残っていないのか。スカートまではとても穿けないよ)
壮一は女物の下着姿で過ごすことにした。初夏でよかったと壮一は思った。そうでなかったら、スカートまで穿かなければならなくなるところだった。
さらに一週間が過ぎ、壮一はかなり体力を取り戻した。もう歩いていけそうだと判断したが、体重は47キロのままだった。
「食べるものが粗末だからなあ」
50キロになったら下ろうと思っていたが、その目標は諦め翌日にでも下ろうと決心した。しかし・・・・。
「着るものがないんだよな」
ベッドの上に寝転がって壮一は呟く。天井を見ながら、ある考えがひらめいた。
「待てよ。その手があったな」
壮一は起きあがって、洋ダンスの上に置いてある箱を取り中身を確かめた。
「よし、よし。これさえあれば、あとは大丈夫だ」
呟きながら、壮一は一階の奥の部屋へと歩いていった。
ボールの中に石膏を溶き、鼻に息抜きの管を差し込むと仰向けになって顔の上に石膏を広げた。
固まったのを確かめると、顔から外してテーブルの上にそっと置いた。
「次だ、次だ」
粉末を混合してエーテルを加えてよくかき混ぜ、できたシリコン樹脂を今作った石膏の型の中に流し込んだ。
「さあ、これで固まるのを待てばいい」
壮一が何をしようとしているのかここまで来れば誰にでもわかるだろう。女の服を着て人前に出ることは恥ずかしくてできそうもない。それは壮一が男だからだ。女の服を着るためには女に化ければいいのだと壮一は考えたのだ。ふつうはそんなアイデアは実現不可能だ。ところが、壮一にはそのアイデアを実現する方法があるのだ。つまり、壮一の顔の上に女の顔の人工皮膚を貼り付けようと言うのだ。痩せてしまったから、絵理子の服は着られそうだった。問題は髪の毛なのだが、それも解決済みだ。洋ダンスの上から下ろした箱の中身は、絵理子が火傷で髪の毛が一部なかった時代につけていたウイッグなのだ。
リビングに戻ってソファーに座って紅茶を飲みながら、壮一はシリコン樹脂が固まるのを待った。そうしているうちにふとあることに思い至った。
二階へ上がり洋ダンスを開いた。ブラウスやワンピースを確かめる。
「ブラウスは透けているし、ワンピースは胸の露出が大きいなあ」
胸はブラジャーの中に何か詰め物をすればいいと考えていたのだが、洋ダンスの中の服を着るとすると、すぐに見破られそうなのだ。
「となると、胸も作らなければならないな」
壮一は早速乳房を作る作業に取り掛かった。人工皮膚だけで人工乳房を作ることもできるが材料が足らなかった。それに堅さもちょっと違うだろうと思われた。
型取りのためのシリコン樹脂なら、堅さも丁度いいし材料もあった。シリコン樹脂で乳房の大まかな部分を作り、その上に人工皮膚を覆って完成させることにした。
シリコン樹脂をつくって、ふたつの塊を作り、固まるのを待つことにした。
待っている間に壮一がやったことは、女としての立ち振る舞いだった。二日間だからそれほどのことはできないけれど、歩き方や座り方などの基本的なことを練習して置いた。
そうこうしているうちに二日が経過した。壮一は、シリコンの固まり具合を確かめ、よしと呟いた。
人工皮膚の溶液を作成して噴霧器にセットし壮一の顔の雄型に噴霧した。形成される顔は絵理子のものだ。他の顔を作っている時間はなかったし、絵理子の顔なら、千代田のマンションに出入りしても見咎められることはないと思ったのだ。
顔の人工皮膚の噴霧が終わると胸の方になるのだが、胸の雄型は作っていない。石膏もシリコン樹脂も足りなかったからだ。
壮一は胸の上にシリコンで作った乳房を置き、位置あわせをしてから人工皮膚の噴霧を始めた。大きな息をすると噴霧がずれるので、小さな息をして胸が動かないようにした。
顔の人工皮膚を作るための噴霧は、細かい部分まで表現するために時間が掛かるのだが、胸の場合はそれほど正確にやらなくてもいいから噴霧は30分ほどで終了した。
噴霧が終わると、固まるまでの2時間、壮一はテーブルの上でジッとしていた。
2時間が経過した。壮一はテーブルから起きあがった。胸の上の乳房がボロリとテーブルの上に落ちた。それを取り上げてジッと見つめる。
「結構いいものができたぞ」
壮一はニヤリと笑った。
「さて、顔の方はうまくできたかな?」
顔の雄型の表面から人工皮膚をゆっくりと剥がしてみた。綺麗にできあがっていた。壮一は、絵理子の時と同じように目と鼻、口の部分に穴を開けた。
「さて次だ」
壮一は髪の毛を後ろに撫でつけ、ウイッグ用のネットを頭にかぶった。そうしてから、髭を綺麗にそり上げ、顔の人工皮膚の裏に接着剤を塗り広げて、自分の顔に押し当てて位置を調節した。
位置を決めたあとは、動かないようにジッと椅子の上で仰向けになっていた。30分ほど待って、壮一は椅子から起きあがって鏡を見た。鏡には絵理子の顔が映っていた。
「成功だ」
壮一は小さく呟いた。あまり表情を動かさないようにして、境目を接着用の樹脂で滑らかにしていった。
次は乳房の裏側に接着用の樹脂を塗り広げ、仰向けになって両手で胸を押さえるようにしてくっつくのを待った。
30分後、やはり境目を消したあと、固定のためブラジャーを着けた。やや広い肩幅のことを除けば、上半身はまったく絵理子そのものだった。
「むだ毛の処理をしないといけないな」
カミソリで剃る予定だったが、絵理子が洗面所に使いかけの脱毛用のクリームを残していた。それを使うことにした。
両腋、臍から下の下半身にクリームを塗り広げた。ピリピリとしたむず痒さが広がっていった。説明書通りに15分待ってからティッシュで拭い取った。ほとんどの毛が根本から面白いように取れた。わずかに残った毛だけをカミソリでそり落とした。
時計を見た。接着してから2時間が経過しようとしていた。もう大丈夫と判断して、壮一はシャワーを浴びた。顔の人工皮膚も乳房も生まれたときからそこにあるように完全に壮一の身体にフィットしていた。
体を拭いてから、ブラジャーとペアになっている新しいショーツをはき、パンストを引き上げた。
「ペニスがちょっと目立つか・・・・」
絵理子が指摘したように壮一のペニスはそう大きくはない。しかし、何となく目立ってしまうのだ。壮一は二階へ上がり、タンスの中を探ってショートガードルを見つけ出した。
「これなら、目立たなくなりそうだ」
パンストを脱いでガードルを引き上げる。ちょっと考えてから壮一はペニスを後側へ折り曲げた。そうしてからガードルを引き上げるとペニスが目立たなくなったばかりではなく、何か妙な感覚がしてから睾丸が股間から消えたのだ。睾丸が体内に押し上げられたようだった。
(ほう。これはうまくいった)
パンストをあげて、ライトブルーのワンピースを着た。ウイッグをかぶりドレッサーの鏡に映してみた。
「ほぼ完璧だ」
絵理子に付けさせたつけまつげは、人工皮膚用に壮一が用意したもので予備があった。それを装着した。
「絵理子も言っていたが、前髪を下ろした方がいいようだな」
前髪を下ろす。
「化粧はと・・・・」
絵理子は24才。その絵理子に化けるのだから、すっぴんと言うわけにもいかない。ただ、絵理子は別荘に化粧品は残していかなかった。あるのは、洗面所に置き忘れてあった口紅ひとつだ。
壮一は口紅を塗ったあと、人差し指に口紅を取って頬と眉の下に薄く塗り広げた。チークとアイシャドーの代わりにしようとしたのだ。これは思ったよりうまくいって憎らしく感じるような絵理子の顔が鏡の向こうに映っていた。
「さて、出かけようか?」
立ち上がって壮一はもう一度鏡を覗き込んだ。肩幅が広いと言ったが、それほど目立たなかった。47キロしかない壮一の手足は細く、まるで女性のもののように見えた。
あの33日間の飢餓によって、壮一の皮下脂肪と筋肉は極限まで落ちていた。39キロから47キロにはなっていたけれど、運動した上で増えた体重ではなかったから、筋肉は増えずに皮下脂肪だけが増えた状態だった。だから、細い手足は丸く、女性のもののように見えたのだった。
壮一は、歩き方に気を付けて、玄関へと向かって階段を下っていった。