第7章 光を求めて

 地下室は入口と階段上のふたつの扉で境されて光が届かず真っ暗だった。しかも、外界の音さえも聞こえてこなかった。聞こえるのは、壮一が動くときに発する音だけだ。真っ暗闇の中で何も見えず、地下室の中で何も聞こえず、人間の五感のうちふたつを奪われた状態で、気が狂わないのが不思議だった。時間の感覚もなくなり、壮一はほとんど死人のように壁により掛かっていた。

 喉の渇きは頂点に達していた。乾いているのに小便がしたくなった。この狭い地下室の中でどこにしようかと壮一は迷った。どこにでもするわけはいかないと思う壮一にはまだ自尊心が残っていたと言えよう。
 我慢に我慢を重ねた末に、小便だって飲めるじゃないかと思いついた。テレビで言っていた尿療法というのを思い出したのだ。
 (何か入れ物は・・・・)
 何もあるはずがなかった。
 (直接飲むか?)
 身体を前に曲げてみた。とても届きそうもなかった。壮一は立て膝になって両手をペニスの前にかざして小便した。そうして両手の中に堪った小便を飲んだ。
 (臭くない・・・・)
 アンモニア臭くてとても飲めないと思っていたのに、まったく臭いを感じなかった。ただ少し塩っぱかっただけだった。何度かそんなふうにして自らの小便を飲んだ。しかし、その小便も数日すると出なくなった。
 (あと何日生きられるだろう?)
 死は目前にあった。しかし、まだ生への欲望は消えていなかった。壮一は時々鋼鉄製の扉のそばまで這っていき、扉を叩いてみた。扉は虚しい響きを返してくるだけだった。

 「くそ! くそ!! くそ!!!」
 何度そんなふうに叫んだことだろう? しかし、そんな壮一の声は誰にも届かない。体力を消耗してはいけないと思いながらも、壮一はコンクリートの床の上をゴロゴロと転がった。悔しさにいても立ってもいられなかったのだ。
 そうしているうちに扉の反対側で棚の反対側、つまり南東の角が濡れているのに気がついた。その角に手を当てていると、一滴、また一滴と数秒の割合で水滴が流れ落ちてくるのだった。
 (水だ。水だ。助かったぞ。どこかに亀裂があって水が染み出てきているんだ)
 壮一は、部屋の角に口を付けて流れ落ちてくる水滴を吸った。気長に。乾きが治まるまで。
 (生き返った。水さえあれば、もう少しは生きられる)
 乾きが治まると、壮一は下の角を観察することにした。指を角に沿わせて下ろしていく。天井からはかなりの水滴が落ちていた。だから水の溜まりがあるはずだった。しかし、そこはわずかに濡れているだけだった。
 (と言うことは、下にも亀裂があって流れ落ちてきた水滴がそのまま土の中に染み出ていると言うことだ)
 壮一は天井を見上げた。見えない天井、そこに命をつなぐ水の流出口がある。そして恐らく脱出口がある。上が駄目でも下がある。希望が沸いてきた。
 壮一は、地下室の構造を思い出す。床はセメントで固められている。壁はブロックを積み上げて表面にセメントを塗っている。天井は軽量鉄骨にセメントが流し込まれていた。
 (脱出が可能な部分はブロックの部分だ。別荘全体の構造を考えると、南側がもっとも地上に近い。水漏れのことも考えると、南東部分に何とかなる場所がありそうだ)
 壮一は南東の壁を崩して脱出口を作ることにした。そのための道具を探した。床には何もなかった。
 (何か道具はないか? 板きれでもいいんだ)
 ハッと気がついた。
 (ワインを置く棚は木でできている。あの棚は外れなかったかな?)
 手探りで木でできた棚を動かしてみた。両脇がコンクリートで固められているのだが、下から二番目の棚がわずかに動いた。壮一は上下左右に棚を動かしてみた。動きが少しずつ大きくなっていった。
 (もう少し、もう少し)
 恐らく2時間あまりそうやって棚を動かしていただろう。ついに棚が外れた。
 (やったぞ!)
 暗闇の中、壮一は南東の壁に這い寄って、もう一度水分を補給した。それから、縦1メートル半、横30センチばかりの棚を南東の角に打ち付けるようにした。
 何度か打ち付け、手で確かめる。それを繰り返した。やがて表面を覆っていたセメントが崩れてブロックらしいざらざらとした面が露出してきた。
 壮一は立ち上がって、水滴がまだ流れているかを確かめた。脱出するまでの水分が確保されていなければならないからだ。
 (まだ流れている。大丈夫だ)
 水分を補給し、棚を打ち付ける場所を左右に動かす。しばらく打ち付けて手探りで調べてみると、ブロックが横にひとつずつ、縦に三つずつ露出していた。さらに調べてみると、一番下のブロックにわずかだが隙間があった。壮一はその部分に棚を打ち付け続けた。
 (だめか・・・・)
 かなりの時間やってみたが、ブロックの隙間は広がらなかった。壮一はばったりと床の上に倒れ込んだ。
 (しかし、ここしか脱出の望みはないんだ。生き延びて、絵理子に復讐するのだ)
 思い直して起きあがって板を手に取った。蛛の糸よりも細い希望だったけれど、可能性がゼロというわけではなかった。その一縷の望みに壮一はかけていた。壮一は、一心不乱に棚を壁に打ち続けた。

 恐らく丸一日以上が経過しただろう。わずかだがブロックとブロックの間が開いてきた。指で探ってみると、土が地下室内に零れ出てきた。進展が見えたことで壮一は発奮した。
 やがて、棚が入るくらいの隙間が開いた。壮一は棚を隙間にこじいれて、テコの原理を応用してブロックを動かそうとした。
 「動け!」
 渾身の力を込めて板を引いた。すると、メリメリと音がしてこじいれた棚の部分が折れてしまった。
 (急に力を入れすぎたか・・・・。折れた部分を取り出すしかないな)
 それが簡単ではなかった。折れた棚を取り出すのに数時間かかった。取り出してから再び棚の先端をこじいれて、今度はゆっくりと左右に振るようにしてみた。
 土を除けてみるとブロックの向こう側に手が届いた。押したり引いたりしてみた。
 (動く。動くぞ)
 なおも押し引きを繰り返した。一番下のブロックを動かしていたのだが、その上もブロックも一緒に動いた。
 (鉄筋が入っているからなあ。うまく外れるだろうか?)
 外れようと外れまいとやるしかない。壮一は、押し引きを続けた。ブロックの向こう側の土が崩れたのか押せなくなった。手を回して土を取り除き、さらに押し引きした。
 ズズッと音がしてブロックが抜け出てきた。さらにその上のブロックも抜けてきた。手探りで調べてみると、曲がった鉄筋がその中央にぶら下がっていた。下から3番目のブロックを下から前後に動かすと簡単に抜けた。次のブロックに手をかけてから壮一は思いとどまった。
 (あまり崩すと水が得られなくなるかも)
 確かめるために掲げた手に水を感じなかった。壮一は青くなった。
 (どうしようか? こうなったら、掘るしかない)
 4番目のブロックを外そうとしたが外れなかった。どうも横に鉄筋が入っているようだ。壮一は左横の三つのブロックを外すことにした。しかし、今度はぴくりとも動かない。右横のブロックも動かなかった。
 (これ以上は無理か? しかし、これだけの広さがあれば、何とか抜け出られそうだ。この三つが取れたのは、鉄筋が底まで届いていなかったせいだ。手抜き工事のせいだろう。おかげで助かりそうだ)
 2本の鉄筋をゆっくりと引っ張って曲げていった。穴の向こう側に手をやって土を掻き出す。気がついて折れた棚の木片を探してそれを使って土を掘り進んだ。
 最初は簡単に掘り進んだ。しかしすぐに大きな岩に突き当たって掘り進めなくなった。喉の渇き、疲れはピークに達し、壮一はいったん地下室へ戻った。
 (水はどこに流れているんだろう?)
 手探りで探してみたけれどわからなかった。しかし、土の一部が湿っているのに気がついた。壮一はその土を口に含み、中の水分を吸った。吐き出し次の土を口に含む。それを何度か繰り返した。乾きは何とか和らいだ。
 そうするうちに急に眠くなってきて、壮一はそのまま横になって眠った。

 右に行っても岩。左に行っても岩。ついには掘り進めなくなった。
 (もう駄目だ!)

 そう叫んだところで目が覚めた。
 (夢か・・・・)
 正夢でなければいいがと思いながら、起きあがって木片を手に取った。
 (さてどちらに掘り進もうか? 岩の向こう側に行った場合、岩が落ちてくるかもしれない。そうなったら、下敷きになるか、岩に脱出口を塞がれるだろう。右は? キッチンの窓の外には大きな木があった。右に向かえば木の根に邪魔されるかもしれない。左は? 別荘の下に出るだろう。床下から外に出られるようになっていただろうか?)
 最初、別荘の床下は柱だけだったのだが、犬などの動物が入り込んでフンをしたりするものだから板を張り付けていた。
 (板くらいだったら、なんとかなるだろう)
 壮一は左上へと土を掘り進んでいった。子供の頭ほどの岩に何時間も邪魔された。しかし、確実に上へと進んでいた。

 もう2、30センチほどで地上に出るだろうと思っていたとき、足元で土の崩れる音がした。真っ暗闇で何が起こったのかわからない。掘るのを止めて地下室へ戻ろうとして愕然となった。地下室へ戻る穴がないのだ。恐らく最初にぶち当たった大きな岩が崩れ落ちたのだろう。
 (早くしなければ、このままでは窒息してしまう)
 壮一は焦った。修羅のようになって掘り進んだ。息が上がり初め、頭がガンガンと痛み、目の前が暗くなってきた。
 (もう、もう駄目だ・・・・)
 諦めかけたとき、土を掘る手への抵抗が消えた。見上げると光が見えた。片手が地上へ出たのだ。新鮮な空気が入ってきて、壮一は一息ついた。
 「はあ、はあ、はあ、はあ」
 (神様はまだボクを見捨ててはいない)
 穴を広げ、足で土を蹴り地上へ出た。周りを見回してみた。
 (やはり床下か・・・・)
 柱と柱の間は板が打ち付けられている。外に出るにはその板を外さなければならないのだが、一番近い場所に這い寄って壮一は愕然となった。簡単に破れそうもないほど厚いのだった。
 (まあいいか。板の下を掘ればすむことだ)
 壮一は再び掘り始めた。地下室からの脱出の時には、石や岩が邪魔をした。今度は雑草との戦いだった。しかも土が硬いのだ。
 身体が抜けるくらい掘り進んだときには、日はとっぷりと暮れていた。壮一は別荘の外に這い出た。
 「やったぞ!!」

 力の入らない両足で立ち上がり、壮一は玄関への階段を上った。ドアが開かなかった。鍵が掛かっているのだ。別荘を一回りしてみたが、すべてのドア、窓に鍵が掛かっていた。
 (ガラスを破るしかない)
 そう思って石を取り上げたが、ふと気がついた。キッチンの出入り口の鍵が隠してあったことに気がついたのだ。
 キッチンの裏口に回り、花壇のひとつに手を入れた。
 「あった」
 壮一は鍵をかざして嬉しそうに微笑んだ。鍵を差し込んでドアを開きキッチンの中に入った。壮一がまずしたことは水道の栓をひねることだ。
 水道の栓をひねった。水がほとばしり出てきた。壮一は蛇口に口を付けてがぶがぶと飲んだ。胃が張り裂けんばかりに飲んだあと、壮一は飲んだばかりの水をほとんど全部と言っていいほど吐いた。
 (急に飲んじゃいけないんだ)
 もう一度水を飲もうとして、壮一は手が泥で汚れているのに気がついた。流れる水で両手を洗った。泥だけではなく垢と汗でまみれていて、汚れはなかなか落ちなかった。台所洗剤を使って何度も洗って綺麗になったところでゆっくりと水を飲んだ。また吐き気がした。しばらく深呼吸しているとその吐き気は治まった。
 乾きが治まると、今度は腹が鳴った。壮一は食べ物を探す。最後の食事で絵理子がテーブルの上に出したパンが籠の中にあったが黴びていた。果物は腐ってアルコール臭がしていた。
 壮一は冷蔵庫を開いた。
 「やった。食い物がある」
 確かに食べ物はあった。しかし、いかに冷蔵庫といえども長期間の保存には耐えられない。牛乳は腐っているらしく固まりができていた。卵も様子がおかしい。賞味期限が過ぎているものを捨てると、スポーツドリンク数本とハム、バターしか残らなかった。冷凍庫の中にカチカチに凍った肉が入っていた。
 「すぐに食べられないな」
 野菜室の中を覗いてみた。萎びてはいるものの腐ってはいなかった。
 「野菜は使えそうだ」
 ハムを切って野菜とともにバターで炒めて食べた。これも吐かないようにゆっくりと食べた。
 「ふう・・・・」
 人心地つくと壮一は自分の姿が気になり始めた。着ているバスローブは泥まみれで、洗った手以外の身体も泥と垢にまみれていた。
 壮一はダイニングを出てバスルームへ入っていった。バスルームに入って鏡を見て壮一は驚きに目を見張った。鏡に映った人物が自分だと思われなかったのだ。
 泥にまみれたボサボサの髪の毛、痩せて落ちくぼんだ目、落ちた頬、伸び放題の髭、まるで浮浪者のようだ。泥だらけのバスローブを取ってみると、皮下脂肪ばかりではなく筋肉もまったく失せてしまって肋骨が浮き出ていた。腹は削いだようにへこみ、内臓がそこにあるのかと疑問に思うほどやせ細っていた。
 「骨に皮膚がついているだけだな」
 何故か笑いが浮かんできた。
 (いったい何キロあるんだ?)
 体重計に載ってみた。
 「39キロ!!!」
 幻暈がした。
 「ともかく体を洗おう」
 少し温めのお湯を頭から浴びた。いつまでも泥が髪の毛の間から出てきた。シャンプーを3回、リンスを2回するとしなやかな髪に戻った。身体も綺麗になった。
 バスルームから出ると長く伸びた髭を剃った。鏡に映った壮一は、痩せてはいるが浮浪者には見えなくなった。
 「疲れた・・・・」
 シャワーを浴びたことでそれまでの疲れがドッと壮一を襲ってきたのだ。寝室まで行きたかったが、足が言うことをきかなかった。とても二階へは昇れなかった。壮一は、リビングのソファーの上に倒れ込み、そのまま眠り込んだ。