第6章 闇の中で

 頭がガンガン痛む。それに腰や背中、尻にも痛みが走った。首も痛い。ともかく全身が痛んだ。そんな痛みの中で壮一は目を覚ました。目を開いているはずなのに何も見えなかった。目を擦ってみたけれど、状況は変わらなかった。
 立ち上がろうとして、壮一はバランスを崩して床に倒れた。真っ暗闇で視覚による情報を失って平衡感覚がおかしくなったためだ。
 「絵理子! 絵理子!!」
 返事はない。しかし、壮一の発した声に少し反響があるような気がした。
 (ここはどこだ?)
 壮一は手探りで周りを調べ始めた。冷たい床。コンクリート製のようだ。四つんばいになって暗闇の中を移動していった。棚があった。手触りからすると、木でできているようだった。よどんだ冷たい空気。そうかと壮一は思い至った。
 (ここはワインセラー用に作った地下室だ)
 考えが正しいとすれば、棚の左側に扉があるはずだと壮一は判断して手探りで移動していった。2段ほどのコンクリート製の階段に手が当たった。ゆっくりと立ち上がって手を這わせてみると鋼鉄製の扉があった。
 (間違いない。やはりここは地下室だ)
 扉に沿って手探りでノブを見つけて引いてみたが、扉はびくともしなかった。壮一は力任せに扉を叩いた。
 「おおい、絵理子! ここを開けてくれ!! 絵理子!!」
 ドンドンと何度も叩いたけれど返事はない。壮一はコンクリート製の階段に腰を下ろした。
 (いったいどうしたって言うんだ? ボクをこんなところへ閉じこめたのは誰だ? 絵理子か? そんなことがあるはずはない。いったい誰だ!)
 バスローブ一枚の壮一に震えが襲った。その震えは、寒さのためではなく、言いしれぬ恐怖のためだった。

 その頃絵理子は、ダイニングで優雅に朝食を摂っていた。壮一がイヤだと言って入れさせたことのないアップルティーを口に含んだ。
 (どうして嫌いなんだろう? こんなに美味しいのに)
 フレンチトーストをフォークで口に運ぶ。これも、壮一が甘ったるいからと言って二度と作らせてくれなかったものだ。
 「アア、美味しい」
 ゆっくりと時間をかけて絵理子は朝食を楽しんだ。
 「さて、そろそろ出かけるかな」
 階段を上りベッドルームに行くと、着ていたシンプルなネグリジェを脱ぎ捨て、ちょっと派手な花柄のワンピースを取り出して着替えた。このワンピースも壮一には不評のものだった。壮一はシックなデザインのもが好きなのだ。
 ドレッサーに向かって化粧を施す。
 (ホントにうまく作ってくれたものだわ。これだけは壮一には感謝しなければ)
 化粧を終えると、絵理子はショルダーバッグと壮一のバッグを持った。そのバッグには壮一の着替えと会社の書類などが入っている。このバッグがあるところに壮一がいる。そう言うバッグなのだ。だから、ここへは置いておけないのだ。
 絵理子は別荘を出て行こうとしてふと足を止めた。
 (何故閉じこめられたかくらいは知らせてあげないと可哀相かしらね)
 ふたつのバッグを足元に置き、そろそろとワインセラー用の地下室へと降りていった。

 耳を澄ませてみた。物音ひとつしない。
 (まさか、もう死んじゃったなんてことはないわよね)
 扉をコツコツと叩いてみた。
 「絵理子! 絵理子か!!」
 壮一の半分泣き出しそうな叫び声が聞こえてきた。あまりに近くから聞こえたので、絵理子はちょっと後ずさりした。
 「助けてくれ。ここを開けてくれ!!」
 扉がドンドンと叩かれた。
 「うるさいわね! いくら叩いたって、開けてあげないわよ」
 いつもとは違った口調で絵理子は返答した。
 「え、絵理子! 何故だ! 何故、こんなことをする?」
 「何故? そんなこと、決まり切ってるじゃないの?」
 「なに?」
 「あなたの財産を全部いただくの」
 「全部いただく?」
 「そう。あなたが死んで、未亡人となったわたしがあなたの財産を全部相続するのよ」
 「今だって、全部おまえのものじゃないか」
 「わたしのもの? 嘘ばっかり。わたしの自由になるお金なんて一円だってないでしょう?」
 「そんなことはない。何でも自由に買わせていたじゃないか」
 「自由じゃないわ。いつも買ったものをチェックして、高いだの買いすぎだの小言を言ったわ。あれが自由って言うの?」
 「・・・・そんなつもりじゃ・・・・」
 絵理子の言うことに嘘はなかった。
 「これからは、何でもおまえのしたいようにさせてやる。だから、絵理子、ここから出してくれ」
 「出したら、あなたはわたしをひどい目に遭わせるわ。それこそ決まり切ったことでしょう?」
 「今回のことは許してやる。だから、ここから出してくれ」
 「駄目よ。絶対に駄目。ともかく、あなたにはここで死んで貰うわ」
 絵理子は冷たくそう言い放った。
 「助けてくれ。絵理子! 何でもする。おまえに全財産をやる。だからここから出してくれ」
 「駄目だって言ってるでしょう? あなたがここで死ぬのは、もう決まったことなのよ」
 壮一は、岡崎に言った言葉を思い出した。同じようなことを言われようとは思ってもみなかった。
 「おまえの顔を元に戻してやったのに」
 「それだけは感謝してるわ」
 「じゃあ、ここから出してくれ」
 「だめよ」
 「この、人でなしが!」
 「あら? ちゃんとお返ししてあげたでしょう?」
 「何だって?」
 「短小、包茎、早漏の三つが揃ったあなたの相手をしてあげたじゃない。したくもないフェラチオだってしてあげた。それで充分だわ」
 壮一にはもう言葉がなかった。
 「さよなら、あなた。あの時うまくやれてたら、もっと早くお別れを言えたのにね」
 「なに? なんだって?」
 「あの時、わたしが顔にやけどを負ったとき、何をしにあなたの部屋に行ったと思ったの?」
 思いもよらない絵理子の言葉に壮一は言葉を失った。
 「お茶を・・・・」
 「そんなのカモフラージュに決まってるでしょう?」
 「カモフラージュ?」
 「そうよ。トレーの下にナイフを忍ばせていたの。あなたを殺すためにね」
 「何だって!」
 「床が濡れていて滑ってあんなことになってしまったけれど、かえってよかったわ。あのままあなたを殺していたら、すぐに捕まってしまっていたもの。でも、今度は大丈夫。わたしが手を下す訳じゃないからね。あなたはここで餓死するんだから」
 「ぼ、ボクがいなくなったら、誰かが探しに来るぞ」
 「その点ならご心配なく。ちゃんと手配してるから。あなたは他の場所で死んだことになるの。だから、誰もここには探しに来ないわ」
 「誰も来ない?」
 「そう。誰も来ないわ。あなたは、ここで死ぬの。ひとりぼっちでね。じゃあ、あなた、さよなら」
 立ち去ろうとする絵理子に壮一が尋ねた。
 「絵理子、ひとつだけ聞いておきたい」
 「なによ?」
 「初めから、初めからボクの財産が目当てだったのか?」
 「結婚してから心変わりしたって言わせたいの? 残念ね。最初からあなたの財産目当てよ。わかった?」
 その答えを聞いて壮一は愕然となった。
 「ひどい女だ。おまえは・・・・」
 「そのひどい女を選んだのはあなたよ。自分の不徳を悔いるがいいわ」
 壮一が何かを叫んでいた。しかし、絵理子は振り返らずに階段を上っていった。廊下のドアを閉めると、壮一の声はまったく聞こえなくなった。
 絵理子は別荘のすべての鍵をもう一度確かめ、ショルダーバックと壮一のバッグを持って外に出た。
 「これで誰も入ってこない。例え入ったとしても、あの地下室の扉を開けることはないでしょう」
 絵理子は車に乗り込んでエンジンをかけた。

 鋼鉄製の扉をいくら叩いても、もはや返事はかえってこなかった。鋼鉄製の扉を背にして壮一はずるずると座り込んだ。
 (ここで餓死するしかない)
 諦めと絶望が壮一を襲ってきた。
 (あんな女と結婚しなければよかった。あんな女の色香に狂ったボクが愚かだった。絵理子の言うとおりだ。ボクが馬鹿だったんだ・・・・)
 真っ暗闇の中で、壮一は項垂れ涙を流した。

 数時間が経過して、壮一は気を取り直した。このまま死ぬなんてことはできない。何とかしてこの部屋から脱出できないだろうかと探索を始めた。
 まず鋼鉄製の扉を調べてみた。壮一自身が設置に立ち会ったから構造はわかっていた。蝶番部分を上にずらせば扉全体が外れるのだが、そのためには扉を開かなければならなかった。ノブを何度も動かしてみたけれど、やはりびくともしなかった。
 (他の場所は・・・・)
 四方の壁はコンクリートで固められている。床も天井も同じだ。あの有名な脱獄王だって、ここからは脱出できない。
 再び絶望が壮一を襲ってきた。絶望とともに空腹も襲ってきた。
 (何も食べるものがない。食べるものどころか、水すらもない。水がなければ、人間は一週間もすれば死んでしまう。餓死・・・・)
 干からびて死んでしまった自分の姿が脳裏に浮かんだ。壮一は頭を振る。
 (餓死するくらいなら、いっそ死んでしまおう)
 首を吊ろうと、壮一はバスローブのベルトを外した。
 (これを掛けるところは・・・・)
 棚には引っかける場所がなかった。手探りで地下室の中をはいずり回った。扉のノブがあるのに気がついた。
 ベルトノブにかけて首に回す。
 (さよなら。今度生まれ変わったら、同じ過ちは繰り返さない)
 そうして体重をかけた。首が絞まってきたと思ったら、フッと宙に浮いたような気がした。
 「痛たたた・・・・」
 扉の下の階段の角で背中をしこたま打ってしまった。どうやら、ノブからバルトが外れたらしい。
 もう一度やり直した。しかし、何度やってもう外れてしまうのだ。
 (だめか・・・・)
 壮一は、首に巻いたベルトを両手で締めた。うまくいきそうだったが、気を失う寸前になってベルトが緩んで死ねなかった。
 (緩まないようにすればいいんだ)
 ベルトを一回結んでゆっくり締めていった。緩まなかった。首を絞められて血が頭に上り、その苦しさに壮一は喘いだ。しばらく頑張った壮一だったが、ベルトを緩めた。
 (もっと楽に死ねないのか?)
 残された手段はと考える。
 (頭を壁にぶつける? もしそれで死ねなかったら、痛みに苦しむことになる。駄目だ、駄目だ)
 真っ暗闇の中で、壮一は壁にもたれてジッと座っていた。
 (誰かが助けに来てくれるのを待つしかない。きっと誰かが助けに来てくれる・・・・)

 壮一と結婚して以来、ほとんど車の運転などしたことがない絵理子は、恐る恐る運転していた。後ろから迫ってくる車にパッシングされたり、煽られたりしたが、絵理子としてはただハンドルにしがみついて運転するしかなかった。
 かなりの時間をかけてようやく中軽井沢駅に着き、さらにその近くにあるローソンの駐車場に車を入れた。
 少し派手かなと思ったワンピースも、このあたりではそれほど目立たなかった。絵理子はローソンの中に入って『ダカラ』のペットボトルを一本買った。会計をすませて出口に向かっていると、男が近寄ってきた。
 「絵理子、ボクの分は?」
 男は壮一がいつも着ているスーツを着ている。絵理子が数日前に男に渡したものだ。男に壮一を演じさせるつもりなのだ。
 「あら? あなたもいるの? じゃあ、これを飲んでいて。わたしの分を買ってくるわ」
 絵理子は男にペットボトルを渡して、ペットボトルを置いてある冷蔵庫へ向かった。
 「おい、絵理子! ボクはコーヒーがいいよ。コーヒーを買ってくれ」
 男は大きな声を上げた。絵理子の名前を印象づけるのが目的のようだ。
 「わかったわ」
 絵理子は缶コーヒーを一本手にして会計へ持っていく。
 「あなた、お待たせ」
 絵理子は男にまとわりつくようにしてローソンを出た。
 「運転して」
 「はいよ」
 男は絵理子からキーを受け取り運転席に乗った。エンジンをスタートさせると男は絵理子に聞いた。
 「奥様、どちらまでエスコートいたしましょうか?」
 「千代田のマンションまでよ。場所は知ってるでしょう?」
 「もちろんですとも。それでは」
 男はアクセルを踏んだ。

 それから6時間後、ふたりは千代田のマンションのベッドルームにいた。
 「どうして、壮一のスーツなんて着せたんだ?」
 「壮一以外の人とここに来ちゃまずいでしょう? カモフラージュよ」
 「そうか。でもさあ、別にここでなくてもよかったんじゃないのか?」
 「モーテルがいいって言うの?」
 「いろいろと設備があるじゃないか」
 「でもゆっくりできないでしょう? わたしの手料理も食べられないし」
 「それもそうだな。でも、旦那は大丈夫なのか?」
 「大丈夫って?」
 「ここへ来ることはないのか?」
 「あ、今日は大丈夫なの。今日は接待があるのよ」
 「接待って言っても、帰ってくるんじゃないか?」
 「いつも午前様だから、まだ大丈夫。あ、そこ、いい・・・・」
 「おまえも好きな女だな」
 「そうよ。好きで好きで堪らないわ。でも、壮一のじゃ満足できなくて」
 「そんなにひどいのか?」
 「短小、包茎、早漏の三拍子が揃ってて、その上ノーテクニック。あれじゃあ、自分でした方がいいわ」
 「俺のはどうだ?」
 「最高よ。太いし、長いし、持続力はあるし。それにあなたのテクニック、最高よ」
 「いつもそう言われるぜ。どうだ、ここは?」
 「ああん。だめ! 気が狂っちゃう・・・・」
 絵理子は男と絡み合っていた。

 午後9時、マンションの電話が鳴る。絵理子は、ベッドからさっと起きあがった。
 「もしもし。田倉でございます。ああ、あなた。今日はお帰りにならないのね。浮気なんてしてないでしょうね。わかったわ。じゃあ、明日の朝、食事を用意しておきますから」
 ベッドサイドに戻ると男が起きあがって絵理子の首筋にキスをした。
 「旦那からか?」
 「ええ」
 「今晩は戻ってこないって?」
 「そうみたいね」
 「朝までやれるな」
 男はニヤリと笑う。
 「そうね。それもいいけど、ちょっと涼みにドライブでもしない?」
 「ドライブ? そうだなあ」
 「面白いものが置いてあるモーテルにでも寄ろうよ。ね?」
 「そ、それもいいな」
 男はにやけて服を着始めた。絵理子も下着を身に着けながらニヤリと笑みを浮かべた。

 助手席の絵理子は背を低くして隠れるようにして乗っていた。
 「そこを右に曲がって」
 「どこに行くつもりだ?」
 「いいから、いいから。この先にいいところがあるのよ」
 絵理子は、ニッコリと微笑んで見せた。男は下卑た笑いを浮かべてハンドルを右に切った。
 「あ、ちょっとここで止めて。予約を入れてみるから」
 「予約? 何の予約だ?」
 「結構利用客が多いのよ。花金でしょう?」
 男は納得したように車を停めた。絵理子は携帯電話をかける。
 「もしもし、今空いてます? 満員? そう。じゃあ、他を当たるわ」
 携帯を切ってから、絵理子は肩をすくめた。
 「残念。満員だって。仕方ないわね。この先の国道沿いのモーテルにでもしましょう」
 「はいはい」
 男はアクセルを踏んだ。
 「もっと飛ばしてよ」
 「捕まっちゃまずいぜ」
 「このあたりには、警察はいないわ」
 「そうか?」
 男はアクセルを吹かして、国道へ向かって車を走らせた。