その夜、ふたりは新婚気分に戻ってベッドをともにした。壮一は勿論だが、絵理子も気にするところがなくなってひとときの快楽に溺れた。
「絵理子、明日は一緒にマンションへ戻ろう」
窓から差し込む月明かりの中、絵理子の顔を見つめながら壮一は言う。
「そうしたいところだけど、こちらを少し片づけておかないといけないわ」
「そんなこと、次に来たときでいいさ」
「次って、すぐに来ることがあるの?」
「あ、そうだな。夏まではしばらく来ることはないな」
「そうでしょう? だから、片づけておかないと」
「・・・・そうか。ボクも一緒にと言いたいけれど、明日からまた仕事だものな」
「いいわよ。わたしが少しずつ片づけておくから」
「すまないね」
「あなたの妻ですもの」
壮一は絵理子に軽く口づけした。
一夜が明けた。壮一が目を覚ますと、絵理子はいつものようにキッチンで朝食を作っていた。
「お早う、絵理子」
「お早う、あなた。コーヒー、入れますから、顔を洗ってらして」
壮一は歯を磨き顔を洗ってダイニングへ戻った。いつものようにコーヒーカップが置かれ、トースト、卵料理、野菜サラダがテーブルの上に並べられていた。いつもと違うのは、絵理子の分も並べられていることだ。
壮一が席に着くと絵理子も座った。壮一は真正面から絵理子の顔を見て微笑む。絵理子も微笑み返してきた。そこで、壮一は違和感を覚え小首を傾げた。
「どうかしました?」
「あ、いや。なんだか雰囲気が違うなと思って・・・・」
「そう?」
そう言いながら絵理子はトーストを口に運ぶ。妙な気分に包まれながら壮一はコーヒーを飲んだ。
「前髪を下ろしたせいかしら?」
「前髪を?」
言われて壮一は絵理子の髪型を観察する。
「眉もうまくできてるけど、眉毛がないでしょう? なんだかおかしいから、前髪を下ろして隠したの」
「はあ、なるほど。その方が似合ってるよ」
「ありがとう」
惚れ直したよと壮一は心の中で思っていた。
壮一を送り出すと、絵理子は片づけを始めた。と言っても、キッチン周りの掃除をして、汚れ物を洗濯しただけだ。
それから絵理子は、壮一から掛かってくる以外には使っていなかった携帯電話を取り出した。
「もしもし、わたし、絵理子。久しぶりでしょう? ケロイド? 壮一が消してくれたわ。ホントよ。今晩にでも見せてあげるわ。いいわ。今日は壮一はここには来ないから。待ってるわ」
絵理子は不気味な笑いを浮かべた。
いつもと違って浮き浮きした表情を浮かべている壮一を見て大塚恵は首を傾げた。
(こんな専務を見るのは、秘書になって初めてだわ)
「大塚君?」
「は、はい!」
「第一メインテナンスに電話してくれないか?」
「第一メインテナンスですね。畏まりました」
メインテナンス会社に何の用事だろうと思いながら、恵は電話をかけて壮一に回した。
「もしもし、第一さん? 田倉物産の田倉ですが。そう、去年まで千代田のマンションのメンテナンスをお願いしていた、田倉です。また、メンテナンスをお願いしたいんですが。いや、今週いっぱいにでもやってくれればいいです。週末あたりに戻る予定にしていますから。じゃ、お願いいたします」
電話を切るのを待って恵はお茶を持って壮一の机に行った。
「あのう、専務。もしかして、奥様がお帰りになるのですか?」
「ああ、そうだよ」
にこにこ顔で壮一が答える。
「奥様、全快されたのですか?」
「ああ、完全に治った。完璧だ」
「よろしかったですね」
お茶を机の上に置いて自分の机に戻りながら、恵は複雑な思いに駆られた。大好きな壮一の嬉しそうな顔を見て恵も嬉しくなった。しかし、一方では、壮一の妻・絵理子が元気になって、恵の入る隙間がなくなったとの思いが沸いていたのだった。
電話が鳴った。鳴り方からすると内線だと恵は判断した。
「もしもし、田倉専務のお部屋です」
《岡崎だが、専務はいるかね?》
「は、はい。いらっしゃいますが」
《今からちょっと話に行くからと伝えてくれないか?》
「わかりました」
電話を置くと、壮一がどこからの電話だというような顔を恵に向けてきた。
「岡崎常務からお電話で、専務にお話があるとか言うことで、まもなくここへいらっしゃいます」
「岡崎常務が?」
「はい」
「いったい、何の用だろう?」
社内では対立していると思われている常務と専務。恵も何の用事だろうと興味津々で待った。
岡崎はノックもせずに部屋に入ってきた。
「ちょっと席を外していてくれ」
そう言われればそこに留まるわけにも行かない。恵は仕方なく専務室を出た。
秘書が部屋を出て行くのを確かめると、岡崎はソファーに座った。
「何の用でしょうか?」
岡崎の反対側に座りながら壮一が尋ねた。
「例のヨーロッパ製品の件だが」
「ああ。それがどうかしましたか?」
「確かにアイデアはいいと思うんだが、わたしが入手した情報では、ドラッグストア・MKが同じようなことを企画しているらしい」
「MKがですか?」
「そうなんだ。どうやらうちの企画が盗み出されたらしい」
盗み出したのはおまえじゃないのかと壮一は心の中で思っていたが、そんなことはおくびにも出さなかった。
「それでは急がなければなりませんね」
「そうなんだが、同じ企画で太刀打ちできるかと思ってね」
「どうしてですか?」
「向こうの支店と第二支店との距離が近すぎる。しかも、立地条件は向こうの方が上だ。投資した分が取り戻せないような気がするんだ」
「じゃあ、どうすればいいと? 社長が言うように閉鎖するんですか?」
「閉鎖は最後の手段だ。もう少し別な形にした方がいいと思う」
「常務のアイデアは?」
「パチンコ関係の会社がわたしにコンタクトしてきている。あのあたりにはそう言った施設がないからいいのではないと思っているんだが」
「パチンコ産業が入るなんて言ったら、住民が反対するでしょう」
「そこは何とかなるらしい」
「らしいでは方向転換できませんよ。こっちの方はもう動き出しているんですからね」
「今のうちに中止した方が、傷が大きくならないですむと思うんだが」
「もう決まったことです」
そう言うと、岡崎は諦めたように立ち上がった。
「もう少しできる男だと思ったが、君を買いかぶりすぎていたよ」
壮一は岡崎を睨み付けた。岡崎はそれ以上なにも言わないで壮一の部屋を出て行った。
恵はそんな様子を部屋の外から盗み聞きしていた。岡崎が憮然とした表情で部屋を出て行ったあと、恵が部屋の中に入ると壮一の機嫌は極めて悪かった。
「くそ! ボクの企画を漏らした上に、自分のアイデアを押し売りしようなんて!」
恵には、壮一が少し感情的になっていると思えた。もし壮一の言うとおりなら、壮一と社長が失敗するのを待って、それから自分のアイデアを出せばいいことだ。常務が今の段階で壮一に会いに来たと言うことは、会社のことを考えてのことではないかと思った。
しかし、恵のそんな思いとは裏腹に、壮一は岡崎を追い落としに掛かった。その日の会議の席で壮一は、壮一のアイデアがドラッグストア・MKに盗まれたのは、岡崎が漏らしたせいだと決めつけたのだった。壮一らしくないと恵は思ったのだけれど、すでに暴走は止められないところに達していた。
壮一と岡崎の対立は決定的となってしまった。
会議が終わると、壮一は絵理子に電話した。絵理子の声を聞けば、ムシャクシャした気持ちが安らぐと思ったからだ。
《もしもし、あなた? どうなさったの?》
「なんでもない。おまえの声を聞きたかっただけだ」
《ふふ。そんなことを言うのは、新婚の時以来ね》
「そうだったか?」
《そうよ》
「どうだ? 調子は?」
《いいわよ。まるで自分の肌みたいよ。ぜんぜん違和感がないわ》
「それはよかった。片づけは済んだかい?」
《まだ半分くらいかな?》
「無理するなよ」
《ええ。時間はたっぷりあるからゆっくりやるわ》
「木曜日の夜にはそっちに行くからね」
《待ってるわ》
「じゃあね」
電話を切ると、幾分心が落ち着いていた。
ひどい週だったと思いながら、壮一はハンドルを握っていた。壮一と岡崎の対立があまりにひどくなって叔父が仲裁に入るくらいだった。
(ボクも少し意固地になりすぎた。来週は心を落ち着けて話し合わなければ。会社のために)
暗がりの中を進む。時折、思ってもみなかったところから車が出てきて慌ててハンドルを切った。やがて、まったくの暗闇となり、しばらく走ると壮一の別荘の灯が見えてきた。
(もう片づけは終わっているだろうな。この週末は絵理子と過ごして、来週は心機一転やり直しだ)
駐車場の砂利を蹴立てて車を停めると、玄関に灯がともった。絵理子の姿が現れる。壮一に駆け寄ってきて、首に抱きついてキスをしてきた。これこそ壮一が待ち望んでいたものだ。まるで映画の一シーンだなと壮一は思った。
「お疲れになったでしょう? お食事の準備ができていますわ」
「先にシャワーを浴びたいが」
頷く絵理子。壮一の手から鞄を取ろうとするので、壮一は自分で運ぶからと断って別荘の中に入っていった。
別荘の中にはいい香りが漂っていた。
「何を作ったんだ?」
「いつぞやの鶏肉のスープよ」
「ああ、あれか」
ちょっと気のない返事をした。実のところ、昼食ににたようなスープを食べたからだ。
「お気に召しませんでした?」
絵理子がせっかく作ったのだ。むげにはできない。
「いや、そんなことはないよ」
「お野菜の種類を変えて、味付けも少し工夫しましたから、きっと気に入ってくださると思うわ」
「そうか。それは楽しみだ」
同じような料理でも、使う材料や味付けでまったく違った料理になることがある。壮一は期待した。
熱いシャワーを浴びながら、会社でのことを思い出す。
(ボクは絶対悪くない。岡崎の方が悪い。イヤ、ボクが少し譲ればいいんだ。岡崎だって、会社のことを思っているんだ。それにしても、あのボクのアイデアをMKに漏らしたのは誰だろう? 岡崎じゃなかったら誰だというのだ? やっぱり岡崎しか考えられない。あいつは潰すべきだ)
そんな思いが浮かんでは消えていった。
「あなた? まだ出ませんか?」
「あ、すぐに出る」
会社のことは今は忘れよう。そう思いながら壮一はバスローブを羽織ってダイニングへ戻った。
「はい、どうぞ」
絵理子がスープの入った皿とパンの盛られたバスケットを壮一の前に置いた。
「そのパン、あなたの帰りに合わせて焼いたのよ」
手に取ってみると、まだ熱いほどだった。半分にちぎるとイーストのいい香りがした。壮一はその半分に噛みつく。
「うん、うまい」
「スープもどうぞ。美味しくできていると思うわ」
壮一はスプーンでスープを口に運んだ。
「ちょっと酸っぱいな」
「トマトがたっぷりですもの」
「そうか。うん、これもいい味が出ている」
壮一は一心にスープを食べ続けていた。絵理子もそんな壮一を見つめながら、スープを口に運んだ。
絵理子はスープを口に運びながら、壮一の様子をジッと観察していた。
(なかなか効かないわね)
そんなことを思っていると、壮一のスープを運ぶ手が次第に緩徐になっていった。
(そろそろ効いてきたかな?)
壮一の頭が揺れる。
「おかしいな。ひどく眠い・・・・」
「あなた、お疲れになってるんだわ」
「そう・・かも・・・しれんな・・・・」
壮一はスプーンを取り落とす。
「どうしたんだろう? ・・・・眠い・・・・」
「あなた、おやすみになったら?」
絵理子は立ち上がって壮一のそばに寄った。壮一は立ち上がりかけて再び椅子の上に座り込んだ。
「ど・・う・・・したん・・・だ・・ろう。え・り・こ・・・・」
ついに椅子から崩れるように床の上に倒れてしまった。
「あなた? あなた?」
絵理子は壮一の頬をパチパチと叩く。
「やっと、くたばったわね」
そう呟くと、絵理子は廊下に出てキッチンの裏手にあるドアを開いた。壁のスイッチをあげると下へ降りていく階段に灯がともった。絵理子は階段を下り、突き当たり左にある扉の鍵を開けて押した。ギギギギギーと軋む音がして鋼鉄製の重い扉が開いた。
その部屋はキッチンの丁度真下に当たる部分に存在し、北側の壁に木で作られた棚がある。壮一がワインセラーとして作ったものであるが、作っただけで過去に使われたことはなかった。
(ここが壮一の墓場になるわ)
薄笑いを浮かべて絵理子はダイニングへと戻った。
壮一は床の上でいびきをかいて眠っていた。絵理子は壮一の両腕を後ろから抱えて引っ張っていった。
「ホントに重いわねえ・・・・」
ぶつぶつと呟きながら絵理子は作業を続ける。廊下に出て階段の入り口まで運ぶと絵理子は一息着いた。
(ここから蹴落としてやろうかしら? でも、血が出たりするとまずいわね。仕方ない、下まで運ぶとするか)
バランスを崩すと絵理子自身も落ちてしまう。気を付けながら絵理子は壮一を地下室へと下ろしていった。階段の角で壮一の尻が打ち付けられると、壮一はうめき声を上げた。絵理子はそのたびにびくっとするが、壮一は目覚める様子はなかった。
30分ほどかかって、絵理子はついに壮一を地下室の中へと運び込むことに成功した。
「ハア、疲れた・・・・」
壮一の着ていたバスローブの前がはだけていた。
「こんな粗チンでわたしが満足すると思ったの?」
そう言って、絵理子は壮一のペニスを人差し指でピンと弾いた。
「さようなら、壮一ちゃん。永遠にお別れよ」
絵理子は、鋼鉄製のドアを閉め、大きなシリンダー錠をかけた。
「この鍵はピッキングできないようになっているから、これでこのドアは誰にも開けられないわ。鍵を壊してまで開けようなんて酔狂なヤツもいないでしょうから」
フフと笑いを浮かべ、絵理子はゆっくりと階段を上っていった。