第3章 予備テスト

 壮一は、四日ぶりに別荘へ向かって車を走らせていた。電話で聞く絵理子の声は日増しに元気がなくなっていた。
 (早く完成させなければ)
 はやる気持ちを抑えながらハンドルを切るが、どうしてもアクセルを開いてしまう。
 「わおうっ!」
 危うく道路外に飛び出しそうになり、壮一は慌ててブレーキを踏んでハンドルを切った。
 (危ない、危ない。ボクが死んだら、絵理子も生きちゃいないだろう。気をつけなければ)
 そう思うのに、スピードはあまり落ちない。タイヤを軋ませながら、壮一は別荘へ向かう道をのぼっていった。

 別荘の灯が見えてきた。暗い道を車の灯だけで走っていたから、砂漠の中でオアシスを見つけたときのようなホッとした安堵感が壮一の胸に広がった。
 ザザザザザッと砂利を蹴立てて車を駐車場に停止させた。玄関に灯がともる。絵理子がスイッチを入れたのだ。壮一は、バッグを抱えて玄関へ向かった。
 絵理子が玄関から飛び出てきて、壮一に抱きつきキスをする・・・・そんなことを想像してみたけれど、絶対に起こりえない。絵理子は、別荘から外に出ることはまずない。こんな夜更けで、誰が見ているというわけでもないのに・・・・。

 玄関ドアを開くと目の前に絵理子が立っていた。壮一は思わず息を飲んだ。玄関の薄暗い灯の下に、今晩も真っ白なドレス風のワンピースを着た絵理子が立っている。表情のない絵理子が・・・・。表情などあるはずがない。絵理子は能面をその面(おもて)につけているのだ。そのことを知っている壮一でさえ、思わず驚いてしまった。他の人間ならば、きっと悲鳴を上げていただろう。
 「お帰りなさい」
 「あ、ああ。ただいま」
 壮一は、止めていた息をフウと吐き出した。
 「あなた、お食事は?」
 「まだだ」
 「すぐに用意します」
 絵理子はキッチンへと向かって歩いていった。音もなく。まるで幽霊のようだと壮一は思った。
 壮一も足音を立てないようにしてリビングへと入っていった。以前はドンドンと足音を立てていたのだが、絵理子が足音を立てないので壮一もそれが癖になっていた。
 リビングのソファーの上に鞄を置いてダイニングに行くと、絵理子がテーブルの上に皿を置いていた。
 「ビーフシチューか?」
 絵理子は頷く。壮一はこういったシチューとかスープのたぐいが好きだ。食卓に並ぶ食べ物の半分は、シチューかスープと言ってよい。
 壮一はスプーンを取ってひとくち口に運んだ。
 「美味い。絵理子、おまえも一緒にどうだ?」
 絵理子はいつものように首を振った。拒絶するのはわかっていた。食べるためには能面を外さなければならないからだ。
 「ボク以外に誰もいないんだ。だから、いいじゃないか」
 「例えあなたでも、絶対イヤです。こんな醜い顔を見せられません」
 「醜いなんてことはない。おまえの思いこみすぎだよ」
 「あなたは女の気持ちがわかっていないんです。こんな顔を人前にさらすなんてこと、死んでもできません」
 「・・・・その能面よりはましだ」
 絵理子は黙り込んだ。そして、両手を能面にあてた。嗚咽が漏れる。
 「すまなかった。泣かせるつもりじゃなかったんだ。ただ、・・・・ただ、おまえと一緒に食事したかった。それだけだ」
 「あなたには何でもないことでも、わたしには死ぬほどの苦痛なんです」
 そう言い残すと、絵理子は階段を駆け上っていった。壮一は絵理子の後を追った。絵理子は、来客用のベッドルームへ入りガチャリと鍵を掛けた。
 「絵理子! 絵理子! 開けなさい」
 「イヤです!! 入らないで!」
 絵理子の泣き声が聞こえてきた。泣いている間は自殺などすることはあるまいと思いながら、しばらく様子を窺ってから壮一はダイニングへと戻った。
 ビーフシチューを平らげたあと、壮一は絵理子の様子をもう一度窺ってから奥の部屋へ行った。しばらくぶりの仕事を続けるためだ。
 コンピューターに向かって歩いているとき、床が滑って危うく転びそうになった。
 (危ない、危ない)
 ふたつのコンピューターを立ち上げてモニターに向かった。
 (もう少しだ。もう少しで完成する)
 壮一は一心にモニターに向かった。

 かなり時間がたった頃、ふと気がつくとキッチンから水の流れる音がするのが聞こえてきた。絵理子が洗い物をしているようだ。どうやら落ち着いたようだと壮一は安心した。
 しばらくしてドアがノックされ絵理子が盆を持って入ってきた。盆の上にはティーカップが載っていた。
 「ごめんなさい。先ほどは取り乱してしまって」
 ティーカップをテーブルの上に置きながら絵理子が言った。
 「イヤ、ボクの方こそすまなかった。おまえの気持ちも考えないで」
 「もう、いいんです」
 「もうすぐ、そんなことを気にしなくてもよくなるからね」
 「ホントにできるんですか?」
 「ああ。元のおまえに戻してあげるよ」
 絵理子を見上げると、能面の下から涙がこぼれてきた。今度はうれし涙のようだ。
 「いつ? いつですか?」
 「そうだな。明日の朝、テストしてみよう。うまくいけば、今度ここにいる間には何とかなるだろう」
 「嬉しいわ」
 久しぶりに絵理子の弾んだ声を聞いたと壮一は思った。

 ほとんど徹夜でモニターに向かっていた壮一は、夜明け前になってデスクに突っ伏して眠っていた。
 「あなた、あなた」
 絵理子に肩を揺り動かされて目が覚めた。
 「あ、ああ。いつの間にか眠ってしまった・・・・」
 「大丈夫ですか? あまり無理をなされない方が」
 「おまえのためだ。少しくらいは」
 「でも、あなたが体を壊してしまっては何にもなりませんから」
 「そうだな」
 「できましたの?」
 「まだできていないんだ。だが、あと数時間でできる。昨日は朝にはと言ったけど、最初の実験は午後になりそうだ」
 「それくらいの遅れは、遅れたうちには入りませんわ」
 壮一は絵理子の方を振り返ってニッコリと笑い、再びモニターに向かった。
 「あなた。一段落したら朝食を。準備ができていますから」
 「あ、そうか。・・・・そうだな。先に食べておくか。これから先は休むところがなくなりそうだから」

 ダイニングに行くと、コーヒーのいい香りが漂っていた。壮一はカップに注がれたコーヒーに口を付けた。
 「うん、うまい」
 バターが塗られた厚めのトーストが載った皿を映理子が差し出すと、壮一はこれもうまそうに囓った。久しぶりに美味しそうに食べてくれるわと映理子は思いながら温野菜の入った皿をテーブルの上に置いた。
 「おっ! 今日はサラダじゃないんだな」
 「生野菜をお食べにならないから」
 壮一は肩を竦め、温野菜を口に運んだ。

 朝食を食べ終わると、壮一は早速奥の部屋に行き、続きの仕事を始めた。モニターをジッと見つめていると目の奥が痛くなる。寝不足も手伝ってその痛みは尋常なものではなかった。しかし、壮一は一心不乱に作業を進めていった。
 絵理子は、ただひとりダイニングで朝食を摂っていた。食べながら奥の部屋にいる壮一のことを思う。
 (あのひとの実験が成功すれば、こうしてひとりで食事をすることもなくなる。イエ、それだけじゃない。いつでも外に出て行ける。こんな場所に閉じこもっていなくてもいい。こんな能面をつけなくても・・・・)
 絵理子は、テーブルの上に置かれた表情のない能面をジッと見ていた。

 壮一のいる奥の部屋からはコトリとも音がしない。いるのも忘れてしまいそうになるくらいだ。絵理子は読みかけの小説を手にして印刷された文字をじっくりと読み進んでいった。時間はたっぷりあった。何しろ食事の準備とわずかな洗濯以外にすることはなかったからだ。テレビもラジオもあった。しかし、映りの悪いテレビや雑音の入るラジオから流れる笑い声には耐えられなかった。だから、まったくスイッチを入れたことがない。
 絵理子は決して文学少女ではなかった。と言うよりも、小説などこの別荘に来るまで読んだこともなかった。読むのはファッション雑誌やくだらないゴシップばかり載った女性誌だけだった。この別荘に引きこもったばかりの頃には、そんな雑誌の類を読んでいたのだが、すぐに飽きてしまって、トルストイやドストエフスキーなどの作品を読み始めたのだった。別荘の書棚には、そんな書籍が山積みになっていた。

 午前11時の時報を聞いて、絵理子は昼食の準備に入った。その下ごしらえがすんだ頃、壮一がダイニングへ顔を出した。
 「あなた、ご休憩ですか?」
 「ああ、一段落したんだ」
 「できそうですか?」
 「午後には実際に機械を動かしてみるつもりだ」
 ここまで来れば仕上がったも同然だという自信の表情を壮一は見せた。
 「お疲れでしょう?」
 「大丈夫だ」
 そう言ったのだが、壮一はお茶を飲みながらソファーの上で眠ってしまった。疲れと安心感がそうさせたのだった。

 壮一が目覚めたのは午後2時過ぎだった。
 「しまった。ちょっとのつもりが寝過ごしてしまった」
 壮一は慌ててソファーから飛び起きた。
 「あなた、お食事を」
 「イヤ、すぐに再開だ」
 奥の部屋へ行こうとする壮一を絵理子が制した。
 「焦ってはことをし損じますわ。時には休息も必要です」
 「・・・・そうだな。おまえの言うとおりだ。めしにしよう」
 「そうしてください。椅子にお座りになって。すぐにお持ちします」
 絵理子はキッチンへと回り、何やらごそごそやっている。しばらくしてトレーに皿とカップを載せて壮一の元に戻ってきた。
 「ほう。リゾットか」
 「うまくできたかしら?」
 「おまえが作ってくれるものなら、何でもいい」
 壮一はスプーンでひとくちすくって食べた。
 「・・・・ちょっと濃いな」
 「やっぱり・・・・」
 「ま、いい」
 壮一はあっという間にリゾットを平らげ、カップに入ったスープを飲み干した。
 「さて、続きだ、続き」
 壮一は立ち上がる。
 「あなた、お茶を」
 「あ、うん。そうだな」
 座り直して絵理子の入れてくれた緑茶を啜った。

 「さて、そろそろ取り掛かるか」
 壮一は腰を上げて奥の部屋へと向かった。壮一はコンピューターのモニターには向かわず、入って左側の壁際に置いてある棚の扉を開いた。
 上から二番目の棚の上に能面が置いてある。この能面はふつうの能面とはちょっと違う。どこが違うのかと言えば、この能面には目がない。目を瞑っているのだ。
 壮一はその能面を取り出してジッと見つめ、それからよしと一声を発してからコンピューターデスクの左側へと歩を進めた。
 そこには50センチ角ほどの平らな台がある。壮一はその上に能面を置き、位置を調整して動かないようにセットした。
 「さて・・・・」
 休憩前に用意しておいた3種類の液体がビーカーの中に入っている。そのひとつを手にしてビーカーの底の方からジッと見つめた。
 「よしよし。これをセットしてと・・・・」
 能面をセットした台の横にピストル型をした入れ物がある。それにビーカーの中身をそれぞれ入れていった。白に近い肌色、やや濃いめの肌色そして茶色と言っていいくらいの肌色のものだ。
 セットし終わると壮一はモニターの前に座った。モニターには、あの事件以前に撮った絵理子の写真から作り出された3Dの顔が大きく映し出されていた。髪の毛、眉、睫のない、目を瞑っているちょっと違和感を覚える絵理子の画像だ。壮一は画面を切り替えてマウスを操作した。
 ウイインと音がし始めて、左隣に置かれた能面の上を緑色の細い光がゆっくりと動いていく。それにつれて、モニター上に能面が立体的に表示されていった。
 スキャンスピードが遅く、壮一は少し苛立つ。しかし、今更焦っても仕方がないと言い聞かせジッと待った。
 20分後、スキャンが終わった。モニターに映し出された能面の画像をチェックする。
 「よし。問題ない」
 絵理子の顔の画像を呼び出して、能面の画像と重ね合わせる。
 「目の位置を合わせればいいだろうな」
 能面と絵理子の目の大きさが少し異なるが、それは無視する。今やっているのは本番前の予行演習だからだ。
 「これでよしと・・・・」
 壮一は、もう一度すべてを点検する。間違いないことを確かめてから、リターンキーを叩いた。
 固定された能面の上に肌色の液体が噴霧され始めた。ゆっくりと左右に動き次第に上から下へと移動していく。能面の上に肌色の薄い膜が形成されていった。
 壮一は時計を見た。
 「この分では2時間は掛かるな」
 そう呟きながらも、壮一は次第に姿を変えていく能面をジッと見続けていた。

 機械が止まったのは、リターンキーを叩いてから2時間を15分ほど回った頃だった。能面はもはや能面ではなく、目を瞑った絵理子の顔になっていた。
 壮一は、真正面から見たり、横から見たりして仕上がりを確かめた。
 「いいぞ、いいぞ」
 自然と笑みがこぼれた。
 「固まるまでじっくり待つとしよう」
 壮一はひとつ伸びをして部屋を出た。

 部屋を出ると、コーヒーカップを載せた盆を持った絵理子に出会った。
 「あなた、お茶を」
 「向こうで飲もう」
 顎でリビングの方を指す。
 「どうです?」
 「うまくいってるよ」
 「ほんとに?」
 「ああ、2,3時間したら、結果を見せられるよ」
 能面の下で絵理子が微笑んだと壮一は想像した。
 「じゃあ、リビングにお持ちしますわ」
 向きを変えた絵理子のあとを壮一はついていった。細いウエストからヒップの線が壮一を欲情させた。しかし、昼間は決して絵理子が応じないことがわかっていたので、その劣情を押さえつけた。
 「2,3時間掛かるんでしたら、御夕食を先に召し上がります?」
 「あ、そうだな。そうするか」
 「じゃあ、すぐに準備します」
 コーヒーカップをテーブルの上に置くと、絵理子はキッチンに入って準備を始めた。
 「何ができる?」
 「豚のロース肉がありますから、これを使ってショウガ焼きをしようと思うんですけど、よろしいですか?」
 「ショウガ焼きか。それもいいな。キャベツをたっぷり載せてくれ」
 「ショウガ焼きの時だけは、生野菜をお食べになりますものね」
 「生野菜のサラダが嫌いなだけだぞ」
 と反論した壮一だったが、他の料理でも生野菜はほとんど残していた。それ以上言っても壮一は決して認めないことがわかっていたので、絵理子は料理に専念した。

 壮一はものも言わずにショウガ焼きを食べていた。こんな時はホントに美味しいときだわと絵理子は思いながら壮一を見つめていた。
 最後のキャベツを口の中に押し込むと、壮一は時計を見た。
 「そろそろいいかな?」
 箸を置くと、壮一は立ち上がる。
 「わたしも見に行ってもよい?」
 「もちろん、いいよ」
 「ちょっと待って。汚れ物を水につけておくから」
 絵理子はテーブルの上のものをシンクの中に沈め、先に部屋を出て行こうとする壮一の後を急ぎ足で追った。
 壮一は大股で奥の部屋へ歩いていくと勢いよくドアを開いた。そのまま能面の前へと急ぐ。そうしてから能面をジッと見つめた。あとから部屋に入ってきた絵理子が壮一の肩口から能面を覗き込んだ。
 「よし。いいできだ」
 「まるでわたしの顔だけがそこにあるみたい・・・・」
 絵理子がゴクリと唾を飲み込んだ。能面の表面に噴霧された樹脂が固まって、能面はモニターに映し出された絵理子の顔に変化していた。
 「ここまで来るのに苦労したんだ」
 「ごめんなさい、わたしのために」
 「いいんだ。おまえのためなら、どんな苦労もいとわない」
 壮一は能面の上部に指をあてて、能面から樹脂の膜を取り外した。
 「それをわたしの顔にくっつけるの?」
 「イヤ、違う」
 「どこが違うの?」
 「この膜は、この能面にフィットするように作られている。つまりこの能面用なんだ。この能面の顔を、おまえという別人の顔にするために樹脂の厚みを微妙に変化させているんだ」
 「すると、わたしの用のものは別に作る必要があるのね」
 「そうだ」
 「すぐに作ってもらえるの?」
 「作るには、今のおまえの顔の型が必要だ」
 「わたしの顔の型がいるの? わたしの顔を使って直接作ることはできないの?」
 「できないこともないが、固まるときにかなり熱が出る。熱くて耐えられんだろう。それに」
 「それに?」
 「それに、固まるまで2時間くらいはジッとして表情を変えられないんだ。そんなことができるか?」
 「・・・・できそうもないわ」
 「そうだろう? だからまず、型を作る」
 「それは簡単なの?」
 「簡単じゃないが、直接樹脂を吹き付けるよりはましだ」
 「すぐにやって」
 「わかった。すぐにやろう」
 壮一はデスクの引き出しを引いた。