第2章 専務・壮一

 壮一の車が会社の駐車場に滑り込んだのは、始業時間を大幅に過ぎた頃だった。車を降りながら壮一は時計を見た。
 (会議までにはまだ時間があるな)
 始業時間に間に合ったとしても、会議まではする仕事はほとんどない。だから壮一はあえて早く来ないのだった。
 エレベーターを上り7階で降りる。部屋に向かって歩いていると、何人かの従業員とすれ違った。
 「おはようございます」
 「ああ、おはよう」
 挨拶を返して部屋のドアを開けた。何かをメモしていた秘書の大塚恵が立ち上がった。
 「お早うございます、専務」
 「ああ、おはよう」
 今にも壮一に抱きついてキスするのではないかと思うような輝きを放つ愛くるしい瞳を向けられて、壮一はちょっとどぎまぎする。
 絵理子という妻がいなければ、いや、絵理子との仲が冷めていれば、すぐにでも大塚恵と不倫関係になっているだろうなと壮一は心の中で思った。
 (それにしても・・・・)
 こんなに愛しているのに、絵理子と一緒にいると、それがうまく表現できない。何故か突っ慳貪にしてしまう。いつも後悔するのだが、一向に改まらない。
 (絵理子はボクの愛をわかっていてくれると思うが・・・・)
 「専務。お茶をどうぞ」
 大塚恵が机の上に茶の入った湯飲み茶碗を置いた。
 「あ、ああ。すまん」
 大塚恵は、壮一の正面に立って、予定表を読み始めた。
 「午前10時から運営会議です。昼食後、午後1時から企画会議、午後3時に三木洋介様がご面会にいらっしゃいます」
 「三木との約束は今日だったか?」
 「はい。そのようにアポを受けております」
 「そうか」
 壮一は大塚恵に見えないように顔を顰めた。
 「先ほど、総務部長から連絡がありまして、田倉常務との会食は午後7時半でお願いいたしますとのことですが、よろしいでしょうか?」
 「場所の変更はないのか?」
 「いつもの割烹でとのことですが」
 「わかった」
 壮一は、机の上に置かれた決済の書類に目を通し始めた。そんな壮一を大塚恵は椅子に座って横目でちらりちらりと見ていた。
 (専務って、ホントに素敵な人。奥様がいてもいいわ。一度でいいから抱いて欲しい)
 頬を染めながら大塚恵はもう一度壮一を見た。

 大塚恵が短大を卒業してこの会社に入ったのは丁度2年前だった。初めは受付嬢として採用された。
 「君は会社の顔だからね。頑張ってくれたまえ」
 井川遥似の美人で、女としては身長が165センチと高めだったがスタイルはよく、受付嬢として採用した会社の意図はわからないでもなかった。しかし、恵としては不本意だった。何のために秘書科を出たのかわからないと思っていた。
 「雇ってくれただけでもありがたく思わなければいかんぞ。この不況下に、短大出を雇ってくれる会社なんか、滅多にないんだからな」
 父親にそう言われて、それもそうだと自分を納得させて、受付の椅子の腰掛けて、与えられた仕事に励んでいた。
 そうこうしているうちに、毎日玄関を通ってエレベーターへ向かう従業員を見ていて、ちょっと不思議な光景が恵の目にとまった。若い男性に向かってみんなが挨拶をしているのだ。
 「ねえ、ねえ。あの素敵な人、みんなが挨拶してるけど、どういう人?」
 先輩の受付嬢である木本愛子に大塚恵は尋ねてみた。
 「あら? 知らないの? 専務の田倉壮一よ」
 「専務? あの若さで?」
 恵は驚きを隠せない。
 「大塚さん、あなた、会社のことを少しは勉強したら?」
 「どういうことですか?」
 「田倉って姓を聞いて想像がつかない?」
 恵はジッと考え込んだ。
 「田倉? ・・・・あ、もしかして、初代社長と同じ名前だから、初代社長の親戚なのね」
 「そう。専務は初代社長のひとり息子なのよ。それと田倉常務は専務の叔父さんに当たるのよ」
 「そうか。縁故採用かあ。いいわね」
 恵は、エレベータの前に立っている田倉壮一の後ろ姿を見ながら溜息をついた。
 「ただの縁故採用じゃないのよ」
 「はあ?」
 「ゆくゆくは、社長になるのよ」
 「そうだったの」
 うっとりとした目でエレベーターに乗り込む壮一を眺めている恵に向かって木本は諭すように言った。
 「彼氏は駄目よ。ラブラブの奥さんがいるからね」
 「結婚してるの?」
 「そうよ。すごい恋愛の末に、去年の秋、ゴールインしたのよ」
 「残念だなあ。・・・・でも、2号さんなんてどうかしら?」
 「あなたなら、もしかしてもしかするかもしれないけど、彼、毎日挨拶しているあなたに目もくれないでしょう?」
 そう言われればそうだと思う。真正面から目を合わせているのに、壮一は一度としてニコリとしたこともなかった。
 (他の男性従業員は、わたしが挨拶すると、みんなはにやにやするのにな)
 短大出の受付嬢と次期社長じゃあ、絶対釣り合わないなと恵は諦めざるを得ないと思った。それでも壮一が通りかかると精一杯の笑顔を向けていた。

 それから1年後、現在から1年前のこと、恵は帯刀総務部長に呼ばれた。帯刀は恵の履歴書などが収められているファイルを見ながら尋ねた。
 「大塚君は、秘書科を出ていたんだったね」
 「はい」
 「田倉専務の秘書をやって欲しいのだが、どうだね?」
 「た、田倉専務のですか?」
 「そうなんだ。実は、今秘書をやって貰っている木村逸子が結婚退職するものだから、代わりを探しているんだ。君が秘書科を出ているという情報が入ったものだから、どうかなと思ってね」
 「よ、喜んでさせていただきます」
 渡りに綱の思いだった。恵は大喜びで引き受けたのだった。恵は帯刀に連れられて早速壮一に挨拶に行った。
 「専務。明日から専務秘書をして貰う大塚恵です」
 「大塚です。よろしくお願いいたします」
 元気いっぱい挨拶したのだが、壮一の返事はつれないものだった。
 「あ、よろしく」
 顔も上げないで書類を見続けていた。
 (絶対、わたしのこと、振り向かせてみせるわ)
 恵は半分意地になっていた。

 受付嬢には制服があったが、秘書には制服がなかった。以前はあったらしいのだが、担当重役の外出に伴って出かけることが多かったことから、着替えの時間を節約するために次第に私服のまま勤務するようになったらしい。
 恵は、21才の若さを見せびらかすような大胆な服を着て壮一の秘書として働き始めた。恵の大きな乳房の谷間が強調されるような服を着たり、ショーツが見えそうなくらい短いタイトスカートをはいたりもしてみた。服装だけではなく、機会があれば、壮一のことが好きだと直接言い続けた。しかし、壮一は乗ってこなかった。
 (冗談だと思っているのだろうか? それともインポかしら? あるいはホモかしら? でも、結婚してるんですものね)
 ごく稀な非常に堅い男だと結論せざるを得なかった。しかし、恵は諦めることなく、虚しいアタックを続けていた。

 「専務。そろそろ会議のお時間です」
 「あ、わかった」
 壮一は大塚恵に促されて席を立った。恵に手渡された書類を持って会議室へと向かう。すれ違う従業員が軽く会釈してきた。壮一も会釈を返す。
 会議は前月の営業収支に始まり、経常利益の減少の分析、対策について長々と報告された。将来は会社を背負って立つ立場の壮一ではあるが、今は絵理子のことで頭がいっぱいだった。
 (早くあの山奥から社交の場へ復帰できるようにしてやりたい)
 それが壮一の抱える一番の問題だった。
 (会社は役員たちに任せておけばいいのだ)
 そんな風に考えていれば欠伸も出る。しかし、衆人の面前で欠伸をするわけにもいかない。壮一は欠伸をかみ殺していた。
 (会社の幹部をするよりも大学で働いていた方がどれほどよかったことか)
 壮一は父である初代社長・田倉源市が急死してから大学から呼び戻され、わずか半年ばかりでたちまちにして専務という役職に就いた。壮一は、大学でののんびりした研究生活の方が懐かしかった。
 「田倉常務、この点に関しまして何かご意見は?」
 質問したのは、常務のひとりである岡崎宗一郎で、その能力から言えば社長の席についてもおかしくない男だった。ただ、女癖が悪く、そう言う点に関しては潔癖だった壮一の父に嫌われていた経緯があった。源市が亡くなって、二年の期限付きでとりあえず社長になったのが、現在の小野和男で、小野はその器ではなかった。二年後の次期社長の椅子を巡って争いが水面下で行われていた。壮一の叔父である田倉洋治も一応は次期社長候補で、こういった席ではしばしばその能力を試されるよな発言が向けられていた。壮一の目から見れば、叔父は経営能力という点では多少問題があった。
 「第2支店の業績悪化は、もはや抜き差しならないところまで来ている。先々月からの打開策も一向に成果を上げていない。結局のところ、立地条件の問題だろう。一口で言えば、先の望みはないと言うことだ。このままずるずると営業を続けていれば、会社本体に影響しかねない。早急に閉鎖するべきだ」
 「あ、まあ、田倉常務、直ちに閉鎖と言いましても・・・・」
 「人員については、業績が伸びている第4支店に回せばいい。店舗については、すぐには決定できないだろうけれど、ちょっと別の方面から考えているから、保留と言うことでいいかな?」
 「しかし・・・・」
 常務を初め、他の幹部たちは顔を見合わせた。第2支店の閉鎖という案は、取りざたされていたのだけれど、問題が多すぎて廃案になっていたのだった。
 「人の流れを第2支店の方へ持ってくる具体的な方法があるのなら、閉鎖は再考しよう。どうだね?」
 首を傾げながらも常務のひとりの意見と言うことで幹部たちに言葉はなかった。代わりに壮一が口を挟んだ。
 「田倉常務、第4支店の業績が伸びているとは言っても、第2支店の人員を吸収できるほどではないでしょう?」
 「あ、まあ、そうだが、依願退職を募ればいい」
 「退職金も馬鹿にならないですよ。それに閉鎖後の店舗利用についての具体的なお考えは?」
 「・・・・いや、まだ今はそれは言える段階にない」
 ホントのところは具体案がないようだった。身内同士でいらぬことを言うなと言うような目で洋治は壮一を睨んだ。
 「おまえに何かいい案でもあるのか?」
 洋治は壮一にそう切り返してきた。
 「ともかく、人の流れを第2支店の方へ持っていけばいいのですね」
 「そうだ。それができれば、問題ない」
 「第2支店は人の流れが悪い上に、第4支店との距離がそれほどでないことが問題でしょう。ここは、第4支店との差別化をするべきです」
 「差別化?」
 「品揃えを高級品に替えると行きたいところですが、今のような不況では恐らく駄目でしょう」
 「じゃあ、どうするんだ?」
 「逆手を取って、安価な外国製品ばかりにしたらどうかと思うんです」
 「なに?」
 「最近は特にヨーロッパ製品の評判がいいようです。ですから、イギリスコーナーやフランス、イタリアコーナーなどを作って、あまり高くない日用品などの手頃な商品を置いたらいいのではないかと思うんです」
 いいかもしれないと言う声が聞こえてきた。岡崎は苦虫をかみつぶしたような表情を浮かべた。洋治の失点を狙ったのに、壮一によって挽回されてしまったからだ。
 「実を言うと、向こうのディーラーとすでに接触を始めています」
 「なに? いつの間に」
 「ボクだって、遊んでばかりいるわけではないんですよ」
 これで週休三日を維持することができると、壮一は思っていた。

 午後の企画会議は、壮一の提案が緊急動議として出され、そのための会議に変更されててんやわんやの状態だった。
 会議は続いていたけれど、来客があるという理由をつけて、午後3時少し前に壮一は専務室へと戻った。
 「専務、お疲れ様でした」
 「ハア、ホント、疲れたよ」
 「冷茶にしましたけれど、よろしかったでしょうか?」
 壮一はニッコリ笑って冷茶の入った湯飲みを手に取った。ヒヤリとした感覚が指に伝わってきた。
 お茶の苦みの中にほんのりとした甘味が漂っていた。
 「美味い」
 その返事を聞くと、大塚恵は嬉しそうに笑顔を見せて席へと戻っていった。

 午後3時丁度にドアがノックされた。
 「はい、どうぞ」
 返事が終わらないうちに入ってきたのは、三木洋介だった。イタリア製のスーツに身を包み、田村正和風の風貌を装ってはいるが、一向にもてないようだ。
 「いよっ! 恵ちゃん。今日もいかしてるね」
 恵は愛想笑いを浮かべながら、壮一の方へ案内した。
 「相変わらず、時間ピッタリだな」
 「几帳面すぎるっていつも言われるよ」
 ソファーの腰掛けたばこに火をつける。
 「そうだろうな。で、今日は何の用事だ?」
 「この前持ってきたベルギー製の壺の件だが、どうだ? 置いてくれないか?」
 「ああ、あれか・・・・」
 三木は壮一の元にあれこれと商品を売り込みにやってくる。このところ、高価なヨーロッパ製品を持ち込んできていた。高価なものの方がひとつ売れればもうけが多いと言うことで、一攫千金を狙う三木はちょっと手が届かないような価格のものを持ち込んできていたのだが、壮一は首を縦には振らなかった。売れないものを置いても仕方がないからだ。しかし、このことで、ヨーロッパ製の安いものを大量に仕入れる案を思いついたのだった。
 「うちの客層にはあの壺は高すぎるな。高島屋なんに売り込んでみたらどうだ?」
 「高島屋が引き受けてくれれば、おまえのところには来ないさ」
 「それもそうだな」
 壮一は肩をすくめた。
 「なんとかならないか?」
 「テナントの形で置くって言うのなら、おいて貰ってもいいが」
 「・・・・そうか」
 三木としては、壮一の会社に卸したがっていた。そうすれば、売れようとどうしようと三木の懐が痛むことがないからだ。壮一としては、売れそうもないものは置けないから、テナントなどと言う話を持ち出したわけだ。
 「いい話があったら、また来るわ」
 たばこをもみ消すと、三木は席を立った。
 「すまないな」
 壮一も立ち上がって三木をドアまで送っていった。
 「じゃあな」
 三木が部屋を出て行くと、恵が壮一に寄ってきた。
 「今日の企画会議に出された案は、三木さんが持ち込んだ話をヒントにしたんでしょう?」
 恵は勘が鋭いなと思ったが、壮一は答えなかった。三木に恩を売りたくなかったからだ。

 いつもの割烹という赤坂の料亭は、政治家たちがけっこう利用するらしい。女将は当然のことながら、従業員も絶対に中でのことを外には漏らさないという定評のある場所だからと言うことだ。
 壮一がタクシーから降り立つと、入り口付近に報道関係者らしい数人が張り込んでいるのが確認できた。こんな日はイヤだなと思ったが、仕方がない。壮一はカメラを向けてくる男たちを無視して中へ入っていった。肖像権云々いっても相手が相手だけに話にはならないことがわかっていた。部外者とわかれば、フィルムは処分されるだろうと思ったのだった。
 「田倉様、お待ちしておりました」
 愛想のいい女将に案内されて奥の部屋へと向かった。ガードマンらしい男たちがいる場所の手前を左へ曲がって部屋へと導かれた。
 「遅かったな」
 洋治は、すでに杯を傾けていた。
 「出がけに企画書の確認をしてくれと言われまして」
 「もうできたのか?」
 「大筋はできていましたから」
 「そうか。まあ、一杯いこう」
 「はい」
 壮一は洋治から杯を受ける。
 「閉鎖した後の、跡地の利用についてお考えがあるとおっしゃってましたが?」
 「ああ、あれか。2,3引き合いはあるんだが、かなりの損失になりそうで言い出せなかったんだ」
 「具体案がまったくないというわけじゃなかったんですね」
 「当たり前だ! だが、おまえの案がうまくいかなければ、そうせざるを得なくなるんだがな」
 「うまくいきますよ。きっと」
 「期待しているぞ。うまくいかないことを願っている連中を出し抜くためにも何とかしないとな」
 「社内でそんなことを?」
 壮一はちょっと驚きの表情を浮かべた。
 「おまえも疎い男だな。会社の経営ばかりではなく、そう言った勢力関係についても目を光らせていないと足元をすくわれるぞ」
 「まさか、岡崎常務のことを言ってるのですか?」
 「他に誰がいる?」
 壮一は黙り込んだ。恵の口からそんな話を聞いたような覚えはあった。しかし、本気にはしていなかった。考えても見れば、ワンマンだった壮一の父が死んでから、大会社に成長した会社の中で覇権争いがないはずはなかった。
 「おまえとわたしがしっかりと手を組んでいる間は大丈夫だ。決して油断するんじゃないぞ」
 「わかりました」
 「今日の会議のようなことがあっては、ちょっと困るから今後は打ち合わせをしてから会議に臨むことにしよう。いいな」
 「はい」
 「ところで、絵理子さんの方はどうだ?」
 洋治は壮一の杯に酒を注ぎながら尋ねた。
 「あ、まあ、変わりはないです」
 「気の毒になあ。あれほど美しかったからなあ」
 その言葉に壮一は、視線を下げた。
 「・・・・あ、いや、すまん。イヤなことを言ってしまった」
 「いえ、いいです。仕方のないことですから」
 壮一は杯を上げる。
 「何とかなりそうなのか?」
 「ええ。もうすぐ何とかなりそうです」
 「そうか。うまくいけば、絵理子さんのためだけではなく他の分野にも応用できるな」
 「もちろんです。医療分野に打って出られます。ボクもそれを狙っています。会社にとって新たな市場の開拓になるでしょう」
 「おまえひとりでやれるのか?」
 「大丈夫です。もう仕上げの段階ですから」
 「おまえがそう言うのなら任せるが、力がいるときは言ってくれ。いいな」
 「量産体制になったときには、是非力添えをお願いします」
 「わかってるよ。おう、料理が冷めてしまうな。さあ、食った、食った」
 壮一と洋治は、その日遅くまで一緒に酒を飲み交わした。