奥軽井沢のとある一角、鬱蒼とした林の奥深くにその別荘はあった。お決まりのログハウス風ではなく、ヨーロッパのお城を連想させる重厚な作りをしている。電線らしいものはなく、裏庭に設置された大きな水車がその別荘に必要な電力を供給していた。勿論電話線などもない。携帯電話が普及しているから、わざわざ電話線を引くこともないのだ。
その別荘へ行くにはただ一本の未舗装の道しかない。その道の入り口はわかりにくく、別荘に行くことが目的のものですら行きすぎてしまうような道だ。また、その道の行き止まりが別荘になっているから、その別荘の持ち主である田倉壮一の車が通る以外にはその道を通るものはいなかった。
壮一は、麓のスーパーで買い込んだ一週間分の食料を車に詰め込んでその道をのぼっていった。轍の間に伸びた雑草が車の底を擦っていた。開けた窓から4月の爽やかな風が吹き込んでくる。遠くにウグイスの鳴き声が響いていた。
「ふう」
車から降りたって別荘の方を見上げると、窓のひとつにレースのカーテン越しに髪を肩まで伸ばした白いドレスの女性の姿が見える。壮一の妻・絵理子だ。片手をあげて合図したが、何の反応もなく絵理子の姿は窓の向こうへ消えた。
ぼくに気がつかなかったのかな? と壮一は思ったが、別に気にもとめずに荷物を車から降ろしてキッチンへと運び込んだ。キッチンは対面式で、壁際に大型冷蔵庫とストッカーが設置されている。壁は落ち着いたライトグリーンだった。
壮一は、車とキッチンの間を何度か往復し、運び込んだ食料品を冷蔵庫とストッカーに詰めていった。
すべてを詰め込んで、立ち上がって振り向くと目の前に絵理子の姿があった。壮一はギョッとして立ちすくんだ。
「ごめんなさい。帰ってきたのに気がつかなくて」
「いいんだ。簡単なことさ。よいしょ」
壮一は包装紙などのゴミを抱えて裏口から外に出て焼却炉へ放り込んだ。低温で焼くとダイオキシンがでると聞いたが、ダイオキシンなど糞食らえだと思いながら壮一は火を付けた。ライターでつけた小さな火がみるみるうちに燃え広がっていく。もはや消えることはないと判断した壮一は、別荘の中へと戻っていった。
「いつもすみません」
絵理子が言いながらアイスコーヒーの入ったグラスを壮一に差し出した。毎週一回の買い出しを壮一がしていることを言っているのだ。
「いいんだ。ぼくの役割だから」
壮一はアイスコーヒーをぐっと飲み干す。グラスの中で氷がカラリと音を立てた。
「ご夕食、何にいたしましょう?」
「そうだな。いい鶏肉が手に入ったから、あれを使ってスープでも作ってくれないか?」
「お野菜たっぷりの?」
絵理子の言葉は、野菜嫌いの壮一にはちょっと皮肉に聞こえた。しかし、ただの軽口なのか、皮肉そのものなのかは窺い知れない。
「そう。鶏肉がとろけるくらいに煮込んでね」
「わかりましたわ」
「じゃあ、ぼくは奥の部屋にいるから」
「はい」
壮一は絵理子をキッチンへ残してリビングの奥にある壮一専用の部屋へと向かった。
電力節約のため小さな電灯しかついていない薄暗い廊下を抜けて、部屋のドアを開くと有機溶媒の臭いがプンと鼻を突いた。部屋の奥に設置しているテーブルの椅子に腰掛けると、壮一はビーカーの中に入ったどろりとした液体を眺める。そうしてから、ガラス棒でビーカーの中身をかき混ぜてみて、舌を鳴らした。
(ちっ、また失敗だ。やはり粘度が少し足りないようだ。顔料を入れた分を過大評価したようだ。溶媒を少し調整しなければならないな)
溜息をつきながら、壮一はビーカーの中身をステンレス製のゴミ箱の中に廃棄した。
(さて・・・・)
壮一はテーブルの上のノートを開いた。ノートに書かれた量を見ながらビーカーに材料を入れていく。ビーカーの底ではマグネティックスターラーがクルクルと回り続けていた。
「次は30分後だ」
材料のいくつかを入れ終わると、タイマーを入れてから壮一は左側にあるコンピューターデスクに座り直した。何度かマウスを操作してソフトを立ち上げてファイルをオープンする。
モニター上に3Dの画像が浮かび上がる。髪の毛、眉毛、睫のない女の顔だ。
(スキャンしたフォトを直接取り込めればこんな苦労はしなくていいのだが)
そんなことを思いながら、壮一は隣に置いてあるもう一台のコンピューターのモニターに映し出されたフォトショップの画像を睨む。
(ここに小さなホクロがあるがどうするかな? あとで絵理子に聞くことにしよう。ソバカスは彼女のトレードマークだから残しておかなければ)
壮一は、ふたつのモニターに映し出される画像を拡大して、3Dの顔を写真の顔に近づけていった。口で言うのは簡単だが、実際には気の遠くなる仕事だった。しかし、壮一は懸命にその仕事に励んでいた。
タイマーが鳴り響く。壮一はしばらくモニターに目を釘付けにしていたが、思い直したように立ち上がってビーカーのそばに行った。
「よし、ここまでは問題ない。問題は次だ」
ビーカーの中は肌色の液体が渦を巻いていた。
「前回よりも5パーセント多く入れよう」
壮一は、ビーカーの中に白い粉を均一になるように投入していった。粘りけが出てきてマグネティックスターラーの回転速度が落ちてくる。壮一は、ダイアルを回して回転速度を調整した。
(これでよし。あとは仕上がりを待つだけだ。撹拌時間は2時間と・・・・)
再びタイマーをセットすると、壮一はもう一度コンピューターに向かった。
コン、コン、コンとドアを叩く音に壮一はモニターから目を離した。ティーカップを載せたトレーを持って絵理子が入ってくる。
「あなた。お茶を」
「ああ、すまんな」
壮一はモニターに目を戻して、絵理子の方を見ずに尋ねた。
「右の目尻にある小さなホクロはどうする?」
「あなた、ホントにできるんですか?」
「ああ、もう少しで完成だ」
「そうですか・・・・」
絵理子は期待していないような口調だ。実のところ、ここ数ヶ月、もう少しもう少しと言っていたからだ。
「ホクロは? ホクロはどうするんだ?」
絵理子の口調にちょっと苛立ちを見せながら、壮一が尋ねた。
「わざわざ作らなくてもいいと思いますけど」
「けど? どうなんだ?」
「・・・・どちらでもいいです。あなたのいいようにしていただければ」
壮一はちょっと考えてから答えた。
「完璧に元の君に戻したいから、ホクロも付けておこう」
「そうですね」
絵理子が部屋から出て行くと、壮一はティーカップを片手にしながらふたつのモニターをジッと見比べマウスを操作し始めた。
2時間後再びタイマーが鳴った。
(ちっ! ちょっと早いんだよな)
モニターの画面を見つめながら、壮一はビーカーのそばに立った。ピンセットでマグネティックスターラーを取り出して、ガラス棒でビーカーの中をかき混ぜてみる。
(いい感じだ)
それから窓際まで行って、ビーカーの中身を太陽光の下で見た。
(色合いも完璧だ)
満足げに頷きながら、壮一は机の上に置かれてあるピストル状のものを手に取った。ズシリとした重みがある。銃口のようなものの反対側に缶ビールほどの大きさの部分がある。その部分のロックを外すと蓋が開いた。壮一はその中にビーカーの中身を零れないように注意深く注ぎ込んだ。ガラス棒でゆっくりと撹拌しエア抜きをする。
(ようし。準備完了だ)
手の甲に向かって引き金を引き、中身をふりかけ始めた。肌色の薄い膜が手の甲に形成されていく。左右に何度か振って噴霧してから引き金を緩める。噴霧器をテーブルの上に戻すと、壮一は噴霧された手の甲をそっと人差し指で押さえてみた。
(いい感触だ)
それから、その薄い膜を手の甲から注意深く剥ぎ取った。
(うまくいきそうだ)
薄い皮膚のようなその膜を壮一はニヤリと笑って見つめた。
コン、コン、コンとノックの音。そして絵理子の声がする。
「あなた。夕食ができましたわ」
「あ、そうか。すぐに行くよ」
「スープ、注いでおきますわよ」
「わかった、わかった。すぐに行くから」
仕事に熱中していると、壮一は返事をしたまま何十分もダイニングへ行かないことがあるのだ。コンピューターデスクの前にいったんは座ったものの、スープを注ぐと言うのでファイルをセーブしてから部屋を出てダイニングへ向かった。
ダイニングルームはリビングと続きになっている。ただその境に二階のベッドルームへ上がる階段があるので、一応は分離された形となっている。ダイニング、リビングとも吹き抜けで、高い天井から照明が釣り下ろされている。照明に照らされたテーブルの上は驚くほど明るい。逆に照明装置の笠から上は、二階部分に相当する場所にある窓からわずかに月の光が入ってくるだけで照明装置の下とは対照的だ。
もうこんな時間かと思いながら、壮一はテーブルの上に目を落とした。明るいテーブルの上にスープ皿が置かれている。クリーム色のスープの中にニンジン、ジャガイモ、そして骨付きの鶏肉が浮かんでいた。
「うまそうだ」
絵理子に聞こえるように呟いてから、スプーンですくって口に運ぶ。期待した味が口の中に広がった。料理が上手な女を嫁に貰ってよかったと思う。
「いつもながら、いいできだ」
そんな壮一の褒め言葉に何も答えず、絵理子はサラダをテーブルの上に置きながら尋ねる。
「パンにしましたけど、よろしかったかしら?」
「おまえが作ってくれるものなら何でもいいよ」
絵理子はキッチンの方へ回って小さなバスケットを持ってきた。バスケットには絵理子の趣味らしい可愛いい花柄の布が敷かれ、その上にいくつかのパンが載っていた。そのひとつを手にとって、ふたつに割った。イーストの香りがふわっと鼻腔を刺激する。中に黒ごまがぎっしりと入っている。このパンは絵理子がスープを作りながら焼いたものだ。
「うまい」
パンを頬張りながらスープを口に運んでいった。
「たまには一緒に食わないか?」
絵理子は下を向いて首を振った。イヤなものは仕方がない。壮一はそれ以上は言わずに食事を進めていった。
「サラダもお食べにならないと」
「あ、うん」
壮一は野菜の中でも生野菜が特に苦手だ。さらに、ふりかけてあるドレッシングの酸っぱさが堪らなくイヤだ。食べたくはなかったけれど、絵理子がジッと見ているので、仕方なくアスパラガスだけを引き抜いて口に運んだ。レタスやトマトには手をつけなかった。
スープの皿が空っぽになると、絵理子は壮一の前にコーヒーのカップを置いて片づけを始めた。壮一は黙ってコーヒーに口を付けた。
スープもパンもうまかったが、味気ない食事だったと壮一は思う。絵理子が一緒に食べてくれればいいが、あの事件以来、決して壮一の目の前で食事をしようとはしない。気持ちはわかるがと、絵理子の後ろ姿を見ながら壮一は溜息を漏らした。
(もう少し。もう少しの辛抱だ。もう少しすれば、絵理子と仲良く食卓を囲むことができる)
壮一は、コーヒーをぐっと飲み干した。
リビングで『ライオンハート』のメロディーが鳴り響いた。
「なんだろう? 今頃」
壮一は腕時計を見た。午後7時半を回っている。鳴り続ける携帯電話を手にとって表示を見た。
(会社からか・・・・)
出ないわけにはいかないので、受話ボタンを押した。
「もしもし」
《専務? 帯刀です》
聞き慣れた総務部長の声が聞こえてきた。
《明日は役員会になっておりますが、ご出席の方は・・・・》
「アア、忘れていないよ」
壮一は、カレンダーに書かれた赤丸を確認した。
「それだけか?」
《田倉常務が夕食をご一緒したいとおっしゃっておりますが、ご都合の方はいかがでしょうか?》
また小言だろうなと思ったが、つき合わざるを得ないことは壮一にはわかっている。
「何時からだ?」
《午後7時、いつもの赤坂の割烹で》
「わかった」
《それでは》
ツーッという発信音が流れてきて、壮一は電話を切った。
「どなたから?」
片づけを終わった絵理子が対面式キッチンの向こうから尋ねた。
「帯刀からだ」
「帯刀さんって言うと、たしか総務部長さんね。今頃何の用だったの?」
「明日の会議の確認と、叔父からの夕食の誘いだ」
「叔父様から?」
「そう。また小言だろう」
「そんなこと、ないでしょう?」
「この不況時に週休三日をきちんと取ってるのは、ぼくくらいなものだからな」
「そう言う契約だからいいのではないかしら?」
「建て前と本音は違うからね」
「でも・・・・」
「明日から寂しくなるが、我慢してくれ」
「・・・・はい」
絵理子をこの別荘に残して壮一は明日の朝東京へ戻る。遊んで暮らせるわけではないから仕方のないことだ。
壮一は奥の部屋へ戻ってコンピューターに向かった。やり残した場所に手を加える。拡大縮小を繰り返しながら、3Dの画面を写真の画像に近づけていった。
縮小した写真を見たとき、壮一は絵理子を思った。壮一の汚した食器を洗ったあとで、絵理子はひとりで食事をしているだろう。
(夫婦なんだから、気にせずに一緒に食事をすればいいのに)
何度かそう言ってみたけれど、絵理子はガンとして聞き入れてくれなかった。ひとりでとる食事は楽しくない。絵理子だって寂しいだろうにと思う壮一だった。
眼精疲労で目の奥が痛む。しかし、壮一は作業に没頭していた。
(もう一日あれば完成しそうだが、明日は仕事へ行かなければならない。会議に出席しなければ、いくらボクでも愛想を尽かされてしまう)
ハアと溜息をつきながら壮一は作業を続けた。
コン、コン、コンとノックの音で我に返った。
「あなた、そろそろお休みにならないと、明日は早いんでしょう?」
時計は午後11時を指していた。
「あ、もうこんな時間か」
壮一は一度大きな伸びをした。
「お湯が溜まっています。どうぞお入りになって」
「おまえが先に入りなさい」
「いえ、わたしが先にはいるわけにはいきません」
絵理子はこんな女だ。壮一がどう言おうとも先には入らないだろう。
「わかった。すぐに入ろう」
壮一はファイルを閉じてコンピューターをシャットダウンした。今週の作業はこれで終わりだ。
烏の行水である壮一の入浴は5分と掛からない。アッという間に浴室から出て体を拭き下着にパジャマを着た。
「上がったぞ」
「はい」
ベッドルームに行き、枕元に置いてある推理小説を手に取った。ベッドに横になり、枕元のスタンドつけて前日の続きを読み始めた。
バスルームから絵理子が体を洗う水音が届いてきた。明日から4日間、絵理子のそばを離れると思うと壮一は劣情を押さえきれなくなる。
壮一に比べて長風呂の絵理子はなかなか上がってこない。眼瞼が重くなってきたけれど、壮一は何とか目を開いていた。
午前0時まであと15分に迫った頃、ガチャリとドアが開いて絵理子がベッドルームへ入ってきた。踝まで届く真っ白なネグリジェを着た絵理子は、部屋の灯を消すと隣のベッドに滑り込んだ。
壮一はゆっくりとベッドから起きあがった。絵理子は壮一の思いを拒むように壮一に背中を向けて寝ていた。
壮一はベッドを抜け出て絵理子の横に滑り込む。そうして、絵理子のヒップに手をはわせた。
「あなた。お止めになって」
「いいじゃないか。久しぶりだ」
「明日の朝早いんですよ」
「大丈夫だ」
壮一は、絵理子のヒップを撫でていた手をウエストからバストへと移動させていく。
「駄目です!」
壮一の手を絵理子は掴んでバストから引き離す。
「頼むよ。こんなになっているんだから」
壮一は、雄々しく屹立した股間を絵理子のヒップにこすりつけた。
「駄目です・・・・」
絵理子の手をふりほどいて、壮一は絵理子のバストを揉んだ。
「後生ですから」
絵理子はまだ抵抗を続ける。壮一は、絵理子の首筋にキスしながら、強弱をつけて乳首を揉み続けた。
絵理子の手から力が抜けてくる。
「あなた。スタンドを、スタンドの灯を消して」
スタンドの灯を消すと部屋の中は真っ暗になった。壮一は手探りで絵理子への愛撫を続けた。絵理子にキスしようとすると絵理子は顔を背け身体をねじって逃げた。
「いいじゃないか」
「あなた。わたしを苦しませないで」
そう言われれば諦めざるを得ない。壮一はキスは諦め、絵理子の股間を割って顔を埋めた。その気のない絵理子のそこは、わずかな湿りだけだった。その部分に舌を這わせながら、壮一は絵理子の乳首を揉み続けた。
なかなか準備ができないことに業を煮やした壮一は、指を絵理子の秘陰に挿入し出し入れした。絵理子は腰を浮かせ喘ぎ始め、それまでと違ったぬめりを感じると同時に挿入する指に抵抗がなくなった。
壮一は這い上がって痛いほどになった男根を絵理子の入り口にあてがった。
「絵理子。愛しているよ」
絵理子は答えない。黙ったままで、壮一が隙をついてキスしようとすると、両手で顔を覆ってそうさせなかった。壮一は腰を沈めた。
「うん・・・・」
腰だけを壮一の動きに合わせて振るけれど、両手は決して顔から離そうとしない。壮一の動きが激しくなるに連れて、指の間から喘ぎ声が漏れ始めた。
「はうっ、ああ・・・・、あうん・・・・」
壮一はもはや我慢できなくなった。
「絵理子! 行くぞ」
壮一の思いのすべてを載せて絵理子の中へ放出された。壮一が、絵理子の上に倒れ込んだときにも、絵理子は両手で顔を覆っていた。
午前6時、目覚ましが昔小学校で聞いたチャイムのようなメロディーを奏でる。スイッチを押して目覚まし時計を止めて、起きあがって隣のベッドを見た。そこには絵理子の姿はなかった。
キッチンから物音がかすかに聞こえてくる。絵理子が朝食の準備をしているようだ。壮一は、ガウンを羽織るとベッドルームを出た。
廊下に出ると、卵料理を作っているのだろう、バターの香りが鼻を突いた。壮一はダイニングのドアを開いた。
「お早う」
「あら? 今、起こしに行こうと思っていましたのに」
「あ、うん。今日は目覚ましで目が覚めたよ」
いつもは目覚ましが鳴っても、止めてもう一度寝込むことが多い。恐らくぐっすりと眠れたからだろう。
「コーヒーをくれないか?」
「はい」
レンジのスイッチを止めて、絵理子はカップにコーヒーを注いで持ってきた。壮一は受け取って口に含む。甘くほろ苦いコーヒーが口に広がった。
トースト、ベーコンエッグ、野菜サラダがテーブルの上に並べられたが、壮一はトーストだけを半分ほど噛ってから椅子を立った。
「あら? もう召し上がらないの?」
「もういいよ。着替えを頼む」
絵理子が何かを言おうとしたけれど、壮一はすでにダイニングを出て洗面所に向かっていた。
(せっかく作ったのに・・・・)
食べかけのトーストと一緒に、手をつけていないベーコンエッグとサラダも残飯入れの中に捨てると、絵理子は自分の食べる分を作り始めた。
「絵理子、着替え」
「あ、ごめんなさい」
絵理子は、用意してあった壮一の着替えを差し出した。壮一は、さっと着替えるとバッグを持って玄関へと向かった。
「行ってらっしゃい」
「ああ」
片手をあげると、壮一は車に乗り込みエンジンを掛けた。
車が走り去っていくと、絵理子はひとつ大きな溜息をついた。
「あの人といると疲れるわ」
そう呟きながら、絵理子はダイニングに戻った。新たに作られたトースト、ベーコンエッグ、サラダを前にして椅子の腰掛ける。
絵理子は、そっと頭の後ろに手を回しヒモの結び目を解いた。