月曜日だ。今日は会社に行かなきゃならない。気が重いけれど、行かなければ馘首になってしまう。生活費を稼ぐ手段が他にはないから仕方がない。それに、今の仕事が好きだから。
ベッドの下には、やっぱりというか、予想通りというか、土曜日に買ったワンピースが置かれていた。ますます気が重くなる。ぼくは諦め顔でワンピースに足を通した。
「菜穂子。菜穂子」
「なに?」
「ファスナー、上げてくれないかしら?」
「ちょっと待って、すぐ行くわ」
エプロン姿の菜穂子がベッドルームへやって来た。
「似合うわよ」
ぼくはちょっとはにかむ。
「あっ、そうそう。忘れてた」
そう独り言を言って、菜穂子は整理タンスの一番上の引き出しを開けた。
「はい、これ」
手渡されたのは袋に入った新品のパンストだった。パンスト・・・・。ぼくは、ベージュの薄い繊維が見える袋を見つめた。
「女の必需品だからね。予備もバッグに入れておくわね」
袋をぱりぱりと開けて取り出した。すぐに破れそうに薄い。
「丸めて、足先から入れないと破れるからね」
「分かったわ」
男の靴下とはまったく違う肌触りだ。パンストを穿いた足に手を這わせてみると、つるつるとした艶めかしい感触を覚えた。この感触は、記憶にある。菜穂子が時々身につけているスリップの上から菜穂子の体を触ったときの手触りだ。
ぼくの着ている下着はコットン製だから、男物とはそう変わらない。あれ着たら、どんな感じがするんだろう?
「千春! 何ぼんやりしてるの? お化粧する時間がなくなるわよ」
ぼくは慌ててテーブルに着いた。豆腐に揚げの味噌汁。卵焼き、塩鯖。今日も美味しい。菜穂子はホント、よくやってくれる。
歯磨きしてから化粧した。出来映え、まずまず。髪をブラッシングして、鏡で服装を点検。男の時にはしなかったことが、もう癖になっている。こんな癖なんてイヤだよ。
「行ってきまあす」
「気を付けてね」
半開きのドアから、菜穂子が手を振って見送りしてくれた。
「はあい」
階段を駆け降りていった。5センチのヒールも気にならない。スカートの裾を通り抜けていく風が心地よい。女になってまだ一週間というのに、生まれたときから女だったみたい。ぼくって、素質があったのかなあ。
いやいや、そんなことはない。ぼくは慌てて首を振った。
「スカート、スカート。わーい。お姉ちゃん、可愛いよ」
いつもの女の子がぼくのまわりを走り回る。いつも一緒になる大人たちはまったく気付かないようなのに、不思議な子だ。大人は気づいていて、気づかない振りをしているのかもしれない。
バスはいつものように混んでいた。お尻を触られた。痴漢だろうと思ってじろりと睨むと、女の人だった。偶然触ったようだ。首を竦めて、外の景色を眺めた。
「おはようございます」
大きな声で挨拶しながら、受付嬢たちの前を通り過ぎた。
「す・ぎ・もとさん」
ぼくのことは既に噂で知っているだろうに、彼女たちはちょっとポカンとしていた。
エレベータの前で待っていると、かつかつと足音がした。振り向いてみると、社長だった。
「お、おはようございます」
社長は、うん頷いて返事をしたあと、一瞬戸惑ったような顔をしてぼくを見た。
「君は確か・・・・」
誤魔化してもしょうがないので、正直に名前を言った。
「情報管理部の杉本千春です」
「杉本君、杉本君。あっ! そうか。先週、男装でプレゼンした杉本君だったね」
男装ねえ。・・・・そうかもしれない。あの時、既に女になっていたわけだから。
「はい。そうです」
「うん、やっぱりその方が君には似合うよ」
「ありがとうございます」
「もう少し短いスカートの方が君には似合いそうだねえ」
社長の顔に妙な笑顔が浮かんだ。
「社長。それって、セクハラですよ」
「セクハラ! セクハラかあ。セクハラは美人だという証拠だよ。違うかね?」
どういう訳か、そんな社長の言葉にもの凄く腹が立った。
「そう言う問題じゃないと思います。女を馬鹿にしている証拠です。女を性の対象物としか見ていないからそう言う言葉が出るんです。この会社は男女平等なんでしょう? 社長!! 違うんですか!?」
「こりゃ、手厳しい。・・・・イヤ、気に入った。君のような女性がうちの会社で働いてくれるとは、心強い。はっ、はっ、はっ」
ホントに反省してるのかしら?
エレベーターに乗っても、社長はぼくの体を嘗めるように見ていた。そんな行為もセクハラなんだけどなと思いながら、5階で逃げるようにエレベーターを降りた。
「おはようございます」
ドアを開けて、情報管理部の部屋の中へ入った。数人が顔を上げたが、男性社員は知らない女がやってきたというような顔をして、興味なさそうにモニターに目を戻した。
坂田さんがぼくだと気づいて、デスクから立ち上がってぼくに近づいてきた。
「わあ、見違えちゃったわ」
「少しは女らしくなった?」
「うん、うん」
小泉さんもやってきた。
「そのワンピース、よく似合うわ。自分で買ったの?」
「菜穂子が選んでくれたのよ」
「お化粧もやって貰ったのね」
「いいえ。これは自分で・・・・」
「ええっ!? ほんとに?」
「土日、菜穂子の特訓を受けたけどね」
「すごい。才能があるんだ。わたしなんて、高校卒業して半年は、そんな化粧ならしない方がいいって言われ続けたのに」
「わたしも。杉本さんって、やっぱ、女が似合ってるよ」
「今だけ。今だけ。元に戻るまでよ」
「戻らない方がいいと思うけど」
「こんな話し止めようよ。仕事、仕事」
ぼくらの話しを聞いていた男性陣もやっとぼくだと分かって、ほうと感心したような顔をしていた。
デスクに座って、社内メールをチェックした。来月の花見の参加者募集のメール。先週ぼくが提案した、次期戦略の概要が書かれた社長発信のマル秘文書。メールで送れば、マル秘じゃないけどなと思う。それに・・・・。なんだこれは?
『先頃話題になっている妙な噂の真相
情報管理部の杉本千春さんが、突然女になってしまったという噂について、我々特捜班が調査した結果、杉本さんは、元々女だったことが判明した。
杉本さんは、男性社会で対等に生きていくために、長年男として暮らしてきたのだけれど、我が社では男女平等が徹底されていることから、男として暮らす意義がなくなったため、女に戻ったものである。
杉本さんが、同性愛者で、男から女へ性転換したという噂は、まったく根拠のないものであり、今後杉本さんへの謂われのない中傷を繰り返すことは、杉本さんへのセクハラ行為として、訴追を免れないと言うことを特捜班として言明するものである』
ぼくが元々女だった!? それはともかく、同性愛者で女に性転換した!? 知らない間に、すごい噂が立っていたんだ。参ったな。
それにしても、この特捜班て言うのは誰だ? もしかして・・・・。モニターの横から、小泉さんを見た。彼女がにっこり笑って、Vサインを出した。やっぱり、彼女の仕業らしい。
このまま男に戻らないって言うのなら、これでもいいけれど、もし男に戻ったら、どうするつもりだろうか? ぼくは、小泉さん宛にメールを書いた。目の前にいるのにメール? 他人に聞かれたくないからだ。
すぐに返事が来た。
『男に戻ったときのこと? 考えてないわ。その時になったら、考えましょう』
なんて無責任!!! がっくり。ぼくがメールを読んだのが分かったのか、小泉さんは、にっこり笑って再びVサインを送ってきた。
菜穂子と結婚している言い訳は何と考えているのだろうか? 変なメールを出して、後の言い訳に困るんだけどなあ。
「杉本君。ちょっと、来てくれないか?」
部長がぼくを呼んでいる。
「はい。すぐに伺います」
ぼくは、部長のデスクへ向かう。みんなが何事かとぼくを目で追った。
「今社長から電話が入って、杉本君に社長室まで来てくれないかとのことだ」
「社長室へですか?」
「ああ。社長が君に用事があるそうだ」
「社長がわたしに用事? いったい何の用事でしょうか?」
「わたしにはわからんよ」
「そうですか。分かりました。いつ伺えばいいんでしょうか?」
「できるだけ早くと言っていた。今急ぎの仕事はあるか?」
「部長。うちの部署に急ぎの仕事はないでしょう?」
「それもそうか。じゃあ、すぐにでも言ってくれ」
「はい」
男なら真っ直ぐ社長室へ向かうところだろうけれど、デスクにバッグを取りに戻った。女はハンカチやティッシュ、化粧道具などがいつもそばにないといけないと菜穂子に言われていたからだ。
「杉本さん、何だって?」
「社長が呼んでるって」
「何だろうね?」
「さあ?」
ぼくは肩を竦める。
「ボーナスでも出るのかな?」
「それならいいけど・・・・。行ってくるわ」
「頑張って」
トイレに入って用を済ませ、化粧をチェックした。少してかったかな? ちょっと化粧を直しておいた。
エレベーターを7階まで上る。歩いた方がよかったかなとエレベーターを降りてから思った。
社長室をノックした。
「杉本千春です」
中から、秘書の声がした。
「どうぞお入りください」
ドアよりに秘書のデスクがあって、パーテーションの向こうに社長の姿が見えた。
「やあ、よく来たな。こっちに来て座りたまえ」
「失礼いたします」
社長に示されたソファーに座ると、社長が向かいにどっかと座った。
「わたしに何かご用でしょうか?」
「単刀直入に言おう。君に社長秘書をやって欲しい」
「ええっ!! わたしがですか?」
「そうだ」
「社長秘書はほかにいるんじゃないですか?」
「彼女は、この3月で退職するんだ。いわゆる寿退職だ」
「寿退職って、結婚して辞めるってことですね」
「そう言うことだ。残念なんだが・・・・」
お茶を入れて持ってきた社長秘書が、ちょっと顔を赤らめた。社長は女に手が早いので有名だ。この秘書さんはどうだったんだろうか? 社長が飽きてしまって、ほかの男に押しつけたんじゃあ。
「どうだろうね?」
「どうしてわたしなんかを・・・・」
「先週のプレゼンで、君が優秀だと分かった。それに今朝の君を見て、是非わたしの秘書をやって貰おうと決めたんだ」
「わたしは元々システムエンジニアですよ。今の仕事も気に入らないけど、まあ一生懸命やってます。だけど、秘書なんて、わたしのいる場所じゃあありません」
「秘書、秘書と言うけれど、わたしの秘書は見かけがいいだけじゃ務まらないんだ。おい! 斉藤君。説明してやってくれ」
「かしこまりました」
先ほどお茶を持ってきてくれた、斉藤と呼ばれた社長秘書がそばにやってきた。
「来客にお茶を入れたり、電話番をしたり、鞄持ちはします。それは俗に言う秘書と同じです」
ぼくは黙って彼女の言葉を聞く。
「社長のスケジュール管理もしますが、この会社のネットワークの監視、管理もやってます」
「ええっ!」
「誰がいつどこへメールを出したか、社長はすべてご存じです」
「・・・・今朝届いた特捜班のメールもですか?」
「勿論ですよ」
「あのう。わたしと小泉さんのメールも、もうご存じなんですか?」
「先ほどお見せしました」
ありゃりゃ。ぼくが元々女だという特捜班のメールを否定する内容のやりとりを知られてしまった。どうしたらいいんだろうか?
「かなりネットワークに詳しくないと、我が社の社長秘書は務まりません。そう言うことです」
「杉本君。君を抜擢したわけを分かってくれたかな?」
「はあ・・・・」
「社長は女好きで、秘書を愛人にしているという噂がありますけど、そんな暇はありませんからね。あれは根も葉もない噂に過ぎません。社長が女好きっていうのはホントですけどね」
最後の方は声を落として、社長秘書はそう言って、デスクに戻っていった。
「やってくれるだろうね」
「よろしいですけど・・・・、社長、わたしが元は男で、女になってしまったことをご存じで、秘書にするんですか?」
「前のことはどうでもいい。今は女なんだろう?」
「あ、はい」
「なら、問題ない」
「でも、突然男に戻るかもしれません」
「その時は、その時だ」
「その時はその時だと言ってもですねえ」
「・・・・そうだな。その時は、君に女装して貰おう。似合いそうだからな」
がくっ!! 男に戻っても女の格好していろと言うの?
「そんなのイヤです」
「なら、元に戻らなければいい」
「そんなの殺生です」
「女装は冗談だ。男の戻ってもわたしの秘書をやって貰う。それで異存はないね」
「・・・・はい」
「給料も20パーセントのアップにしてやるよ。それならいいだろう」
「はい」
給料も上げてくれると言うし、今の仕事よりは、やりがいがありそうだ。ただし、秘書は、自分を愛人にしているのは根も葉もない噂だと言ったが、社長の目を見ていると、そうじゃないような気がするが・・・・。
「今日から早速こちらへ移動してくれたまえ。引継をして貰わなければ、会社の運営に支障を来すからね」
「今日からですか?」
「そうだ。情報管理部の沢口部長にはすでに了解済みだ」
「・・・・分かりました」
今日から社長秘書かあ・・・・。一週間前には、思いも寄らなかった展開にぼくはかなり戸惑っていた。
残りの午前の時間を使って、荷物を移動させることになった。
「社長秘書だって?」
荷物を台車の載せるのを手伝ってくれながら、小泉さんが囁いた。
「うん」
「気を付けなさいよ。社長は女に手が早いんだから」
「根も葉もない噂だって言ってたよ」
「火のないところに煙は立たないって言うわ」
「気を付けます」
「せっかく仲のいいお友達になれたのに」
「前から友達でしょう?」
「仲のいい女友達に訂正」
「これからも仲良くやれるわよ」
「そうね。働く部署が変わっただけだもの。じゃあ、頑張ってね」
「うん」
午後になって、斉藤さんに社長秘書の仕事について説明して貰った。社長のスケジュール管理はともかく、社内メールのチェックは自動化できそうだ。問題は、そのうちどれだけを社長に見せるかだ。ま、それもしばらくすれば慣れるだろう。
「今日はここまででいいわ。明日は午前8時半には、この部屋に来ること。いいわね」
「はい」
「それから、ちょっとサイズを測らせて貰っていいかしら?」
「えっ!? サイズって、バストとかヒップとかですか?」
「そうよ」
「どうして?」
「会社のほかの部署は服装は自由だけど、秘書だけは、制服があるの」
「制服!」
「わたしが着てるのが、そうよ」
口をあんぐり。社長好みの制服だああ。ピンクのノースリーブのワンピースに、同じ生地でできた丈の短い上着。アンサンブルというものだと後で聞いた。ワンピースの丈はかなり短い。菜穂子に見つかったら、スーツを買ってやらねばならないよう。てっきり私服だと思っていたのにい。
「わおう。外人並のスタイルね」
「ありがとうございます」
「じゃあ、明日。遅刻しないようにね」
「はい」
そう返事をしたものの、ミニスカートなんて穿けるのだろうか? あああ、気が重いよう。